『キラキラネームの大研究』伊東ひとみ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『キラキラネームの大研究』伊東ひとみ 新潮新書






キラキラネームの大研究 (新潮新書)/新潮社
¥842
Amazon.co.jp






「苺苺苺と書いて「まりなる」、愛夜姫で「あげは」、心で「ぴゅあ」。珍奇な難読名、いわゆる「キラキラネーム」の暴走が日本を席巻しつつある。バカ親の所業と一言で片づけてはいけない。ルーツを辿っていくと、見えてきたのは日本語の本質だった。それは漢字を取り入れた瞬間に背負った宿命の落とし穴、本居宣長も頭を悩ませていた問題だったのだ。豊富な実例で思い込みの〝常識〟を覆す、驚きと発見に満ちた日本語論」Amazon商品説明より




硬い本ばかりたまってしまっているので、なんか軽く読めるものないかなくらいで衝動買いしたものだけど、これは予想以上におもしろかった。標準的な読みやすさを保ちつつ満足のいく(なおかつ深入りしすぎない)考察が展開されていて、なんか「新書のお手本」っていう感じがした。


キラキラネームはDQNネームとも呼ばれる。各媒体でくりかえし話題になっていることなので、なんのことかわからないというひとはいないとおもうが、要するに「愛夜姫ちゃん」と書いて「あげはちゃん」と読む類である。あと「波動拳くん」とかいて「つよしくん」と読む類である。対象は同じのようだが、前者が、当のキラキラネームをつける親たちやそれに近いものがからかいをこめて呼ぶもので、後者が社会問題として感情的にとりあつかうときのもののようである。筆者のスタンスとしては、そのどちらにも属さず、そもそもキラキラネームの実態をよく知らないままでは論じることもできない、というようなところから、どういうふうにしたものか見当もつかないが、調査を重ね、それがどうした原因で起こっていったものか考えていく、というものである。歴史を振り返れば、現在見られるキラキラネームによく似た名づけはむかしからけっこうあった。織田信長とかはうつけものらしくひとを食ったような名前を子供につけまくり、森鴎外は国際社会を見据えて外国人にも発音しやすい名前を考えていった。だからといって、年長者が「最近の若者は」とぼやくような次元の通時的で普遍的な現象である、というふうに片付くわけではなく、敗戦を境にして漢字に対するわたしたち日本人のありかたが決定的に変わってしまった、と看破していく。くわしく書かれているが、ひとことでいえば戦後に行われた漢字の使用制限、「当用漢字」の採用によって、中国語としての、表意文字としての漢字がもっていた深みや、それが日本に輸入されて口語の「やまとことば」と日焼けがひりひりするようなストラグルをくりかえしたのちに生まれた日本語的深み、こういったものが失われてしまったのである。織田信長は歴史的にみても例外中の例外だろうからどうだか知らないが、鴎外にしても、てきとうに外国人の名前をもってきて表音的に、つまりひらがなが漢字から成立していったようにあてはめたわけではなかった。そこには、現代では考えられないくらいの深い深い漢文への教養があったのであり、要は「元ネタ」があったのである。かんたんにいってしまえば、戦前のキラキラ風ネームはすべて、漢字そのものの意味や由来をよく理解したうえで成立しているものだったのである。それが失われ、さらには、本書とはまた別の研究テーマとなるが、たとえば個人・個性主義だとか、社会的抑圧からくる親の自己満足だとか、いろいろな要素が複雑に交わり、いまの状況になったと。もっとも腹に落ちたのは、キラキラネームの増加が日本を(日本の言語状況を)壊してしまう、のではなく、日本が(日本の言語状況が)壊れかけているからこうした現象が起きているのであり、キラキラネームは炭鉱のカナリアなのだ、というところだ。漢字のあつかいがわたしたちにとって短絡的な「デザイン」にすぎなくなっているとしたら、「エレガント」という意味のつもりで「象」というタトゥーを入れている外国人を笑うことなどできないのである。


