論語のはなし


ヨーコと出かけた。東武線の北越谷駅は準急はとまるが、急行はとまらないという。そういわれても自分には分からない。何が急行で、何が準急なのか、さっぱり分からない。外は暑い。

駅前でうちわをもらった。かぶってきた帽子は、炎天の熱気を防いではくれない。頭髪の下には汗をかいている。

そこからわれわれは人に聞いて、大学を目指した。いわれたとおり10分ぐらいで大学の建物が見えてきた。8号館の5階にある会場を目指した。段上にしつらえた大きな教場にはもう大勢の年寄りたちが集まっていた。

最初の講演は、論語の話だった。

講師は、文教大学中国文学科教授の謡口明さんの話。彼は自分よりひとつ下の年齢だった。論語が百済の博士王仁によってわが国にもたらされたという話を読んだ。百済から運ばれてきたもののなかに仏教の経典があった。非公式には紀元1世紀ごろには日本に入って来たとされているので、論語も、かなりむかしから入っていたらしい。

論語は、孔子の教えをまとめたものである。論語は20編からなる。孔子が亡くなって、門人たちによって孔子の言行が記録され、儒家の1派がこれを編集した。これは中国から伝わる4書のひとつである。4書というのは、「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」の4つをいう。

「論語読みの論語知らず」ということばがある。書物に書いてあることを知識として理解するだけで、それを生かして実行しない人のことをいう。そもそもこの孔子の教えが論語として成立したため、学ぶ人ばかりが多い儒教という宗教が中国で生まれた。この教えを学問としてとらえたとき、儒学と呼ばれた。だから、わが国には儒学を勉強する人は多いが、信仰心を持って帰依する人は少ない。

儒教、道教は、中国が生んだ偉大な宗教である。きょうは、その儒教の教えの一端を勉強することになった。

さきごろ、論語をまとめた「論語心得」という本だが、中国では1000万部も売れて大ベストセラーになったという話を聴いた。

子曰く、苟(いやし)くも仁に志せば、悪しきこと無き也。

ここでいう「子」というのは、孔子先生のことである。「先生はおっしゃった。もしも人が少しでも仁を目指していれば、日々の生活に悪いことはなくなるものだ」という意味になる。これは平凡ないい方だが、奥の深いことばである。これだけ読んでもほとんどの人は、理解できないに違いない。――なぜなら、「苟くも仁、……」といっているからである。「かりにも、……」、「かりそめにも仁を持っておれば、……」という意味になるだろう。

かりそめにも「仁」を持っていれば、「悪しきこと」、――わざわいや貧乏の境涯、病苦の境涯、その他さまざまな苦難・苦悩のもろもろは、消え去るといっている。これはどういう意味なのだろうか。

こころの持ちようによって、境涯は変化するといっている。

どう変化するというのだろう。――貧乏で苦しんでいる人は、「仁」を持てば、たちまちお金が入ってくるとでもいうのだろうか。いや、そうではない。そういう短絡的なことをいっているのではない。身が五体そろい、考える頭を持っているのなら、それだけで乗り越えられるというのである。それが「仁」というものだという教えである。親からさずかったこのからだ、かりそめにも、その身の拠ってきたる自分の宿命を落ち着いてこころに留めるならば、そこに恐れるものがあるだろうか。恐れるものは何もない。そういう教えである。

この教えの核心的なキーワードは、ひとつの語、この「仁」にある。しからば、その「仁」とはいったい何だろうか?

