今週の刃牙道/第147話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第147話/非日常(ファンタジー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テーザー銃の電撃で武蔵からダウンを奪った岩間だったが、即座に起き上がった武蔵に首を落とされてしまう。電撃じたいは効いていた。だが、あまりに強力な電圧で設定しすぎたせいもあって、まさか武蔵がすぐに起き上がってくるとはおもっていなかったのである。それどころか警官たちは武蔵の生死を確認しようとすらしていた。テーザー銃のケーブルは武蔵に刺さったままであり、岩間が引き金を引けばまた電気が流れる状態になっていたが、武蔵の速度はそれを上回る。そうして、100人の機動隊はリーダーを失ったのである。

 

 

機動隊員たち的には「あの岩間が」という感じらしい。警視ということで、けっこううえの階級だったわけだし、普段から訓練している感じのひとだったのかもしれない。「鬼」というあだ名からもそれがわかる。しかしそれが殺された。しかも斬首という、ふつうに警官をやっていてもまず見ないであろう死に方である。あまりの非日常に、100人はみんな硬直して思考停止してしまう。

それでも、続けて武蔵が100人に襲いかかり、何人か斬り殺したのであれば、その後の残り数十名は正気をとりもどし、統率がとれないまでも、武蔵を捕えるという職務よりむしろじぶんの生命を守るために、これに対抗していったことだろう。しかし納刀した武蔵は空を見上げていい月だなどといっている。隊員たちは、ひとを殺し、未だ包囲されたままのこのタイミングで月のはなしをしている武蔵に驚愕しているが、重要なのはそうして唐突なことばをもらすことで、武蔵の言動に注目させているところだろう。武蔵は一同が続きを見守るなか、悪魔的な笑みを浮かべて、斬りたくもなる、というふうに述べる。それを受けて、隊員たちは距離をとる。ところでここで「ざわわ・・・」となっているのだが、そのフォントがカイジの福本先生の、例のアレである。いったい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

「『頭』を失った軍勢・・・

 

 

もはや『軍』とは呼べぬ

 

 

統率の取れぬ百人に

 

 

『数』の威力(ちから)はない

 

 

『一人』が百あるだけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵が脱力ダッシュでメガネの隊員に急接近し、あっという間に彼のもっていた盾を9つに分けてしまう。メガネの男はどこもケガがないようだ。この距離でわざわざ盾だけをこんなに細かく切って、男を少しも斬らないということは、斬らないように意識しないとできることではないだろう。武蔵は彼を斬る気はなかったのである。

メガネは、神業に驚いて引いたり、あるいは抵抗するなりという行動に出ず、なんと武蔵に背を向けて細切れになった盾をうしろにいるセンパイたちに見せてまわってしまう。武蔵の圧倒的な技量と強さへの驚きや高揚が、職務やあるいは恐怖感というものを超えてしまっているのである。

そんなメガネに武蔵は声をかける。穏やかな口調で、仏さん、つまり岩間を早くどうにかしてやれと。ふつう、それをなしたものにそんなことをいわれたら、感情的になってしまう。会社でふつうに仕事をしていたらいきなりヘリコプターがつっこんできて、壁やガラス、また社員たちのデスクなどがばらばらに砕かれてしまったとして、そのあとヘリからおりてきたものが早く机とかをもとに戻せよといったら、はあ?となるだろう。しかし、メガネやそのほかの隊員たちは、まるで上司から指示されたみたいに、あわてて岩間の死体に取り掛かり始める。そして、それを背にして、武蔵は「別れいッッ!!!」と一喝し、残った隊員たちを左右に移動させる。武蔵はそのあいだを悠々と歩み去っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

煽りでは「国家、完敗」となっている。どうやら対警察のたたかいはこれで終わりのようだ。なんと、100人の機動隊は、100人という有利をまったく生かすことのないまま、武蔵に敗北してしまったのである。敗北といういいかたは極端だが、厳密にいえば、武蔵を捕えることができなかったのである。

 

 

もちろん、この結果にかんしては武蔵の戦略がかなり作用しているだろう。五輪書や吉川英治などに元ネタがあるのかもしれないが、武蔵は徹底的に100人との全面的な対決を回避しているのである。武蔵ももはやバキ界の住人、バキやピクルまで圧倒し、勇次郎とも勝負なしになった人間なので、100人と正面からぶつかっても、たぶん勝利しただろう。しかし、そんなことに意味があるだろうか。100人をひとりひとり細切れにしなくても、今回のように勝利する、少なくとも敗北しない、という状況をつくることは可能なわけである。

 

 

そもそも、武蔵が橋のしたで待機していたことも、戦略的なものだったとおもわれる。橋のうえでたたかえば、かなり広い橋だったとはいえ、四方を丸く囲まれる可能性はかなり低くなる。ポジションのとりかたを間違えなければ、常に相手のすべてを視界におさめることが可能になる。また、これは橋の下でたたかいになったとしても同様のことだが、近くに水が流れているので、そこに落とすことができればそれだけでそのものを戦闘からはじき出すことができる。なんなら水の流れは逃走にも使用できた可能性さえあるのだ。

