大江健三郎の文学。



大江健三郎氏の『同時代ゲーム』の一節をお目にかけましょう。1979年、500ページ近い書き下ろし長編が発表されました。

この小説は、当時はさまざまな毀誉褒貶を巻き起こしました。批評家たちはいっぽうでは、想像力の質を賞賛し、いっぽうでは前代未聞の神話の読み替え行為を、あるいは純文学のSF化、おそろしく冗長な物語、といったことに否定裁断を下し、これはひとつの文化ファッションであると手厳しい批判を浴びせました。

大江氏の文学には、大きな時間と、小さな時間のふたつが存在していると思います。作品の時代背景としての時間と、思考と想像力が喚起させる巨大な時間です。主人公が禁断の森で幻視する過去――現在――未来の全時間。まさにこの物語は内在する時間と外在する時間が示唆する神話的オブジェとして描かれたといっていいくらいです。


  妹よ、僕が救助隊の消防団員たちにとり押さえられた後、いつまでも泣き叫んでいたのは、その〔壊す人〕の肉体を復原する仕事、僕に試練としてあたえられたその事業を、そこまでで放棄せざるをえなかったからだ。森のなかにある村=国家=小宇宙の神話と歴史の、空間×時間のユニットすべてを歩きとおし、その働きをつうじて、僕は〔壊す人〕の、バラバラになったすべての肉、骨、筋、皮膚、そして眼や歯に体毛のすべてまでを復原しなければならなかったのに。しかもあらかたそれをなしとげようとさえしていたのに。試練の成就を断念せざるをえなくなった悲痛の思いに、僕は泣き叫びながら谷間に運びおろされ、それからは「天狗のカゲマ」として嘲弄されつつ、森の外で生きることになったのだ。……


これは『同時代ゲーム』の最終章の文章です。

大江氏のコンテクストは、詩的フレーズの破壊の後に再構築されたような文体です。ふつうの散文のスタイルではないので、読解にはかなりの腕力が要求されます。

もはやほとんど匿名化してしまったような〔壊す人〕。

その細分化された肉体を修復し、その再生を祈願しようとする主人公の少年。

彼が森へ参籠する姿は、巨大な文学的記憶をまえに、継承作業のさなかにある作者自身の姿を投影していることが分かります。

主人公が幼いころに見た地獄のパノラマのように、また森のなかで幻視した超時間的なガラス玉の球体の群のように、語られてきたすべての歴史は、じつは同一の形象の反復にすぎないのだと悟ります。これは、文学的予言を試みたもので、散文で書かれたもうひとつの「ブレイク的預言詩」といえるのではないでしょうか。

『同時代ゲーム』の翻訳はロシア語版があるだけのようですが、この作品は大江氏が最も力を入れ、最も難儀した作品であると述べています。彼が子供のとき、森のなかの谷間で祖母や母から聞いた神話と歴史の伝承を、彼女たちの話しぶりそのままの語り口でつくろうとプランされたようです。

そこで、ふたたびブレイクですか、《人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、……That Man should Labour and sorrow and learn and forget,……》というフレーズにある、「労役」することと「悲しむ」こととは、対立項として考えるのではなく、隣接する生の二面性と受けとめる大江氏のコンテクストの基礎が、ここでも存分に生かされています。素晴らしい文学です。

ガストン・バシュラールはいいます。

「いまでも人びとは、想像力とはイメージを形成する能力だと思っている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供された歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力のことなのだ」と。そのとおりだと思います。

そしてブレイクはいいます。「想像力イマジネーションのこの世界は、永遠の世界である。それは、われわれが植物のように生じた肉体の死のあと、すべて行く神なるふところである。想像力の世界は無限であり、永遠である。けれども生殖される。あるいは繁殖する世界は有限の一時的なものだ。われわれが自然の植物の鏡のなかに反映しているのを見る、あらゆる事物に恒久のリアリティーは、かの永遠の世界にある。すべての事物は、救い主の神なる肉体のうちにある。それらの永遠の形式によって理解される。救い主、真の永遠の葡萄の樹、人間の想像力、それはわたしに永遠なるものが確立されるように、聖人たちのなかで審判に加わること、一時的なものは投げ棄てることとして現れた」と。

