記憶(Ⅵ)





このまま意識が永遠にもどらなくて、脳死状態になったら、どうするか。

だれか見知らぬ人に臓器を提供して、他人のからだのなかで生きかえる方法を決断しなければならないとしたら。――田原は、一瞬だが、ユキ子の顔を見ながら、そんなことを考えた。ユキ子が死ぬ。思ってもみないことだった。

ユキ子は自分の所有物を愛をもって喜捨(きしゃするようなタイプではない。見返りを欲しがるタイプだった。もしかしたら、自分のからだがダメならば、他人のからだのなかででも生きぬきたいという本能を持っているのだろうか。

彼女は、宗教にこだわっているわけではないが、彼女がもっとも嫌っているのは、キリスト教だった。というより、田原の好むものは、すべて嫌っているらしい。田原がよく通っていた札幌北一条教会のことを、うわさで知っていたからである。

名前のしらない女性のクリスチャンから、田原宛の手紙がとどくと、かならず自分も読んだ。

「主にありて……」などと書いてあると、ぞっとするという。

「この人は、だれなの? あなた、どの程度つき合っているの?」などといって、いぶかしそうに質問してくるのだ。いちどでも質問に答えると、つぎつぎに新しい質問をしてくる。

いちどだけ、美佐子を招待したことがある。家族といっしょにレストランに出かけ、そこで食事をして楽しんだ。美佐子も楽しんでいた。ユキ子は洋裁ができるので、会話はスカートかなにか、美佐子のために1枚つくろうという話になった。が、けっきょく、実現しなかった。夫を日曜日ごとに教会につれだす美佐子に嫉妬したのだ。

「あなた、そんなに教会がいいんですか? あの女性のほうがいいんじゃないですか?」というのだ。――口やかましい妻だったけれど、いま妻を失うのは、たまらない気分だった。田原は、元気だったころの妻を思い出す。



「お父さん、またなにか考えてる。こんどはなーに?」

見佳が目のまえに缶コーヒーをかざして、にこっと笑ってきいた。

見佳はよく気がきく子だ。

「シュークリームもあるけど、食べる?」ときいた。それには答えず、田原はふたたび新聞に目を落とした。集中治療室は、静まりかえっている。冬の太陽が、ユキ子の頭のそばにある窓ガラス越しに射しこんできた。

ふたたび、東京のテレビスタジオを思い出した。アメリカのあるテレビマンがいっていた「テレビはシンドバッドの水晶玉である」という記事のことだ。『船乗りシンドバッドの冒険物語』では、シンドバッドが呪文をとなえると、世界のどんなところへも、自分のいきたいところ、見たいシーンをすぐさま映しだしてくれる魔法の水晶玉を持っているという。

水晶玉は、まさにテレビの役割を担っているというのだった。

世界じゅうで起こっている国際ニュースを瞬時に映像と音声で伝えることができれば、それは画期的なニュースになる。それだけじゃなく、大事件や大きな政治問題が起きると、衛星回線をつないで、当事者同士を画面のなかに引きだして、意見をたたかわせるというテレビ・ネットワークならではの報道企画が、以前にもましてかんたんに実現するようになったことに、田原は注目していた。

CNNニュースがNBAテレビのチャンネルにいま流れているが、これを引っ張ってきたのは、「報道ステーション」の生みの親ともいうべき和田だった。

和田が発足してまもないアメリカ・アトランタのCNN本社を訪れたのは、1984年の秋だった。当時のCNNはアメリカの3大ネットワークには、まだまだ相手にされてもいなかったときだ。「生」のニュース映像がつぎつぎと送られてくるその迫力と同時性は、和田のニュース番組づくりを大いに刺激した。

ロンドンの風景もときどき流れてくる。これからは肌で感じる「生」のニュースをつくる時代がやってくる! CNNニュースは、ロスからオーストラリアのチャンネル7を経由してNBAテレビに流れている。

これはのちに、報道生番組「報道ステーション」の不振を吹き飛ばすきっかけになった。世界じゅうの出来事が、衛星の足まわりで生中継することがかんたんにできるようになった。湾岸戦争は世界のビッグニュースになったけれど、CNNの送りだす映像がこれほどテレビの生中継の威力を見せつけたことはなかった。

