今週の刃牙道/第121話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第121話/傷跡

 

 

 

 

 

 

 

ペイン博士が「危険」を語る。

「危険」とは我々を脅かすもの。我々の肉体、精神、あるいはその両方を脅かすもの、それが「危険」なものであると。「危険」は、なんらかの現象や物体の状態を形容するときにつかわれるのがふつうで、「危険」というものの実体があるわけではない。たとえばペイン博士は台風で高波が寄せる埠頭や溶岩に煮えたぎる火口をあげるが、それじたいの別名が「危険」なのではない。人間がそこに行くことによって身体が脅かされるというその状況を、ふつう「危険」と説明するのである。

「危険」は人間やそれに類するものがかかわらなければ発生することがない。しばしばひとは、そういう危険なところから生還したものを英雄視することがあるという。ペイン博士がいっているのは、Tレックスの口のなかから生還したピクルのことである。台風や火山に負けず劣らず、Tレックスの口のなかも「危険」である。当たり前に考えると、台風や火山が宿しているエネルギーと、巨大ではあっても単体の恐竜がもっているエネルギーでは比較にもならないが、くりかえすようにここでいっているのは「危険」の度合いである。それは人間がかかわって、感想を述べることで、はじめて発生する形容なのだ。人間の身体が脅かされるという点でいえば、Tレックスの口の中は火口付近なみに「危険」なのだと、こういうおはなしである。

博士の想像図かとおもわれるが、描かれるのははじめてかもしれない。ティラノサウルスに噛まれている際のピクルの絵だ。さすがのピクルもティラノサウルスにバクンといかれたら即死だろうとおもっていたが、どうもこれは、ふつうにイッたらしい。だが、一撃では死ななかった。顔を含む状態の左側斜め半分が口のなかに入っている状態で、ピクルは噛まれている。だがそこから、足をねじこみ、手をつっぱり、スクワットでもするような要領で顎のなかにからだを入れてティラノサウルスの口をこじあけていったのである。ティラノサウルスにまともに噛まれて死なない・致命傷を受けないばかりか、そこからこんな力技をしていたのね。しかも、おそらくピクルはこのあとティラノサウルスに勝利しているはずなのだ。さらに加えていえば、たたかいの最中はダメージを無視できても、病院も治療薬もないこの時代に、ピクルがこの傷を完治させているということである。やはりターちゃんばりの回復力があったとしかおもえぬ。

 

 

 

武蔵の前にいる現代のピクルは、バキ戦でのみ見せた、関節をくみかえる最終形態に変わったところだ。このからだになるとき、ピクルのからだにはそのティラノサウルス戦で受けた傷が浮かび上がる。前回考察したように、この傷跡は、他者を内面に蓄積しないピクルにとっては、それほどの危機を乗り切ったという自負心のあらわれである。バキ戦でも、相当危機的な場面でこの体型になっていた。つまり、これはピクルが追い詰められているということでもある。ティラノサウルスに捕えられたときなみの危機が訪れたとき、それはすなわち「じぶんは同等の危機を乗り越えたことがある」ということを思い出してみずからを鼓舞しなければならないときだ。その記憶が、なんでもなかった古傷が意識しはじめた途端にうずいたりかゆくなったりするみたいに、上体の傷をよみがえらせる。そして、その危機を乗り越えるための、ピクルがもっともパワーとスピードを発揮できる体型が、これなのである。だから傷跡と最終形態はセットなのだ。

 

 

この体型を知っているのはこの場ではバキと光成だけだ。その他のひとたちはみんな理想的なリアクションをして驚いている。たんに姿勢が変わるだけでなく、ロボットの変身みたいに大きい音をたてて変化してるっぽいから、そりゃあ、はじめて見たひとはびっくりするだろう。目の前にいるひとの首がいきなり音をたてて前に落ちてジャミラみたいになったら、とりあえず数歩は下がって距離をとるだろう。

その変化で傷口もとじはじめる。治っているわけではないようだが、筋肉の緊張で傷口もしまっているのだ。

武蔵は感想を述べつつも、しかしあまり驚いてはいない。「忍び」でもここまでは化けんと。いちおう比較になる程度には、現実の忍びもこんなようなことができたということだろうか。武蔵はピクルはもはや人間ではない、妖怪(もののけ)であると判定する。が、戦法に変化はない。刀で切れることに変わりはないし、血も出る。やることに変わりはないのだ。

武蔵は「飛騨の大猿」のことを思い出している。むろんこれは夜叉猿である。武蔵のような超メジャーな侍以外のたいてい武士の最期がよくわからないのは、みんな夜叉猿に挑戦してやられてしまったからである、というようなはなしが、当時されていた。てっきり武蔵は夜叉猿とはたたかっていないということかとおもっていたが、冷静に考えるとそうはいっていないわけである。それどころか、武蔵はふつうに無傷で夜叉猿の首を飛ばしていたっぽい。夜叉猿も、安藤さんがふりおろすサーベルをはねかえすほどに頑強なからだではあったわけだし、骨を断つことのできないピクルはやはりふつうではないとおもわれる。それとも、夜叉猿もやっぱりからだのほうは斬れなかったのかな。そういえば今回武蔵はピクルの首を斬るつもりでいるはずだし。

 

 