名づけ用の書籍とかはよく見るけれど、中身を見たことはないので、どういうものなのか見当もつかないが、やはり、漢字の意味とかいうことよりトレンドが重視されているものなのだろうか。そりゃまあ、キラキラネームが周囲から浮くかもしれない、いじめられるかもしれないという心配と同様にして、古臭くい名前をわざわざつける必要はないのだし、なにしろこうした場合親の愛情はホンモノなわけである。それが、本書の初期衝動ともなっている。ほとんどすべてのばあい、親は善意と愛情でもって、子供に不可思議な名前を授けるのである。だから、子どもの名前に「腥」という字をつけたがるのも、べつに「なまぐさい」という意味を知っていてそうするのではなく、ただ月と星が並んでいて美しいからなのである(ちなみにこの漢字は人名にはつかえないそうである)

そういうことは、やはり子どもの名前辞典なんかにはのっていないのだろうか。まあ、漢文から遠いところに住んでいる現代のわたしたちからすれば、「なまぐさい」は極端な例としても、漢字の本来の意味を持ち出されて非難されたとしてもことによっては周囲のだれひとりとして「そんなはなしは聞いたことがない」となる可能性もある。つまり、「腥い」を「なまぐさい」と読めるものが仮に100人に1人くらいになったとしたら、そんなことを気にしたってしょうがないし、残りの99人はこれを「ロマンチックで美しい」と感じる可能性も出てくるのである。古諺の類でもともとと逆の意味で通じてしまっているものがよくあり、テレビのクイズ番組で紹介されたり、偉いひとが戒めたりという光景はよく見る。たとえば「情けはひとのためならず」みたいなものだ。個人的には「気が置けない」ということばをずっと間違ってつかっていたという経験もある。これは、気をつかわなくていいという意味なので、「気の置けない友人」といえばそれは「気をつかわなくていい友人」という意味になる。しかしその語感から僕はずっと「油断できない友人」という意味でつかってきたのである。とはいえ、これらは慣用句なので、「ひとが慣習的に用いてきた絶妙な言い回し」というところなわけであるから、多数が逆の意味にとらえるようになったらもうそれでいいではないか、というふうにはおもう。学問的に正解がある事象だと、そういうことが合意されても誰かが沈黙を守ってストレスをためなければならなくなるので、これは「多数」というより「全員」ということになるかもしれないが、ともかく、とりあえずそうした慣用句についてはそんなにくちうるさくいうこともないんでないの、とあくびをする程度に考えている。


しかし、では漢字はどうだろうか。本書によれば、キラキラネームはなにかの原因ではなく、「しるし」である。すでに起こりつつあるなんらかの出来事の兆しなのである。ネットではともかくとしても、日常生活では、わたしたちはだいたい同じくらいの知性、同じくらいの経済状況のひとたちと接している。ということは、教養や社会への意識とかもだいたい同程度ということになる。「腥い」を誰も読めないという状況は、理屈からいってだからふつうにありえる。わたしが読めないのだから、周囲のものも読めないのだし、周囲のものが読めるのなら、わたしも読めるはずなのである。(漢字への意識の変化はこのような「読める/読めない」ということとはまた異なるのだが、わかりやすいのでこれを使う)。そして、現状ではだいたいのひとは「周囲のもの」が世界のすべてなわけである。共同体の外側からさかしらに「それはなまぐさいと読むのだよ」と言い立てても、「そう・・・(だから?)」というところなのであり、それについて責められる筋合いも本当はないのである。それは原因ではなく、すでに起こり始めている現象の「しるし」なのだから。


だから、げんにキラキラネームを無邪気に子どもたちに施す親を責めてみてもしかたないのである。というか、はっきりいってしまえば、もしわたしたちが「同程度の知性、経済状況」のものとだけ暮らすような世界にいるとしたら、そもそもわたしたちはキラキラネームの存在に気づけないかもしれず、(外部からさかしらに言い立てること以外に)あるいはなんの害もないのかもしれないのである(だから、一般の小学生が経験する「学区」という区切りの、さまざまな種類の人間が集まる経験は非常に重要なのである)。全員が「黄熊(ぷぅ)」とか「手真似(さいん)」とかいう名前だったとき、誰が「紗冬(しゅがー)」ちゃんをいじめるだろうか。この問題は根が深い。個人の美意識とか教養とかに還元できない事象なのだ。

