市ヶ谷監獄 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

ハリーメイ様
 
 しばらくご無沙汰しました。

 1月29日付の貴ブログ ”古地図で驚いたこと”その1、拝読しました。

 ご指名いただきとても光栄です。

 ハリーメイ様が卒業された中学の隣町に「市ヶ谷監獄」があった!

 ということは、めのおが卒業した中学の近くだったってことです。

 なにせ、ハリーメイ様とは小学校6年間同級、中学も同じって、五円とか十円どこの騒ぎじゃなく、一万円とか百万円くらいもあつ~い御縁の間柄なのですから。

 「高橋お伝?」「大逆事件!」・・・中学の社会科で習ったか?ですって。

 覚えがあるか?ですって?

 社会科で覚えてるのは馬ヅラの(たしか田中)先生が、「鰯雲」って映画を学年で連れてってくれた後の授業で、(中村雁次郎が出てます。脱線ついでに数年前のめのおは雁次郎に似てると言われた。頑固爺ってとこがです)優男の木村なにがしと相手役の女優の名前忘れたが、浮気の場面があって田中先生は、ここんとこ観ながら「日本刀でぶったぎってやりたいと思った」とのたもうた、ことくらいです。

 大逆事件はずっと後になって、めのおが社会人になってから興味を持って読んだくらいで、学生時代も、単純に無政府主義より、資本主義の仕組みを精緻に分析し、経済という下部構造を重視したマルクス主義の方が優れていると信じていました。自分で読んで研究してそう結論したわけじゃなく、友だちが言うのを鵜呑みにしてただけですが。

 ハリーメイさんの記事がきっかけとなり、めのおは筑摩の「現代日本文学大系」から幸徳秋水、大杉栄を取り出して見ました。

 ありますね。堺爲子著「妻の見た堺利彦」には、東京監獄が出てきます。

 「その年末、獄中の幸徳氏の要求で、私は東京監獄へ出かけて脱稿したばかりの原稿を受け取って来た。これが彼の絶筆「キリスト抹殺論」である」
 (この間、略)
 「その二十四日に、管野さんが私に会いたいというので、朝市ヶ谷へ行こうと家を出て・・・(途中略)私の訪ねようとする人はその時には既にこの世にはいなかったのである。・・・二十四・五両日に亘って十二人の者は死刑を執行されたのであった。・・・
 翌二十六日朝。私は幸徳秋水氏の骨を拾った。遺骨は全部私の家へ集められて、同士の葬いを受けたのであった。」

 上の記録を見つけた筑摩の文学大系は、もう20年以上前帰京した折りにフランスへ送りダンボール箱に詰めたまま眠っていたのでした。ここへ引っ越しして四年後の昨年暮れ、ようやっと取り出して本箱に並べたものです。
 
 いま連載中の「イカルスの墜落」は冗長なので、書きなおしながら連載しようと思って始めたのですが、ほんの一部しか直せません。そのうちの一か所はフランス人のお婆ちゃんに関することです。日本学者シャノワール先生の専門は「島崎藤村」でしたが、めのおは読んでないので、もすこし下世話な「永井荷風」に変えたのでした。

 一行も読んでないのはまずいので、本棚にせっかく並べた体系から荷風の(一)を取り出して、目にとまった「監獄所の裏」という短編を読んだのでした。

 その時は「へえ、赤坂見附のあたりに監獄があったのか・・・」とどういうわけか赤坂見附の交差点が目に浮かんだのでしたが、ハリーメイ様のご指摘で「市ヶ谷」と知らされ、これも確認のため開いてみました。

 洋行帰りの荷風が職を見つけて働くでもなく無為徒食、ぶらぶらと毎日を過ごしてる住処がハリーメイ様ご指摘の監獄と合致するかの確認です。

 「処は市ヶ谷監獄署の裏手で・・・」と書きだしにちゃんと書いてあるじゃありませんか!

