リシーズ」のもしろさ(1)


二葉亭餓鬼録
  あるご婦人から「ユリシーズ」のコメントをいただいたので、その話をします。

ジョイスを毛嫌いする人はけっこう多いようです。「ユリシーズ」についての書物は腐るほど刊行されていて、よりどりみどりです。けれども、ぼくにとって、1964年に出た丸谷才一訳(他2名の共訳となって今も書店に並んでいますが、責任者は丸谷氏)の「ユリシーズ」がいちばんの傑作。それが年々改定版となって出版され、むかしは伊藤整氏なども訳していましたが、伊藤整氏の「チャタレィ婦人の恋人」を読んで、その誤訳の多いことにうんざりして、それ以来、同氏の訳本は1冊も読んでいません。

小説のおもしろさ――という話を書きます。


一九四〇年の七月、フレディ・パーによってメアリのズロースのなかに入れられたその一匹は、ヨーロッパにおける――うじゃうじゃしてはいても、――唯一の淡水種、すなわち学名Anguilla anguilla、通称ヨーロッパウナギの元気のいい見本だった。



――さて、ウナギは好奇心について多くのことを教えてくれる――じつのところ、そちらのほうが、好奇心によって得られるウナギについての知識より多いくらいだ。驚くなかれ、ウナギの赤ん坊がどのようにして生まれるのかがわかったのは、つい最近、一九二〇年代に入ってからのことであったし、またこの蛇のようで魚のようで、食用に好適で、ついでに言えば男根を想起させる生き物の、いまだにはっきりしないことの多い生活史をめぐっては、昔から今にいたるまで、激しい論争が展開されてきたのである。

これは「ウォーターランド」の作者グレアム・スウィフトの、真野泰訳の訳文の1節である。この文章だけでぐっと惹きつけられるだろう。

ズロースのなかに入った1匹のヨーロッパウナギ。その後、そのウナギと彼女はどうなったか、新鮮で新奇で、大いなる刺激を覚えさせてくれるコンテクストである。おもしろさは、読者の勝手なこれまた想像力で喚起され得るものとして、自分はこれを「ウナギの衝撃」と呼びたくなった。

これと同様に、ジョイスの「ユリシーズ」は、無類におもしろい。訳本で読むと、それがちょっとおかしな具合になっていて、おもしろさが消されてしまっている。――翻訳ではムリだよ、という話はしばらく措くとして、これを母国語で読むことのできる読者は幸せなことよ、で終わってしまっては身も蓋もない。――ここで述べる話は、小説のおもしろさについてである。このような切り口で書かれた本があるといいのだけれど、――。

1902年6月16日木曜日午前8時、「ユリシーズ」は幕を開ける。

舞台は「マーテロ塔」――ダブリン市の南東約10キロメートル、ダブリン湾に面した入江に建っている。物語は1804年6月16日となっているから、ちょうど主人公のマリガンが朝目を覚ました日付の100年前の話からはじまる。当時の英国首相ウィリアム・ピットは、フランス軍の侵攻に備えるためアイルランドの海岸に円筒形の要塞をいくつか築造する。その要塞築造が英国政府によって決定が下されたのが1804年6月16日。この「マーテロ塔」は、そのひとつである。

マーテロ塔の屋上で、ヒゲを剃っているマリガンとスティーブンが、何やら話し合っているシーンからはじまる。

マリガンは朝食の準備のために下へ降りていくところ。スティーブンは屋上にひとり残り、ダブリン湾を見ながら死んだ母のことを思い出す。臨終の苦痛にゆがんだ母の顔を思い出してスティーブンは恐れるが、食事ができたという階下のマリガンの声に、ふとわれにかえる。マリガンはスティーブンに向かって、

「おい、チンキ(スティーブンのあだ名)、おやじの亡霊! 父を探しまわるヤペテ」と呼ぶ。――マリガンは塔の横の岩場で朝はひと泳ぎするのが日課になっていた。スティーブンは水泳が苦手。風呂にも滅多に入らない。むしろ水を憎んでいる様子。

この傾向は、スティーブンが洗礼を拒絶していることを象徴するかのようである。マリガンはスティーブンから塔の鍵を取り上げようとする。スティーブンは彼に鍵を渡しながら、マリガンとの友情も冷めてきたなと感じ、ふたたび塔には戻るまいと決心する。

スティーブンは、勤務先の学校へ歩いていく。

さて、この原文の冒頭の文章は、Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. A yellow drssinggown, ungirdled, was sustained gently behind him on the mild morning air.となっている。

ここを丸谷才一氏の訳文では「押しだしのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現われた。椀の上には手鏡と剃刀が交叉して置かれ、十字架の形になっていた。紐のほどけた黄色いガウンは、おだやかな朝の風に吹かれてふんわりと、うしろのほうへ持ちあがっていた」となっている。

