名作「或る《小倉日記》伝」の誕生

                                                      

――きょうも、創作のことを考えた。感動した作品を思い出し、感動した小説と似たようなものを考えてみようかと思った。思い出されてきたのは、松本清張さんの芥川賞受賞作品だった。

昭和25年に「週刊朝日」が募集した「百万人の小説」というのに松本清張さんの「西郷札」が入選したことが機縁となり、木々高太郎の知遇を得た清張さんは、雑誌「三田文学」に、「記憶」(昭和27年3月号)と、「或る《小倉日記》伝」(同年9月号)を発表した。

木々高太郎といえば、当時、「三田文学」の編集主幹だった。彼はもともとは生理学者で、慶応大学の教授でもあった。

彼自身、作家でもあり、推理小説「網膜脈視症」という、おもしろい医学作品を書いている。戦後、「人生の阿呆」で直木賞を受賞しているが、こっちのほうは読んでいない。――この人は、清張さんの推理的な物語のはこびが、何か新鮮で、人を引き付ける魅力があって、それはまた新しい時代の推理的手法でもあると述べた。

「或る《小倉日記》伝」のほうは、直木賞候補にあがったが、選考の途中でおもしろいことに、第28回の芥川賞にまわされ、それを受賞して、文壇へのデビューを果したことは有名である。

この作品は、じっさいにあった出来事を小説に仕上げたものである。これは、清張さんの文壇への出世作であるばかりでなく、受賞の経緯が示すとおり、大衆的な読み物としても読まれ、文芸の奥深い物語にもなっていて、選考委員たちを大いに悩ませた1作であった。郷土・小倉を舞台に地方ドラマを試みているが、史実に即しながら、その空白を想像力で埋める創作手法はみごとだった。まさしく清張さんらしい作品である。

主人公の田上耕作は、小倉にいた実在の人物である。――彼は、森鷗外が小倉に滞在した明治33年(1900年)に生まれ、昭和10年(1935年)の小倉郷土創立の会員のひとりであり、昭和13年(1938年)には小倉の鍛冶町の旧宅に「森鴎外居住の趾」の標柱を建てた人物である。小説のなかにある「昭和15年」という年には、彼は40歳になっていたと思われる。

これを清張さんは、田上の生まれた年を、明治42年生まれに変え、そのとき32歳として描いた。

そこには、田上の森鴎外研究への情熱を描き、しばしば断念と絶望の繰り返しを描き、耕作が身体障害者という、どうにもひとりでは生きられない人間として描いた。「女には特別な気持ちを動かすことはなかった」と主人公に語らせている。そのいっぽうでは、彼の面倒をみるために近づいてきた「山田てる子」に、そっさけない態度をとり、彼女との縁談を断りつづける人物として描いた。――この部分が清張さんの創作である。

母親への愛情だけに見守られて、耕作は、鷗外が小倉で過ごした3年間の「小倉日記」を再現させようとして、鷗外と付き合っていた年寄りをたずねていろいろ当時のことを聞き書きする仕事に打ち込む。鷗外の「小倉日記」が行方不明になっているため、鷗外の当時のことが分からず、鷗外研究者を困らせていた。それに目をつけた耕作は、ただひとつの仕事をして死にたいと、母親にもらすようになった。そのひとつの仕事とは、鷗外の「小倉日記」を新しくつくることだった。

母親は、ふただひ生きる力を取り戻した息子のために、ほうぼうへ息子が取材にでかけるとき付き添って行った。そのうちに、てる子も同行するようになり、しばらくして、母親はそんな心根のやさしいてる子にまかせて、行かせるようになった。

田上耕作が、「小倉日記」をもういちど再現させたいと思ったのは、柳田國男の民族学の資料採集方法というのをじっさいに知ってからだった。

「その方法でやれば、いまなら、まだ間に合う」と彼は思った。

「おまえには、ムリです。わたしがかわりについていきます」といって母親がついていったわけは、耕作がふつうの会話ができなかったからである。

田上耕作は、からだこそ不自由だが、頭脳は明晰で、地元の指導的な文化人である白川慶一郎のもとに出入りして、資料調査の手伝いなどをしていた。

「鷗外という巨人の、……3年間の空白を埋めようと思った」と彼は語る。それが耕作が文学へと駆り立てた大きな動機だった。

鷗外にフランス語を教えたというベルトラン神父や、朋友、玉水俊虠しゅんこ和尚の未亡人など、鷗外にたびたび原稿依頼していたという門司新報の支局長・麻生作男など、小倉時代の鴎外を知る人物に取材し、当時のことがしだいにあきらかになっていくさまを描いた。

しかし、調査資料がうずたかく積もるいっぽうで、耕作の病気が重くなり、病状が悪化していく。昭和25年の暮れ、鷗外が「冬の夕立」と評した空模様の日、ついに息を引き取る。

