『大山倍達の遺言』小島一志/塚本佳子 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『大山倍達の遺言』小島一志/塚本佳子著  新潮社




大山倍達の遺言/新潮社
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「極真会館の大分裂騒動の真実とは? 528ページに及ぶ渾身ドキュメント!総裁・大山倍達の死後、散り散りに割れた世界最大の実戦空手団体「極真会館」。関係者たちの膨大な証言をもとに、その分裂騒動のすべてを明らかに! 衝撃の真実が次々と浮かび上がる……。全空手関係者&格闘技ファンの度肝を抜く、超大作ノンフィクション完成。稀代の空手家の遺志は、いかにして踏みにじられたのか? 」Amazon商品説明より






カリスマ的空手家・大山倍達総裁が一代で築き上げ、世界中で花開かせた極真空手。それが、総裁亡きあと、醜く分裂していくさまを数多くの取材、また関係者の証言に基づいて再構築したノンフィクション。かなりの大著です。



空手、また格闘技にいっさいの興味をもたないひとでも、おそらく男性であれば、大山倍達そのものの名前を仮に知らなかったとしても、その伝説は、耳にしたことがあるんじゃないかとおもう。二本の指で十円玉を曲げる。手刀の一閃でビール瓶の首を切り落とし、返す裏拳で瓶の腹をそぎ落とす。終戦直後、アメリカ兵を辻殴りしていたために指名手配され山篭り、やがてその正拳は巨大な自然石を砕き、電信柱にくっきりと拳のかたちを穿つほどになる。日本を出て世界中の強者と真剣勝負をしそのすべてに勝利、しまいには牛を相手にたたかうようになる・・・。これらの伝説は、梶原一騎の『空手バカ一代』、および総裁じしんの著作を通して日本中に広まり、男たちの本能のようなものを強くつよく刺激したのだった。僕は未読だが、同じ著者による『大山倍達正伝』では、これらの伝説の部分的虚飾が暴かれているようだが、といっても、総裁の強さそのものに偽りはなく、その言動は説得力じゅうぶんであり、伝説に魅了され、最強を信じてこっそり自宅で指立て伏せをしていた、なんて少年は多いんではないかとおもう。僕自身も、小学生のころは極真会館の道場に通っていた。それはまだ大山総裁が存命のころであって、つまり分裂前であり、ちょうど緑健児が世界王者になったころで、信じられないくらい強い選手が身近にもごろごろいた、そういう時代だった。といっても僕はずっと色帯だったし、週に1度か2度、ぼんやり通っていただけの、「習い事」を出ない、末席を汚しているとさえいえないような目立たない存在で、だいいち弱かった。忙しい小学生だったので夜間の一般部に参加していたのだけど、たぶん、当時の先輩たちだって覚えてないだろう。だけれども、あのころの、「極真をやっている」ということの誇らしさみたいなものは忘れがたく、当時の機関誌「パワー空手」で連載されていた「風と拳」を暗記するほど読み込んでいたものである。



だが総裁の死後、極真会館はほとんど必然のように分裂していく。細かな事件は本書にすべて書かれてあるのでここでいちいち触れないが、現在松井章圭館長を据えている極真会館、本書によれば三瓶啓二の独裁を経由して緑健児を代表にかえたところでいちおう落ち着いた新極真会、こういうものにわかれてしまう。僕の当時の実感としてはふたつにわかれたという感じだったのだが、ことの経緯はもっと複雑のようで、ここに遺族やなんかもからんでくることで、事態は混沌をきわめてしまう。僕の所属していた道場は三瓶派に従っていた。本書にも、よく呼び出されて叱られた、僕にとってはトラウマ的に怖ろしい師範の名前が登場する。しかし、しばらくして、高校生くらいだったろうか、同じ道場にいた尊敬する先輩が独立することになり、年の近い先輩たちはみんなそちらに移るということだったので、僕もついていくこととなった。大山総裁というのは、一種の象徴、概念のようなものだったのかもしれない。わたしたちの理想とする「最強」が、おそろしい説得力をともなって、総裁の存在からは感じられた。ひとりひとりはばらばらの信念をもっていても、総裁のカリスマの前で、「最強」を目指すものはすべて統一されてしまう。「最強」を目指すことと「大山倍達」を目指すことが同義だったからだ。カリスマというのは、そういうものなのだとおもう。そういう無意識の紐帯のようなものがなくなってしまったとき、「最強」を目指す志はそのままに、またばらばらの、もとの状態に戻っていってしまった。独立した僕の尊敬する先輩がどういう意図で所属していた道場を離れたのかはわからない。たんに師範が先輩をはじめとした比較的若い層に人気がなかったというだけかもしれない。いずれにしても、当時の僕の目からは、なにかそれはごく自然なことのように見えた。それだけ総裁の存在というのは強大だったのであり、ある意味で、交わらないことを旨とする社会的価値としての「ひと」がもとの状態に戻ったというだけのことなのかもしれない。



というわけで、こういうふうにいうと僕なんかよりもっとずっと熱心に空手に取り組まれている数多くのかたがたが不快におもわれる向きもあるかもしれないが、空手をやめて十年もたつのになにかひとごという感じがせず、分裂の醜いありさまをつきつけられて、じっさい読み物としてはおもしろいのだろうけれど、それよりも暗然とした気分になるといったほうが正しい感じなのである。



本書そのものの出来というか、評価という視点でみると(みなくてもいいけど)Amazonのレビューのことごとくが「もっとも」で、ちょっと笑ってしまった。要するに、著者のひとりである小島一志・・・僕はこのひとの格闘技観に板垣恵介とおなじくらい影響を受けているのだが、このひとがじっさいのところ松井派であるためか、そっちよりの、また同時に反三瓶的な記述が、かなり見受けられるということである。本書は共著だが、書かれ方としては、まず塚本佳子というひとが書いて、それを小島一志が加筆し、ふたたび塚本佳子が推敲するというふうになっているらしい。小島一志は、よく知られているように、松井派と縁が深いライターだが、塚本佳子というひとがどのようなかたかというと、だいぶ前にいくつか記事を読んだことがあるくらいでよくわからない。したがって、文体、語り口というものを属人的に考慮するということは、少なくとも僕の知識の及ぶ範囲ではあまり意味がない。つまり、ぜんたいを覆う傾きを、そのまま、書き手の抱える偏見のもたらすバイアスとみなすか、それとも、共著という形式が一種の客観性を与えているとして、傾きそのものにもっと深い意味をみるべきなのか、僕にはその決定はできないということである。しかし傾きが感じられるということは事実であって、Amazonのレビューでは事実誤認等をもっておどろくほどくわしく検証しているものもあるので、ぜひそちらをご覧になっていただきたい。

しかしそれにしても、三瓶啓二が登場しなくなる第6章あたりからの文章の乱れはいったいなんだろうか。主語がなかったり、ぶつっと途切れるように文章が終わっていたり・・・。公平に事実のみを記し、なるべく記述者の主観を排除し、最終的には歴史書を目指すという目的が果たされているかどうか、僕にはわからないが、いずれにしても、つまり主観まみれのものだったとしても、これじたいがまたひとつの証言にはなりうるとおもうし、この件に関して今後最重要の書物として残ることはまちがいないとおもう。





大山倍達正伝/新潮社
¥2,730
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