今週の闇金ウシジマくん/第488話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第488話/ウシジマくん74

 

 

 

 

 

 

 

 

真鍋先生のツイッターなどではすでに告知されていたが、今回の巻頭カラーでは連載終了まで残りで5話ということが明かされている。5話か・・・。これは、今回のも含めるということだろうから、そうすると実質あと4回ということですよね。ぜんぶ描ききれるのかな・・・。

 

本編では、丑嶋を経由して自己規定をしていた柄崎が、それを乗り越えた「人間」としての立場から丑嶋を諭し、説得しきれなかったところだ。ホテルで丑嶋が目を覚ますと目の前には銃口があって、外国人ふたりがいるのである。柄崎の姿はない。

 

寝起きに銃で、しかももうひとりは少し離れたところにいる。丑嶋はさすがに観念したようで、手はしばられているのか、後ろ手の状態で、銃口をつきつけられたまま部屋を出て行く。このとき、外国人はメガネをつけさせることさえしてくれなかったようだ。丑嶋は裸眼のままだ。丑嶋の視力は獅子谷鉄也によって奪われた。たぶんド近眼という感じではないのだろうとおもうが、それでも、普段メガネやコンタクトをしているひとがそれなしで出かけるというのは、そうとうに不安なものである。

進んでいく丑嶋のそばに車がとまる。助手席には鳶田がいて、運転手は柄崎である。丑嶋は、車がすれちがっただけでそれっが柄崎だと視認したようである。柄崎はいっつもあの上着着てるから、色とかそういうのでわかったのかもしれない。なんか、そのひとの色ってあるじゃないですか。

柄崎はさすがに気まずそうで、背を丸めている。シシックの誰かが丑嶋を預かり、車にのせたところで、鳶田と合図をしあって、外国人たちはどこかに去っていく。別の用事があるのだ。

 

 

どこかの駐車場に豹堂の乗った車がとまっている。運転席にひとりだけ子分がいて、これから兄弟分と飯だからここで待っていろというはなしだ。豹堂の認識では、戌亥を通して、明日の滑皮の情報は丑嶋にいっているから、そこで丑嶋が滑皮を殺すはずだ、というようなところになっている。その前に滑皮は今晩鳩山と食事で、それはムカつくが、最後の晩餐になるわけである。

車の中には戌亥もいる。意識はふつうにあるようだ。殺す意味もないが、放っておくとあとで面倒ということで、豹堂は殺して埋めてこいと命令する。すみません、その命令は、ここでの食事のあとのはなしですか?それとも、ここで組長を待ちながら、同時に山に行くべきですか?

 

そこへ、フードをかぶった男があらわれる。車の正面に立って銃を構え、4発発射。豹堂と子分はあっけなく死んでしまうのであった。この、空に伸びてる照明みたいなやつは監視カメラなのかな。戌亥を抱えてその場を離れるのは、外国人の髪があるほうだ。カメラにはフードをかぶった男がうつっているわけである。

 

 

丑嶋が連れてこられたのは廃棄物処理場だ。そこには滑皮が待っていた。手下(テカ)の柄崎に売られた気分はどうだと、地面に座る丑嶋に滑皮はいうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

残り4話ということがわかっていると、こうした描写もいよいよ貴重なものになっていくなあ。「来週の描写を待つ」ということが、週ごとになくなっていくのだから。これからどうなっていくのかという、不安と期待の混ざった展開への楽しみもあるけど、同時に、丑嶋と滑皮のこの関係性にどのような結着がつけられるのかということも、たいへんな見どころである。

 

命のやりとりという点で、丑嶋にとっては不確定要素として、どう動くか期待された豹堂だが、あっさり射殺されてしまった。流れからすると、外国人は鳶田に丑嶋を預けて、そこで合図しあって豹堂のところに向かっており、しかもフードをかぶっていかにもそれっぽくしていることもあって、丑嶋の身柄を確保したら豹堂を殺す、というふうに決まっていたのだろうとおもわれる。もともとは、彼らは丑嶋の部屋のとなりにいたわけである。だから、たぶん監視が仕事だった。滑皮にいわれたとおり丑嶋が豹堂を殺すならそれがいちばんいい。しかし、どうもいうことを聞かないようだとなったときは、これを捕まえて、公式には行方不明の状態にし、つまりアリバイをなくして、その足で丑嶋ふうのかっこうで豹堂を殺し、丑嶋の罪にしてしまおうと、こういう筋書きだったのだ。

