月組東京公演『舞音―MANON―/GOLDEN JAZZ』 | すっぴんマスター

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月組宝塚大劇場公演 Musical『舞音―MANON―』~アベ・プレヴォ「マノン・レスコー」よ.../宝塚クリエイティブアーツ
¥10,800
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Musical
『舞音-MANON-』

~アベ・プレヴォ「マノン・レスコー」より~
脚本・演出/植田 景子

作曲/Joy Son

フランス恋愛文学の最高峰の一つであり、バレエやオペラ作品としても人気の高い、アベ・プレヴォ作「マノン・レスコー」。将来を嘱望されるエリート青年が、自由奔放に生きる美少女マノンに魅せられ、その愛に翻弄されるドラマティックなラブストーリーを、20世紀初頭のフランス領インドシナに舞台を置き換え、アジアンテイストを散りばめた新鮮な世界観で描き出します。

1929年夏、フランス貴族の血を引く海軍将校シャルルは、駐屯先であるコーチシナ(現ベトナム南部)・サイゴンの港に到着する。熱帯地方独特の、湿ったけだるい空気に包まれたシャルルは、今までに感じたことのない強い運命の力が、自分を未知の世界に導いていくかのような不思議な予感にとらわれる。そんな彼の前に、黒髪の美少女が現れる。彼女は、社交界では有名な踊り子で、金持ちの男達の心を次々に捕えては、自由気儘に豪奢な暮らしをしていることから、“舞音(マノン)”と呼ばれていた。

一目で彼女に恋してしまったシャルルは、その想いを止めることが出来ず、マノンと共に避暑地のヴィラへと向かい、二人は至福の時を過ごす。しかし、マノンの兄、クオンが彼女を連れ戻しにやって来る。華僑のパトロンの元へと去ってしまったマノンを許すことが出来ないシャルルは、彼女を忘れようと苦悶するが、そんな彼を、旧友のクリストフが親身になって心配する。そして、シャルルがインドシナ総督の一人娘カロリーヌとの婚約の決心を固めようとした時、再び、彼の前にマノンが現れ・・・・。

フランス支配に対する独立運動の不穏な空気が流れる中、マノンへの愛に全てを投げ打つ覚悟を決めたシャルルの前に、次々と過酷な運命が立ち塞がる。

ニューヨーク在住の韓国人作曲家ジョイ・ソン氏、そして、振付に元・ハンブルクバレエ団ソリスト大石裕香氏と、国際的に活躍する女性アーティストをクリエイティブスタッフに迎えて創り出す、東洋のエキゾティシズム溢れるオリジナルミュージカル、アジア版「マノン」にご期待下さい。

グランドカーニバル
『GOLDEN JAZZ』
作・演出/稲葉 太地

数ある音楽の中でも、リズミカルな旋律で私たちの心を揺さぶるジャズ。ルーツであるアフリカ音楽から現代に至るまでのジャズの変遷を辿りながら、バラエティに富んだ数々の場面で構成するショー作品です。龍真咲を中心とした月組の個性溢れるメンバーが、様々な角度からジャズの魅力をお届け致します






