鴎外の


このあいだ、松本清張が平成2年に発表したという小説「削除の復元」を読んだ。

この小説は読んだ記憶がなかった。

鴎外の小倉日記に書かれている文章のなかで、7行にわたって削除されたページがあり、削除された元の文章が、鴎外全集の巻末に掲載されているというのである。その「7行」をめぐる話を、推理仕立てで書いたものである。

鴎外の小倉時代には、ふたりの女中が住み着き、彼の面倒をみていたらしい。この小説は、その女中のひとり、「モト」が主人公である。モトが暇をもらって鴎外宅を出て行くとき、自分は素封家の男と結婚することになったと述べている。

ところが、じっさいには、彼女の姉を頼って出ていくことになった。それを知らなかった鴎外は、日記にモトのいうとおりのことを書き記していた。あとで知った鴎外は、この7行の文章を削除した。――では、モトはなぜ、そのようなウソをいったのだろう。



松本清張は、そこに注目して、ペンを走らせている。モトには最初に結婚した男とのあいだに子供がいたが、3歳で亡くなっている。明治43年8月の鴎外の日記をながめると、彼は陸軍軍医総監兼医務局長として軍務部の最高位にのぼりつめている。そのころのことを少し書けば、こうである。

鴎外は、コッホ博士の来日の接待の衝にあたり、そのいっぽうで、文学界では与謝野鉄幹・晶子夫妻、上田敏、吉井勇、幸田露伴、佐佐木信綱などと交遊し、いっぽう、山県有朋の椿山荘には賀古鶴所とともに常盤会(ときわかいの幹事として歌会にも参加している。

雑誌「昴」に載せた「ヰタ・セクスアリス」が官内で問題となり、戒飭(かいちょくを受けるなどして、不名誉な、あわただしい日々を過ごしていた。


女中モトは、明治40年8月に久保忠造と離婚し、43年11月に死亡しているのだが、つぎに生まれた子供が、34年5月に生まれたとすれば、33年の8月に、モトは懐妊していたことになる。

戸籍上の届けのズレは多少あったにしても、33年8月といえば、モトは、小倉の鍛冶町の鴎外宅に奉公している最中だった。久保忠造としては、ながいあいだ、モトとのあいだにできた長男「平一」は、自分の子供ではない、鴎外の子供に違いないと思っていたようだ。

鴎外の「独身」という小説を読んだ久保忠造は、いよいよ我慢ができなくなった。そのあたりの描写が、具体的に書かれていたからだった。当の主人公は、鴎外その人だったとは!

女中をふたりもおいていたのは、世間のうるさい目を、くらますためだった。鴎外は、モトに惚れたというよりも、つい欲望に負けて、関係を持ってしまったのであろう。久保忠造は、そのまえにモトが、女児を産むとき預けた門司の産婆の亭主を、わざわざ訪ねていって、いろいろ聴きまわっている。

鴎外の子供を、久保忠造の長男として籍を入れたものの、彼には、腑に落ちなかった。久保忠造は、森林太郎(鴎外)にたいして、前妻モトの代理人として、故長男平一を林太郎の実子として認知するよう要求した。

この訴えは、もしも認知しないようならば、世間に公表するという含みを持ったものだった。さて鴎外は、こまった。

もしも、この要求が新聞などに発表されでもしたら、たいへんなことになる。


それでなくても、「ヰタ・セクスアリス」という小説を書いて、世間をあっと驚かせ、軍部から戒飭(かいちょく処分を受けたばかりだったから、使っている女中に子を産ませたとあっては、世間はますます鴎外を中傷批難するだろう。

この坊やの眠る墓石のウラが、何者かによって削り取られている。

そこに彫られていた文字が、なくなっているのである。――墓石のウラには、「俗名・森平一。森林太郎次男。母木村モト建之」と彫られていたのかも知れない。

碑の刻字を削ったのは、たぶん久保忠造だろうという。なぜなら、モトが明治43年11月5日に死亡したからだ。かんじんのモトが死んでしまっては、さすがの久保忠造も打つ手はなくなった。墓碑のウラは、のちに禍根を残すと彼は思ったのかもしれない。

森鴎外は明治22年、赤松登志子と結婚している。

翌23年9月13日に長男於菟(おとが生まれた。

生まれたこの月に、鴎外は妻登志子が意に染まず、いっぽう的に離縁している。29歳のこの年から、明治35年1月、後妻の荒木志げ子と結婚するまでのおよそ10年間、鴎外が独身生活を送ったのは、鴎外が自分の肺結核を自覚していたからだといわれている。

