OEDの辞書編纂者に

殺人犯人がいた。(Ⅲ)



ウィリアム・チェスター・マイナーは、宣教師の家に生まれ、アメリカの南北戦争に北軍として従軍している。この物語の主役は、このマイナーである。

彼は収監された室内で、40年間にわたり、OEDの外部文献閲読者として輝かしい業績をあげることになる。

それから約17年間にわたり、収監先からオクスフォード大学の辞典編纂室にマイナーからの原稿が山のように送られてくるようになる。責任者だったジェームズ・マレーは、最も信頼できる原稿であると高く評価した。

そもそも最初のマイナーの原稿との出会いは、17年まえにさかのぼる。マレーが「art」という語に困りはて、編纂補佐のひとりが、ブロードムアのマイナーにはじめて正式な要請の手紙を書いたのは、このころだった。

編纂者たちは、マイナー博士に「art」の用例文を集めていないかどうか調べてほしいと頼んだ。

この名詞については、16の微妙に異なる意味が明らかにされていたが、マイナー博士はそれ以上の意味を発見し、この単語をより深く解明しているのではないか、もしそうならば、マイナー博士には大至急オクスフォードに送ってもらいたい、と彼らは望んだ。

マイナーから送られてきた「art」にかんする原稿は、いくぶん偏りすぎているほどひとつの文献から取られていた。

それはサー・ジョシュア・レイノルズの有名な「美術講義」であり、王立美術院の院長に就任した翌年に書かれたもので、マイナーの用例文は辞典編纂者たちにとってははかり知れないほど貴重なものだった。

それは、「The Arts」の意味の2番目の用例であり、以下のようにかんたんに書かれていた。

「1769年――レイノルズ、サー・J、『美術講義』第1巻306ページ。わが国の貴族が一般に望んでいるのは、芸術(the Arts)を愛好し鑑定できる人間として知られたいということである。」と。

はからずも、サー・ジョシュアのことばによって、ジェームズ・マレー博士とマイナー博士の関係がはじまるのである。

そのころ、編纂の責任者だったマレーは、こうして手紙を送ってくる相手がどういう人物で、いまどういう状況にあるかについてはまったく知らなかった。たぶん文学好きで、ヒマな時間に恵まれた開業医ぐらいにしか想像していなかった。

たとえば、マイナーが仕事をしたがっているのは、art(芸術)やblast(枯れる)やbuckwheat(ソバ)などの編纂作業が進行中の語や、そのときどきの分冊のページに載せる作業が行なわれている語についてであるらしいことに、マレーは興味を持った。

マイナーが興味を持っていたのはインド英語だった。

生まれ故郷を思い出させることばだった。

ちょっと例をあげると、たとえばこんなことば――bhang(大麻)、 brinjal(ナス)、catamaran(いかだ舟)、cholera(コレラ)、chunnam(粉石灰)、cutcherry(役所)など。マイナーはbrick-tea(たん茶)が好きだった。Dではじまる単語の仕事を熱心にすすめ、dubash(通訳)、dubba(皮瓶)、dhobi(洗濯人)などヒンドスタニー語にも関心を持っていたようで、辞典の根幹をなすと見なされる語に多くの興味が注がれていた。

オクスフォードの記録によれば、delicately(繊細な)、directly(真っ直ぐに)、dirt(ごみ、泥)、disquiet(不安)、drink(飲む)、duty(義務)、dye(染色)などの語についてマイナーが送った用例がたくさん残っているという。


彼は、単語が最初に使われた用例をしばしば提供できたので、彼はいつも称讃された。「土」という意味に使われる「dirt」の用例は、1698年に出版されたジョン・フライヤーの「東インドとペルシャの新物語」から引いている。

またmagnificence(壮大)とmodel(模型)のそれぞれのひとつの意味と、reminiscence(追憶)と「愚か者」を意味する「spalt」については、デュ・ボスクの辞典編纂スタッフは、すごい勢いで用例文を送っているマイナーのペースに、ひとつだけ微妙で奇妙なリズムがあることに気づいた。

真夏になると彼からの小包が減るのだ。

ふたたび秋の夜長になるとマイナーはまた絶え間なく仕事をはじめ、あらゆる要求にこたえて、作業の進行ぐあいを心配そうに尋ねてさえいる。

が、17年間のあいだにマイナーは一度としてオクスフォードにやってきたことがない。パーティの席に招待しても、いつも断り状が届けられる。マイナーが住んでいるところは、オクスフォードから目と鼻の先のクローソンというところで、鉄道を利用すれば60分のところだった。

マレーは、しびれを切らして、マイナーに会いに行く。マイナーは監獄の囚人だった。


NED(これはOEDの旧称)の事実上初代編集主幹は、ジェームズ・マレー(James Augustus Henry Murray1837-1915)だった。彼は、イングランドとの境界にちかいスコットランド南端の、旧ロックスバラ州(現在のボーダーズ・リージョンの一部)のホーイックに近いデノムという町で生まれた。

少年時代から向学心が際立っていて、17歳でホーイックのグラマー・スクールの助教師になり、20歳で同町の別の学校の校長になった。

その後、病弱な妻のために、ロンドンへ転地して銀行員になり、1870年にミドルセックス州の中学校の教師になり、15年間在任した。その間、ロンドン大学を卒業した。ロンドンへの転居と同時に言語学協会の会員エリス、ファーニヴァル、スキート、モリス、スウィートなどと交わり、生来の学才にますます磨きがかけられた。

NEDの主幹になるはずのH・コールリッジが急逝したため、後任としてマレーが推薦され、1879年、42歳のときに、オクスフォード大学出版局との契約が成立し、正式に主幹に任命された。

その後、この殺人犯であるマイナーと出会うのである。



ノルマン人の征服(1066年)以降、イギリス国民は、300年にわたって英語が使えなかった。彼らはフランス語を公用語にしていた。くわしくは別稿にゆずるけれど、中期英語(Middle English 1100-1500)が発達した時代には、ラテン語が彼らの共通語だった。ラテン語といえばヨーロッパの漢文で、イギリスの大学ではいまでもラテン語が使われている。

ブリテン島にノルマン人がやってきたことで、「国語は国家なり」という考えがひろまり、野蛮なことばだった英語に、みがきがかかった。それまでイギリス人は、自国のことばを理解するのに、辞典など要らないと考えていた時代が長かった。それは16世紀のおわりごろまでつづく。シェイクスピアの時代には、まだ辞典というものがなかった。

ところが、16世紀の後半になると、フランス語はもとより、ラテン語、ギリシア語をはじめ、ヘブライ語、アラビア語などからもおびただしい学術的なことばが流れ込んできた。

これにたいして、いっぽうでは英語の純正化の叫びもあって、華麗で優雅な文章を書こうという一群の人びとがあらわれ、とくにラテン語、ギリシア語の多音節語がどんどん入ってきた。そのきわまるところ、古典語のわからない人びとは、ことばの解説なしには自国のことばで書かれた作品も満足に読めないという事態が生じた。