リーダーが岩間であることに気づいてからは、武蔵の視点は岩間に移って行った。その前に大塚が指揮する12人とたたかっていた時点で、装備や備えている戦力にかかわらず、現代のものたちが精神面では戦闘にかんしてじぶんよりはるかに稚拙なものがあるということを理解したはずである。強力な銃をもっていても、反射的に撃てるような心理状態ではないようであり、大塚の目をつぶしたことで指揮を失った12人がなんの問題もなかったことも武蔵は記憶しているだろう。そうして、まずはリーダーを単独で動かさせ、これを制圧することが第一であるというふうに考えたはずだ。おもえば放水はかわして電撃はくらったのも、その持ち手の問題であったのかもしれない。武蔵はまず岩間を獲ろうとしている。が、岩間としてはタイマンをはるつもりはない。放水は、「100人」が備えている攻撃方法のひとつであった。武蔵はなるべく岩間を単独でたたかわせようとしていたはずだが、このとき若干岩間は戦略的には「100人」側に傾いていたわけである。だから武蔵は即行でこれを押さえ込む。そしてそののち、再び例の迫力と話術で、岩間を単独にさせようと努める。テーザー銃を受けてしまったことは、以前考えたように、武蔵の好奇心と、死ぬ寸前まで変わらずに動かすことができるという身体への悟りが原因だったろう。しかし放水と比較してなぜこれを受けてしまったのかというと、これが岩間個人の攻撃だったからではないかと考えられるのである。岩間が単独で攻撃を仕掛けてくることじたいは、武蔵のシナリオ通りなわけで、そこでよりいっそう、武蔵の好奇心と悟りは強く働いていたのである。

 

 

とはいえこれは武蔵のミスで、じっさい危なかった。あのまま岩間が狂気の表情で電気を流し続け、しかも誰も止めなかったら、武蔵は死んでいたかもしれない。しかしいま武蔵は元気に動いており、しかもそれを行った岩間は斬首された。隊員たちにも読者にも、「もし」の先を確認するすべは誰にもない。そして武蔵は痛みやダメージの蓄積が行動にまったく影響しない。とすれば、表面的にはこの攻撃はまったく通用しなかったも同然ということになるのである。また、先週考えたように、彼らが予定された戦略を成功させているという点も重要だ。彼らの計画は、武蔵が無力化して倒れた時点で完了している。ではそのあとどうするのかという、その点にかんして詰めが甘かったのである。テーザー銃を強化したことは、この無力化ということにかんしての自信をより強めてしまったことだろう。彼らの誰一人として、すぐさま武蔵が起き上がって反撃してくることは予想しておらず、それどころか生死の確認を急いだほどなのである。

 

 

そうして岩間を倒してしまえば、もう武蔵にとっては問題ではない。戦場では上官が死亡したとき、そのすぐ下の階級のものが指揮官にとってかわるというが、その可能性ももちろんあった。だから、武蔵は100人の意識を、100人でいるということに向けさせない必要があった。もし次の指揮官が決まっていなかったとしても、たとえば勇気あるものが声をあげてかってに指示を開始し、100人がそれにしたがったのであれば、指揮系統は回復されていた可能性もある。しかしそのためには、目の前でおそろしい指揮官が斬首されたという非日常のショックから立ち直り、じぶんたちは依然として人数で有利であるということを自覚しなければならない。武蔵はそれを妨げる。首が落ちるという光景のリアリティは、100人それぞれに、集団の細胞であることより、それぞれに生命を抱えた個々人であるということをつきつけただろう。武蔵はその心理状態を保持したい。月について語るのはそうした意味があったろう。隊員たちはこのタイミングで月について語るということそれじたいに驚いている。ということは、武蔵の言動に注意が向いてしまっている。次になにをいうか、そして誰を斬るのか、そういうところに注意してしまっているのだ。

続けて武蔵はメガネの盾を斬る。ここも繊細な行動で、もしここでメガネをさらに斬っていたら、むしろ隊員たちは岩間の死のショックから立ち直っていた可能性がある。つまり、リーダーでもなんでもないメガネが斬られたという事実は、次にみずからが斬られるかもしれない可能性を示唆するのである。ショック状態は100人という有利から意識を剝離した。だがここで次に斬られるのはじぶんかもしれないという危機を感じれば、抵抗の意志をよみがえらせる可能性はじゅうぶんあるのであり、そうなれば、彼らが100人という有利について思い出すことになるのはほとんど必然である。岩間はリーダーであったために切られた。ということは、集団から突出した「名前のあるもの」が斬られるということである。もしここでメガネを斬れば、そうでないもの、つまり「名前のないもの」でも斬られるかもしれないということになるのだ。

 

 

しかしメガネは斬られなかった。ショック状態はある程度維持され、なおかつ「名前のないもの」は斬られないという前例までできたわけである。この流れでは指揮官や特攻としては、もう誰も武蔵の前に名乗り出すことはできない。

 

 