ブレイクの神秘思想は、大江氏の創作プランのなかで熟成され、『新しい人よ眼ざめよ』という作品に結実しました。

また、その豊かな枝葉のもとで、ダンテに支えられた『懐かしい年への手紙』を書き、イェーツに触発されて『燃えあがる緑の木』を書いています。


  自分の見た夢は、Paradisoそのものじゃなくてね、テン窪(くぼの人造湖の夢なんだよ。水がいっぱいにたまっていて、そこに小さな舟を浮かべてね。ボートならこの前から準備してあるんだ……夢で小舟に乗っていて、その自分の合図で、堰堤えんていが爆破される。川下の反対派が惧おそれたとおりにね。そこで真っ黒い水ともども、自分が鉄砲水になって突き出す。その黒ぐろとしてまっすぐな線が、つまり自分の生涯の実体でね、世界じゅうのあらゆる人びとへの批評なんだよ。愛とはまさに逆の……そう考えて、すべてを理解した感じで眼がさめた。……眼がさめた後では、その意味の明確さということ自体、しだいにあいまいになっているけれどもね。


『懐かしい年への手紙』の一節ですが、ここではダンテの『神曲』からの直接的な引用はなされていませんが、ギー兄さんの考えそのものが、ダンテの引用として成り立っているということができます。自己の内面をダンテの引用で埋めつくすことによって、ギー兄さんは、彼自身の人生が理解することができたと感じます。じっさいギー兄さんには、大雨の夜に堰堤を爆破して、黒ぐろとした鉄砲水のまっすぐな線となって突き出して行くこともありえたかも知れません。

人間を〔壊れもの〕と呼ぶ表現の新奇さに、はじめは驚かされたものです。この言葉がいま日常的に瀰漫する不気味な雰囲気を先取りしたとすれば、作家にはなんと鋭い未来予見の眼識があるのだろうと思いました。大江氏はいいます。「人間がまことに脆い壊れものであり、fragileな存在であることを、特別敏感に意識しながら、しかもなお暴力的なるものにかかわってゆこうとする、特殊な人間の所在を示す信号が、さまざまな場所から発せられてくると、ぼくはそれに無関心ですますことのできたためしがなかった」と。


大江健三郎氏は、最近、むかしのように短編は書いていないようですが、数年前、「文学界」に短編連作というかたちで珍しく短編を書いていました。題して『雨の樹レイン・ツリー』シリーズがそれです。今は新潮文庫版に収録されています。

この小説は、作曲家・武満徹氏との出会いをもたらしたものです。ある日、大江氏のところに、――いま『雨の樹レイン・ツリー』という曲を書いている。ついては小説の一節を楽譜のはじめに引きたい。そのことについて了解してほしい。ついてはこの楽譜と演奏の録音は、外国でもつくられ、わが国よりも先に発売されるので、英訳したものがほしい、といいます。

武満徹氏からの電話でした。

『雨の樹レイン・ツリー』は、いわゆるMONKEY PODで、その定義は音楽家の武満氏の楽譜に引用されるはずの、英訳が大急ぎでつくられました。写します。


 It has been named the “Rain tree” , for its abundant foliage continues to let fall rain drops collected from last night’ s shower until well after the following midday. Its hundreds of thousands of tiny leaves……finger‐like ……store up moisture while other trees dry up at once. What an ingenious tree, isn’t it?


小説『雨の樹レイン・ツリー』が持っている暗喩メタファーのモチーフが、音楽の表現にも力まず用いられます。暗喩の喚起力ということについて、武満氏の音楽はさまざまな解釈を奏でてくれたと大江氏は述べています。

はじめ、舞台照明は絞られていて、演奏者の髪の輪郭のわずかな光や、男の服装にして肩のパッドが張り過ぎているシルエットなどから、中央のひとりの女性であると分かるのみの、暗さの演出のなかで、演奏がはじまります。

3人のパーカッションはプロフェッショナルで、中央のビブラフォンと両脇のマリンバによる構成は、調律された3個のトライアングルの音を発し、和音を奏でます。ひとつは人間の精神の営為だとはっきり分かる不協和音を奏でます。

びっしり繁ったこまかい葉叢から、たえまなくしたたり落ちる雨の滴の音。そのトライアングルの音質と進行とともに、暗黒の宇宙にかかる幻のような樹木がイメージされていきます。(『武満徹の世界』より

――1981年のことです。