以上公式ページ より










月組東京公演『舞音―MANON―/GOLDEN JAZZ』観劇。2月5日13時半開演。


龍真咲退団が発表されてからはじめての月組観劇となった。

おもえば龍真咲も立派なトップになったものである。例の2番手感のはなし を続ければ、僕の推測では、通常のしかたで2番手だったものがトップになり、立派に実力と人気を身につけ、「誰か(先代やそれ以外のトップになれなかったものたち)」のかわりではなくなり、そして辞めていくのを見届けたとき、解除される。考えてみれば僕は龍真咲をトップになった最初からずっと追ってきた。もちろん、霧矢さんの喪失感もこみである。蘭寿とむや壮一帆も実は形状としてはそうなのだが、時期的に先代には特段の思い入れはなかったし、また、ちょうど宝塚ファンに復帰したのが花組のファントムだったので、いまのこの僕からすれば、蘭寿とむも、そして当時2番手だった壮一帆も、もうほとんど完成していた。ふたりともそういうタカラジェンヌの立ち位置としてのトップというポジションが先行するタイプのひとではなかったのである。壮さんの就任期間は明らかに短かったし、しかも壮さんのことはけっこう好きだったが、しかし「短すぎるだろ、いい加減にしろ」という感情は不思議となかった。というのがなぜかと考えると、おそらく壮さんはその以前にとっくにトップに等しいものを備えていたからなのである。深いファンは、いろんな役が見たい、もっと成功させたい、という感情があるので、そういうふうには考えられないだろうが、僕程度にライトに見ているぶんには、すでにファントムのときから壮さんなんかは「これもう明日から真ん中立てるだろ」という感じだったし、雪組でトップになっても、うまくいえないが、作家が芥川賞をとることによって芥川賞作家レベルの実力を身につけるわけではないのと同様、当然のことが起こっているのを目にするだけだったので、そうした感情からは程遠かったのだ。

そう考えてみれば、龍真咲はこの2番手感問題においては、早霧せいなと同様のものを最初から抱えていた。越乃リュウや明日海りおが月組にいたころはまだそういう気持ちはなかった。しかし、こうしたひとたちが退団なり異動なりして、トップがとりうるふるまいに制限がなくなっていくほどに、正直いって不安は高まっていった。僕は小さいころから月組をみて育ったので、いまも、なにかどこかに月組固有のものを見出してしまい、誰がトップに就こうとついていこうという気持ちがなぜかある。それもあって、とりあえずどの公演も1回は見ようという気でやってきた。それから、愛希れいかの活力を求めていたこともある。自覚はなかったが、いまの状況をおもえば、以前から美弥るりかの潜在的ファンであった可能性も高い。そういうのが手伝って、月組公演には足を運び続けたが、龍真咲の2番手感はなかなかとれなかった。もちろんこれは、龍真咲のなかに実在するかもしれない未熟さとは関係のないおはなしである。以前考えたとおり、この2番手感は、トップが、構造的に先任や、路線をあきらめやめていったものたちの「かわり」であることがもたらしているものである。だからたとえば、蘭寿とむがどれだけパーフェクト男役でも、もし僕が先代の大ファンだったら、またその就任によって道をとざされたもののファンだったら、さらに、蘭寿とむの2番手時代を長く見ているようなファンだったら、きっと同様のものを感じていたにちがいないのだ。そして、僕のばあい、そうしてトップになった2番手が立派に実り、じっさいにやめていくところを見届けたことがない。いつもなにかしらの理由があって、途中で離れたり、途中から復帰したりということをくりかえしてきたのである。だから、もしかしたらそのまま見続ければなくなったかもしれないそうした主観的評価が更新されるのを経験したことが、僕にはないのである。

2番手感は「関係」がもたらすものである。それを超越するためには、関係によって、つまりいわゆる「路線」にのってトップになる、その構造を乗り越え、凌駕するような必然性、「そのひとでなければならない」理由が打ち立てられなくてはならない。くどいようだがこれも、タカラジェンヌ個人の問題ではなく、僕の、見る側の感情でもある。ああ、そういうことなのかと、こちらで気づかなければならないこともあるのだ。

そして、じっさいのところ試練続きだった月組だが、ふと気づくと、組全体の実力は歌劇団全体を見渡しても随一というほどにまで成長し、龍真咲のことを誰かのかわりであるなどと感じることはなくなっていた。いまとなっては、退団の報せに落胆し、喪失感を感じるほどになっているわけである。誰かのかわりであるものを失って、ひとは果たして喪失感を覚えるだろうか。そのひとでなければいけないものがあるから、わたしたちは、そのひとがいなくなることにさびしさや悲しさを感じるのだ。僕のなかの2番手感問題は、龍真咲の退団を見届けることで、おそらく完全に解除されるにちがいないのである。