「シンドバッドの水晶玉」は、たしかに自分のいきたいところ、見たいところをすぐさま映しだしてくれる魔法の水晶玉とはなった。けれども、田原の記憶を映しだしてくれる魔法のランプにはなってくれない。

 




あれは洞爺丸が沈没した年で、昭和29年の夏ごろだったと父はいった。


やわらではじめて殺人事件が起こった。農家の父親が息子を斧で殴打して殺した事件だった。

村に知的障害者の男の子がひとりいた。やわらの街にほどちかい三谷農場にいた。田原の家も三谷農場にあった。男の子の名前を岡田雄介といった。

雄介の家は、田原たちの農場よりもずっと小さかった。雄介の家は、小作農民の悲哀をまともにうけていた。マッカーサーによって戦後の農地改革はすすんだけれど、雄介の家はずっと貧しかった。街道を分け入る枝道に入ると、すぐペンケの森が見える。そこにある小さなお寺の境内(けいだいが、雄介の遊び場だった。

彼は当時、25歳くらいだった。ときどき大人たちにまじって、田んぼで野良仕事をすることもあったが、すぐあきてしまい、たいがいは野ウサギを追いまわしたり、縞リスをつかまえて喜んでいたりしていた。

雄介は大きくなっても学校へはいかなかった。――親にしてみれば満足にそだった娘より可愛がっていたようだが、彼を授産施設にあずけることはしなかった。というより、障害の度合いが大きすぎて、授産の条件をみたしていなかった。

「はじめは、やつの悪さもたいしたものじゃなかった」と、父はいった。

「悲しい話だが、しかたがない。……悲しみだけが、農民の骨格になっちまってる」ともいった。

「にっちもさっちも、立ちゆかなくなって、追いつめられても、人のまえじゃあ、へらへら笑ってごまかしている話なんだよ」と父はいった。

事件というのは、隣りの家のロシア娘を孕ませたことだった。ロシア娘は、蕗(ふきを採りに堤防にやってきた。三谷農場のはずれを流れる恵岱別川の堤防だった。

雄介は、ロシア娘を田んぼのなかにある番小屋に引きずりこんで、そのなかで犯してしまったという事件だった。娘は妊娠した。それを知っているのはその親たちだけでなかった。ロシア娘は当時17、8歳ぐらいだった。

「そのロシア娘というのは、家うちにいたロシア娘じゃないの?」と、田原がたずねた。

「おぼえているか?」

「ああ、おぼえているよ。金髪のヘアで、名前をナターシャっていってた子だろう?」

「おれも、おぼえているよ。いつも着物を着ていたきれいなお姉さんだったな」と、弟の孝志がいった。

「孝志が、いちばんなついていたな」と、父がいった。

「この子は、いうことをきく、おとなしい子だといって、孝志のことを可愛がっていたな。そういえば、ナターシャとかいう名前だった。……おれが叱りつけたときも、ナターシャは、実家には決して帰ろうとはしなかったな。そういう、がまん強い子だった」と、父がいった。

「実家といっても、家は隣りみたいなものだったがな……」

「でも、ナターシャはそのとき、結婚していたんじゃなかったの?」と、田原がたずねた。

「ああ、その年の夏のお盆ごろに結婚した。やわらの街の、呉服屋に後妻として嫁いだんだ。先妻は病死だったな。ナターシャはな、呉服屋の長男と、その年にいっしょになった」

「それで、どうしたの?」

「呉服屋の長男が夜半、妻を犯した雄介の家にやってきて、すごいけんまくで怒った。妻をどうしてくれるのかっていってな。そんなこといってみても、雄介には責任がとれるはずがない。だから、長男は、父親を責めたんだよ」

「それで、父親が雄介を殺してしまった、というわけだね?」と、田原がいった。

「そういうことなんだ。――おれは、話をおもしろがっていってるんじゃない! 自裁して他者の責めを清算する。いまじゃ考えられないがな。……これが当時の、農民のもった事実だっていうことなんだ。……それでも同調して死を選ばない女房もいたし、それでも拗(ねもせず、歯を食いしばって黙々と生きたナターシャもいたっていうことなんだ」と、父はいって、たばこを揉み消す。