原武史『滝山コミューン一九七四』と北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』 | 我々少数派

原武史『滝山コミューン一九七四』と北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

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 北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んだ。
 『思想地図』の3号か4号かで、ちょっと気になるというか、好印象だったので、「どうせ東浩紀の類友」などと毛嫌いせずにちゃんと読んでおこうと思い直して。
 意外だった。
 東浩紀とはぜんぜん違うじゃないか。いやはやよく分かってらっしゃる。アカデミズム系の同世代が書いた現代史分析で、初めてマトモなものを読んだ思いがする。
 もちろん不満はある。まず連合赤軍事件を「60年代的」な「反省」の極点とみなしていること。連赤が重要な事件であることは否定しないが、しかしそれでも実はかなり特殊で傍流的な出来事である。全共闘的な問題意識の「極点」は連赤ではなく反日武装戦線なのである。しかし反日武装戦線については一言の言及もない。せっかくいい分析をしているのに、惜しい。これが不満の第一(あと内ゲバに関してもかなり表層的な理解しかしていないようだ)。
 不満の第二は、やはり80年前後のサブカルチャーやポストモダン思想については詳細に触れてあるものの、本来はそれらと同質のものでありながら諸々の事情でそれらから切断されたまま展開した80年代初頭の「新しい政治運動」について完全に無知であるらしいこと。まあそこらへんを初めて本格的に掘り起こした私の『青いムーブメント』が刊行される以前の著作であるから仕方ないといえば仕方ないが、それらについて無知であれば、本当は「1970年前後」「1980年前後」「1990年前後」「2000年前後」というふうに時代を区切るべきところを、「60年代」「70年代」「80年代」「90年代」「00年代」としてしまう。そしてそう区切ると必ず分析を誤る(はずなのだが、北田のこの本の場合には、後述するように「80年代半ばの断絶、あるいは変質」に気がついているため、「80年代」「90年代」などと誤って区切りつつも、実質、「80年前後」「90年前後」的な分析になっている)。
 が、それらの不満を差し引いても、『嗤う日本の「ナショナリズム」』はよい。私のものを除いては、これまでの誰が(東やら、大塚英志やら大澤真幸やらその他大勢が)書いた80年代史、90年代史よりも優れている。
 まず全共闘それ自体をある程度は理解できているらしいのがよい。先日読了したばかりの原武史『滝山コミューン一九七四』は、扱われている内容そのものは重要で、有益な本なんだが、どうも著者は共産党と全共闘とを一緒くたに理解(誤解)していることが明らかで、私なんかより一世代上の、しかも近現代史の研究者にしてこの程度なのかと唖然とした。そのぐらい、全共闘というのはそれが終わった後に自己形成した後続の世代にとっては難解なものであるらしい。東などはやはりまったく理解していないが、北田はこの点、問題ない。
 そして糸井重里や雑誌『ビックリハウス』に象徴される80年前後のサブカルチャー運動を、全共闘的なもののさらなる展開として正しく理解しているところがよい。そしてそして、80年代半ば以降の、東などが「動物化」と分析したオタク文化的なものをその「頽落」形態として否定的に正しく理解しているのがよい。もちろん「2ちゃんねる」や「ネット右翼」に象徴される諸々についても。
 さらに、スガ秀実や笠井潔はもちろん、呉智英や浅羽通明まできちんと読んでいるのがよい。東はきっと読んでいないだろう。どうもフツーのアカデミズム方面の連中は、呉や浅羽をほとんど読んでいないような印象がある(「すべからく」を「すべて」の意味で誤用して、「あ、こいつは呉智英を一度も読んだことがないな」と分かることがよくある)。あと、ナンシー関についても詳細な分析があって、たしかに同時代の政治運動シーンに無知であっても、浅羽やナンシー関を熟読していれば、状況を完全に見失うことは回避できるかもしれないと合点がいく(さらには呉智英を読んでいれば、全共闘の70年以降の展開について津村喬という重要人物が存在するということに、スガの一連の全共闘論が登場する以前に気づかされる。かくいう私もそうだった)。
 ともかくアカデミズム方面の同世代が書いたマトモな著作に初めて出会って、ちょっとうれしいのである。当然こういうアカデミズム方面の人は、論理構築能力に関しては私なんかより遥かに優れているわけで、基本的な視点が一致しているから、東の著作などのようにわざわざ換骨奪胎して受容する必要がなく、まっすぐに参考になるし、勉強になる。
 やっぱり先入観(「どうせ東のルイトモだろう」とか)で人を判断してはいけないんだなあ。