雪組東京公演『ファントム』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

三井住友VISAカード ミュージカル

『ファントム』
PHANTOM
Book by Arthur Kopit
Music and Lyrics by Maury Yeston
Based on the novel by Gaston Leroux
“Originally Produced in the United States at Theatre Under the Stars, Houston, Texas”
PHANTOM is presented through special arrangement with Music Theatre International (MTI).
All authorized performance materials are also supplied by MTI.
423 West 55th Street, 2nd Floor, New York, NY 10019 USA
Phone: 212-541-4684 Fax: 212-397-4684 www.MTIShows.com”
脚本/アーサー・コピット 作詞・作曲/モーリー・イェストン
潤色・演出/中村 一徳 翻訳/青鹿 宏二


ガストン・ルルーの小説「オペラ座の怪人」をもとに、脚本アーサー・コピット、音楽モーリー・イェストンによって1991年に初演、米国内ツアーでの好評を受け、その後世界各地で上演されてきたミュージカル『ファントム』。宝塚歌劇では2004年に宙組により初演、怪人の心の葛藤を鮮明に浮かび上がらせ、悲劇の結末をよりドラマティックに描き出した宝塚歌劇ならではのロマンティックな舞台が高い評価を得て、その後の再演も好評を博し常に上演希望が寄せられる人気ミュージカルとなりました。伸びやかな歌声に定評のある望海風斗がファントム役に挑むにあたり、この度の雪組公演では新たな『ファントム』の世界をお届け致します

 

 

 

 

以上公式サイトより

 

 

 

 

 

雪組東京公演『ファントム』観劇。1月18日13時半開演。

 

 

ついにこの日がやってきたのか、という感じだった。誰もがそうであるように、ぼくにとっても「ファントム」は思い入れのある作品だった。ぼく個人は子どものころから宝塚を観ているが、途中、観たり観なかったりの時期をはさんで、現在は相方といっしょに宝塚を愛好しているわけだが、その最初の作品が、花組蘭寿とむお披露目公演のファントムだったのである。この時点でファントムは三演で、その前の公演は観たことなかったのだが(エリザベートといっしょで、ミーアンドマイガールみたいなミュージカルが好きだったぼくは、なんとなく暗そうという理由で、観劇に積極的になれなかった)、名曲の数々に度肝を抜かれたものである。

こうした理由で、まずファントムが再び行われるということが事件である。それに加えて、その主演を望海風斗が務めるというのだ・・・。この感覚を非宝塚ファンに伝えることは難しいかもしれない。ファントムやエリザベートのような音楽先行の海外ミュージカルは、当然ほとんどのひとが音楽を期待して観にくるし、げんにそれを実現するためには高い技術を必要ともする。しかし宝塚では、ひとつのある作品をどれだけ高度に、劇団の持てるちからをどれだけ結集して行うかというより、通年公演の内側で可能な限界までレベルを引き揚げる、というニュアンスで行われる場合が多いのである。ありていにいってしまえば、どう考えても技術的には高度なものが要求され、観客もそれを期待しているという状況で、とりわけうたが得意というわけではないスターが主演に配属される、ということは、別に珍しくないのである。それでも、その与えられた条件のなかで、劇団は水準以上の達成を出そうと努力していくので、その過程に醍醐味があるといえばそうなのだが、あれはこのひとで観たかった、これはあのひとで観たかった、というような感情が出てくることは否定できないのである。こうしたなかで、蘭寿とむ以来の再演であるあのファントムを、現役タカラジェンヌでは最高の歌い手とおもわれる望海風斗が行うというのである。さらにつけくわえると、今回にかんしては相手役の真彩希帆も抜群の歌い手ときている。こんな奇跡があっていいのだろうか、というほどなのだ。宝塚がもし、ファントムの公演だけのために存在している劇団であったなら、全組子のなかから選抜して、より高度なものを目指すということはいつでもできるだろう。しかし、宝塚の魅力はうただけではないし、なにより通年公演といって、いつ劇場に出かけても芝居が観れる、ということの実現のためには、ある程度の分業、あるいはちからの分散は避けられないところなのである。そういうなかで、こんな組み合わせでファントムが行われるというのは、見る前から緊張してしまうほどたいへんなことなのである。

 