――さて、東京で鷗外のほんものの「小倉日記」が発見されたのは、翌年のことだった。


耕作は幼時の追憶が甦った。でんびんやのじいさんや女の児のことが眼の前に浮かんだ。あの時はでんびんやとは何のことか知らなかった。今、思いがけなく、その由来を鷗外が教えた。                                       (松本清張「或る《小倉日記》伝」より



これは悲しい小説である。――苦労して3年におよぶ取材の末、やっとできあがった「再現・小倉日記」を残して耕作は死んだが、ほんものの「小倉日記」は、鷗外の息子の於菟(おとの柳行李の底から発見されたのである。皮肉なことに、この小説は徒労に終わった青年の話を書いている。

田上が、「でんびんやさん」のことを考えていたころ、東京の鴎外宅は鴎外記念館となり、鴎外ゆかりの品々がそろえられた。だが、肝心の「小倉日記」はないままだった。そこで、田上耕作の「再現・小倉日記」は、早稲田大学の専門家に認められて、その記念館の陳列棚にならんだ。

 このいきさつを述べた本「鴎外森林太郎」が昭和17年に、森潤三郎の名前で丸井書店から発行された。――たぶん、清張さんはこの本を読まれたのだろう。


この本には、田上耕作の名前が出ている。本には耕作から寄贈されたという「森鴎外居住の趾」を写した写真が掲載されている。現在は、東京・文京区立本郷図書館鷗外記念室で保管されている。田上耕作は、幸いなことに、「小倉日記」発見の知らせを知らないまま世を去った。

すくなくとも読者にとって、救われるのはそのことである。「小倉日記」は1899年6月16日~1902年3月28日までつづられており、これには、もともとの日記原稿と、浄写本とがあり、後者には鴎外の訂正・校閲個所があることが分かった。かなりの訂正があり、ページの上にページを貼り合わせて追加した部分がある。なぜ、鴎外がこのように改定したのかは、別の話である。――鴎外が雇っていた女中の話が書かれていた。

鴎外記念館には、耕作があわい恋心を抱いた看護婦・山田てる子とひとときを過ごした小倉の広寿山福聚禅寺の品も陳列されている。鴎外がよくこの寺を訪れ、旧藩士だった小笠原家の記録などを丹念に読んでいたという。この情報を聞きつけた耕作は、寺の住職をたびたびたずね、鴎外についてのエピソードをいろいろと聞いている。

お寺の開基から、中国僧だった即非そくひの像が鎮座している。これを見た看護婦の山田てる子は、耕作にいう。

「鴎外さんて、こんなお顔をなさっていたのかしら?」

そういって笑ったという記録がある。――写真で見ると、いかにも福福しいお顔で、こっちを見ている。この禅寺では、格子を通してその像をながめる形式になっており、拝観者たちには、像のそばには行けないようになっている。                   第2次世界大戦がはじまったのは昭和14年の暮れ、清張さんが30歳のときだった。戦況のきびしさが伝わるなか、3人の子供の父になっていた清張さんのもとに、やがて《赤紙》がとどく。3ヶ月の教育召集を経験した翌年の昭和19年、35歳にしてとつぜん臨時召集を受けた。北九州の久留米の兵営まで父親に見送られ、二等兵として入隊する。

間もなくニューギニア戦線に送られることが分かり、彼は、死の予感をおぼえる。

しかし戦況の変化とともにニューギニアへは移送されず、軍医部の衛生兵――のちに衛生上等兵となる――として朝鮮・京城(現在のソウル)市外の竜山、南朝鮮の井邑せいゆうへ送られ、そこで1年半を過ごし、終戦を迎える。第2次世界大戦がはじまって5年目、30なかばで召集されたことについて、それまで教練に熱心に参加しなかったことで、清張さんは懲罰的に召集されたようだという証言を残している。

しかし、軍隊生活の、貧富や年齢に関係なく社会的地位にも関与しない暮らしに、「職場にはない人間存在を見出した」とのちに語っているくらい、別世界の出来事として記憶される。

「新兵の平等、その奇妙な生きがいを私に持たせた」とも語っている。学歴差別にとらわれない奇妙な解放感のなかにあったとしても、不思議ではない。衛生兵は外出をゆるされることから、朝鮮では美しい四季の移り変わりを堪能し、ふるさとを思いかさねる豊かな時間を持つことができたようだ。


さて、きのうのつづきを書く。

鴎外の「小倉日記」をめぐる歴史上の出来事を、小説に書いた松本清張さんだったが、清張さん自身、膨大な日記を書きしるしている。

1989年の日記を読むと、昭和61年8月26日に、清張さんははじめて三鷹の禅林寺にある鴎外の墓を詣でていることが書かれている。――寺の裏にある森鴎外の墓は、森一族の墓のなかで、中央のいちばん大きな碑石がそれで、「森林太郎墓」と刻まれている。しかし、賀古鶴所への遺言「石見人」は刻まれていない。

