今週の刃牙道/第72話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第72話/剣道






武蔵の逮捕にはなにか裏があるらしい。内海警視総監はなにかの取引をもちかけたようなのだ。

彼らのむかう先には、全日本剣道選手権4連覇の三輪猛丈七段が待っている。剣道のことはまったく知らないが、4連覇ってすごいな。僅差で負けるようなものさえいないというような、現状では圧倒的強者ということなんだろう。

うしろに立っていたメガネの男が、正座して待っている三輪が少し笑っていることに気づく。とにかく宮本武蔵と立ち会えるのがうれしいのだ。かたちだけ逮捕してすぐ釈放するから、そのかわり全日本覇者とたたかってくれと、これだけのことのようだが、内海の取引というのはそれですべてなのだろうか?全日本覇者と、うそかほんとか宮本武蔵をたたかわせたいと、そんな光成的欲求だけが動機なのだろうか。

とはいえ、それがホンモノの宮本武蔵かどうかは疑わしい。というか、常識的に考えてありえない。たとえばいま匿名の作家がデビューして、天才的だともてはやされて、それがじつは夏目漱石だったと聞かされたら、どう考えるだろう。とりあえずそれがほんとうのことだとして、まずは長寿の可能性を考えるかもしれない。なんらかの奇跡や魔術が働いて、いままで生きていたのだと、信じないまでもそういう可能性があたまに浮かんできそう。しかし宮本武蔵の姿はみんな動画で見て知っている。どう見てもお年寄りではない。そしたらまあ、クローンっていう可能性も導かれるかもしれないが・・・。

武蔵がどうやって生き返ったのかというのは、当事者的にはたいして重要ではない。彼に接触した職員はくちをそろえて「ホンモノだ」と語っているという。バキ周辺ほどでなくとも、彼らもまたからだを鍛え、それなりに武術を修めている身である。常識や理性の前にからだが、それが真実であると告げてしまうのだ。

メガネはまだ信じられないようだが、とりあえず彼が「武蔵であっても不思議ではない」とおもわせるほどの達人であることはまちがいない。三輪は日本の頂点に立つほどの剣道を身につけている。じぶんがじぶんであることを確信するときのもっとも大きな要素として「剣道」があるのである。それが、模擬的なものにすぎないのか、あるいは一種の進化であるのか、それがわかるかもしれないと、三輪は考えているのだった。


そこに内海や武蔵が到着する。手続き上は、武蔵は身柄を拘束されているということになっている。

三輪は武蔵と目を合わせて大量の冷や汗を流している。武蔵の例のオーラを感じ取っているようだ。

ふたりが竹刀をもって向かい合う。武蔵はここまでひとことも発せず、おとなしくしたがっている。屋敷を出るときにいっていた「勉強」のために、なにかこう、空気を読んでいるような雰囲気がある。

向かい合うふたりを見て内海は興奮している。竹刀による防具なしの真剣勝負、これを見たかったのだと。これが今回の「取引」のすべてだとすると、やはり光成と大差ない動機だったらしい。あるいは、内海は剣道がかなり好きなのかもしれない。公務としてはどういう意識でいるのか、それはともかくとしても、剣道のはなしとなると黙っていられず、ついこういう行動に出てしまった、そしてつい「光成側」に立ってしまったと、そういう単純なことかもしれない。

まあこれで警察からうるさくいわれなくなるんだったら、光成も読者もうれしいので、別に文句はない。武蔵は特に構えるでもなくいつも通りだが、三輪は激しく緊張している。だが自信もあるようである。剣道は、重い刀を軽い竹刀に持ちかえることで速度を手に入れた。その意味では剣豪を超えるはずだと。なんかよくわからない理屈だが、ともかく自信はある。この立会いは真剣勝負ということなので剣道ルールではない。なにをやってもいいのだろう。ただし武器は三輪のつかいなれた、そして速度を獲得したという竹刀であると。


武蔵が竹刀を観察している。刀を壊してしまう武蔵であるから、軽いとかいう以前にもろすぎてなんだこれというところだろう。しかし、あまりにも刀からかけはなれているせいで、武蔵はすんなり竹刀の模擬刀としての役割を理解したのかもしれない。これまでだったらいろいろ問題点などくちにしただろうが、今回「ふむ」とだけしかいわないのは、あまりにこの状況がつまらなすぎて相手にしていないのか、それともこれはこれで認めて受けようというのか、微妙なところだ。


