今週の闇金ウシジマくん/第400話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第400話/逃亡者くん⑫






記念すべき第400回は3度目のドラマ化、映画化情報で巻頭カラーだ!調べてみると、前の300話というのは洗脳くんで、威張り散らすカズヤにトイレの床をなめさせられている重則を見て神堂が爆笑している回だった。もうそんなになるのか・・・。洗脳くんはいま思い返してもストレスが大きく、たぶん、理解できないものをそのままにしておくことがもっとストレスであるということもあって、考察もちからが入っていた。おかげで気分悪くなったり、嫌な夢を見て眠れなくなったりしたものだが、それからもう100話になるんですね。

そんな洗脳くんがドラマ化するということである。今回は神堂やまゆみなどの写真も掲載されている。光宗薫っていう女の子、ものすごいやせてるけど、これ普段からこうなのかな。どちらの側であれ、あんなはなしを演じるなんてことは、考えただけでむかむかしてくるし、激ヤセしても不思議ではない・・・。でもまあ、ドラマの例の軽さはたぶん変わらないとおもうので、テレビ向けにうまくやってくれているとおもう。同時に登場人物には佐古っぽい男もいる。佐々木心音はこれ、家出放浪少女って書いてあるけど、なんの役なのかな。佐々木心音はかなりセクシーなこともOKなので、美奈とか愛華とかの変奏かな?このあたりはたぶん、洗脳くんにかかりきりになってしまわないよう、つまり視聴者とドラマのあいだに明確な線を引くよう、多少強引にでも別のはなしを組み込もうとした結果かもしれない。ほかに、出会いカフェくんのニューリッチたちがJPにしようとした目潰しみたいなやつの場面もあるが、これはたぶん洗脳くんの拷問のいちぶだとおもわれる。読んでいるひとであればわかるような細工があちこちにほどこされた、やはりいつもどおりの作品になっているっぽい。

それから映画の内容も発表されている。まずパート3のほうはフリーエージェントくんと中年会社員くんをやるということである。これはなかなかおもしろいチョイスかもしれない。中年会社員くんは、組織のなかでどう生きるのか、組織で生きることを強いる社会でどう生きるのか、というおはなしだったが、フリーエージェントくんは要するに「もう組織なんかで生きるのはやめましょう」というおはなしだったからだ。組織というのは人間関係のことで、殺しあわない人間関係というのは法を要求する。だから、中年会社員くんが遵法的であるいっぽうで、フリーエージェントくんは必ず常識外の存在となるのであり、それはすなわち、ヤンキーくんのアウトロー的ありかたと相似形なのである。彼らはどちらもきちんと成り立っている法があったうえでこそ存在できる相対的な価値なのだ。だから、フリーエージェントくんの主人公は仁だった、というのが当ブログの考えである。

気になるザ・ファイナル、映画最終章は、ヤクザくんではなくヤミ金くんということだ。丑嶋くんの最後を描くのではなく発端を描くわけか。ということは鰐戸三兄弟が出てくるんだね。


さて、久々の逃亡者くんだ。マサルを見つけた戌亥なのだが、警戒心が強くてうまく接近できない。マサルのバイクにGPSをつけちゃえばそれでほとんど仕事完了なのだが、それができない。しかたないので戌亥は客の車にGPSをつけた。客はスマホゲームに課金しまくりの聡子である。

戌亥は、さっきの金融屋を紹介してくれないかと聡子に接近する。連絡先を教えてくれたら1万わたすと。先ほどとは場所も変わっているし、もしマサルとのやりとりを見ていたのだとしたら、つけてきたことになる。聡子は警戒するが、しかしまあ、矛盾はないといえばない。金がほしい男が、金の受け渡し現場を見て、聡子に接触しようとしただけなのかもしれない。それに、聡子は金がない。なにか悪いことをするわけではない、ただ紹介するだけで現金がもらえるのだから、断る理由はないかもしれない。

無事高額の融資を受けられたらもう2万というはなしだが、聡子はあまり高額だと闇金は貸してくれないということを知っている。だからしたたかに先に3万を要求する。戌亥の設定としては、たとえば10万借りるとしたら、3万聡子に渡して、残り7万を手にすることになる。ちょうど4万だけ金がないということもあるだろうし、ここも、まあ矛盾はない。