となりに「志げ墓」というのがあり、そこにも献花する。

「志げ墓」の文字は、中村美不折と書かれていて、裏には昭和11年4月18日没とある。鴎外の右隣りには、「森静男之墓」があり、落合直文筆と刻まれている。


その右隣りには「森篤次郎之墓」があり、鴎外筆と書かれている。森志げの墓の左はひろくとってあり、「森一家墓」と刻まれ、右隣りに行間をつめて左のような文言が刻まれているという。



森潤三郎  昭和19年4月6日、

米原シズ  昭和38年4月16日、

森 於菟  昭和42年12月21日 77歳、

森 富貴  昭和57年3月18日 83歳、

        (たたじ、左側3分の2は空白になっている



清張さんが曙町の森於菟宅にはじめて訪れたのは、昭和28年ごろで、「新築後まもないころ」と書かれているので、その年の押し迫った師走であろうと思われる。於菟氏は縫織の羽織を着て、2階の座敷に通し、案内をしたのは於菟氏の妻・富貴夫人だった。彼女はすらりとして背が高く、和服姿がよく似合った。さらに色白で、のちに鴎外は「盃さかずき」という短編を書いているが、そこに登場する和服姿の女性が、彼女をモデルにしているといわれている。於菟夫妻は、やがて連れ合いを亡くしてひとりになった姑の志げさんを残し、観潮楼を出て、大宮の新居に移り住んだ。この直接の動機は、姑とうまくいっていないというのが理由とされているが、たしかなことは分からない。

「富貴子さんが、風呂釜をカラ焚きした」という程度のことを、何かあるといつも口を突いて出てくる姑とは、どうしてもうまくいかないという手紙が発見された。なかに入った於菟氏は、学者生活をしていて、妻の小言を年中きかされていて、いっそのこと、新居を建てようということになったというのがじっさいだろうと思う。

手紙では「富貴」というところを、「富貴子」と書かれ、「志げ」を「志げ子」と書かれているが、むかしは、戸籍上の名前とは別に、自由に使われていたらしい。「志げ」も手紙の中では「志げ子」とよく自分で書いたり、書かれたりしている。墓碑によれば、妻の富貴夫人は、夫の於菟氏が亡くなって15年も長生きし、83歳で亡くなっている。

清張さんは正午ごろ、禅林寺の住職と別れ、その足で深大寺へと向かった。

深大寺の門前の石段を降りて左側へと足を向けた。そこには、赤い幟りが旗めいていて、蕎麦の匂いがしていた。赤い緋毯を敷いたベンチが見え、誘われるようにして店に入り、山菜のてんぷら、虹マスの塩焼き、蕎麦を食べた。そこを出て、多摩川霊園にいき、両親の眠る墓前に額づき、花を供える。両親の墓は小さく、よい場所があれば移したいと思った。

そのとき彼の脳裏にあったのは、HHKの放送番組、「ミツコ――ふたつの世紀末」が終わって、こんどはヨーロッパを舞台にしたハプスブルグ帝国にスポットをあてたテレビ放送番組の企画だった。これはのちに、「暗い血の旋舞」(日本放送出版協会、1987年)となって放送され、本にもなった。

さて、清張さんの小説、「或る《小倉日記》伝」に登場する田上耕作(明治33年~昭和20年)という男についてだが、小説の上では戦後しばらくして病気で亡くなったように書かれているが、実在した田上耕作は、昭和20年6月29日、米軍の爆撃で母親といっしょに門司で戦死しているのである。

この事実を、清張さんはまげて、あえて病死にしている。それはなぜなのだろう?晩年、田上は母とともに姉の千代の嫁ぎ先である門司の医師・福村亀二宅に身を寄せていた。

田上は、吉田常夏の「燭台」や、曽田友助が主宰する郷土誌「豊前」に寄稿していたことがよく知られている。なかでも森鴎外については「鴎外漁史の小倉観――広告塔と伝便」(東西文化社刊)という興味ある論文があり、読んでみたい気もするが、そういう意味では、田上耕作は、かなりの文章家であったらしいことがうかがえる。

清張さんの「或る《小倉日記》伝」に登場する医師、白河慶一郎というのは、曽田友助と、文学青年の阿南哲朗は詩人であって郷土史家でもあり、その彼がモデルになったといわれている。清張さんは田上についてはその阿南哲朗から聞いて着想を得たらしい。……ということは、清張さんは、田上耕作とは面識がなかったというわけだ。