そもそもそんなふうに格差が生じて、階層ごとにくっきり断絶しているのがよくないのだということもある。しかし、仮にそうだとしても、げんにいまそうであるのだから、問題は生じないのではないかと、考えることはできる。そうもいかないのは、ことが言語にかかわることだからだ。くりかえすようにこれは、漢字を表意文字として、またひらがなとの関係性として受け止める感覚が失われた結果ということである。本書においてはまず、わたしたちが同音異義語をうけとめるとき、無意識にすばやく漢字を脳内に浮かべることで会話を成立させているという点をあげている。本書の例としては、「せいこうのひけつをおしえてくださいよ」という音声を受け止めたとき、わたしたちは瞬時に「性交」ではなく「成功」の文字を浮かべて処理しているのである。明治時代に比べたら薄っぺらでもそれまで培われてきた漢字の知識が、前後の文脈からしてそのように自然と推測させるのである。

明治以降、福沢諭吉なんかが猛烈な集中力とスピードで仕事をこなした結果、わたしたちのことばのなかに大量の翻訳語が混じることとなった。「社会」とか「人格」とか「理念」とか「哲学」とかはぜんぶ明治期に海外から輸入されてきたことばで、仏教用語とかからそれっぽい日本語を見つけてきて作り出された新語なのである。もともとの日本語に(少なくとも日常会話には)なかったこうした言語がもたらす感覚を柳父章は「カセット効果」と呼んだ。カセットとは宝石箱のことで、字と意味がリニアに接続するものではなく、なにかきらきらしたものがつまっている空語のようなものとしてわたしたちはそれをとらえるのである。言語学的には日本語は膠着語と呼び、テンプレートさえしっかりしていればよく意味のわからないことばもぼんぼん放り込んで、なんとなく、それっぽく使いこなすことができる。英語もカタカナにしてしまえばすぐ日本語になるし、「『 』は『 』だから『 』すべきだ」というような形式のなかにそうしたカタカナ語や奇抜な造語を放り込んでも文章は成立するし、カセット効果によってわたしたちはむしろそこに権威的な意味を自主的に拾いあげてしまうのである。

そういう意味でいえば、表意文字としての漢字がいまどれだけの霊力をもっているかというと、やや微妙なところもある。けれども、はなしはそんな単純ではないのだろう。中国語であれ近代の翻訳語であれ、もともとあったやまとことばとの衝突と融和の結果、いまのかたちが成り立っているのである。膠着語としての日本語の形式からして、ファーストインパクトとしてのカセットである漢字があって成立しているものなのである。その意味が剥がれてしまえば、わたしたちは基本的な思考すら困難になっていくのではないか。・・・いや、どうだろう。漢字が入る前の口語のみの日本語は、果たして膠着語だったのだろうか。である、って断言しちゃったけど、わからないな。


というわけで、問題は単純ではない。しかしこんな壮大なことでなくとも、ごく単純に、子どもの名前というのは熟考されて創案されるものだろう。それはキラキラネームを授けるときであっても変わらないはずだ。だからそのときに、トレンド以外に漢字の意味を調べる、という程度の移動があってもよいのではないかとはおもう。まあそれも、そもそもそうした移動が起こらないというのが「しるし」ではあるのだが、とりあえず僕としては白川静の字典をおすすめしたい。「字統」みたいな字書はびっくりするほど高いけど、図書館とかに行けばあるかもしれない。また、僕は「常用字解」というもっと簡単な字書をもっているのだけれど、成り立ちから独特の発想と霊力で文字が読み解かれていて、ふつうによくつかっている。人名漢字の字書ではないのでそのままこたえにはならないかもしれないが、大きなヒントにはなるのではないかとおもう。





↓調べてみたら人名字解っていうのもあるらしい。読んでみたい。






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