戌亥はまた靴ひもを結びなおすふりをしてGPSをはずす。そして3万をわたし、そのかわりいますぐ連絡して紹介してくれという。金を借りたい知人がいると。


3時間後に那覇の鮮魚市場の駐車場にマサルを呼び出すことに成功した戌亥は、撮影したマサルの写真を添付して丑嶋に報告する。戌亥としてはそこでマサルのバイクにGPSをつけて、職場や家をはっきりさせるつもりのようだ。戌亥も仕事なので、違法行為しまくりの今回の仕事で通常の3倍の額、「輩価格」もらうと丑嶋にいう。丑嶋も知らない言葉のようだが、ふつう輩というのはヤクザものを指すので、そういう、アウトローを相手に手段を選んでいられないときの価格をそう呼ぶのだろう。ふつうは、GPSを車につけるのでも、それで傷をつけたら器物破損になってしまう。ヤクザものを追跡するのも危険な仕事である。そういうリスクをおかしているから、高いのだ。

戌亥はこれからもマサルを追跡するつもりなのだが、丑嶋はなぜかマサルの身柄をおさえに出発する。戌亥は場所だけ伝えて、その後丑嶋がどうするべきかはいっていなかったが、じぶんがどうするつもりかは伝えている。いまここでマサルに逃げられてしまったら、つまり丑嶋たちが沖縄にいるということがわかってしまったら、さらにその所在を知ることは難しくなってしまうかもしれない。戌亥としては職場や家など、もっと詰めてから行動に出たいところだろうが、丑嶋は出発してしまう。


出勤してからもまだ暇っぽいのどかは、仲間にやんわり帰っていいといわれている。待っていれば指名もあるかもしれないが、たぶん、客それじたいの出入りから、今日はもうなさそうだなという判断なのだろう。それを聞いて杏奈も帰ると言い出す。自由だな!そんなかんたんに帰りたいときに帰れるのかよ。仲間もしかたなく承諾する。前回のスカトロ男の件で、1時間で7時間ぶん稼いだうえ、罰金50万もゲットしているのだ。じゅうぶんだろう。杏奈は、奢るからと、のどかを飲みに誘う。地元の飲み屋を教えてくれと。


3時間後にマサルがくる、ということなのにすぐ出発してしまったので、まだ2時間もある。マサルが逃げたときのために、丑嶋と柄崎は市場を歩いて周囲を下見しておくことにする。にぎやかな市場を歩きながら、丑嶋が急にしんみりと柄崎に語りかけはじめる。お前をこんなところまでつきあわせてしまったなと。柄崎は、聞こえないふりか、あるいはなんでもないふりをして、そのことについては返事をせず、沖縄の魚がカラフルであることを無邪気にいう。

丑嶋は売られている魚たちに目を落とす。死んだ魚の目。移動した丑嶋は、なんだろう、なんらかの理由で売り物にならなかった魚がつめこまれた箱の横につったって、沈んだ表情をしているのだった。




つづく。




物思いにふける丑嶋は、柄崎の車に戻ろうという呼びかけに「あ、ああ」と応じている。これは範馬勇次郎が郭海皇のパンチになにかを予感してよけたときに出た汗と同等に珍しい描写である。完全無欠、巨体と鋼の筋肉、ひと目でなにもかも見抜いてしまう洞察力と、一貫した思想が生み出す迷いのなさ、つまり全能の丑嶋馨、そういう、読者や柄崎目線の普段の社長からは考えられない反応だ。

じっさい、今週の社長はなにかおかしい。何度読み返しても、戌亥はGPSをマサルのバイクにつけて職場と家を見つけ出すといっている。たしかに、丑嶋には時間がない。今日が二日目だとしたら、明日には出発してしまうわけだから、職場を見つけ出してまちがいなくマサルを捕らえることのできるお膳立てが済んだとしても、それでは出発前に荷物もってマサルと対峙するなんてことになりかねない。しかし、いまここで急いでマサルに会うことは、同時にリスクもある。ここで戌亥がGPSをつけられないまま万が一マサルを逃してしまったら、たぶんもう見つけられない。いまは、警戒心が強いといっても、丑嶋が沖縄にいるという確信がマサルにはまだないわけである。しかしいるとわかったら、本郭的に隠れてしまうかもしれない。そうしたら、出発前に急いで、という状況にさえならないだろう。もし駐車場でマサルを捕まえるなら、戌亥と連携し、戌亥がGPSをうまくつけることができたら連絡をもらい、飛び出す、などという作戦をたてたほうがよいはずである。しかし丑嶋は出発してしまう。雰囲気的には、飲みに出かけたのどかと杏奈もその場に遭遇するのではないかという感じもする。杏奈はカウカウとは直接のかかわりはなかったはずだが、店長と懇意にしていて、しかもあの風貌なので、さすがに丑嶋のことは覚えていそうだ。なにかこの女子ふたりがよけいなことをしてしまいそうで気が気でない。