いきなり長くなってしまった。今回は宝塚の基本である2部構成、お芝居とショーである。お芝居は、植田景子演出の『舞音』。『愛と革命の詩』のひとだった。どちらも歴史的目線を芝居のなかに宿した壮大な仕掛けになっており、長編小説化型なのだなと感じる。ここでいう歴史的目線というのは、わたしたちが出演している「現代」の物語を、わたしたちは語ることができないが、要するにその時間の流れに属しつつ語りの目線を組み込んでいく視点のことである。いまなしたなんらかの行動が、歴史的にみてどういう意味をもつのかというのは、数十年後、数百年後になってみないとわからない。その場でいくら客観的たろうとしても、その「答え合わせ」は、ときがたつのを待たないと不可能だ。今回でいえば理性と本能の対峙のなかで、主人公のシャルルが行うことがどういう意味をもつのか、そのときにはまだわからない。「わからない」ということさえ、ふつうはまず自覚されない。そうした目線を全体に宿しているのである。具体的には、真実のシャルルをあらわすといわれる、美弥るりか演じる「もうひとりのシャルル」、また凪七瑠海をはじめとした理性のひとびとと暴走するシャルルの対決、また、徹底した個に生きる珠城りょうのクオンと、自己の存在しない国家を想像的に体験することのできる宇月さんなど民主主義の革命家たちとの関係などがそれにあたる。


舞台はサイゴン、調べてみると、ベトナムの都市ホーチミンの旧名らしい。金子光晴的な、じとじとと湿っぽく、けだるい薄明かりのなかで、駐在するフランス海軍のシャルルが、フランスとインドシナのハーフである、マノンと呼ばれる魔性の踊り子に一目ぼれしてしまうところからはじまる。いま湿っぽいと書いたが、湿っぽい空気を演出しようとしているということが伝わってくるということではなく、じっさいに湿っぽいのだ。今回は製作に外部からのゲストが4人も呼ばれており、作曲のJOY SONというひとや装置の松井るみというかたのもたらしているものは相当であるとおもわれる。本編では運命を司るという水が重要なイメージとしてくりかえし描写されるが、同時に泥に咲く蓮の花はヒロイン・マノンの本名でもある。泥は、滞って汚れた水にちがいなく、全体を流れるけだるさは水の清冽さよりむしろ泥の停滞感によっているものだ。

マノンは当初の印象ではカルメン的な「魔性の女」で、早乙女わかば演じるカロリーヌという美しく家柄もよい婚約者のいるエリート将校であるシャルルは、マノンの毒にすっかりやられてしまい、破滅しかける。それが典型的な「魔性」であることがわかって、いっときはそこから離れることになる。しかしシャルルは彼女のことが忘れられない。本作が特異なのは、やはりマノンの描写だろう。文学的な意味合いにおいて、カルメン的魔性の描写は、男性から見たときの女性の奔放不羈なふるまいを拡大したものである。たいていの男性が理性理性とうるさいのは、そうしないとかんたんに本能によって身体が制圧されてしまうからである。だから、全ての男性には、ある意味でシャルル的なぶぶんがある。クリストフが象徴する理性がしっかり機能してそれを文化的に抑圧しなければ、かんたんにそれに屈してしまう。さまざまなメディアで表現される「カルメン的なもの」は、そう考えると、男性において、女性というよりはじしんのなかにある本能への恐怖が描かせるものかもしれない。

その文脈でいうと、本作はある意味で「アンサーソング」である。カルメンは、そうした視点でいえば男性文学にほかならない。げんにそうした奔放な女性も存在する、ということは重要ではない。そもそも男性に強烈な本能がなければカルメン的ありようは成立しないのだし、そこから苦悩が生じてくることもないのである。本作も、当初はそうした展開を見せるかとおもわれた。また、あるいは、いい意味で安易な宝塚展開として、マノンにも固有の事情があり、たんに自由気ままにふるまっているわけではなく、そこには必然性があったのだということが描かれるかともおもわれた。もちろん、そういうぶぶんもある。けれども本作はそのようにかんたんには済むことがない。マノンは、再会したシャルルを、以前と同様のしかたで誘惑するでもなく、「あれはうそだったけどこれはほんとう」と、虚構を更新するでもなく、あるいはひらきなおるでもなく、「愛がなんなのか、わからない」というのである。これは、女性からカルメン的傾向を抽出して拡大解釈し、勝手に苦悩する男性への、女性からのアンサーなのである。

