朝からナマ放談 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

つむじがふたつある。tsucchiniです。


昼から仕事なんですが、久しぶりにうだうだしゃべってみようかなー。



最近の子は金もってる。

万券とか、小学校低学年くらいでも平気でもっていて、トレーディング・カードをオトナ買いしたりする。

そういう子は、不思議なことにたいてい金を投げる。

そして、どんな店員に対してもたいていタメ語である。

これは経験談なので、それが普遍性をもって通用するとはまったくおもわないけど、しかし不思議なことだ。

たほう、カードの掲示されているボードの前でぶつぶつひとりごとを言いながら迷いに迷って一枚のカードを選び、息も絶え絶え、渾身のちからをこめて小銭をつきだす子供は、だいたい礼儀正しい、いい子なのだ。


不思議だ。


最近の子の経済的状況はシックスポケット というらしい。



徹底してミクロな、主観的なはなしに限らせてもらうと、たとえば僕が子供のころなどは、たぶんむしろ恵まれていたほうで、中学受験期など、文学作品に限ればということだが、小説に関してはまったく金が惜しまれなかった(だから「勉強に必要だから」と納得させて新潮文庫のシャーロック・ホームズを読破したりしたものです)。

しかし、その他のことについては、特になにか欲しいものがあって、それをどうにかして手に入れるというのは、たいへんなことだった。もともと僕は物欲というのが皆無の人間なので、なにかを強烈にほしがるということが少なかったとはいっても、ほんのちょっとしたものでも…たとえば小田急線のキオスクに売っている「梅ぼし純」とか…むかしから大好きなんですが…そういう些細なものでも、こちらは一計を案じるしかなかった。



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父親なんかはその傾向が特に強く、いまでもよく覚えているのだけど、「小学三年生」だったかその手の雑誌を、なんの気まぐれかはじめて父親が仕事帰りに買ってきたことがあった。だけれど、なんというタイミングの悪さか、その日母親と出かけていた僕は、こちらもなんの気まぐれなのかほとんど読んだことのない、しかしどこかで読んでみたいとはおもっていた同じ雑誌を買ってもらっていて、うちに帰ってからおみやげがかぶってしまったことを知り、なにかめったに見られない父親の優しさを台無しにしてしまったような気分になり、ひどく泣いたものでした。


べつにそうした環境にあるべきだとか、そのほうが子供の成長にいいとか、強弁するつもりはさらさらありませんが、しかし、毎週のようにやってきては万券を投げつけ、タメ語で自分の三倍から下手すると六倍も生きている人間にひとことで商品を指示し、限度いっぱいにカードを買い占め、友達に配って嬉々としている子供が、すばらしい人格者になるとは、僕にはとてもおもえません。もちろん、彼もまたお客様でありますし、フリーターの小説家志望が500円の文庫本を買おうか迷ってるようなこのご時勢に、ありがたいはなしではあるのですが、だから、これは、僕の批評家としての面からの、しかし感情的な、複雑なかたちの指摘だと考えてください。


もちろん、子供はそうした態度がいかなる意味をもつかなどということには、気づくことができない。彼はただ、まわりにいる大人のマネをしているだけ。それは「社会的にちからをもっているものは周囲の人間に威張り散らすことができる」という、身も蓋もないがある意味では真実をついた命題の、歪んだ受け止め方でもある。つまり、「ある他者に威張ってみせる」というその身振りが、彼の社会的価値、あるいは位置を示しているという考え方が、けっこうふつうに、だけどたぶん無意識に広がっているということなのではないかとおもう。


こういう日本人の威張り屋気質について、推理小説の大家・島田荘司は、「敬語」という日本語独特の言語状況に原因の一端があると看破する。敬語ひとつでぼくたちは、向かい合ってはなす二者の立場を端的に示すことができる。これは『御手洗潔の挨拶』所収「御手洗潔の志」にわかりやすく書かれている。



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子どもの真の姿はこうあるべきだ、こういう子供こそがかわいい、というようなことをかたくなに主張したいわけではないのだけれど、もし僕らがこうした“子供らしくない態度”になにか覚えるものがあるとしたら、いちどくらいはその原因のようなものを追究してみたほうがいい。けっきょくのところ、それは他者性というものを獲得すべき人生の若い段階に、いわばそれを無視して生きることをこそ礼賛して、「威張ることの価値」を叩き込まれているということへの、僕らの側の不安感なんではないかとおもう。



すでに他者性を獲得して、「世界は思い通りにならないもの“だけ”から成り立っている」という、人間にとってもっとも基本的なことを身につけている大人が、ある種のサバイバルのテクニックとしてこうした考えを採用することは、もしかしたら必要なのかもしれない。空手の帯制度同様、敬語が人生における「耐え難い敗北感」を保留するばあいもあるでしょう(同時に怠惰をうながすばあいもあるかもしれないが)。しかし、このことの表面に浮いてくる「勝ったものは敬語をつかわず、威張れる。したがって威張れるものは勝者である」というような短絡な物事の陰影だけを子供に授けてしまうのはいかがなものかと。

敬語が存在していることで、逆説的に“それをつかわない”という点が威張り屋気質を醸成するということは、あるでしょう。それなりの意味と民族的必要性があって敬語も敬語として成立している。僕らには芦原 英幸がそうしていたように、すべての人間に敬語を用いるくらいの心がまえが必要なのかもしれない。