外山恒一の「学生運動入門」第5回(全15回) | 我々少数派

外山恒一の「学生運動入門」第5回(全15回)

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 先に述べたとおり、六〇年安保闘争を経ても、「革命には前衛党が必要だ」という神話はまだ生き延びています。とはいえ前衛党(の候補)が共産党と革共同とブントの三つぐらいであれば、うち二つは「ニセの前衛党」なのだということで神話を守り続けることもそれほど難しくはなかったかもしれません。しかし、六〇年代前半の過程で状況が錯綜していきます。まず安保闘争敗北後すぐにブントが自壊して三分裂します。ブント残党の一部が革共同に流れ込んだことが却って革共同を混乱させたのか、まもなく革共同自身も二つに割れてしまいます(それが以後現在まで新左翼の二大党派として生き残ることになる中核派と革マル派です)。ブント本体の再統合も目指されますが、統合されては再分裂、ということを繰り返し、結果として「ブント系」諸党派が乱立します。さらに共産党からも、先の二つに遅れて党に愛想を尽かした人々が新たに分裂して新しい革命組織を立ち上げます(構改派)。共産党より穏健で中途半端な左翼政党だと見なされていた社会党からも、学生党員の一部が過激化して飛び出します(解放派)。それぞれが離合集散を繰り返し、六〇年代半ばを過ぎる頃には「自称(唯一無二の)前衛党」の数は十ではきかなくなります。これで「十以上ある自称前衛党のうちどれか一つが真に唯一無二の前衛党だ」という神話を信じろという方が無理でしょう。「革命には前衛党が必要だ」という大前提じたいが次第にウサンくさいものに思えてきます。主観的にはマルクス・レーニン主義を信奉する革命派ではあっても、とりあえずどこの党派にも属さないノンセクト・ラジカルの存在が次第に目立つようになります。
 そしてこのことが学生運動の形態にも大きく影響し始めました。というのは、この六〇年代半ばぐらいまで、学生運動の中心には各大学の「自治会」があったのです。ほとんどの大学で、学生は大学に入学すると自動的に自治会に加入させられるしくみが、戦後すぐの段階で作られました。自治会は大学機構の一部であり公的な存在です。べつに最初から学生運動のために作られた組織ではありませんが、学生の要望をとりまとめて大学当局や教授会などと交渉する役割もありますから、自然、自治会が学生運動の中心になりますし、公的な組織である自治会を通して提出された学生の要求は当局や教授会の側もムゲにはできません。形式的には、各大学の学生運動はそれぞれの自治会が指導しており、前衛党が共産党しかなかった時代には共産党の学生党員が自治会執行部を握ることで、事実上、共産党が学生運動全体を指導していたわけです。ところが、五〇年代末に共産党以外の前衛党が、しかも学生を中心に結成され始めると、共産党は学生運動を掌握するこのシステムを維持できなくなります。ブントや革共同が執行部を握る自治会があちこちの大学に誕生し、共産党はむしろ学生運動の「反主流派」に転落してしまいます(六〇年安保闘争の前後の文章で「全学連主流派」とあればブント系、「反主流派」とあれば共産党系の意味です)。
 今つい注釈なしに出してしまいましたが、「全学連」という言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。これは「全日本学生自治会総連合」の略で、その名のとおり要するに各大学の自治会が連合した全国組織です。六六、七年頃までの学生運動の中心にはこの全学連があり、全学連の指導部を握ることは日本の学生運動全体の主導権を握ることを意味していましたから、各「(自称)前衛党」はそのことに躍起になっていました。ただし本当にそうだったのは六〇年安保闘争の頃までで、反主流派に転じてしまった日本共産党系の大学自治会はまもなく本家の全学連を脱退して、共産党系の全学連を別個に勝手に立ち上げますし、本家の全学連の側も、ブントが消滅し革共同が二つに分裂すると中核派系全学連と革マル派系全学連に分かれてしまいます。さらに解放派系全学連も誕生します。全学連そのものがいくつもあるわけですから、「全学連の指導部を掌握する」こと自体が各党派にとって(同語反復的な意味でしかない)無意味になりますが、それでも個別の大学自治会の執行部を握ることは引き続き重要です。ある大学の自治会を握れば、そこが自派系全学連を構成する個別自治会の一つになるんですから。