ただ、もしそうなのだとすると、廃棄物処理場につれてこられた丑嶋は、殺されないかもしれない。あるいは、殺されたとしても、いままでのようにマイクロ波的ななにかで透明にされるというようなことはないだろう。丑嶋にとっての「選び取る人生」視点でいえば、これはもう終了したと見ていいかもしれない。なにかいままでのような一発逆転でもない限り、もう丑嶋はこの場を出ることはできない。そうなれば、生きていても死んでいても、彼は公式には豹堂殺しの犯人となる。それが彼の意志で行われたことならよい。そうではないのである。

 

このことについては、後半で、丑嶋を滑皮の分身と見立てたうえで考察する。しかしその前に、滑皮の最後のセリフを分析しておこう。滑皮は、いまの丑嶋の状況を、柄崎に「売られた」というのである。ものはいいようというか、これは決して事実に反していることではない。柄崎はおそらく、丑嶋が眠っているあいだに、滑皮と連絡をとって鳶田と合流し、入れ替わりに外国人たちがやってきたのだ。マサルのときにそうであったように、丑嶋も、柄崎が100パーセント裏切らないとおもっていたかというと、それはよくわからない。人間とはそういうものだと、もし丑嶋がいったとしても、不自然ではない、というくらいな感じだ。だが、起きたら柄崎がいなくて目の前に銃口があると丑嶋が予測していたかというと、それはないわけで、そういう意味では、これはたしかに裏切りといえないこともない。しかし、前回見たように、それは柄崎が丑嶋のことをおもうがゆえの行動である。丑嶋の望む、みずから「選び取る人生」とは、幻想だった。少なくとも、前回の柄崎はそう指摘したのである。そして、豹堂のことを加えてみれば、それはたしかにそうなのだ。丑嶋は、選び取るために、滑皮を殺そうとする。そのために彼は戌亥から情報を得ていたわけだが、それは豹堂の許可を経由して出てきたものである。そして豹堂は丑嶋を使って滑皮を殺そうとしていた。つまり、丑嶋じしんは、みずから選び取って「滑皮殺し」を選択しているつもりなのだが、じっさいには豹堂の掌のうえで転がされていただけだったのである。こういうところで、柄崎は、もうやめようと言い出したのだ。くりかえしになるが、これは以前の柄崎の、エゴから出てくることばではない。以前までは、「最強の柄崎」でいるために、社長には唯一無二であってもらわなくては困る、というわがままが、彼は意識していなかっただろうが、そのふるまいの根底にはあった。だから、これが揺さぶられたとき、この「最強の柄崎」が構築される以前の柄崎、またそれと丑嶋との関係性をあらわすものとして、タメ口やネットカジノといった描写がくりかえされたのである。しかし柄崎は、滑皮からもらった足代を投げ捨てることでこれを克服した。残った柄崎の丑嶋への感情をどのように形容するかは、難しいというが、ひとことでいえば敬愛のようなものである。親しく、また尊敬するものの身を案じるという、「人間」としては標準的な、ふつうに備わっている感情だ。これが、柄崎に諫言させ、そして説得に応じない丑嶋に対して、さらに状況がひどくならないうちに滑皮に下ってしまうという選択をさせたのだ。柄崎は、場所を教えるから、社長の命は救ってくれ、みたいなことを滑皮にいったはずである。そしてたぶん、滑皮はもちろんだと応えたはずだ。そのこたえがほんとうであるかは柄崎にはわからない。が、もはやそうするほかない。そういう状況だったのである。

 

しかし滑皮はこれを「売られた」と表現する。くどいようだが、ことばの表層のぶぶんで、これは別にまちがっていない。だが、ここからは、別のニュアンスも感じ取れる。つまり、じぶんはそうではないということだ。ここであたまをよぎるのは梶尾である。滑皮の側近だった梶尾は豹堂の部下の巳池にさらわれ、拷問されて滑皮の鹿島殺しの件を自白している。この件は、じっさいのところどこまでがほんとうのことなのかよくわからないままになっている。戌亥は、梶尾の録音をアプリで捏造したものじゃないかといっていたが、滑皮はそれはもうどうでもいいみたいな感じだったのだ。ふつうにとらえると、梶尾がほんとうに裏切ったのかどうかは重要かとおもわれるが、滑皮にとってもはやそれは些細な問題になっている。というのは、このことが彼に豹堂殺しの大義、要するに動機を与えたからだ。もう彼は、豹堂をただ「邪魔だから」という理由で殺すのにためらう理由はなくなった。彼は、梶尾の死によって、非常に重要な一歩を踏み出すことができるようになったのである。

