今週の刃牙道/第144話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第144話/切れぬもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋の上で対峙する宮本武蔵と100人の重装備の警官たち。片岡輝夫似の隊長らしき男は今回岩間という名前だと判明する。これで「片岡輝夫似の男」と書くべきところをうっかり「片岡」とだけ書いてしまうこのところの書き間違いがなくなるぞ。

彼らは橋の下で大塚が殺されたととらえている。以前12人の警官が武蔵の相手となったとき、武蔵はまず大塚の目をつぶしてこれを一時的に戦闘不能にするところからたたかいをはじめていた。日本国では警官といえども銃をあつかうことは日常ではない。発砲に際しては、訓練されているものでも、いっしゅんの、若干のためらいがあるはずである。おそらくそこのところを武蔵は見抜いていた。彼らが発砲できるのは、大塚のような作戦の中心にいる人物が責任を負うかたちで命令をくだすからである。命令だから、正義だから、仕事だから、という種類の大義は、個人が背負いきれないような代償を払わなければならない行動を正当化することができるのである。武蔵が大塚を先につぶしたのは正解で、12人はなすすべもなく負けてしまったのだった。今回も同様に大塚を失ってしまっているが、現場の隊長らしき岩間は残っているし、大塚の死はむしろ彼らの闘志に着火したぶぶんもあるにちがいない。まあ、同様に殺いでいる可能性もあるが。

 

 

そこでまず三人の人間が前にでて、圧縮ゴム弾を発射したのである。スペックのときには鉄鋼弾が使用され、スペックはこれの集中砲火をまったく問題にしていなかった。かたさとしては鉄鋼弾のほうが当然すごいだろうけど、どうだろう、ゴムにはゴムの利点があるのだろうか。

ともかく武蔵は同時に発射されたこれを一挙動で斬ってしまう。同時に発射はされたけど、距離や持ち手の身長のちがいもあってか、とんでくる高さやタイミングはずれている。これをいちどの抜刀で斬ってしまうのだから神業である。まず三つのうちふたつを同一直線状でとらえて斬り、返した刀で残りを斬った感じだ。武蔵は矢のほうが速いという。しかし、彼はゴム弾の速さがどの程度のものであるのかは知らなかったはずだ。したがって、発射のタイミングなどを見切って動作を開始する、というようなことができない。発射され、弾を視認してから刀を抜いているにちがいないのだ。矢が速いといってももっと距離がありそうなものだし、矢のおおよその速度というものも武蔵は熟知しているだろう。だから難易度としては今回のこれのほうがずっと高いんじゃないかとおもう。

余裕を保ったまま歩み出る武蔵を見て、岩間が、どうやらとっておきだったっぽい作戦に出る。岩間の合図で警官たちが左右にわかれ、背後にあった大型の車輌が武蔵の目に入る。最初に彼らが集合したときには少なくとも2台以上の車が見えたが、いまはこれしかない。

そして、この車には放水装置があるようだ。切っても切れぬものを用意したと。以前語られた、植芝盛平を捕えるのに当時の警察がじっさいにたてたとされる作戦のひとつに、この放水は含まれていた。水をぶっかけて、網を放って、大勢で棒で殴る、とかだったかな。水は強風みたいなものだから、つかまえて制止することもできないし、その量が多ければ回避することもできない。そうこうしているところに網をかけて不自由な状態をつくってしまい、あとはとにかくめっちゃ殴ると。

だが見たところ車は一台しかない。砲手というか、これを操作して狙うものがいるのかどうかよくわからないのだが、一台では回避もたやすい。これは武蔵の狙い通りかもしれない。戦場が橋の上になっているのは、そもそも武蔵が橋の下にいたからである。人数や兵器の規模が想定外であっても、橋の上でたたかえばかなりそれを制限することができる。だったら警察は2台車を並べるべきだったのかもしれないが、あるいはそうすると、彼らに逃げ道がなくなってしまうことにもなる。彼らとしてはやむを得ない選択で、けっきょくは戦場を選んだ武蔵の勝ちというところかもしれない。

例の脱力ダッシュで低姿勢になった武蔵は放水をかわし、そのまま一瞬で車に到達、あれよあれよという間にフロントガラスも飛び越え、放水砲の横にやってきてしまう。しばらく様子を見ていた武蔵は行動を決め、その場で跳躍、右手の人差し指で保持した例の構えで、上段からからだを載せるようにして刀を振り下ろす。空手の正拳突きで、構えているときは握りをゆるくし、打ち込む瞬間に強く握ってねじ込むのと似た要領かもしれない、刀は武蔵の強い握力によって手のなかで加速するのである。