それから市場での弱音である。これまでも、回数こそ少ないけれど、丑嶋が柄崎に本音のぶぶんをさらし、感謝したりしたことはあったかもしれない。しかし今回はじゃっかんニュアンスが異なる。「お前をこんな所にまで付き合わせてしまった」である。「こんな所」というのは、目の前の市場であり、沖縄であり、つまり東京から遠く離れた異邦の地である。もっといえば、本来いるべきではない、いることじたいがマイナスであるようなところ、ということだ。これは、ピンチを救ってもらってめずらしく「ありがとう」というようなこととはちがう。「ありがとう」ということばは、相手の存在そのものを言祝ぐことばであり、またたとえば「ごめんなさい」という謝罪のことばは、みずからの非を認めることで関係を修復しようとするポジティブな響きを孕んでいる。しかし、丑嶋のこのことばには、そういうものが見られない。ただ、事実をつぶやいているだけなのだ。

ここには、丑嶋の社長というありかたがもたらす責任感も働いている。カウカウは個々のありかたを尊重することでむしろチームの紐帯を強めることに成功していた。小百合の個性的な服装とか、加納や柄崎の特殊な性癖描写、それからもちろん丑嶋の「ウサ枕だようーたん」などは、彼らが彼らの個性を損なわないまま、また負担に感じないまま業務を続けることができているという描写だったと考えられる。丑嶋は、おそらく少年期の経験から、父子の構造、「強いもの/弱いもの」の関係を忌避している。おそらくそれが彼のヤクザ嫌いにつながっているとおもうのだが、ともかく、彼は当初それをカウカウに導入しなかった。カウカウが柄崎・加納の、子分的存在とはいえ同い年の三人で創業されたのもそんな意識があったからだろう。カウカウにはヤクザに限らない父子の関係というものが当初はなかった。そのかわり、個々の考えや動機を尊重することで、一見するとばらばらだが信頼しあっているという不思議なチームを作り出していたのである。

そんななかで、柄崎の動機は「最強の柄崎」になることにあった。柄崎界最強になるには丑嶋社長という超人を支えていけばよいという結論に至った柄崎は、生涯を丑嶋に捧げることを誓う。そして、それを実行しようとする柄崎に、丑嶋はスタンガンをつかって「やめろ」という。これは社長命令である。だから、現場に向かった柄崎は命令違反をしていることになる。が、そもそもカウカウは会社の方針として「最強の柄崎」を支持しなくてはならないのだ。

それと同様にして、カウカウがそういうポリシーにある以上、丑嶋もその方針にしたがわなければならない。つまり、丑嶋も、丑嶋じしんの動機を尊重しなくてはならない。それはむろん、金を支配する立ち位置を保持するために創業したカウカウの象徴でいること、つまり「社長でいること」である。丑嶋は、柄崎たちの個性を尊重する以上、丑嶋社長でなくてはならないのであり、社長は社員を守らなくてはならない。つまり、今回丑嶋が市場でつぶやいていることは、「社長としての仕事をまっとうできなかった」ということなのである。丑嶋じしんの、個人の動機を貫徹することができなかったとくちにしているのだ。柄崎は丑嶋を支えることを目的としているから、社長が社長であれ丑嶋であれ、ついていくことにかわりはないから、社長のつぶやきに反応しない。もしこれを「謝罪」として受け止めるとすれば、柄崎はこれを「関係の修復」のための合図として解釈していることになる。修復するからには関係が壊れているはずである。だから、柄崎は反応しないというより、できない。なぜなら、柄崎的には丑嶋との関係は壊れていないばかりか、社長のピンチはむしろ「最強の柄崎」を証明する絶好の機会でもあるからだ。「そんなことないですよ」とか「気にしてません」とかいうようないかにもな反応は、非を認めたものに対して「いいですよ、もう水に流していままで通りつきあいましょう」と示すことにほかならない。柄崎としてはそんなことは考えもしないことなのだ。