 この短編の後半には、監獄署の裏手の寂しい光景が簡潔に描写されています。
五・六年前、荷風がアメリカを回ってフランスへ旅立つ頃、この辺は躑躅が美しい閑静な田舎だったのが今ではすっかり場末の新開地になってしまった。
(引用開始)
「変わりのないのは狭い往来を圧して聳え立つ長い監獄署の土手と、その下の貧しい場末の町の生活とです。
 私の門前には先ず見るも汚らしく雨に曝された獄吏の屋敷の板塀が長く続いて、それから例の恐ろしい土手はいつも狭い往来中を日陰にして、猶その上に鼬(イタチ)さえも潜れぬ茨の垣が鋭い棘を広げています。土手にはいっぱい触れば手足も腫れ痛む鬼薊が茂っています。」
(引用終わり)

 荷風がこの短文を書いたのは明治41年12月とありますから、小伝馬町から明治8年に移設された「市谷町囚獄役所」が「市ヶ谷監獄」と改称された1903(明治36)年の五年後ということになります。

 また鍛冶橋から富久町へ移転し「東京監獄」と呼ばれていたものが「市ヶ谷刑務所」と改称されたとありますが、小伝馬町から来た監獄と鍛冶橋から来たものが合併して
「市ヶ谷監獄」あるいは「市ヶ谷刑務所」となったのか?それとも「監獄」と「刑務所」とは違うのかいな?と思ってしまいます。

 「アンナへの贈物」の主人公の「私」は留置場に入るのですが、警察監置といってまだ有罪の判決が出ていない(未決?)容疑者が行方をくらましたりしないよう身柄を拘束して置く設備ですね。

 「留置場」とか「刑務所」とか「監獄」とか、子供の頃は「牢屋」で一括していたものが色々あってどこがどうちがうのか警察と検察の関係なんかも素人には難しいですね。

 最近のフランスは警察監置で留置場へ入れられる人が年間60万人とかで100人に一人が、「ちょっと署まで」と連行されます。おかしいのは裁判で懲役を喰らっても、実際は刑務所の物理的キャパシテイーが足りないので半分以上が執行猶予だそうです。刑務所の部屋数が足らずに二人も三人すし詰めにされて、それを苦に自殺する囚人が後を絶たない現状です。

 加賀乙彦の「宣告」読み進んでいますか?
 死刑囚が入れられるのは「拘置所」とまた呼び名が違うんですね。
 加賀さんは実際精神科医として、バーメッカ殺人事件の死刑囚に最後まで付き添った方です。そういう体験があるから、このような魂を揺るがす小説が書けるんですね。

 ところで話はすこし跳びますが、めのおが住んでるこの村、サンファルジョーには古いシャトーがあって、大革命時代の城主は「ルペルチエ」という若い法務官でした。フランスで最年少で裁判官になった人ですが、彼は「義務教育」を国家の費用でどんな貧乏人の子供にも平等に与えるべきだと法案を作り議会に提出します。

 その法案はロベスピエールによって読み上げられたのですが、ルペルチエは法案の成立を見る前に暗殺されてしまうのです。

 ルイ16世の死刑に賛成の投票をしたため護衛官パリスによりパレロワイヤルで脇腹を深々と刺され殺されたのです。

 しかし、ルペルチエはフランスでも最初に「死刑廃止」を唱えた人だったのです。ただ、ルイ16世だけは「国民を裏切り、国家を売った反逆罪」として「死刑」に値すると考え、パリスにどちらに投じたかと問い詰められた時も「良心に従い死刑を」と答えています。国王だけは例外と考えたようです。

 フランスは19世紀の詩人で作家「レ・ミゼラブル」で有名なヴィクトル・ユゴーも死刑反対論者でした。「死刑囚最後の日」という短編を書いています。20世紀では戦後の実存主義文学で「ペスト」「異邦人」で有名なアルベール・カミユも若い頃ギロチンの死刑執行を見て、死刑廃止論に傾いています。

 日本にも裁判員制度が始まり、めのおの2番目の母親も「当たって」しまったのですが、凶悪犯には「あたしはすぐ死刑」に投票すると言うので「ちょっとまってよ」と反論を試みました。その後どうなったか確かめてません。

 高校の親友がカナダに住んでいた時、建築賞を受賞したのでお祝いにカナダまで会いに行きました。その時彼が言った言葉が記憶に刻まれています。彼が興味のある建物は「教会」と「監獄」だと言うのです。どちらも「魂の内部を省みる場所」だからというのでした。

 コメントでは書ききれないので記事にしました。「古地図・・・」続きを楽しみにしています。

 めのお拝