同性愛者マリー・ローランサンの場合。
詩人のギヨーム・アポリネール(Guillaume Apllinare 1880-1918年)よりも、マリー・ローランサン(Marie Laurencin 1885-1956年)の名前のほうが知られているかもしれない。彼女は画家で、淡いパステル画を描くことで有名だ。フランス画壇とは縁のなかった人で、ブラックやピカソとならんで「野獣派」といわれていた。彼女の描く絵が「野獣派」だなんておもいたくない。もともとは立体画家として出発したので、そういわれたらしい。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
(アポリネール「ミラボー橋Parole de Le Pont Mirabeau」、堀口大學訳)
これはよく知られている歌だ。失恋の歌。――このときの相手の女性は、マリー・ローランサン(Marie Laurencin)だった。マリー・ローランサンの「マンドリンを弾く女」、「2人の少女」はよく知られている。彼女も詩を書いている。
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
「きみのフィアンセに会ったよ」と、ピカソがアポリネールにいった。
「フィアンセだって? そんなものはいないよ」
「だが、ぼくは知ってるんだ。きみは会ったら最後、その子のことを好きになるってね」
「どんな子だい?」
「さあ……詳しいことはわからない。だが、少女っぽくて、そのくせ、男の人生を狂わせるような。……そういう女だ。そのうちにきみと会うよ。これは運命なんだ」
パリの北部の丘陵地帯にあるモンマルトルの丘は、芸術のメッカだった。
20世紀がはじまると、ここが近代美術の発祥の地になった。ロートレックのポスターでおなじみのキャバレー「ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)」があり、若くて貧しい芸術家たちが住む「洗濯船」というあだ名がついたボロのアパルトマンが犇(ひしめ)いている。
詩人アポリネールもそのひとりだった。
謎のようなことばをささやかれた数日後、アポリネールはピカソの個展を観るために画廊と出かけた。そこで若い女性を紹介された。ほっそりとした娘だった。おもながで、少しさびしげな顔立ちをしている。
彼女は母ひとり子ひとりで暮らしていた。マリーの母親は、貧しい鍛冶屋の娘だった。18歳のとき、パリに出て妻子ある官吏とつき合った。そしてマリーを生んだ。1883年10月31日が彼女の誕生日である。――調べてみると、この日は水曜日だった。ときどき別れた父親が訪ねてきたようだ。いくばくかの援助を受けていたらしい。
マリーにとって母親は絶対的な存在だった。
マリーの父親のことをのぞけば、母には浮いた話もない。私生児として生んでしまった娘には、できるかぎりの教育を受けさせ、マリーは読書や刺繍などに明け暮れて、地味に生きていた。マリーが大きくなると、デッサン学校に入学した。マリーの絵は独特の感性をもっていた。
当時、「野獣派(フォーヴィズム)」といえば、自由奔放なタッチで、激しい色彩で描かれたものだが、マリーの絵は、ちょっと優雅で、おっとりしたタッチで、荒らあらしい絵のなかで、マリーの絵だけが逆に際立って見えた。24歳のときにはじめて「自由出品コンペ」に自作を出した。
ピカソの個展でアポリネールと出会ったのも、このときだった。27歳のアポリネールはマリーを愛し、どこへでも彼女を連れて行った。マリーもどんどん顔が広くなった。彼はマリーの絵をことあるごとに褒めそやし、積極的に女流画家マリー・ローランサンを世に喧伝した。
僕の蒸留器よ、貴女の目は僕のアルコール
そして貴女の声はさながらブランデーのごとく僕を酔わせます
巨大なカラーをつけ酔い痴しれた星々が、その輝きで
貴女のエスプリを燃やしていた 僕の満たされぬ夜の上で
(アポリネール、工藤庸子訳)
気にしていたマリーの容貌コンプレックスは、彼の詩にうたわれることで、いくぶん解消してきた。女としての自信は、そのまま画家としての自信につながった。アポリネールの女神(ミューズ)は、たちまちみんなのミューズになった。何人もの男が、彼女の輝きに魅せられた。