丸谷氏の訳文はちゃんとした日本語になっていて、それは見事な文章といえる。現在出ている翻訳文としては最高のできといえるのではないだろうか。

それでもぼくは、満足しない。

おもしろさが訳出されていないからである。冒頭の「Stately, plump」というフレーズ。――まず、「Stately, 」としてコンマが打たれている。「Stately and plump」と、なぜやらなかったのだろう。訳文では「押しだしのいい、ふとっちょの……」と訳されている。「Stately,」は一見して副詞に見えないこともないが、紛れもなくこれは形容詞。コンマでふたつの単語を分けているのはなぜだろうか。訳文は、間違いではないけれど、どこかの優等生が訳した直訳にしか見えない。

plump」はマリガンの静的な姿かたちを表現しているのにたいして、「Stately」はマリガンの移りゆく動的な個性を表現していると思われる。だから、このふたつの単語を「and」でつなぐわけにはいかなかった、そう考えると、少しはおもしろくなる。

ついでに、「plump」を辞書で引くと、なるほど「肥満した」「丸々と肥った」という意味の形容詞であることが分かる。ならば「fat」とどう違うのか、「fat」こそ「肥満した」なのである。すると「plump」は、「肉付きのよい」「小太りな」という意味になりそうだ。「肉付きのいい」とくれば、だんぜん小錦みたいな「ふとっちょ」であるはずがない。ぼくでは痩せすぎだけれども、痩せていないころのマリア・カラスくらいの肉付きなら、かえって魅力があるかも。

ここでマリガンという主人公の姿かたちが「ふとっちょの」であってはならないのである。なぜなら、「plump melon」という表現をよく見かけるが、「ふとっちょのメロン」、あるいは「肥満したメロン」などとやってしまっては、まるでとんちんかんな訳になってしまう。

この場合は「食べごろの」と訳すべきだろう。

They are plump but not fat.」という文章さえある。

ありがたいことにさらに、少し先にすすむと、「He kissed the plump mellow yellow smellow melons of her rump,ふくよかな、黄色く熟したメロンが匂いたつようなお尻にキスをした」と出ている。「plump」と「rump」、「mellow」と「melons」の取り合わせが絶妙である。

モリーのお尻を熟したメロンにたとえているわけだが、単語の音の響きをそろえて、踏韻しているのが分かる。ことば遊びの天才ジョイスの本領発揮。この場合も「rump腰部」と訳されているのには不満だ。どうしても「お尻」か、でなかったら、食べごろを感じさせる「臀(しり)」、「けつ」。

そういう単語を使うべきだろうと思う。「腰部」などというホアンとした曖昧で、表現力に乏しい単語にしてしまっては、せっかくのジョイス文を台なしにしていると思うけれど。この「smellow匂いたつ」ということばも、英和辞書には載っていない単語で、ジョイスの造語によるものと思われ、そのためにわざわざ用意されているとしか思えない。



なぜジョイスは「smellow匂いたつ」としたのかって? 

おそらく「mellow熟した」と対をなす単語にしたかったまでのこと。ジョイスにかかったら、この種の造語はいたるところに出てくる。専門家の本をいちいち読んでいるわけじゃないので、不確かではあるが。

まだある。

この文章のなかにある「ボウルbowl」は、「ヒゲ剃り用のボウルshaving bowl」または、「nickel-shaving bowl」のことだと思う。ならば「椀」ではなくて「鋺(わん)」としたほうがいい。それはささいなことかも知れないが、この単語は古くて、むかしからある単語で、古英語(Old English)では「bolle」と綴り、「鉢」や「洗い鉢」を指していた。なぜ「白銅貨でできたボウルnickel-shaving bowl」をあげたかというと、ニッケルにメッキをした安物のボウル、この「ニッケルnickel」という単語はもともとギリシャ語で、「紅砒(こうひ)ニッケル」のことで、ギリシャ語では別名「悪魔」という意味を持ち、「銅のように似せて実際は銅の成分をまったく含んでいない贋もの」という意味を持っていて、いかにもジョイスが好みそうな単語だ。

俗に「5セント銅貨」を指し、銅なんかまるで含有していない「ニッケル硬貨」という意味にもなったと辞書には書かれているが、そんなボウルを手に持って(しずしずと)階段を降りていったというわけである。



さらに、この階段というやつは、意味深長な単語である。

文章のはしばしまで目配りして読めば、「階段」は「祭壇の階段」であり、「ボウル」はミサに用いる葡萄酒入りの「聖餐杯」ということになる。

先の文章を読めば、分かるようになっているのに。――だから「小鉢」くらいのボウルが相当するわけだ。しかも、陶器でできた小鉢ではなく、ニッケルである必要がある。

ジョイスはここでミサのもじりをやっているのかも知れない。たぶんそうだろう。もし、ミサのもじりをやっているとすれば、なおさら「Stately, plump」であることに納得できるかと思う。

Stately」は威厳に満ちた、ゆったりとした歩き方を表現しているからで、そのすぐ先に出てくる手鏡と剃刀が交差して置かれ、「十字架の形」になっているというフレーズが、ぐーんと生きてくる。ぼくがもの足りないと思うのは、そんなところにある。