この視点でいえば、梶尾の死は「ヤクザとして」報われている。ヤクザとして、裏切っていてもいなくても、梶尾は滑皮の背中を押すことになった。そして、滑皮にとって「ヤクザとして」のありようは、「ハレ」と「ケ」のうち「ハレ」にあたるありようであり、それは彼の人生の全体なのである。彼にとっての「ケ」は、タバコの煙とともに車外にしめだされた。滑皮は、凡人であれば「ケ」の領域になるであろう、部屋のなか、それも全裸になる風呂場において、鏡に向かい合って、ヤクザとしての決意のあらわれであるイレズミと毎日対面する。いつか援用したことだが、精神分析のジャック・ラカンにおいて、ひとは、「鏡像段階」を経由して自我を確立する。これはたぶん、鏡それじたいでなくてもかまわない。要するに、じぶんの外部にあるとおもわれるなにかと、じぶんの身体感覚がシンクロし、同期したとき、いわばフィクションとして、自我が構成されるのである。滑皮は、鏡を経由して、またイレズミを日々視認することによって、「ヤクザ・滑皮」という全的なありようを更新し、再構成しているのである。

だから、梶尾の死も「ヤクザ」として受け容れる。ヤクザとして、それが結果オーライ、先に進むものになるのであれば、それを否定したり悔やんだりする理由はない。しかし、滑皮も人間なので、隠れたところで梶尾のことをおもってはいる。そうしたとき、鏡の向こうの滑皮は消え去ってしまうのだ。

 

こういうふうに、滑皮においては、梶尾の裏切り(のようななにか)を、ヤクザ的に消化することができた。だからこそ、そうではない丑嶋の状況を言い立てることができる。おもえば、梶尾周辺と今回の描写はもう少し対応関係にあることがわかる。それは外国人である。梶尾をじっさいに殺したのは竹腹というシシックの男のようだが、それに手を貸したのは背骨・・・じゃなくて、福建省のなにものか2名である。ここでいう「外国人」とは、それが行う行為にかんしていっさい証拠が残らず、あとくされもないようなものの象徴である。これは、身内殺しが建前上厳禁とされるヤクザ社会においては重要なツールになる。現象としては、どこからともなくふってきた隕石がヤクザのあたまに直撃して、その瞬間にヤクザも隕石も消滅してしまった、というようなことと変わりないのだ。Aという命令下で非Aという命令を実現しなければならないダブルバインドのヤクザ社会ではこういう方法はごく自然なものになっているにちがいない。

滑皮にとっての梶尾の死は、そのように、ヤクザとして肯定できるものになっている。だからこそこの言説は成り立つ。だとすれば、丑嶋は、ウシジマくんとして柄崎の行動を肯定できたとき、再び滑皮と対等になることになる。だが、それはどういう状況か。つまり、丑嶋が柄崎の行動を肯定できる立場とはどのようなものか。それは、利害関係ではない、「人間」としてそれを見たときである。つまり、柄崎は丑嶋のためをおもって(もちろんじぶんの身の心配もあって、トータルで)この選択をしたわけだが、そのことを丑嶋が理解したときに、滑皮の言は無効になるのである。そしてそれは、柄崎の動機をトレースするということでもある。丑嶋が滑皮に精神面で対等になるためには、丑嶋は「選び取る生」が幻想であったことを認めなくてはならないのだ。

 