マリー・ローランサン
金の輪が浮かぶ
美しい瞳に
(モレアス、堀口大學訳)
モレアスという詩人については、ぼくは何も知らない。彼女の魅力に引き込まれていった男はゴマンといた。アポリネールがたちまち独占欲を燃やしたのはいうまでもないが、このとき、ふたりの青春は終わっていた。
どちらも母ひとり子ひとりという事情もあったが、5年間もつづいた仲を引き裂いた決定的な出来事は、アポリネールの身の上に降りかかった。それは事件だった。
アポリネールは当時、あるPR雑誌の編集長をしていた。そこに気のいいピエレという若造がいた。そのピエレがあるとき、フェニキアの塑像(そぞう)を1対、彼に売り込んできた。
「そんなもの、どこで見つけたんだい?」ときく。
「それは、いえない。……買うなら売るが、どうしますか?」
「じゃ、買おう」
「塑像は、ふたつで対になっているので、ふたつとも買ってほしい」という。
アポリネールはえらく気に入って、塑像をひとつ自分の部屋に置いて飾った。かたわれは、ピカソにプレゼントした。
ところがこの塑像は、ルーブル美術館から盗み出したものだと分かった。
それを知ったアポリネールはあわてた。ルーブル美術館からは、おなじ時期にダ・ヴィンチの名画「モナリザ」も消えている。ヘタをすると自分が疑われかねない。彼は塑像の件をみずから警察に話した。
だが、彼がイタリア人で、――正確にいえばイタリア出身のポーランド人で私生児であること、――さらに詩人という、一般人から見れば浮ついたような世界に生きている人種におもわれ、警察は、彼を「モナリザ」盗難事件の共犯者として逮捕してしまったのである。最終的には疑いは晴れたものの、アポリネールは5日間の監獄から出てみると、その間、マリーのこころは彼から離れてしまっていた。――ずいぶん冷たい話である。アポリネールはうたう。
白鳩よ キリストを生んだ
愛よ 精霊よ
僕もきみ同様に ひとりのマリーを恋している
彼女と夫婦にしておくれ
(アポリネール、堀口大學訳)
彼の切ない詩も、ぎくしゃくしたふたりの仲を修復するまでにいたらなかった。だが、詩人の仕事という観点から見れば、この別離の苦悩は、ふたりのどちらにとっても大きな糧になったはずだ。
1913年、マリーとアポリネールは正式に別れた。
この年、彼女は母ポーリーヌを失った。恋を失う以上につらい出来事になった。マリーは耐えられなかったのだろう。彼女は2歳年上のオットー・フォン・ヴェッチェンという画家と電撃的に結婚した。オットーは画家としては大したことはなく、気まぐれで、さらに大酒飲みだった。彼の家柄は男爵で、芸術を愛する優雅な一族を持っていた。ところが、第1次世界大戦が勃発し、ドイツとフランスはとつぜん敵対関係に陥った。ふたりはよく考えたうえで、中立国のスペインへ亡命した。そこでもオットーの興味は酒と女だった。ふたりの間から、愛はまたたく間に消えていった。
マリーが「鎮静剤」という詩で、死よりももっと恐ろしい孤独を詠ったのは、そのころとおもわれる。
ある日、パリで親友だったニコル・グルーがスペインへとやってきた。当時、フランスでファッション界の帝王といわれた服飾デザイナーのポール・ポアレの妹だった。
ニコルの夫は、いまは戦場に出ていた。
愛に飢えきっていたマリーは、全身でニコルを求めた。女同士のやさしい愛撫は、やがてベッドのなかで濃厚な性愛へと変わった。――レズビアンは当時、フランスにおいてはめずらしいことではなかった。
「シャネル」の香水で知られるココ・シャネルも、作家のコレットも、女友だちとの親密すぎる関係のストーリーは、枚挙にいとまがないくらいである。1956年にマリーが亡くなったとき、マリーのそばにいたのは、シュザンヌ・モローという女性だったが、彼女は若い家政婦としてマリーの家に住み込んでいた。そして愛し合い、31年間をともに過ごした。最後にマリーは、彼女を養女に迎えている。
年をとってからのマリーは、アポリネールからむかしもらった手紙や詩を、なんども読み返していたという。
そのなかには、彼女の描く絵とそっくりな乙女が生きていた。若くて美しく、清らかなマリー・ローランサンが、……。