丑嶋は「社長としての義務を果たせなかった」とつぶやいている。しかし、ではこれじたいは、「丑嶋社長」という価値的にはどうなのだろう。守るべき社員の前で弱音を吐くことは社長的ふるまいの範疇なのだろうか。おそらくヒントはあの魚にある。廃棄されているっぽい魚がなんなのかがわからないので、なんともいえないぶぶんがあるが、市場につくだいぶ前に死んでしまった不良品だとか、売れないまま傷んでしまったとか、いずれにしてもそれはひとの食料としてはつかわれることのなかったものだろう。

あとで明らかになるかもしれないが、現時点でいくつかの意味が読み取れる。ひとつには魚の鮮魚としての価値である。市場におかれているお魚は、これから誰かに変われ、料理につかわれて、その使命をまっとうする。しかし、おそらく、廃棄されている魚はそれができなかった。だから社長が、社長としての使命をまっとうできなかった自分自身をそこに重ねているというものである。

もうひとつは、二度も描かれている魚の目の描写にかんするところで、これを鏡と解釈するものである。ジョルジュ・バタイユの眼球譚では、眼球から連想される球体がエロス的な表象物であると同時に、そこになにか、バタイユじしんの無意識を暴き出すような視線が感じられた。てっきりこれは誰かの論文で読んだ解釈かとおもっていたのだが、ググっても僕の記事しか出てこないので、僕がそう感じたということだけらしい。眼球は鏡となってこちらの内側にある抑圧されたものを曝し、バタイユに自己治癒的な作品を書かせた。とりあえず当時の書評に僕はそう書いている。

とりあえずこの解釈を援用したとして、眼球が鏡であるのは、それが死んでいるからである。生きている他者の視線は、純粋な鏡ではなく、他者じたいの解釈も込みの客観といったほうがいいだろう。しかし死んだ魚の目は、解釈をともなわない真っ白なただの「視線」となってこちらに向かってくる。「視線」は、わたしたちの内側にあるなにか抑圧されたものを暴き出し、作品を書かせるかもしれない。丑嶋は哲学者ではないので、執筆をすることはないが、仮にそうだとしたら、丑嶋はなにを見るだろう。それは、丑嶋が、信じがたいことに弱っているらしいということと関係してくるにちがいない。丑嶋の全能性、超人性は、それが成り立つ土台として、三蔵のあたまをかちわったり、ハブをぶっ飛ばしたりといった「ありえないこと」の堆積があった。チンピラたちに「バカ!あれ丑嶋さんだぞ・・・」といわせる土台が完成しているからこそ、ヤクザとして暴力性を表に出さずに全能性を発揮するという奇抜な状況は成立していた。けれども、沖縄にはそんな土台はない。丑嶋が怖い人間であることは、まあ見たらわかるが、東京でもからんでくる人間がいたことからもわかるように、東京を離れるということは、そういうことなのだ。そうして、全能性が正しく発揮される舞台を失ってしまった丑嶋は、死んだ魚の目を通して、東京における「あの丑嶋」という役名を捨て去り、抑圧されていた裸の丑嶋が表出されているのを見て取ったのではないだろうか。あるいは、これらは同時にとらえることもできるかもしれない。丑嶋は社長としての役割をまっとうすることができなかった。そしてそのことで、全能性も(ある程度)失ってしまった。そうした先に待っているのは、廃棄される魚のようなものなのではないか・・・。

カウカウ的には、柄崎はかってに丑嶋についてきているので、ほんらいは別に謝るようなことでもないのかもしれない。げんに丑嶋は謝っていないし、柄崎も受け入れないだろう。しかし丑嶋は、今回の発言でじぶんに非がある、じぶんが失敗したということをある程度認めている。つまり、これはじぶんがいままでのような完全無欠のスーパー闇金マンではないと宣言しているに等しいのである。これは、死んだ魚の目をとおした自覚とも通じるかもしれない。この件についてなにも弱音を吐かず、謝りもしないということは、柄崎の献身をまったく省みないということになるから、「社長」的にはそういうわけにはいかない。しかし同時に、そうして弱音を吐くということは、すべてを掌握する、それこそ「最強の柄崎」を成立させるための「超人丑嶋」を否定するということにもなる。柄崎は別にそれでもいいのだろうけど、そう考えるとけっこう決定的な場面だったかもしれない。






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