そして、次に「仏さんを・・・」というくだりである。相手は宮本武蔵で、その技量をいま彼らは完全に理解した。その状況で、武蔵はまるで非当事者であるような口調で、諭すように隊員たちを誘導する。このセリフは、隊員たちの緊張をややゆるめるものである。ふつう戦場で、まだ相手がたくさん生き残っている状態、そして交戦している状態で、あちこちに横たわる戦友たちを回収していく余裕はないだろう。それはふつう交戦状態が落ち着いてからされることにちがいない。つまり、武蔵がこういうことを提案することによって、まるで戦闘はすでに終わっていると示されたかのような状態になるのである。隊員たちにはそれをそのように受け止める準備が整っている。なぜなら、現場の流れを握っているのは武蔵なのであり、彼らも、次に武蔵がなにをいうか、なにをするかにだけ注意を向けていたからである。能動性に完全に欠けた状態で、彼らはそれをそう受け取ってしまったのだ。

そして岩間の死体をじっさいに片付けようとしたところで、武蔵の戦略は完了した。次に武蔵がなにをするか、という点だけに左右される彼らにとっては、もはや指揮官は武蔵なのであり、彼が道をあけろといえば、したがう以外の選択性は浮かんでこないのである。

 

 

そうして武蔵は100人の動きをコントロールし、この状況を切り抜けた。勇次郎だってかつてアメリカ軍とたたかったときは息をきらせていたし、すごく余裕があるという感じではなかった。武蔵だって、100人とたたかえば、負けはしないだろうが、重傷を負うかもしれないし、そのあとに本部レベルの強者がひかえていたりしたら、生還も危うい。これと正面から構える動機が武蔵にはない。対国家ということを考えれば、とりあえずは押さえ込むことができない、アンチェインであるという既成事実をつくってしまうほうが現実的なのだ。その結果がこの、のらりくらりというか、つかみどころない展開につながっていったのだ。

 

 

さて、では「戦」という観点からすると、武蔵の行動はどう分析できるだろう。戦争とは憲法と憲法の衝突で、相手の抱えているルールをこちらのものに書き換えようとするものだ。その意味では、みずからの武を貫こうとする戦国ルールの武蔵と現代のルールは相容れないわけだが、とはいっても、武蔵は現代の日本を戦国ルールにしようとしているわけではない。その意味では、これは独立戦争のようなもので、武蔵はただじぶんの知っている戦国ルールと、それに基づいて構築された「宮本武蔵」というものを貫こうとしているだけで、それを認めないものを認めない、阻もうとするものを斬る、それだけのことなのである。もし武蔵が、戦国ルールこそが人間の生きる道である、というような主張から「戦」をしかけるのであれば、彼は100人を斬る必要があったかもしれない。しかしそうではない。武蔵は、じぶんの生き方を阻むものを斬る、という待ちの姿勢でじゅうぶんなのである。もし仮に、徳川のお金パワーとかで警察がなにもいってこないのであれば、武蔵はじぶんのルールを貫けるので、戦をする必要はなかったかもしれない。

 

 

ただこの点にかんしては、武蔵の動機がそれだけではないだろうということもある。それは、これが本部の敗北後のはなしで、おそらく孤独を自覚したあとのことだということだ。本部のいう武蔵の孤独は、武蔵の真の姿を見ることのできるもの、見ようと努力するものが、いまの日本には本部しかいないということだったと考えられる。それは武蔵の実力を誰もが見誤ってきた事実と直結している。彼らは五輪書などから想像する「神話」的武蔵、イメージの武蔵を“説明”するものとして実物の武蔵を見てきたのであり、だからそこからもれた行動を捕捉することができなかったのだ。同じことが、武蔵の本質的な動機である富と名声ということにかんしてもいえる。もしこのまま、相手の見誤りに任せて勝利を重ねても、そのあと得られる富と名声は武蔵の獲得したものではなく、歴史的に増幅し、また歪んだイメージの宮本武蔵のものである。武蔵は本部だけがじぶんのことを理解していると、そのことを通して、じぶんの孤独を悟った。だから、この時代で富と名声を得るためには、あらたに実物の宮本武蔵として自律していかなくてはならない。それが彼を光成の家から旅立たせ、「戦」などという仰々しい形容で警察に対峙させたのである。しかし問題なのは、戦国ルールを抱えたままの武蔵が、富はともかく、彼が想像するような名声を現代において得ることはできるだろうかということだ。名声の質は価値観に依存している。暴力がよしとされない社会では、武蔵の武は少なくとも表立っては評価されることがない。としたら、彼がおこす「戦」は、受動態の「認めないものを認めない」だけではたりない可能性もあるのである。それこそ、戦の意味そのままに、国家のありかた、社会契約を書き換えるレベルのことをしないと、名声にかんしては手に入らないかもしれないのだ。

しかしいまのところは、武蔵もそこまでにはいっていない。もしこのまま警察が次の作戦に出ずに、なんとなくあいまいな状態になれば、武蔵の受動態の戦は武蔵の勝利ということになるだろう。しかしそれでも、戦国・江戸時代のような名声は訪れない。裏社会では歓迎されて富は手に入るかもしれないが、それもあやしい。そろそろ本部のフォローがほしいところである。