最近買って、手をつけていない本たち。
- 教養としての歴史 日本の近代〈上〉 (新潮新書)/福田 和也
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- 教養としての歴史 日本の近代〈下〉 (新潮新書)/福田 和也
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- テクストから遠く離れて/加藤 典洋
- ¥1,890
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- ナイン・ストーリーズ―Nine stories 【講談社英語文庫】/J.D.サリンジャー
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- 純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)/中沢 新一
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- 実録・外道の条件 (角川文庫)/町田 康
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いまからすごいアホなはなししますけど、僕はたとえつっこみがすごい好きな人間だった。得意かどうかはともかくとして、そういうことを考えるのがすきだったのです。
ところが、最近は、というか最近まで気づいてすらいなかったので、そういう知的な話法そのものに目がいっていなかったということになるのかもしれないが、ぜんぜんたとえてないのだッ。
いろいろ考えてみたけど、これはたぶん以前より読書の評論が占める割合が増えてから起こり始めた気がする。
なにかにたとえてものごとを他者に伝える、という方法は、みんなふつうにやっているけど、じつに高度な文学的アビリティだとおもう。
というのは、たんによく似たもの、想起させるもの、想起させるものを想起させるものをくちにするだけではなく、それを他者に伝えるものとしたとき、媒体となる表現がことばのおかれる環境(仕事、遊び、ブログ、小説…)に浸透する度合いや、通じる水位などを瞬時に知覚しなくては、少なくとも“もののたとえ”としては成立し得ないから。
そして、こうしたことの知覚は、よく知られているように、日本人の得意とするところの能力でもある。
どうしてこれが文学的アビリティと呼べるかというと、そもそも文学のしてきたことの本質が、小説世界を介し、“共有”することで、「他者的ななにものか(作者とは限らない)」に“向かっていく”ところにある。と、僕はおもうから。
「~みたいな」という話法は、輪郭をぼやかし、論旨を曖昧にするため、外国の人間からは厭われがちだし、たとえばビジネスの現場などでも、はなしが曖昧ではわけがわからないので、基本的に淘汰されるべきものと考えられているかもしれない。
だけれどこれはこれで高度なコミュニケーション技術であり、もっと卑近な、世間話レベルでいえば、曖昧さを忌避し、撥無することは、「森羅万象あらゆるものはことばをつかって表現可能」と考えるような唯物的な世界観の果てにくるもののようにおもえる。
ちょっとはなしがおおげさになっているけど、僕がいいたいのは、「ことばでいいつくそう」とする種類のもの(そうしう傾向のあるもの)ばかり読んで、「ことばでいいつくせないこと」をことばによる物語に付託するかたちであらわすストレートな意味での小説をぜんぜん読んできていないから、僕のなかでももののかんがえかたというものが微妙に変わってきているのかもしれない、ということです。
今年あと何冊読めるのかわかんないけど、これは来年にむけての課題となるかも。