こう考えると、この字句にとらわれているうちは、何も分からないというわけである。「仁」とは、おもいやり、いつくしみ、なさけだと人はいう。謡口先生は「愛」だとおっしゃった。

それら思いつくことばのすべてであり、それらいっさいが入り交ざった観念語である。儒教思想の最高の徳目は、この「仁」である。論語は読むものであって、理解するものであり、実践するものであるという教えにほかならない。「仁」は、他人に向けていうこともあれば、自分に向けていうこともある。病いを治す医者は、治せば治すほど高徳を積むことができるが、患者はそれよりももっと大きな徳目を積むことになる。そういっているのである。

これが「仁」である。――中国語で「仁」といえば、人体を構成し組織する細胞のことをいう。細胞はだれにでもある。細胞にも「仁」本来の徳目があるという教えである。高徳を積むために「仁を成す」というのは、いいことではない。「仁」を成せば、おのずから自分に高徳がそなわってくるのだ。そういう教えである。「悪しきこと無き也」というのは、そういう意味である。

ここまでは先生はおっしゃらなかった。

先生の講義は、大学の学部生程度の話に終始された。もっと上級の研究科にすすむと、「仁」の徳目について深く勉強するのだろう。インド5000年、中国4000年の教えは、時間を濾過しても、そこからしたたり落ちる秘鑰がある。それは西洋にはない「徳目」である。学部生にはむずかしいので、宗教上の「徳目」は教えない。

しかし、経験を積んだ老年期になると、だれにも教わらないのに、自然に分かってくる。それがセレンディピティというのだろう。さらにむずかしいことばは、「悪しきこと」ということばだ。善悪の「悪」として読んでしまえば、ますます分からなくなる。これは善悪の話をしているのではないからだ。

「悪しきこと」とはいったい何だろうか?

「毒をもって毒を制する」ということばがある。悪を取り除くために、他の悪を利用するという喩えであるが、ここでいう「悪」とか、「毒」とは、いったい何だろう。ことばとしては毒や悪があるが、ときに「悪」が「善」になることもある。立場を変えれば、「悪」は「善」になるという。水は人間にはなくてはならないものだが、午前4時ごろに飲めば、その水さえも「毒」になる。それでいて、ただの水を器に入れた時点で、そこからは料理になる。料理の基本は水である。

「悪しきこと」というのは、その時その場所に応じて不都合なことをいうわけだ。つねに不都合であるわけではない。毒もときにはクスリになる。

「悪しきこと」は、いつも流動的で、人生の節目節目で変化するもの、といえる。人間は変化し、つねに動きながら生きる価値を求めつづける生き物だ。孔子のことばは、そういう意味でかんたんなように見えて、ひじょうにむずかしい。

「書」の実践

第2講義の吉澤義和さんの書の実践はおもしろかった。

彼は今年文教大学の教授を定年で辞められたばかりの人で、さすがに書の実力は無鑑査級で、日展には10回以上入選を果たし、日展会友になられた人である。書道は5段位まである。5段以上は、無鑑査といわれている。

墨には5彩あるという。硯に向かって墨をする。墨をするにしたがい、初段、中段、後段と、墨の濃淡がそれぞれ違ってくる。

その濃淡の表現として5つあるというわけだ。先生が持ってこられた表装された書は、淡い色彩で書かれたもので、中国の古典詩の7言絶句の28文字をしたためたものだった。かなりの実力である。

「ぼくはさいきんは、何回日展に応募しても入選しない。……書けども書けども、また落選」といっておられたが、書は体をあらわし、それには先生のお人柄がにじみ出ていて、書に魂を入れて書くその姿勢がなんともすがすがしい。権威におもねることもない、飄然たる書だった。

ちかごろは、年賀状はすべて印刷してしまう時代になってしまったが、吉澤義和先生はそれを嘆いておられた。「書は人なり」という。しかしさいきんは、書は体を表さなくなった。みんな印刷ですましている。万年筆、あるいはボールペン、筆、なんでもいいから直筆で書くと、書いた人の人柄がそこににじみ出る。手紙というのはそうでなければならないと先生はいわれた。

そのとおりであると思う。

「書を以って姓名を記するに足るのみ」ということばが司馬遷「史記」に出ている。

これはどういう意味かというと、書の本来の意味は、自分の名前が満足に書ける程度の勉強はするべきであるという意味である。それでじゅうぶんであるという。

文章を書いて、その文章はだれが書いたものか、そこに名前を記す。それに、自分の名前をつけておくというのは、なかなか意味深長なことばである。責任の所在を明確に記しておくというわけである。古代中国では、自分の名前が満足に書けるようになるまで勉強させた理由が、そこにあるらしい。