 したがって、自治会は各党派の熾烈な政争の場になります。一般学生の要求を議論して集約することよりも、党派利害を優先する空気が濃厚になるのです。次第に勢力を増してきた「ノンセクト・ラジカル」の学生たちにとっては、自治会の存在は極めてバカバカしいものに感じられ始めます。「学費値上げ反対」とか「サークル棟の建て替え反対」とか、各党派にとっては政争の具にすぎないが、一般の学生にとって切実なものと感じられる問題は、自治会を通して運動を進めるよりも、それ専用の組織を別に立ち上げた方がいいという話になります。そうして六〇年代半ば以降、各大学にポツポツ登場し始めるのが、具体的な個別要求のために有志だけで構成される「全学闘争委員会」とか「全学共闘会議」とか、組織の名称は大学によってマチマチなのですが、「全学共闘会議」という場合が一番多かったのでそう総称されることになった、つまり「全共闘」です。
 整理しておくと、全学連は各大学の自治会の連合体であり、個々の自治会は各大学の公的な機関、大学機構の正式な一部です。これに対して全共闘というのは何らかの具体的な問題について関心を持つ学生たちが勝手に結成し始めた、公的・制度的な裏付けのない云わば任意団体です。自治会の会員はその大学の学生全員であり、多くの大学では入学に際して自動的に大学側が自治会費を代理徴収していました(だから各党派にとってその主導権を握ることは自動的に多額の活動資金を確保できる手段でもありました)が、全共闘にそんな仕組みはありません。自治会には一応、執行部の選出や議決の方法などに関する(往々にして各党派が暴力的に死文化させるとしても)明文化された規約がありますが、全共闘にはそれもありません。要するに全共闘は「やりたいことをやりたい奴だけで勝手にやる」ための組織なのです。
 「プレ全共闘」と呼ばれる、全共闘方式が各大学に浸透し自覚的に追求される以前の萌芽的な闘争が六五年頃からいくつかの大学で始まり、六七年頃から全共闘こそが全学連=公的自治会に代わる日本の学生運動の中心的な闘争形態となります。六八、九年がそのピークで、最も熾烈な闘争となった日大全共闘の一瞬の勝利(学生側の要求をいったんは当局に丸呑みさせた)が六八年九月、若い人たちでもその映像ぐらいは何かで見たことがあるだろう東大全共闘の安田講堂での機動隊との攻防戦が六九年一月のことです。ちなみに映像が派手なので当時を回想するテレビの特集などで繰り返し使われますし、全共闘と云えば安田講堂攻防戦の東大が中心であったかに誤解している若い人が多いかもしれませんが、少なくとも当時最も英雄的に称えられていたのは日大全共闘(中でも芸術学部闘争委員会)で、さらに云えば全共闘運動には「この大学がそう」と云えるような中心はありません。各大学でそれぞれ勝手に結成されて、それぞれ勝手に闘争を展開していたのですから「中心がない」のは当然です。
 繰り返すように全共闘運動は党派に属さない個人的過激派、ノンセクト・ラジカルの学生たちが主導したものですが、それが学生運動の中心的役割を果たすような情勢になると、各党派もこれを無視できず、慌てて介入し始めます。「おれたちも是非、全共闘の一員として参加させてくれ」というわけです。もちろん全共闘の側にこれを拒む理由も(自治会の運動を形骸化させられたなどの反感はあったかもしれませんが)、そもそも規約がないのですから参加したいという者を参加させない明確な根拠もありません。新左翼運動総体に敵対心を持つ共産党以外のあらゆる党派が全共闘運動に参入します。とはいえあくまで有志の集まりである全共闘ではノンセクト・ラジカルの学生も党派の学生も個人として対等です。それまでの自治会の運動と違って議決の方法すら決まってないのですから、自治会を掌握するためには意味があった、党派には有利な多数派工作などの手法も全共闘では役に立ちません。全共闘の会議では、多数決のような議決もなく、時間無制限で丁々発止の議論が延々と続き、要はその場の勢いで何となく闘争方針が決まっていくだけです。決まっていくと云っても、個々のメンバーがその決定に従う義務もないわけですから、議論の過程で個々のメンバーが「おれ自身はこうする」という決意を固め、それぞれそれを実行に移していくだけの話です。「やってられん」と思えば勝手に抜けるのも自由です。そんな闘争で党派が主導権を握れるはずもなく、全共闘運動は、あくまでノンセクト・ラジカルの優位のもとに、形態としてはノンセクトと諸党派の共闘として推移していくわけです。
 ところが闘争が激化し、大学当局が自力で学生たちと向き合うことを諦めて機動隊を導入するようになると次第に状況が変わってきます。各大学に築かれたバリケードは機動隊によって次々と解除され、さすがの全共闘学生たちの間にも無力感や厭戦気分が蔓延し始めます。こうなってくると、組織的に武装し、またメンバーに闘争継続を命令しうる党派の存在感が大きくなるわけです。かつての自治会同様、全共闘もまた各党派の政争の場と化します。六九年夏ごろからの状況です。