記憶(Ⅴ)






病院の受付で尋ねてから、わきの階段をのぼり、2階の奥まった部屋のドアを開けた。ユキ子の姿が見えなかった。

カーテンが閉まっているベッドがあり、なかから水の流れるような音が聞こえていた。大きな花束をもったまま田原はしばらくドアのそばで、廊下のほうを見たり、室内を見わたしたりして、ユキ子を探した。

部屋にいる女性たちが、田原を見てから、大きな花束をながめているらしかった。

しばらく、落ちつかない気分で、廊下のほうに歩きかけたとき、カーテンが開いて、ユキ子の顔が見えた。近づいていくと、

「あなた、その花、どうしたの?」ときいた。

「ちょっと……」といってから、ほかのベッドに視線を送った。6人くらいのうち2、3人がこっちを見ていた。

ここでは英語しか通じないのだと思いなおした。

「あとでいうよ。具合は?」といった。

「ダメになるかもしれないわね」とユキ子がいった。ユキ子は英語を、ほとんど理解できない。ゆっくり話せば分かるかもしれない程度だった。彼女はドクターの顔でだいたい分かるわといった。

「あなた、どこへいってたの? 夜、救急車で運ばれたのよ。心細いったら、なかったわ」

「ああ、悪かったな、悪かったよ」と、田原はいった。

「何時に帰ったの?」

「11時くらいだったかな。――悪かったよ」

「こんな花なんか持ってきて、あなた、何考えてるのよ! 病院へ駆けこんだっていうのに、まさか、赤ちゃんが生まれるとでも思ったの?」

「いや。そうじゃないけど、……」

「そろそろドクターがくるかもよ。その花、にくらしい! 捨ててきてよ」

今われわれにどんな出来事が巻き起こっているか、通訳がなくても周囲にいる人たちにはすっかり分かったことだろう。静かな室内に興味深そうな視線が田原に当てられていることを後ろで感じた。ベッドのわきに腰かけると、ドアが開いたままになっていた。あわててドアを閉めにいった。

もどると、コーナーにある丸い座卓のついた椅子が見えた。それをもってきて、すわった。

「お腹すかないか?――おまえ、さっき水を流していたのか?」と、田原はきいた。「水?」と、ユキ子がいって、

「あなた、よしてよ。なに考えてるのかしら」と、小声でいい、それからベッドにもぐりこんだ。

「カーテン見えたでしょ? わたしが、おしっこしてたのよ。悪かった?」といった。

それ以来、ユキ子は田原に、「あなたが、わたしのそばにいてくれないから、こんなひどいことになったのよ。反省してくれなくちゃ! せっかく子どもができたのに」といってなじった。


部屋にもどったのは、あくる日の午後だった。けっきょく、赤ん坊はダメだった。

そのときの花束は、都合よく部屋にやってきた若いナースにあげてしまった。

「ねえ、あなた、さっききたナースになぜあげなかったの? きれいなナースにはあげるんですか?」といった。

ロンドンには、足かけ2年いた。で、アーサー王の話は、ユキ子のまえではご法度になった。

「アーサー王って、あなたみたいな顔をしてるんじゃないの? にくらしいったら、ありゃしない!」といって、帰宅したばかりの食事のまえに、デスクのうえにあったアーサー王の肖像画が載っている本を田原に投げつけた。寂しくて、不安な思いをさせてしまったのは、おれのせいだと田原は思った。

「――それは、ふたりだから不幸なのよ。嫉妬がからむと、地獄よ」といった、キャサリンのことばを思い出した。キャサリンはずっとたって、札幌で知り合ったアメリカ女性だった。美佐子に連れていかれた教会で出会った。彼女とはきのう会ったばかりだ。キャサリンはあいかわらず背が高い。7年まえ、初対面のとき「でかい!」という印象をもった。それに、かなり巨大なお尻をしている! 

「田原さん、へんなこと、考えてるんでしょ?」と、キャサリンに囁かれた日のことを思い出す。あのころは、おれも若かった。

「お父さん、また何か考えてる」と、うしろで見佳がいった。

田原はドキッとした。新聞を持ったまま、よそ見をしていた。







「かつ代おばさんに、オムツを買いにいってもらってるの」

見佳は、毛布をめくってユキ子の足を揉みはじめた。田原がはじめてユキ子を見舞ったときも、見佳が足を揉んでいた。

いつも足が凝るらしかった。それを見た田原は、マンテーニャの『死せるキリスト』の像を見たように思った。キリストの足の裏が描かれている。その、不吉な思いをあわてて振り払おうとしたことを、彼はまだおぼえている。

ユキ子は、きのうの手術で頭を剃っていた。女の髪がないのだ。陥没したところの頭蓋骨は復元したけれど、水がでれば、ふたたび開頭するかもしれない。頭は帽子のようにぐるぐる捲きに包帯されている。

「お父さん、お母さんが泣いてる!」と、見佳が叫んだ。

「ほら、ね? お母さん、お母さん、起きて!」見佳は感動したように叫んだ。

田原がユキ子の顔をのぞいたら、左の目から涙が流れ落ちていた。耳のほうまで流れている。意識がもどったのかもしれない。人間は最後まで聴覚だけは生き残るときいていたから、ユキ子は、とつぜん意識が戻り、目を開ける元気がないまま、じっと周囲の人の話をきいているのかもしれない。

田原はおなじフロアの奥まったところにある看護婦詰め所にいって、田島看護師をつれ出してきた。ちょうどかつ代が、外からオムツの包みを抱えて帰ってきたところだった。

「ユキ子さん、ユキ子さーん、聞こえますか? 聞こえたら、手をにぎってくださーい。ユキ子さーん」

ユキ子は起きなかった。手もにぎらなかった。

「お譲さん、お母さんを呼んでみてください」見佳は、くりかえし呼んでみた。しばらくして田島看護師はいった。

「これは、ちがいますね。……これは、生理現象のひとつです。悲しくて泣いているわけじゃありません。感情的に泣いているんじゃなくて、ただ、生理的に涙を出しているだけですね」といった。

見佳は、なーんだ、といったふうに田島看護師のほうを見てから、

「でも、泣いてるみたいだね」といって田原のほうを見た。

田原もそう思った。かつ代が右の目をのぞきこんで、

「こっちも、少し泣いてるわ。罪だわ」といった。――かつ代は妹の事故を、田原のせいにした。夫婦が別れたままなのは、罪だといった。

かつ代はタオルで涙を拭いてから、「いくら泣いてもいいですよ。好きなだけ泣きなさい」といった。

「ユキ子には、悲しいことがいっぱいあるんだから、泣きなさい。――なぜだかしらないけれど、見て、みんなの会話をちゃんと盗み聞きしてるみたいな顔してる! ユキ子が聞いているように思えて……」と、かつ代はいった。