武蔵の刀は車のいちばんしたまで通り抜けたようだ。つまり、武蔵は放水銃だけでなく、それを載せた車の前部も真っ二つにしてしまったようである。どういう仕組みになっているのかわからないが、その結果として放水はふたつにわかれてしまう。武蔵の刀は水までも切ってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴム弾、放水と、連続して武蔵にはまるで通用しなかったわけだが、いちおう攻撃の内容としてはパワーアップしている流れっぽいので、まだわからない。なにしろ現状では100人という有利をまったくつかっていないので、警察側にできることはまだまだたくさんありそうである。

気になるのはやはり岩間のリアクションである。とりわけ武蔵が放水をかわし、車のうえにまで駆け上がるところだ。岩間はここで「おぉ・・・ッッ」と、最大トーナメントの観客が選手の超絶技巧に衝撃を受けているときのような反応をしているのである。放水は植芝盛平のはなしもあって、おそらくかなり有効な方法なのだろうけど、うえでみたように、武蔵は戦場選びの時点で警察の先をいっているので、結果としてはそれも最小限のものに抑えられてしまった。広い平野で、八台くらいで囲んで、しかも各放水砲にはきちんと砲手がいて、というような感じだったら、武蔵もたぶんかなり苦戦したはずである。それが一個じゃぜんぜんだめだ。それは岩間だってわかっていたはずである。橋の上では、あんな大型車輌じゃ囲むことはできない。隊員たちの逃げ道も考慮して、しかたなしに1台という選択をしたはずなのである。それを、あっさり回避する武蔵を見て感嘆の声をあげてしまう。ここには任務外のあこがれの感情が見て取れる。現場の指揮者としてすべきことをクールに考量する、ということを、「あの宮本武蔵」の動きを目撃したことによって生じたひとりの強いんだ星人としてのあこがれが、上回ってしまっているのである。何度もくどいようだが、岩間のこの立ち位置は、警察側にも、それどころか武蔵にも、なにも生み出さない。前回考えたように、武蔵を歴史上の実物の武蔵、「あの宮本武蔵」とあつかっているうちは、バキたちでさえが実力を見誤るのであり、それからすればほぼ素人の彼らにおいてはここに偉人を相手にしたときの躊躇さえ付け加わるのである。

武蔵からすれば、それによって相手のちからは半減するわけだが、実はそんなことを彼は望んでいない。それではいけないといくつかの点で確信したからこそ、彼は「戦」におもむいたのである。依然として彼らが武蔵を「あの宮本武蔵」とあつかい続けるのであれば、武蔵は光成のもとで「あの宮本武蔵」という見立てのまま実力を見誤り続けるバキたちと戦っていればよかったことになってしまう。岩間の認識のままでは、警察も武蔵も、このたたかいでなにも「得」をしないのである。

 

 

今回の放水での攻撃は、明らかに以前描かれた植芝盛平のエピソードを踏まえている。これは作者が渋川剛気のモデルである塩田剛三から直接聞いたはなしだそうで、合気道の開祖である植芝盛平というのはその塩田剛三の師匠なのだ。刃牙道に入ってからの特徴のひとつとして、漫画内ではなく、わたしたちの世界に実在している人物が多く登場するようになったということがある。植芝盛平もそうだし、塩田剛三もそうだし、さらに遡って武田惣角なんてひとも出てきた。植芝盛平と塩田剛三にかんしては、梶原一騎的手法というか、作者が物語の外部からコメントを寄せるようにして、そしてまた物語内部の展開に箔をつけるものとして描かれたものだが、武田惣角はふつうに渋川剛気に至るまでの道のりのひとつとして、作中の文脈に属したかたちで描かれていた。もちろん、大山倍達とかモハメド・アリとか、作中にそれをモデルにしたキャラがいながら名前の出たことのある人物というのはこれまでにもたくさんいたが、じっさいに物語に接続するものということになるとこれらがはじめてのことだったのである。そしてもちろん、いうまでもなく宮本武蔵も実在の人物である。

