病気のことを綴っています。



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離婚した翌月に、足の調子がおかしくなり。


単純に、「今までの疲れが出たんだ」と笑っていたんだけれど、笑っている場合じゃないくらい、足の一部が赤く腫れあがってきた。




で、こうなった。


7.新しい人工関節と入れ換える?それとも、切断する?

http://ameblo.jp/tsukiakari-hoshinohikari/entry-12060897255.html




当時、息子はまだ3歳前。


わたしの母が育ててくれたけれど、

大事な時期に一緒にいてあげられなかったことが、仕方がないけれど、今でも悔しくてね。



千葉の病院は退院し、

義足を作ってもらい、歩行練習をするため、次は新宿の施設(現在は南千住にあります)でリハビリ。


沼津から毎日通うのは、当時のわたしには体力的に無理だったので、施設に宿泊しながら歩行訓練。



けれどね、痛くて痛くて痛くて痛くて。



歩く以前の話。

義足の重さに、右足が耐えられない。



たった2キロ。

されど2キロ。



装着方法を教わり、まずは靴の脱ぎ履きの練習。


これだけでも、痛くて痛くて痛くて痛くて、吐きたくなるくらい、痛い。




午前中は、靴の脱ぎ履き練習。

午後は、立ったり座ったりしてみようなんてスケジュール決めるけれど、全くできず。



朝9時から夕方4時までの訓練時間。

たっぷりあるから、たっぷり練習して、早く沼津に帰る。

そう決めていたけれど、

実際は、朝9時から始まった訓練だけれど、10時まで持たない。



痛い。

痛い。

痛い。




明日も頑張りたいから、まだ沼津には帰らない。

そう意地張っていたから、

夕方まで、みんなの練習を眺めているだけ。




それが、何日続いたかな。




先生に、言われたの。

「一旦、沼津に帰ろう」って。




歩きたいだけなのに、自分の力で立つこともできず。


義足履いて、靴履いて、右足一歩前に出すだけなのに。


頭ではわかっているのに、身体が動かない。


動く動かない以前の問題、痛くて痛くてたまらない。





悔しかった。






早く子供と一緒にいたい

早く職場復帰したい


この焦りが、全ての流れを止める「心の血栓」になっていたことに、当時は気付かなかった。




リハビリ再開の目安は、「一日義足を付けていて、痛みを感じないようになったら」。


それまでは、とにかくゆっくり休みなさい。



これが宿題だった。







ゆっくり休む。



頭ではわかっている言葉。


けれども、心では認めることができなかった言葉。






ゆっくり



休む




今思うと、どちらも自分辞書にはなかった言葉だったかもしれない。


ゆっくりなんて、休むなんて、

怠けているみたいでイヤだって、思っていたのかもしれない。



すごくすごく大事なことなのにね。








この時期は、

切断の入院の時に仲良くなった戦友3人とのメールのやりとりが、すごく嬉しい時間だった。


今は、3人とも、空の星になって輝いてる☆





何度も入院するとさ、

その時期の、いわゆる同期メンバーがいるわけで。笑


星になった戦友がほとんどだけれど、元気に生きている戦友もいる。




病気にならなかったら、入院していなかったら、絶対に会うことはなかったみんな。




治療もリハビリも苦しかったけれど、この出会いがあったから、意地でも生きてやる!って、わたしの力になっているにっこり








ところで、わたしの新しい相棒に、肌色の皮がつきましたキラキラ


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これから数年は、この足のおかげで歩くことができます。


右足も左足も、いつもありがとう。