このことばは、「史記」のなかの「項羽本紀」というところに出てくる1節であるが、楚の武将だった項羽の、学問にかんする基本がそこに読み取れて、じつにおもしろい。

むかしから、「名は体を表す」ともいわれる。

「名」はたったひとつしかないものの存在を知らしめるものである。草木のように一般名詞の名前もあるが、人間はそれぞれ出自が違うように、名前を持っている。

ヨーコ子は、この世にひとりしかいない。

ヨーコという名は、体を表し、あきらかな実体をともなっている。実体とかけ離れた名は、「名に背」といって、はなはだ遺憾とされる。自分は用意していった硯に墨汁をひたし、数枚、半紙に字を書いてみた。ヨーコは、手渡された色紙大の紙に字を書いた。

筆のおろし方が少なかったので、ヨーコは大きな文字は書けなかった。自分の書いた書は、ヨーコに持たせて先生のところに持っていってもらった。自分が頼んだからである。

「一気に書きましたね」と先生はいったそうだ。

それは、先生が書かれた行書体の「絆」という字を臨書したものである。臨書というのはお手本を真似て書いた書のこと。反対に、自分の創意工夫で書いたものを自運じうんという。書は、始筆から最後の終筆まで、一気に書く。途中で筆をとめない。始筆はたっぷりと墨をふくんでいるが、最後は墨の乗りが弱くなり、だんだんかすれてくる。そして終筆にいたる。この終筆も手を抜くことはできない。そうして一気に書く。紙に筆をおろしたが最後、息をとめて最後まで一気に書く。そうすると、筆の勢いが出る。書のいのちは、この勢いにあるといっても過言ではないだろう。

「一気に書きましたね」と先生がいわれたのは、褒めことばとして聞いた。

そこには自分の名前を書いたので、先生は思わず落款を捺されたのだろう。書は満足に書けたときは、名前を書く。そうでないときは、名前は書かない。名前の書かない書は捨てる。先生は、その自分の名前を見て、落款を捺すことにしたのだろうと思う。先生に書を見てもらいに行った人で、自分の名前を書いた人は果たして何人いただろう?

文教大学での数時間は、たのしかった。

きょうのテーマは《豊かな老いを考える》というものだったが、この数時間はいかにも芳醇な、きらきら光るたのしい時間だった。炎暑を吹き飛ばす講義だった。会場をあとにして、しばらく北越谷駅までの道を歩きながら、古代中国の文化のすばらしさを噛みしめていた。

ヨーコもたのしかったのだろう、道々歩きながら、

「この近くだわね、……行ってみたい?」ときいた。

かつて自分が住んでいた越谷の自分の家の話だ。そういわれてみれば、行ってみたいような気もする。もう30年以上もむかしの家だ。まだその家があるかどうか、それは分からない。もうなくなっているだろう。しばらく歩いて、パンの店に入った。

「お父さん、どうだった?」とヨーコはきいた。

「うん、よかったよ」

「そうでしょ、楽しかったでしょ? ……部屋に閉じこもってばかりいると、ダメよ。外の世界を見て刺激を受けるのよ。……きょうは、来た甲斐があった?」

「うん、あったよ」

自分は、古代中国のファースト・エンペラーの時代のことを想像していた。漢字は紀元前10世紀にまでさかのぼることができる。紀元前1000年の世界だ。なりたちから見て、象形、師事、楷声、会意、仮借などの多くの種類があり、それらに熟語を合わすと80万語におよぶ。ヨーロッパやアフリカ大陸にはない独自の漢字文化圏をつくった。それも、まだ日本、中国、韓国などでそのまま使われているのだから、偉大な文化を残しているといえる。――ただし、このなかには本来の漢字にはないことばもたくさんある。

