『最終講義』内田樹 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『最終講義』内田樹 技術評論社




最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)/内田 樹
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「人間はどのように欲望を覚えるのか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直り、どうやって愛し合うのか…。2011年1月22日、神戸女学院大学で行なわれ、多くの人々に感銘を与えた「最終講義」を含む、著者初の講演集。超少子化・超高齢化時代を迎えて日本の進むべき道は?学びのスイッチを入れるカギはどこにある?窮地に追いつめられた状況から生き延びる知恵とは?…いまを生きるための切実な課題に答える」Amazon商品説明より




いつかの「すばる」に掲載されていた、神戸女学院大学での「最終講義」ほか、同じ時期にさまざまな場所でおこなわれた講演を集めて文字におこしたもの。

内田樹はこの講義で教職から退いているし、その解放の喜びについて、ツイッターなどでもよく書いていたから、徐々に著作も減っていくのかなとかおもっていたけど、いまのところそんな気配はまるでない。次から次へと新刊が出るので、読むのが遅い僕なんかでは、ずっとこのひとのものしか読んでないみたいな状況になっている。これもまだしばらくは続きそう。まあ、好きで読んでいるのだから、喜ばしいことではあるのですが。


出版は技術評論社、創刊された「生きる技術!叢書」の一冊ということで、なにやらあやしげですが、じっさい、これまで以上に内容は雑駁で、ひとつの読み物として完成しているとおもいます。


池上彰などとはまたちがった意味で、このひとには、「どのような疑問を投げかけてもよい」とおもえるような器の大きさみたいなものがある。大震災でも原発問題でも政権交代でもなんでもいいのだけど、わたしたちの手に余る、ミクロにまでおよぶような巨大な事象に対したとき、「このひとはどういうふうに考えているか」ということが気になる、という種類のひとたちが、僕にもいる。そのうちの筆頭が僕では内田樹で、専門はフランス文学、あるいは武道やユダヤ、意外なところでは映画、という感じなのだけど、このひとがなにを専門としているのか、そういうことは、ここでは無関係で、なにか、物理学の統一理論みたいな、すべてをこれで説明できるというような思考の技術を修めている、そういう種類の知性におもえているのです。ツイッターでは愚痴まじりに書かれていることですが、このひとのもとにはいろいろな種類の媒体からいろいろな種類のインタビューや仕事がもちかけられる。ただ説明がわかりやすく、人気があるからというだけでは、この状況は説明できないのではないかとおもう。


本書の第6章にあたる、日本ユダヤ学会における講演を読んで、僕はこの内田樹における統一理論的なありようの正体が、わかった気がした。この講演では、こんなこといっていいのかなというほどの正直な自己分析が語られていて、日猶同祖を持ち出した明治の若者たちと同型の心理が、ユダヤと武道への関心が芽生え始めた75年当時のじぶんにはあったのであり、つまり、その初期衝動は「反米」にあったのではないかといっているのです。1975年は、ベトナム戦争が終わった年、日本人の反米感情がもっとも高まっていた時期だった。当時の若者たちは、ある種の贖罪、「自己処罰の運動」として、儀礼的な「本土決戦」を演じることを選んだと、ちょっと呆然となるほど鋭い指摘ですが、ともかく、ベトナム戦争がおわってしまったあと、そうしたふるまいの舞台がなくなってしまい、内田樹では武道とユダヤが選択されたと。



「でも、その時に僕が求めていたのは『アメリカを睥睨する知的ポジションに立ちたい』ということだったんです。アメリカは軍事的、経済的には超大国ですけれど、哲学とか思想の面では、フランスの足元にも及びません」280頁



赤裸々な告白だとおもいませんか。

こののちに、とりあえず誰がいちばん「睥睨」しているかということでモーリス・ブランショにたどりついたけど、どうも、ブランショですらが「かなわない」とおもっている人物がいるらしいということに気づき、ついに内田樹は、生涯の師となるエマニュエル・レヴィナスに出会ったということらしい。たいへんリアルな、ほんものの出会いだとおもいます。

日猶同祖論は、日本人とユダヤ人の祖先は同一であるという、都市伝説的な学説なのですけど、明治時代にアメリカに渡った誇り高い日本の若者は、その圧倒的な文明力の差に愕然となり、こうしたある種の物語にたよるほかなかった、というのが内田樹の仮説です。宗教史的にはキリスト教に先行するはずの高貴なユダヤ人たちが虐げられているさまは、ちょうど、神の国を背負ってやってきたじぶんたちのもの響きあった。すくなくとも彼らにはそうおもえた。あるいは、そういうふうにおもわないではいられなかった。そうした青年たちの心理と、75年当時のじぶんのそれは、構造的には同じではないかというのですね。

僕はレヴィナスを読んだことがありませんし、ブランショもほとんど理解できませんでしたが、いずれにしても、その感じはなんとなくわかる。事実、万物のうえに立ち、あらゆる現象を一元的に説明できる「統一理論的哲学」が物体としてあるかどうかというのは、あまり重要ではなく、ここではその技術、「そういう位置がもしかするとあるかもしれない」と感じ続けて、やれることをやっていく、そうしたありようのなかに、内田樹の「どんな質問にも明快にこたえてくれそう」な気配のもとが、あるのではないかとおもうのです。

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