これについては何度か考えたことがあるが、プラトンのイデア的なとらえ方をするとわかりやすい。まず、わたしたちの生きているこの現実世界も、ある物語の展開によって形成されている枠組みのなかにあるものだとしよう。そして、ここで人物の個性を捨象した素体のようなものが生きる「原物語」のような世界を仮定してみよう。わたしたちの世界には塩田剛三という、泣く子もだまる合気道の達人が現実に存在していたことがあり、渋川剛気というのはそれをモデルにしている。しかし、これは描き方の方法論のおはなしである。現実世界に属する作家が書いた物語を、現実世界に住むものが、現実世界の原則に則ってその方法を解釈したとき、渋川剛気は塩田剛三をモデルに造形されたものだと推測されることになる。しかしここに原物語の概念を導入すると、そういうことではなくなる。まず、なにものでもない素体としての個人がいて、これが現実世界において翻訳されたとき塩田剛三となり、漫画世界において解釈されたとき渋川剛気となるのである。

このように解釈したとき、漫画世界に「実在の人物」が登場するというのはどういう状況と考えられるだろうか。ちょうど渋川剛気が出てきたあたりだったか、郭海皇は武術の到達できる段階的最高位について、危うきに近寄れずという、渋川剛気の体現していた究極の護身そのままの状況を語っていた。渋川剛気も郭海皇も漫画内の人物ではあるが、中国武術と合気道という、ほとんど関係なさそうな両者の頂点にいるふたりがほぼ同じこたえにたどりついているというのは示唆的である。イデア的な素体は、物語が成立するにあたって必要とする空気の濃度のようなものを通過したとき、しかるべき姿に解釈されて、ある個人に変容することになる。しかし、ある種の人物、またある種の事象は、どのような濃度の空気を通過したとしても、変化することがない。合気道と中国拳法の到達する場所が同じであるというのは、それを示しているようにおもわれるのである。人物でいえば、武田惣角であり、宮本武蔵である。彼らは、素体のまま、どの物語に翻訳されても、同じ姿で輪郭を結ぶことになる。存在が究極の達成であるので、渋川/塩田のような、物語の空気を通過しておこる偶然的な振動さえそこでは発生しない。武蔵はどんな時代、どんな物語であっても、必ず武蔵なのである。

 

 

このことによってなにが起こるかというと、わたしたちは現実世界のものさしで作中の出来事がはかれるようになる。オリバが巨大なバイクをぶん投げたからといって、現実世界の同種のバイクからその腕力を推定するということはできない。いやできるけど、それが正確なものであるということを確認することは厳密にはできない。なぜなら、作中で示されている単位にはじまる広くものさし全般が、わたしたちの握っているものと同一であるとはいえないからである。彼らはひょっとしたら全員身長30センチくらいのものたちであるかもしれない。これは原理的な、神経質で厳密なおはなしである。そんなことを言い出したら漫画のリアリティというものは崩壊してしまうのだし、もちろん読んでいて「ひょっとしてこのひとたちみんな30センチくらいの大きさなんじゃないか」と感じるということではない。その点バキ世界のリアリティはたいへんなものである。これは、原理的にはそうとらえることも不可能ではないというはなしだ。

作中人物を計るものさしというのは、単位で計測できるものばかりではない。たとえば、車にひかせて耐久力を示したり、マシンガンの攻撃を跳躍でよけたりというようなことも、強さ表現である。勇次郎に向けて撃たれるマシンガンの弾を、わたしたちは幸福な誤読を経由することによって、リアリティを添えながら受け取り、翻って勇次郎の強さに驚愕することになる。しかし、宮本武蔵は実在の人物である。というか、わたしたちの知っている歴史上の宮本武蔵と漫画内の武蔵は「同一人物」なのである。漫画のなかにいる人物にゴム弾を一斉射撃することはできないが、現実の人物ならできる。そのようにして、漫画内で武蔵に起こったことはすべて現実世界でも現れうるものになっていったのである。このことで一種の転倒が起こる。バキはリアリティを探究した格闘漫画ではあるが、それでもやはり漫画である。水の上を走るし、雷の一撃にも耐えるのである。しかし現実にはそれらは不可能なことだ(不可能ですよね?)。かくして武蔵は、その存在が絶対的なものであるがゆえに、現実的な攻撃を引き寄せることになるのである。では現実的な攻撃とはなにか。どの世界でも姿が一定である武蔵が凡人であるわけはない。そのようにして発掘されたのが植芝盛平のエピソードなのである。バキはこれまでも人間がなしうることの限界に、その世界のルールに則ったしかたで挑戦してきた。植芝盛平への放水から投網の作戦は、じっさいには実行されなかったという。そうした戦法こそが武蔵にはふさわしい。刃牙道は徹底的に現実原則の則った世界で最強は持続しうるのかという、そういうことに挑戦した漫画でもあるのかもしれない。