結婚が肺結核をより悪化させることは、医者である鴎外自身がだれよりもよく知っていたはずである。

鴎外が小倉に3年間左遷されたのは、この赤松登志子と離縁したことで、政治的な後ろ盾がなくなったからだといわれている。それによって、軍部内部での出世が遅れ、山県有朋らに取り入っても、鴎外が期待するほど報われることはなかったらしい。

それでも、彼は黙々とよく耐えている。妻志げ子をはじめ於菟、おさない茉莉、杏奴ら子供たちは、妹の喜美子にも知らせることなく、ひっそりと育てている。鴎外の家長としての威厳は、かたくなに守りとおし、すべて徹頭徹尾隠しとおしているのである。



鴎外の死因は、肺結核ではなく、「萎縮腎」ということになっているが、一種の肺結核による萎縮腎であった可能性が大きい。鴎外は、大正11年7月9日、息を引き取った。61歳だった。

亡くなるまえ、永井荷風が鴎外宅を見舞っている。長男於菟は、父鴎外の訃報を留学先のベルリンで受け取った。於菟が2年後に帰国すると、妻志げ子は、こともなげにいう。

「パッパが萎縮腎で死んだなんて、うそよ。ほんとうは結核よ。……あんたのお母さんからもらったのよ!」といった。

この話は於菟が書いた「父・森鴎外」という本に出ている。

於菟はそう書いているが、鴎外はもっと早く自分が肺結核にかかっていることに気づいていたようだ。

鴎外と離縁した赤松登志子は、ほどなく良縁を得て再婚し、1男1女をもうけている。そのあと、彼女は明治33年に肺結核で亡くなった。その死亡記事を小倉鍛冶町の鴎外のもとに送られてきたのは、小倉日記にも書かれているとおりである。鴎外が10年間にわたる独身生活を打ち切って、明治35年1月、41歳にして、18歳年下の荒木志げ子との再婚に踏み切ったのは、なぜだろう? 

志げ子も、最初の結婚に失敗した女だった。初老期に入ろうという鴎外が、結核という病気に危険な結婚生活を決意させたものは、志げ子が世にもまれな美人だったからだという文章がほかにもある。鴎外はもともと面食いだったようだ。「小倉日記」に出てくる、色白く背丈の高い末次はなや、「最初の婢である越後国比那古の産の吉村春」にも、鴎外のその趣味があらわれている。

美人は、鴎外でなくてもこころ魅かれるものである。

松本清張は、小説の終わりで、つぎのように書いている。




鴎外の評伝類は汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとうただならぬものがある。

しかしその資料の多くは鴎外自身が記した記録か、鴎外の遺子たち3人や実妹が書いた思い出の類いである。このような資料を基にして書いた鴎外の伝記にどこまで忠実な信憑性があるだろうか。記録的に証明された肯定のどれにも記録的に証明された否定が対立し、どの「非難」にも「弁護」が対立するとツヴァイクはいうが、幼かった家族の思い出(母から聞いた話)などは、正確には記録的証明とはいえないだろう。

                     (松本清張「削除の復元」より)


ほんとうのことは、だれにも分からない。

鴎外の小倉時代の苦悩は、こういうものだった。

彼は21歳のとき、ドイツに留学し、衛生学を学んでいる。それはいいのだが、ドイツの地で、可愛いドイツ娘のアリスという女と恋愛し、鴎外が帰国して間もなく、アリスが彼を追って日本にやってきた事件は、当時、話題になった。このときの苦悩は、のちに数々の小説に描かれることになる。

彼は謹厳実直を絵に描いたような1本気のある人物なのだけれど、こと恋愛にかぎっていえば、大いに臆病風を吹かしていたらしい。彼の小説「ヰタ・セクスアリス」は、明治42年(1909年)に発表されたが、内容があまりに猥褻なので、発売と同時に、発禁処分となり、文壇でも話題になった。――自分の幼年期から青年期にいたる性欲を、自叙伝ふうに描いたものである。

自分は、何回もこの小説を読んだ。「ヰタ・セクスアリス」というのは、ラテン語ではvita sexualisといい、「性生活」というほどの意味である。自分はこの小説を高校生のときに読んだ。倉田百三の「出家とその弟子」も読んだ。悶々としたはけ口のない性に身ぶるいした。

鴎外のことをつづれば、きりがない。