以上のことは、丸谷訳では、ほとんど感じられないのと、そんなことは脚注にもしるされていない。訳文を見ても、そのフシすら触れられていない。ジョイスが文章の達人であることはよく知られているとおりだけれど、自然主義文学やロマン主義文学とは無縁な世界で、ひとり文体レトリックに心血を注いだ知的冒険者であったと思われる。

ジョイスは、ときに文法さえも逸脱して、二重、三重にも構造を構える不思議なコンテクストを打ち立てた。読みようによっては、以上触れたように、いかようにも解釈でき、ときに「アイリッシュ・ヴァブ(アイルランド人がよく使う矛盾語法)」も取り入れて、読者の認識、読解力を最大限に要求する文章を考案した。



――「ユリシーズ」はいうまでもなく、ホメーロスの「オデッセイア」の主人公オデッセウスのラテン語名「ウリッセース」から取り、これを英語読みしたものである。

これは単にそうしたというのじゃなくて、意識的に、かなり大胆に、もじりのもじりをやっているふうなので、生半可ではおもしろみは分からない。多くは会話のあとの地の文では、その人物の独白や感情、知覚、空想といった、およそ考えられ得るかぎりの内心の動きを表現する文章が、さまざまな文体で綴られる。かつ方言、俗語、卑語、廃語、死語、そしてラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語はいうまでもなく、ゲール語、ヘブライ語、その他の古代語などを縦横無尽に駆使し、造語、結合語という壮大な言語実験を行なっている。

このように、「ユリシーズ」は、物語の展開のおもしろさにあるのではなく、その描写の手法、様式、スタイル、構成にあるので、そのすべての章句、文章、語句そのものが重要なわけである。――はからずもコンテクスト論のつづきとして考えてみると、これほど願ってもない見本はないだろうと思う。



Perfume of embraces all him assailed. With hungered flesh obscurely, he mutely craved to adore.あらゆる抱擁の香りが彼を責めたてた。漠然と飢えている肉体をいだいて、彼は無言のうちに熱烈な愛を求めていた。



ジョイスがいっているように「使う言葉はもう選んだ。いま考えているのは、文章のなかでその言葉をどういう語順で並べるか、ということなんだ」と。上にあげた文章は、ある男が「ブラウン・トマス絹織物店」のウインドーにある絹のペティコートを見て、色欲的な刺激を受ける場面である。これはいく通りもの語順で並べ変えることが可能で、ジョイスは文体を磨きあげ、ことばの効果を精密に計算しているはず。翻訳にしても、いろいろに訳せる。

ところが丸谷氏の翻訳は、さすが小説家だけあって、その感性(センスビリティ)はいわずと知れた名手の域に達しているように見える。しかし、「ユリシーズ」の感性は訳されているとはいいがたい。そこでヘタだけれど、拙訳を試みてみると、――



抱擁の香りがいっぱいに溢れて、それが彼を襲った。密かに飢えている肉体を包んで、じっと沈黙したまま、燃え盛る愛を求めていた。



これが原文に、より近い訳かと思われる。意訳するのはいいけれど、「all」はここでは「いっぱいに溢れて」という意味で「him彼を」にかかることばであって、「embraces抱擁」にかかる単語ではない。「あらゆる抱擁」って、いったい何だろう? おかしいに決まっている。

高校生がよくやる直訳みたいで、投げやりで陳腐な日本語になっている。「all」はいうまでもなく、「any」「each」と同様の構文をとり、形容詞、代名詞(名詞)、副詞の3つの使い方かあるけれど、たとえば「Tell me all about it.それについて全部話しなさい」のような「all」ではあり得ないから、おかしい訳文になる。

ぼくは、これを副詞にとって、「いっぱいに溢れて」と訳してみた。なぜなら、つぎに「with」ときているからだ。

これをぼくは「包んで」とおいてみた。肉体を包んで……と。その「香り」が肉体をも包んでいるかのように思われるからだ。ここにジョイスの二語一意の妙味が隠されているように見える。このセンテンスの重要な部分は「all」である。「obscurely」という副詞は、「不明瞭な」「(色などが)くすんだ」「人目につかない」などの意味があるが、ここでは、「肉体」にたいする「精神=心」、賤しい生まれの素性を持つ「無名の」という意味に近いことばと思われる。

人は肉体にたいして、誘惑の刺激をちくちく感じさせるものは、素性の知れない自分の分身であり、決して気高くはなく、肉体同様に汚らわしいもの、卑猥なもの、それが沈黙しながらも、無骨にもときどき激しい愛の鐘を打ち鳴らすというわけである。

鐘こそ出てこないが、そのように読める。

あるいは、肉体は正直にものをいうけれども、内なる精神は、自分でも人知れず厄介で定かでない鐘を打ち鳴らすと。――そんな感じだろうか。そう考えてみると、丸谷氏の訳文はそれ自体りっぱな日本語訳ではあるけれど、まだジョイス文学の懐にも入っていないように思えてくる。ここでも、ジョイスのおもしろさは、減殺されているように見える。