なんにしても問題外にはちがいない。てくてくと、散歩するイカ娘くらいの無防備さで竹刀をぶら下げた武蔵が三輪に近づいていく。そしてなんの小細工もなく、戸惑う三輪に向けてただ竹刀を振り下ろす。三輪はあわてて竹刀を横にしてそれを受けるが、武蔵の一撃は竹刀をぶち折るばかりかそのまま頭をとらえ、さらにはあたまのところで折れて三輪の背中まで叩くのであった。




つづく。




まあ、相手にならない。剣道は速度を手に入れたということだが、それを見せる余裕もなかった。なにかを制限することでなにかを得るというのは、それほど珍しいことでもないだろう。一般的なフルコンタクト空手では、素手での打撃を認めるかわりに手技での顔面攻撃を禁止した。そのことによって距離感や、実戦では当然くりだされてくる顔面突きについてそうとうの熟練者でも不慣れであるという状況が生まれてしまったわけだが、いまでは当たり前に見られる下段蹴りなんかは、顔面攻撃を禁止したことでここまで発達したといわれている。ボディへの下突きなんかもそうかもしれない。徹底的な筋力トレーニングとスネの強化で、ただ足を蹴るだけで相手をダウンさせることも可能であると、ある意味でわたしたちは発見したわけである。しかしそれが「真剣勝負」でも有効かというと、それが黒澤浩樹とか数見肇だったらふつうのひとの足なんてかんたんに折れてしまうだろうけど、それは一般化することはできないし、そもそもそれが問いとして成立しているかというのもあやしいわけである。空手でもなんでも、なにかを学ぶということは、じぶんにとって未知なある体系を理解するということにほかならず、たとえば試合は、その体系をどれだけ身につけているかを試す機会であるから、それにふさわしいルールが用意されている。それぞれの武術が目指しているところが仮に「真剣勝負」だとしても、「真剣勝負」そのものに体系があるわけでもないし、だからそれを試すためのルールというものも原理的に考え出すことができない。緊急事態でつかえなければ意味がない、という考えはもちろん有効だが、「そんな問いは意味がない」という考えも同様にして有効なのである。どうしてもこたえを求められたら、そんなことはそのときになってみないとわからないと、たぶんみんな応えるんじゃないだろうか。それぞれの競技が成立したときの動機は、あるいは、「真剣勝負」についての「解釈」だったかもしれない。あるものは投げを、あるものは打撃を選択し、それを掘り下げていくのだ。それを学ぶものは、その解釈を信頼して、打ち込む以外にすることはないのである。

しかし武蔵は、体系化できない「真剣勝負」をくりかえしてずっと勝利してきた人物である。これは三輪にとっての本番だった。顔面をたたかない直接打撃制が実戦で通用するの?とか、拳を鍛えていないボクサーが実戦で相手を殴れるの?とか、そういう感じの無邪気な問い、しかしいちどは考えずにいられない問いについて、こたえなりヒントなりが得られる最高の機会だったわけである。じっさいのところ竹刀だろうと木刀だろうと、あるいは傘とかであっても、剣道の達人が武器をもっていれば、真剣勝負ではまず敵なしかもしれない。しかしそれは、たとえば空手やボクシングなどの「別の体系」に信頼をよせているものが相手であるばあいだけだろう。武蔵は体系への信頼もなにもなく、真剣勝負の真っ只中に生きてきた人間なのである。すべての体系は真剣勝負についての解釈である。だとするなら、剣道は、「宮本武蔵」に学んだ体系にちがいないのである。それが正しい解釈であったのかどうかが、ここではつきつけられてしまったのだ。しかしまあ、これは相手が悪すぎるといってもしかたないだろう。これで剣道を全否定してみてもしかたない(空手は全否定されたが)。それもこれも、武蔵からしたらそうだろうけど、というおはなしである。