さらにつけくわえたいのは、今回の公演は雪組のものだが、望海風斗は花組出身で、前回のファントムにも出演しているということだ。おもえばあのころの花組はとんでもなかった。2番手にのちに雪組トップになる壮一帆がおり、望海風斗はもちろん、同じくらいの位置には先代の宙組トップ朝夏まなとがいた。花組の明日海りおの相手役で、退団が決まっている仙名彩世もすでに頭角をあらわしており、朝夏まなとの相手役にもなった実咲凛音も子役などやっていた。こういうわけで、望海風斗には以前の公演の気配が、少なくとも観客の感傷の内側には残っているのである。あの偉大なる蘭寿とむの強い影響を受けている望海風斗が、あの歌唱力でもって、満を持してファントムに臨むと、こんな大袈裟な図式が、ぼくではどうしても浮かんできてしまうのであった。そして、そうなることは確信していたが、その期待に雪組はこたえてくれた。30過ぎて涙もろくなった、というはなしは、ブログだからこそではあるが、よくしてきたが、たいていのばあい、退団とかそういう「背景」こみであることも多い。あるいはストーリーに感情移入しちゃったりとか。もちろんファントムにも感情移入のよすがはあるが、ぼくが今回もぼろぼろ涙を流して目がふやけてしまったのは、ごくたんじゅんにうたが素晴らしかったからなのである。旋律と歌唱そのものにここまで感動したのはいつ以来だろう。ほんとうに素晴らしい経験になった。今回に限り、もうチケットをとってあるということでゴリ押ししてなんとか休みをもらったが、いまの生活では相方との同時の休日がありえないので、おそらくは、仕事を辞めるか、人事的ななにかに変化があったりしない限り、しばらく宝塚はお預けということになる。相方は「ファントムにはじまりファントムにおわる、か・・・」などと縁起でもないことをいっていたが、ぼくとしてはこれで宝塚ファンをやめる気もないので、いまだけなのだが、とはいえ、しばらくは観れないわけである。なにはともあれ、この観劇に間に合うことだけはできてよかったと、つくづく感じている。

 

今回は、前回以外見ていないのでそれでどうこういうのもアレだが、演出でかなり変更点が見られ、また、やるところ・人物によってここまで解釈がちがうのか、という再演ものの醍醐味を堪能もした。まず演出にかんしていうと、以前よりだいぶわかりやすくなっていたように感じた。記憶している範囲ではジョセフ・ブケーと文化大臣のくだりである。新しいオペラ座の支配人となったカルロッタは、衣装係のブケーに地下を調べさせ、そこでブケーはファントムことエリックと遭遇してしまい事故的に高所より落下、死亡ということは同じであるが、そこに必然性がもたされていた。以前では、突然あらわれたエリックに驚いたブケーがもたもたするうち落ちてしまう感じだったが、今回では、新聞なら「もみ合いの末」などと報道されるような感じで、わずかな格闘ののちに落下するのである。エリックからすればそもそもそこにブケーがいるということじたいがおかしなはなしだった。そこで、じぶんの目前まで来てしまったブケーの手首をエリックがつかむ。そこで、やはり驚いたブケーが反撃し、その結果落下という流れである。

文化大臣にかんしては、前回がどうだったか正確には思い出せないが、彼が買収されたと露骨にセリフが入ることで、いくぶんわかりやすくなっていたような気がする。いや、前もこのセリフはあったのかもしれないが、気づかなかった。

オープニングのダンスも変わっていたが、個人的にはあのCG映像である。冒頭、エリックが住んでいるオペラ座の地下の様子が、あくまで効果の一種として背景に映し出されるが、ぼくにはそれっがけっこううれしかった。というのは、いままで、エリックがオペラ座の地下の沼のほとりに住んでいるといわれても、状況がよくわからなかったからである。そうしたところで、ああいう水路みたいなものが描かれ、なるほど、だからエリックはああして舟で移動していたわけか、などと腑に落ちたしだいである。

 