左手をふりかぶって襲いかかるピクルを、武蔵がすばやくむかえうつ。両手首と左足首を一気に斬ってしまった。しかし傷は浅く、切り落とすことはできない。というか血もほとんど出ていない。筋肉の硬直が出血を抑えているのだ。そのことに武蔵も気づく。だが、むしろ武蔵はそれを喜ぶ。それはつまり「斬り放題」だと。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

武蔵の表情を見てピクルの顔に汗が流れる。ピクルが筋肉で傷口を閉じてしまっても、ターちゃんレベルの回復力でもないかぎり、出血は完全にはとまらないだろうし、「放っておけば武蔵の勝ち」ということは揺るがないだろう。だが微視的にいえば、まだピクルは元気に動いており、武蔵は決定打を欠いている。ピクルも死ぬかもしれないが、ピクルが武蔵を死なせることも、まだ不可能にはなっていないわけである。

しかしその状況を武蔵は笑う。いや嗤う。「嗤」という漢字みたいな顔して笑う。ピクルのほうは、侮られていると感じて、ティラノサウルスさえ倒したじぶんの身体のポテンシャルを思い起こし、奮起したところである。つまり、それくらい本気の本気で武蔵に襲いかかっている。しかし相手は、まだまだ斬れる、つまりこのたたかいを続けることができると、喜んでいる。ピクルはその温度差に引いているのである。

 

 

武蔵は前回、もうこれだけ頑丈だと、首を斬るしかない、みたいなことをいっていた。だから、じぶんのあたまに喰らいつけと挑発した。そうすることで顔を差し出させて、これを切り落とすつもりなのかとおもったが、そうならなかった。というか、ピクルじしんが今回噛みつきにいっていないということもある。武蔵はその瞬間を狙っているのだろう。また、今回の最終形態は、挑発をした武蔵も予想していなかったものであるから、今回はとりあえず様子を見たということもあるかもしれない。ふつうの接触でからだの内側をねらうのは危険が大きい。じっさい武蔵はそれで肩を食われている。余裕ぶってる感じを見せつつ、戦略的に行動しているようだ。

 

 

前半のペイン博士の説明は、このひとはいつも科学者のわりに感情的なことをいうから、あまりあてにならないが、しかし武蔵の「危険」性がどのようなものかをむしろ際立たせているかもしれない。火山や台風が「危険」なのは、「人間にとって」という但し書きつきである。酸素のない宇宙空間は生身の人間にとってそれ以上に「危険」だろうけど、ふつうのひとが宇宙空間にパジャマのまま放り出されるなんてことはないので、誰もこれを「危険」なものとは認識しない。宇宙空間それじたいに「危険」という「性質」が、科学的な形容として添えられることはないのだ。台風も火口も、ティラノサウルスの口のなかも同様である。それらがそれじたいで「危険」であるということはない。人間がいけば、人間にとって危険になる。

それに対して武蔵の危険さというのはどういうものだろう。ひとつには、彼のつかう技術、そしてそれが表現される刀という道具が人工物である、みずから危険たろうとした結果だということである。現代では刀に美術品としての価値を見出すことも可能だが、それはものさしで背中をかくようなもので、価値としては副次的なものだろう。基本的に刀などの武器は、ひとを殺傷することを目的として作られている。だから、これらのものは存在のなかにひとの身体をおびやかすなにか、つまり「危険」が含まれていないと、存在する意味がないのだ。どっからどうすべらせても髪の毛一本切れない、そんな刀は存在することができないのである。武蔵の技術も同様である。それは、ひとを殺傷し、みずからは生還する、そのためだけに考案されてきたものなのである。

ティラノサウルスの口のなかは人間にとって非常に危険であり、もしそこから生還することができたなら、彼は英雄となる。それはまちがいない。だがそれは、ある意味では、存在しなくても済む英雄である。台風や地震は自然の災害だから、免れることはできない。そういう予期せぬ事態としての危険はここでは除かれる。とりわけピクルの場合は、みずからティラノサウルスに挑むような男なわけなのだ。台風も火口もティラノサウルスも、人間がそれを回避することさえできれば、「危険」になることはない。この意味での「英雄」は、物事がそれじたいとして存在しているかぎりではあらわれてくることのないものである。物事が、その役割のみを果たしている一種の自然状態においては、「英雄」はあらわれない。「そんな危険をおかすなんて」という人間の解釈が入り込まないかぎり、英雄は存在することができないのだ。しかし武蔵は最初からその存在が危険なのである。みずから積極的に接近して、英雄たろうとするまでもなく、武蔵はすでに危険なのである。ピクルにとって同程度のダメージを与えるものであったとしても、武蔵の刀とティラノサウルスの牙はそこが異なっている。

 

そして、ティラノサウルスの牙を克服したピクルが武蔵に勝てないとしたら、原因もそこにしかない。それは「不自然さ」というような形容もできるかもしれない。要するに、武蔵はふつうではないのだ。ティラノサウルスは、自然的必要があって、強力な牙をもっている。それは人間にとって危険なものである。だからピクルはそれに挑む。しかし武蔵の刀の強力さは自然の要求するものではない。さらにそれを楽しんでしまうその心性は、もっと不自然なものである。そんな感情は、勝利するという意味においても、またたんに生還するという本来的な闘争の意味においても、必要のないものだからである。現代的な武道の感覚でいっても、せいぜいむかしの勇次郎がそういう衝動を見せていたくらいで、こんな心性はなかなか見られない。勝つなり生還するなりすれば、それで闘争の目的は達成される。しかし存在そのものが危険な武蔵はそうではないのである。