宝塚歌劇はエンターテイメントなので、文学的な問題提起をしたままで終わることはできないから、いちおう、少なくともシャルルのなかでこの問題は表面上解決しているように見える。本作でいわれる「真実の愛」というのは、哲学でいわれる真善美とほぼ同一の意味だろう。だれにとってもそうであるとおもわれる、どのような状況であってもそうにちがいないと確信することのできる、余計なものごとを捨象したあとに残る固形の愛のことだ。たとえば、僕の目の前には黒いパソコンがあって、それをかちかちと叩いているわけだが、それがほんとうに黒いのか、そもそも、みんなのいう「黒」とわたしの認識している「黒」が同一のものであると断定していいのか、誰にもわからない。その、こたえの出ない問題を問い詰めるのが哲学だが、ここでいう真実とは、このパソコンという存在の根底にある色のことである。それを受け取って、わたしたちは各自の主観において「黒」であると解釈する。しかし、それがほんとうに、真実として何色であるかは、誰にもわからない。マノンは、あなたに見えているその色を、わたしに押し付けないでくれというのである。そうとらえることも可能ではあるが、マノンは別にそのことでじぶんのありかたを、つまりじぶんから見えている色を正当化しようとしているわけではないようである。ただ、ひとことでいって“わからない”。シャルルとマノンはそこから、愛の「真実」を求める旅に出るわけである。

マノンは出会った当初、本名を聞かれて、このままお金がなくなるまで旅にでよう、そしたら教えると応える。それに呼応して、最後の場面で、死に際のマノンは、いっさいを失ったシャルルに、蓮の花を意味するという「リエン」という本名を応える。蓮の花について、物語の途中で彼女は嫌いだといっていたのだが、最後にはそれを美しいと認めている。この呼応は、もちろん物語がふたりの旅にちがいなかったことを示している。最初のこのやりとりにマノンが応えていることからして、カルメン的にみえた当初のマノンにもそれほどの虚構は含まれていなかったと考えられる。マノンが本名をくちにすることを拒み、また蓮の花を嫌いとするところには、細かいところは忘れてしまったが、なにかトラウマ的な抑圧が感じられる。しかし、単純に考えて、それは「愛がなにかわからない」ことと無関係ではないだろう。いってみれば、マノンにとって「愛」とはつねにフィクションであった。真実の愛について、たしかにわたしたちはなにも知らない。求めてもこたえが出ることはない。マノンはその結論のうえにいる。だから、すべてがフィクションであるという前提こみで、マノンにとっては生じた愛のお芝居はすべて「暫定的真実」である。だから、マノンはつねにマノンを演じなければならない。蓮の花たる「リエン」を開き、それを美しいと認めることは、フィクションの向こう側にある「真実の愛」に彼女が到達したことを示しているのだ。


マノンに費やすためにシャルルは悪事にも手を染め、闇金ウシジマくんばりに転落していく。この転落のシリアスさは、なかなか宝塚らしからぬものがある。「真実の愛」に、殉ずる多くのヒーローを見てきた宝塚ファンでも、「そんなにかい」と、思い直したほうがいいのではないかと声をかけたくなるほどである。これは、最初に書いたように、作品そのものに歴史的視点が挿入されているからである。シャルルの主観、シャルルの感情だけで物語は駆動しない。それでは、カルメンからのアンサーが成立しないのである。

このことは、まったくかたちを変えて、マノンの兄であるクオンと革命家たちとの関係にもあらわれる。クオンも、マノンと同様の父母のトラウマがあり、徹底して個人主義的な人物に設定されている。マノンが、両親の関係を「それでよかったのか」というふうに考え、愛をフィクションとしてとらえるようになったのに対して、クオンは愛という方向からではなく、男性らしく家族という視点からとらえる。そして、相当ひどい目にあったとおもわれる両親から、祖国だとか社会だとかいうものはかたちだけのもの、じぶんの身はじぶんで守らなければならない、というような結論に達する。フランスもインドシナもどうでもいい。信用できるのは、じぶんと金だけ。こういう生き方に対し、宇月さんは、命を捨てた革命を実行できる歴史的視点を抱えている。革命をおこし、平和で豊かな社会を実現させたとして、それを享受できるのがじぶんでなくても、彼らはかまわない。重要なのは実現することそれじたいである。これが可能になるのは、「じぶんのいない世界」を想像的に先取りできる場合だけである。この両者の本質的な視点の対立は、サイドストーリーであると同時に、真実の愛を求めるにあたってぶつかる理性と本能の翻訳でもあるだろう。クオンは、作品としては否定される。たぶんクオンの存在が、作品全体におけるシャルルの主観性を無化しているのである。