芝居にかんしていえば、あくまで相対的にはということだが、望海エリックはかなり若い、というかほとんど子どものような演技で行われており、それについていくように、微細な変更もほどこされているようである。以前からわからなかったのは、彼がクリスティーヌを招待する森である。地下に、なにやら彼が開墾したという「森」と呼ばれる美しい場所があって、そこでは鳥が鳴いたりしているのだが、あれが、「ほんとうの」森なのか、エリックがそう思い込んでいるだけなのか、よくわからなかったのだ。彼が鳥の鳴き声と呼んでいるもののうしろには、彼の従者が踊っており、彼が森と呼ぶ緑は、書割のようなものなのだ。あれは、たんに芝居としての「書割」なのか、じっさいに書割のような、はりぼての森にすぎないのか、いまいち判断できなかったのだ。で、見落としも含めて、今回あれは「はりぼて」だったのだとようやく判定できた。エリックは、じしんの醜さへのコンプレックスから、他者にこころを開くことを拒んでおり、だからこそ地下に住んでいる。こうしたなかに開く「森」は、彼の一種のとりつくろいであり、それが、仮面のしたをみたクリスティーヌの反応によって崩れる、そのことが、今回の望海風斗の芝居でよくわかったのだ。

 

今回もっとも心配していたのは、じつはオペラ座のもと支配人で、これまでずっとエリックを守ってきた、じつは父親のキャリエールを演じる彩風咲奈である。最初に書いた文脈でいえば、彩風咲奈は、ほかの歌い手たちと比べたら、「抜群の歌い手」ではないわけである。こういう状況で、非常に低音で、豊かな情感の求められるあの父親のうたをどううたうのか、こういう心配が、正直いってあったのだ。しかしそれは杞憂におわった。彩風咲奈じしんの技術の向上は当然ある。望海風斗のもとでキャリエールをやるのである、それは、すさまじいプレッシャーがあったにちがいないのであり、それにかんしてはまちがいなくこたえていた。だが、それ以上のものがあのうたにはあった。じっさいに比較したわけではないので、ぼくの感覚違いということもあるとはおもうが、今回の公演のあのうた、「お前は私のもの」は、かなり遅いテンポでうたわれていたようである。結果、一語一語を抱きしめるかのような丁寧な歌唱が実現していた。そして、とりわけ冒頭、キャリエールがささやくようにエリックに呼びかけるあたりのオーケストラは、そうとうに音がしぼられていた。歌詞の運用にも工夫が見られた。すでにうろ覚えなので、あとでDVDなど出たら確認しなければならないが、たとえば「かけがえのないたからもの」というところで、ぼくの記憶する壮一帆は、どの母音にも音符があたるように、けっこう明瞭にうたっていた。しかし、今回では、強く発声される母音を後半に集めるようにして、「かけ」をほとんど子音のようにあつかい、低い音を明らかな発声を回避するようなうたいかたがされていたのである。これを、ぼくは彩風咲奈へのフォローとはみない。これは、それだけ大事なうたなのである。演者は演者で、それにこたえようとはする。だがそれとは別の次元で、このうたをしっかり達成させなければならない、そういう決意が、この多層的な工夫からは感じられたのである(すべてぼくの主観です)

 

ファントムでは、「音楽」と「魂」がほぼ同義である。エリックとクリスティーヌのあいだにはつねに音楽があり、それが、彼らのあいだの仮面、とりつくろいを最終的には取り払う。それが、エリックの死後、ドレミファソの旋律とともに、エリックの魂を呼び出す演出にもつながっている。が、このことがもっとも感動的に浮かぶのは、やはりそのエリックとキャリエールの関係性だ。ふたりの親子の絆は、音楽でかたく結ばれてきた、とキャリエールはうたう。そして、その当の告白が、音楽なのである。これが、本作がミュージカルであることの必然性を呼び込む。このときに、音楽はただの恣意的な文化的営みではない。エリックじしんがちょっとしたセリフでいうように、なんらかの条件で交換につかわれる貨幣でもない。音楽はそれじたいで揺るがぬ価値をもっているのであって、だからこそ、彼らはそれを探究して、そのなかに生きていくのである。これが浮かび上がるのは、まさしく音楽を貨幣と考えるカルロッタ夫婦の存在によってである。もし音楽が貨幣であるのなら、それを通じて魂の交感を行う、あるいは行えると信じているエリックたちの考えは無効になり、ひとは、そのひとをそのひとたらしめる無二性を失う。となればそこには愛もない。愛情の先にいるものがその人物である必然性はなくなるからである。音楽は貨幣ではない。こうした感覚がぜんたいに通奏しており、たとえばキャリエールは、いち芸術青年として、表現者ではない生き方を選択しつつも、音楽の土俵で、うたを通して告白をすることができる。

こういう作品だから、なによりもうたなのだ。これをいまの雪組で観れたことは、おそらくぼくの宝塚ファン歴最高の幸運だったとおもう。