さて、こんな段階にきても、まだ滑皮が結局のところどうしたいのかということは見えてこないわけだが、そこのところはやはり、当ブログでは一貫して考えてきた、彼らの共通するぶぶんを見て取りたい。彼らは根本的に同じ人間である。だが、「父」に対する解釈のぶぶんで人生が分岐した。両者はともに車からタバコの煙をしめだすが、少なくとも滑皮においては、この煙には父親の記憶が付託されていた。ある場所に移動する手段である車がそうであることが象徴するのは、滑皮では全人生的にこの幼いころの記憶がしめだされているということである。だが、記憶、また体験は、抑圧されれば、別の姿になって回帰する。滑皮ではそれはヤクザの擬似家族であり、丑嶋ではそれを厭うという感情があらわれた。以前までは、滑皮にとっての丑嶋は、ヤクザ社会のダブルバインド、矛盾した命令を同時に遂行するということの象徴だったはずである。直接の兄貴である熊倉を殺した丑嶋を許すことは、ヤクザ的にはありえない。これを、許さないまま手元におくことは、これ以上ない矛盾となる。滑皮における丑嶋獲得はそうした象徴的な意味があると考えられたのだ。しかし、この考えはさらに深めることができる。というのは、以上考えたように、丑嶋馨という男の生き方じたいが、滑皮にとって背理なのである。手元において、そのふるまいじたいの矛盾を持続するだけではまだ足りない。その先に、滑皮は丑嶋をついに全否定することで、「矛盾を持続させる」というヤクザ的生き方が正しかったということを証明することにもなるのである。これは丑嶋じしん、つい最近、ヤクザなんかになった滑皮の気が知れないといっていたことだ。この言い方は、まったく他人にたいしていうにはちょっと奇妙である。だって、ヤクザになったものは、滑皮に限らずいっぱいいるのだから。そのなかでとりわけて滑皮をチョイスするには、彼に対するわずかながらの感情移入がなければならない。丑嶋も、じぶんたちが根本的には似たものどうしであるということを、どこかで悟っているのである。

 

そうした先、父性を肯定しつつも克服し飲み込もうとする男と、徹底してそれを厭い、選び取る人生が幻想だったことを突きつけられつつある男の人生観がぶつかることになる。ここで、滑皮の目的というか、けっきょくなにをしたいのかということも見えてくる。外国人のくだりに戻ろう。外国人は、矛盾する命令のいっぽうを片付けるための、外部的な禁じ手である。Aと非Aという命令が同時に下されたとき、そしてそれをなんとなくではごまかせないとき、彼らは外国人という反則技をつかうことになる。そうすることで、非Aという命令は自然消滅し、ただAという命令を遂行するだけのクリーンなヤクザが保存されるのである。だが、今回、あの外国人は、いかにも丑嶋がやったと見せかけるようにして豹堂を殺している。そしてもちろん、滑皮もそのつもりだろう。これはよく考えるとへんなのだ。だって、滑皮なら、彼らをつかって豹堂を消滅させることなんてかんたんなんだから。わざわざあんな目立つところで、銃声を響かせてやる必要なんてない。滑皮は、丑嶋が生きているか死んでいるかは別にして、どうしても彼を犯人にしたいのである。つまり、非Aという命令を丑嶋を通して実現しようとしているのだ。(ここでいう命令とは、しなければならないこととか、そんな意味です)

つまりこうである。滑皮にとって丑嶋は、じぶんの行き方の反対命題だ。だから、殺すのではなく否定が必要になる。ところで彼はダブルバインドのヤクザ社会に生きている。矛盾した命令は、同時に解決することはできないから、いっぽうをあきらめたことで生じるなんらかの負担を背負い込むか、外国人に象徴される禁じ手を用いて消滅させるか、どちらかしかない。しかし、もしこれが、じぶんの存在を否定するようなものによって解消されたらどうなるか。彼は、正しいありかたのまま、正しくないありかたのじぶんを通して、存在をまっとうすることが可能になるのである。むろん、以後も続くヤクザ人生通しての解決策になるということではない。これらはあくまで象徴的にそうだというだけのはなしだ。滑皮はヤクザ社会を尊重し、ダブルバインドを受け容れてきたが、もし彼がトップに立つことがあったとすれば、それは、そうした矛盾した命令のいっさいが統一されたときである。だとするなら、頂きが近づくにつれて消えていくべき非Aという命令は、最終的には否定すべきものとなるはずだ。滑皮にとってそれは、ずっと前から、丑嶋のことだったのではないだろうか。言い換えれば、滑皮は、丑嶋に、遂行できない非Aという命令、要するに豹堂殺しの罪を着せることで、丑嶋の全否定を達成することになるのである。