美弥るりかが官能的にあらわすのは「もう一人のシャルル」だ。これは、マノンにおいての「リエン」、男性的理性によって抑圧されているシャルルの内面の導き手である。理屈からいって、両者の行動が一致したとき、シャルルは真実の愛に到達することになる。作品の性質からすると、「真実の愛」がどのようなものであったかは、ふたりにしかわからない。それはこのようなものであると表明できるようであれば、誰も“わからない”とはならない。それが、歴史的視点の導入される理由でもあるだろう。ただ、それだとエンターテイメントどころか観客に見せるものとしてちょっと成立しない。ただの思弁にすぎなくなってしまう。だから、シャルルは、シャルルじしんによって相対化される。じっさいのところシャルルは登場してからずっと「真実の愛」を言い当てていたわけであり、葛藤はあっても、そこから遠かったわけではない。「もう一人のシャルル」は、それがどのようなものかを観客に伝えるための、いわば舞台的な装置なのだろう。


ショーは稲葉太地先生の「GOLDEN JAZZ」。Mr.Swingからして、チャーリー・パーカー以前のジャズが好きなのだなとはおもっていたが、今回も高品質のショーを見せていただいた。しかし個人的なことをいうと、今回客席降りで幸運にもあるかたからコースターをいただいて、これは席と運がよければもらえるそうなのだが、このことを全然知らず、いきなり手渡されて激しく動揺してしまって、その後しばらく舞台のうえで何が行われているか理解できないという事態に陥ってしまったのだった。あと、観客のみなさんが小さいタンバリンをもっておられたのだが、これも気づいたときには売り切れており、たいして気にしていなかったのだが、まわりのかたがたは、うしろに座っていたおじいさん以外はほぼ全員もっているという状況で、僕と相方だけなにもなくて、みんながしゃんしゃん叩き始めてからなんだか申し訳ないような気持ちになってしまったというのもあった。いや!そんなことは気にしてもしかたないのだろうけど、叩くの楽しそうだったから・・・。というわけで、いつも以上に、なにがなにやらわからぬまま終わってしまったという印象である。ただ、アフリカを舞台にしたカポエラみたいな愛希れいかのダンスだけははっきり覚えている。あんなふうにくちをぽかんとあけて誰かのダンスに目が釘付けになってしまったのは、ダンスロマネスクの蒼乃さんの「未来の記憶」以来かもしれない。ああいう感じのダンスって、一生懸命やるほど、よくもわるくも多少のおかしみを含んでしまうものだが、笑顔がかわいすぎて、なんかもう活きのいい魚みたいで、そういうのもいっさいなかった。

専科からは星条海斗が出演しているが、以前まで月組にいたので、その実感はまだない。あのひとも固有のポジションを獲得されており、スーツの立ち姿の美しさはちょっと女性とは信じられないものがある。あんまりなめらかに舌が動くタイプではないのだけど、そのことが転じて独特のしゃべりかたにつながっており、とりわけ権威的な地位にある人物の恫喝とかやらせると現役随一のものがある。今回はエトワールもやられており、はやく華形ひかるもこうした位置に・・・などと考えてしまった。

あとは、個人的にはやはり美弥るりか。流し目がちょっとすごすぎる。もともと官能的なお芝居をされるかたではあったけど、龍真咲のオルターエゴという役柄のせいか、それともたんに男役としてなのか不明だが、非常に男らしい男役に進化していっているように感じた。化粧の感じも変わってきている。なにかおもうところがあったのかもしれない。


こんなところで。





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