フロンドの乱 その⑨ シャラントンの敗北 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

高等法院の判事たちが戦費調達に駈けずり回ってやっと50万リーヴル弱を搔き集めたのに対して、マザランは御付の銀行家から軍資金提供を受け優に、150万リーヴル、フロンド派の3倍の額の軍資金を動かすことが出来た。

1648年の12月から翌年の1月にかけて北フランス一帯は強い雨が降り続き、セーヌの水位が上がりパリ近郊は堤防を超えて溢れ、 パリ市内も数カ所で水が溢れた。

パリ防衛軍は歩兵を増強し、1月29日には総数1万2千に膨れ上がっていた。

しかし、パリ周辺の要所はすべて大コンデ公率いる国王軍によって抑えられ、パリへ向かう道は全部封じられてしまった。

パリの食糧は相当期間、少なくとも半年位は持つだろうと予測されたていたにもかかわらず、封鎖が始まって数週間後には、小麦粉が底をつき、マルシェに並べる野菜、肉なども入手困難になった。一晩でパンの値段が3倍にも撥ねあがった。



レ・アル近くの賑わい↑ 人々の服装から見て時代は大革命(1789年)前後と思われます。

高等法院は民兵の大佐にレアール(パリ中央卸売市場)から北の地区のマルシェ(青空市)を略奪が起こらぬよう民兵に護衛させよと命じた。


レ・アルの鳥瞰図、時代は上より少し後でしょうね。


2年ほど前に屋根が作り替えられた現在の姿。(上の絵は完成予想図ですが既に出来上がっています。市場自体はオルリー空港近くのランジスへ43年前に移転しました)


フロンド派が押さえているパリ隣接の郊外の町で唯一残ったのが南東のシャラントンだった。ここはヴァンセンヌの森とマルヌ川と セーヌ河に挟まれた要所で南東からパリへ入るには橋を渡らねばならない。

 ボーフォール公は歩兵を引き連れ、シャラントンがコンデ公率いる王室軍の手に落ちないうちに南へ押しやり、 パリへの補給線を確保しておこうと、シャラントンからコルベイユという南方30km程の町へ向けて進軍したが、南に駐屯している王室軍をみるや、 とても歯が立たないと悟り、すぐに引き返した。

数日経つうち、コンデ軍がシャラントンに進攻を開始したという情報が入った。 コンチ公、エルブッフ公、民兵の商人頭、パリ司教レッツ、大隊指揮官が集まり戦略会議が開かれた。

フロンド派の指揮官は全軍をパリの東側、 ヴァンセンヌの森からシャラントンにかけての一帯に集中すべきだと主張した。 しかし、騎兵も入れ1万6千もの兵を狭い範囲に駐屯させることは食料供給の面だけをみても無理がある。

コンデ軍は長期戦で、 防衛軍がこの地帯から引き上げるのをじっと待つだけで、なにもせずともパリに入って来れるだろう。そうでなくてもパリの北、西、東が手薄になり、 コンデ軍のパリ進入を許してしまう。

2月8日早朝、防衛軍各隊に(当時パリ東端にあった)ロワイヤル広場に集合せよという命令が出され、広場に到着した隊から順に シャラントンへ向け進軍を始めた。民兵大佐によれば全軍が集合すれば1万2千の歩兵と4千の騎兵で計1万6千となるはずだったが、 広場に来たのは半分に満たなかった。 それでも8千の軍は大軍である。対するコンデ軍は6千に過ぎなかった。

防衛軍はパリを出て郊外の畑に出たが、時既に遅く、シャラントンはほぼコンデ軍の手に落ちていた。 セーヌに架かるシャラントン橋の防衛に民兵の先頭に立って戦っていたフロンド派の将軍ベルトラン・ド・クランルは橋の上で戦死した。 橋周辺とシャラントンの町はコンデ軍が優勢に固めてしまった。

コンチ公とエルブッフ公を中心に作戦会議を開き、コンチは実戦経験の薄いパリ防衛軍に危険な橋防衛の任務を命じるべきか迷い、 結局「橋は固執せずに引き上げ」が決定された。

この作戦が致命傷となり、シャラントンの町とシャラントン橋は完全にコンデ公の手に落ちてしまった。こうなるとコンデ軍はパリ包囲を いともたやすく完遂してしまい。兵量、食料が数週間後に尽きることが明らかになり、フロンド派は停戦、和平交渉を受け入れざるを得なくなった。

こうして休戦会議が持たれ、サンジェルマン和議協定が結ばれた。この和議はリュイユの和議ともサンジェルマン・アン・レイの協定とも呼ばれている。 パリ西郊のサンジェルマンよりパリに近いリュイユ・マルメゾン( Rueil Malmaison ナポレオン妃のジョセフィーヌが17世紀に建てられた城を 1799年に購入し改築して住んだ。現在はミュゼアムになっている)でまず交渉が持たれ、 ついで宮廷が仮に置かれていたサンジェルマンで協定に署名が交わされた。

49年3月11日のリュイユの和議では、国王側に対しては、
1)フロンドに参加した全員の罪を問わない。
2)アンタンダン( intendant 、国王の特任により司法、治安、財政の  権限を持った最高の地方行政官)の廃止。
3)国王が新たな官職を作るのを禁じる。

一方、高等法院側には「マザランは国の敵であり追放に処す」という判決(政令)を取り消させた。

こうしてフロンドの乱のフェーズ・ワン「高等法院のフロンド」は一応の終結を見た。

 (つづく)