阿南は、田上の最期について、つぎのように書いている。

「太平洋戦争の惨劇は田上耕作の生命をも奪い去った。昭和19年6月16日の未明、本土初空襲の米軍機は、北九州を爆撃、門司、八幡の中心街の大半は破滅した。このとき、田上耕作は病勢悪化の身を、門司の親戚宅にて療養中、この空爆に遭遇して遂に街上で焼死した。その遺骸も判明しないままである。時に43歳、悲運な彼の一生は、無名の文学青年としてのみ終わった」と書いている。

昭和27年の暮れ、松本清張さんは阿南哲朗宅を訪れ、こう述べた。

「田上さんの小説ができた。あんたも登場しているので聞いてくれ!」

そういって、丸火鉢をかこんで、できあがったばかりの小説の朗読がはじまった。小説では、阿南哲朗の登場は、田上の友人であり、詩人である江南鉄雄と書かれている。そのときの清張さんの朗読は、新劇のセリフのように聴こえたという。参考文献/吉田満「朝日新聞社時代の松本清張」(九州人文化の会、昭和52年)。




つぎに、自分が敬愛する文芸評論家の平野謙さんが、新潮文庫版に収録されたとき、その解説記事を書いている。平野謙さんが推理小説の文庫本に解説記事を書くなどというのは、めずらしいことである。この人は純文学畑の評論家である。その一部を転写する。


田上耕作は生まれながらにして白痴かとみまがう風貌をしている。歩行も不自由だ。しかし、そういう肉体的な欠陥にもかかわらず、頭脳は明晰だった。その肉体と精神のアンバランスが、いわば田上耕作の不幸を決定づけたのである。なぜ自分は学問なぞして、なまじ自由とか平等などという意味を知ってしまったのだろう。もし知らなかったら、かえって自分は獣のように気ままに野山を駆けめぐれたろうに、という痛切な嘆きを、「破戒」の主人公瀬川丑松うしまつはもらしているが、この境遇と才能のアンバランスは、もっと直截なかたちで田上耕作を終生さいなんだにちがいない。

いっそ白痴に生まれていたら、自分の不幸を意識することもなかったろうに、というひそかな嘆きを、田上耕作はいくたびとなく噛みしめたにちがいない。

しかし、注意すべきは、田上耕作がそういう嘆きにそのまま身をゆだね、いわば不甲斐なくくずれおれてしまわずに、けなげにもそこから這い上がろうと刻苦しつづけた点である。

だが、彼はついに自己の宿命的なアンバランスを克服することはかなわなかった。そこに田上耕作の悲劇性がある。作者が強く共感したのも、そのいたましい悲劇性のゆえだろう。森鴎外によってはからずも「でんびんや」という幼時の記憶の由来を学び、そこから鴎外の文学に親しみ、ブランクのままの鴎外の小倉時代の足跡を調査しようと思いたち、しかし、業なかばにして「でんびんや」の鈴の音を幻聴しながら逝った田上耕作の報われざる生涯は、いかにも哀れである。おそらく作者はそこに自己の分身を予感し、自己の運命をみはるかす思いがしただろう。無名の一好事家こうずかの哀切な生涯を作品化する主体的な感情移入が、ここに定立するのである。

                            (平野謙、新潮文庫「或る《小倉日記》伝」解説より。昭和40年8月


つぎに、小説のラストシーンを転写する。


ある晩、ちょうど、江南が来合わせている時だった。今までうとうとと眠ったようにしていた耕作が、枕から頭をふともたげた。そして何か聞き耳をたてるような格好をした。

「どうしたの?」

とふじが聞くと、口の中で返事をしたようだった。もうこのころは日ごろのわかりにくい言葉がさらにひどくなって、唖に近くなっていた。が、この時、なおもふじが、

「どうしたの?」

ときいて、顔を近づけると、不思議とはっきりと物を言った。

鈴の音が聞こえる、というのだ。

「鈴?」

ときき返すと、こっくりとうなずいた。そのまま顔を枕にうずめるようにして、なおもじっと聞いている様子をした。死期に臨んだ人間の混濁した脳は何の幻聴を聞かせたのであろうか。冬の夜の戸外は足音もなかった。

その夜あけごろから昏睡状態となり、十時間後に息をひきとった。雪が降ったり、陽がさしたり、鴎外が《冬の夕立》と評した空模様の日であった。

ふじが、熊本の遠い親戚の家に引き取られたのは、耕作の寂しい初七日が過ぎてで、遺骨と風呂敷包みの草稿とが、彼女の大切な荷物だった。

昭和二十六年二月、東京で鴎外の「小倉日記」が発見されたのは周知のとおりである。鴎外の子息が、疎開先から持ち帰った反故ほごばかりはいった箪笥タンスを整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。

                          (松本清張「或る《小倉日記》伝」の最終章より