「峠」とか、「働」ということばは、のちに日本でつくられたものだ。中国にはないことばだった。

ばらばらに存在していた漢字を統一したのは秦の始皇帝だった。くわしくは紀元前221年である。

これは「秦始皇本紀」という書物に書かれている。書物とはいっても、竹簡か、木牘(もくとく)と呼ばれる木(木簡)に書いた。当時は紙がなかったので、竹や木を割ってそれに文字が書かれた。紙でなかったので、腐らずに残り、それらが墳墓から発掘された。そのとき生まれたのが、篆書と隷書である。

当時あった5000ほどの秦の文字を読み書きすることは、たいへんなことだった。後世の科挙試験で43万字の四書五経を暗記しなければならないこととは格段に違い、むずかしかったといわれている。字体はすべて隷書で書かれた。

当時の行政にかかわる役人は、この隷書を使って書かれた。楷書、行書、草書があらわれたのはのちのことである。

一般庶民は文字を読めないが、役人は文字を読めなければならなかった。秦の始皇帝が文字を統一したのは、官吏が秦の文字を書き、秦の行政文書を書いて指示命令を統一するためにはどうしても必要なことだった。秦の始皇帝は文字を統一したが、その文字は秦でつくられたわけではなかった。当時の6国でばらばらにつくられていたものを始皇帝が統一したのである。文字という文化を手に入れることのできた国はより強大な権力を手に入れた。――漢字はそうしてできあがったものである。

たとえば、「馬」という字は数種類あった。

いろいろありすぎるのはよくないとして、始皇帝はこれを1つの字に統一した。その漢字なるものを最初につくったのは、蒼頡(そうけつ)という人だった。

サンスクリット語が、パー・ニニという人の手によってつくられたように、中国では蒼頡という人がつくったといわれている。

――この話は、ヨーコにはいわなかった。

コーヒーを飲みながら、ほかの話をした。自分は中国文化には興味があるが、中国へ行ってみたいとは思ったことがない。それらの古代中国の文化はすべて地下10メートルに眠っていて、だれの目にも覆い隠されているからだ。むかしの漢中に行ってみても、むかしの漢中の街は見ることができない。


                                                                        

文字を書くこと。――文字を造形的にながめて審美的な対象として文字を意識すれば、そこには芸術が生まれる。

とくに中国を中心に、日本、朝鮮、ベトナムなど東洋の漢字世界においては、古くから発達した「書」というものがある。文字ができたころから、書いた文字を占う人があらわれた。占う人のことを「貞人」という。いくさがはじまると貞人たちに声がかかり、どのようにすれば戦略的に有利に戦えるかを占ってもらった。貞人は、個人個人の書風を見て、それぞれ占う。

10人に文字を書かせれば、どれひとつとしておなじ文字はない。それぞれ個性があり、差異が認められる。殷の時代、周の時代、秦の時代と時代が違うと、いろいろ字も変化してくると同時に、書く人のクセが違い、時代ごとに字も違ってくる。そこに個人差、時代差があらわれる。

殷の時代には、漢字には角張ったところがほとんどなく、ぜんたいに愛嬌のある丸まった感じのものが多いが、それが秦の始皇帝の時代になると、現在の漢字のように角張ったところがはっきりと出てくる。それと同時に、始筆、収筆が力づよくなり、漢字本来の味わいのある字になってきた。これは石に文字を彫る関係で、角張った文字になっていったという説に基づく。

中国最古の石刻文字は、多くの書家によって研究され、それが後漢の時代になると、多くの碑が建てられて、それに文字を彫る作業の過程で、隷書れいしょ体という書体が生まれていった。

日本の文字の伝来は、応神天皇の時代、――朝鮮半島の百済くだらの王仁(わにという人が日本の朝廷人に会うためにやってきたのがはじまりとされる。彼が持ってきたのは、孔子の「論語」だった。20巻ある「論語」のすべてと、「千字文」を朝廷に献上したのがはじまりといわれている。