今回の感想というか前回のつづきだが、現実と漫画が近づきつつあるという仮説について、そういえば以前、漫画内における表世界と裏世界が近づきつつあるという考察 をしていたことを思い出した。それは、絶対知的存在の勇次郎をどうやって敗北やそれに近い状態にもっていくかということの創作上の必要であったとともに、世界のパワーバランスを担う勇次郎が喧嘩をするということの結果でもあった。勇次郎が喧嘩をして、負けるかもしれないということは、世界のバランスが崩れないまでも変化するということにほかならなかった。だから、わたしたち凡人もそれを無視することができない。あるいは無視したり、無自覚でいたりしても、無関係でいることができない。大国の不況が世界に影響を及ぼすようなものだ。そうした理由で、親子喧嘩が近づくにつれて、独歩の「使用してはならない技」が公衆の面前で使用され、そればかりか「大衆の目線」を代表するものとして監視カメラに撮影されてしまったり、雷にうたれても死なない勇次郎が報道されたり、ピクルというセンセーショナルな存在がふつうに報道されたり、という具合に、凡人の住まう表世界と、バキや独歩たちが表世界の知らない技をつかう裏世界とが、少しずつ、準備的に接合していったのである。そうした流れの延長で、今度はわたしたち読者の現実と漫画が接合しはじめているのかもしれない、と考えたら、すでにそう書いたことがあった 。武蔵はスカイツリーの地下366メートルで生まれた。スカイツリーはこの土地の名前である武蔵にちなんで634メートルあるということで、つまり武蔵は頂上から数えて1000メートルのところで誕生したのである。いったいなぜ「頂上から数えて」なのか。地下1000メートルとか、あるいは地下634メートルとかならわかる。頂上から数えて1000メートルということは、原点は頂上にあるということになるのだ。これを、僕は表世界と裏世界の接合が完全に達成されたと見たのであった。表を地表、裏を地下と考えたとき、原点は地表0メートルということになる。スカイツリーの高さのような数値が一種の強さの指標だとすると、もし表裏の接合が達成されていなかった場合、武蔵は地下634メートルで生まれていたにちがいない。ところが、親子喧嘩を経由して表裏は完全に合体した。もうこの世界には地表も地下もない。どちらもともに「地下」に含まれるのである。

そして、前回見たように、モデルにした架空のキャラではない「実物」の宮本武蔵が登場したことは、漫画と現実の世界が近づきつつあることを示している。そのことの意味することはまだわからないが、今回の三輪もそうだし、あるいは本部もそうかもしれない、起きていることが非常に「現実的」なのである。範馬をはじめとしたほぼすべてのキャラクターは、モデルがいたとしても、ほとんどのばあい非現実的であり、個人の蓄積や才能にかなり左右されていた、「一般化できない人物」であった。あるいは、宮本武蔵の体現する、実戦の身もふたもない「現実」が、こうした人物たちのファンタジーっぽさを剥ぎ取りつつあるのかもしれない。表も裏も、あるいは漫画も現実も超えて、スカイツリーがイメージとして象徴する圧倒的な高さを身にまとった武蔵が、それらを統合するような「現実」をつきつけつつあるのである。この「現実」はおそらく、わたしたち読者が住む「現実」ともまた異なっているのだろう。わたしたちにとっての現実もまた一種のフィクションである。漫画のフィクションとしてあらわれた渋川剛気とそれのモデルである塩田剛三、このどちらにおいても下地になっているイデア的な、これ以上個性を剥ぎ取れないような客観、こうした世界が、武蔵によってあらわにされようとしているのかもしれないのだ。

作中それに対抗できるかもしれない唯一の男である本部は、ある意味では全然特殊ではない、リアリストである。なにしろバキの強さに対抗できないからといって煙玉である。害虫駆除に火炎放射器をつかうような露骨さなのだ。こうなってみると、裏世界の代表で、もっともファンタジー的な存在である勇次郎が気にかかる。全然登場しないけど、この現状に活力を奪われてすごい老いてたりしないだろうな・・・。おもえば勇次郎とならんでファンタジーな花山薫も、刃牙道初期のころ勇次郎と同時に登場したことで、しばらく登場しなくてもいい権利を獲得したようなところがあったが、あれはそういうことだったのかもしれないなあ。





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