僕たちはクラスメイトじゃねえよ | 我々少数派

僕たちはクラスメイトじゃねえよ

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 昨日に引き続き、しつこく鴻上尚史の『僕たちが好きだった革命』批判を。
 私は演劇には(演劇にかぎらずアート一般に)まったく興味がなく、鴻上の芝居もまだ(今回のを含めて)2つしか観たことがないし、しかもいずれもナマではなくビデオで観たにすぎない。ビデオで観たって演劇を観たことにはならないのだが、ナマで観なければならない必然性をテント芝居以外で感じたことはないので、べつにヒケ目もない。前に少し触れた『焼肉ドラゴン』にしても今回の鴻上のにしても、なんでわざわざ膨大な練習時間などの手間ひまを必要とする演劇の形式に落とし込む必要があるのか、まったく分からない。たぶん「必要」なんかなく、単に趣味の問題で、私は趣味的なものには興味がない。演劇も音楽もその他のアート諸ジャンルも、私には趣味としか思われず、趣味のくせに偉そうである(自分たちがまるでセンスが良いかのように思い込んでいる)からムカついて、つい「反芸術」などと口走ってしまう。私がかつて書いた脚本「アリババが四十人の盗賊」もそういうアート全否定の内容であること、読めば分かるとおりである(だからあの脚本も、読めばいいもので、わざわざ舞台化する必要はそもそもなかったと云える)。
 という話はここではまったく関係ない。
 私は高校時代以来の鴻上の熱烈なファンで、しかしそれはラジオのDJとしての、あるいはエッセイストとしての、ということで、彼の演劇については、他の演劇と同様、ほとんど興味がないのである。もちろん、彼のラジオやエッセイに接して、こういう人が作る作品なら間違いなく面白いに違いないと思うし、実際これまでに観た2作品はすごく面白かったのだが、ナマの舞台に接するのはカネがかかる(DVDは高かったが、スタッフS嬢と2人して観劇に行くよりは安かった)。だからテント芝居を除いては、私はまず観劇になど行かない。
 という話もここではあまり関係ない。
 要は、私はずっと鴻上が好きだし、今回の『僕たちが好きだった革命』も基本的には大好きだ。何年か前の『リンダ リンダ』も、観てはいないがエッセイなどで「今こういうものをやっている」話を読んで共感した。脚本だけ読んだ作品もいくつかあり、どれもすごく面白かった。
 で、『僕たちが好きだった革命』も、全共闘を知らない世代(鴻上もそうだ)が、全共闘を誤解して一方的に思い入れ、作品化したものとしてはまぎれもなく大傑作である。似たような他の作品、例えば宮藤官九郎(彼は私が東浩紀なんかよりよっぽど同世代性を強く感じる数少ない著名人の1人ではある)が脚本を担当した映画版『69』などとは比較にならないぐらいよくできている。
 私はただ、しかし全共闘ってのはここに描かれているようなものではないよと一応云っておきたいだけだ。私は全共闘を支持し、その継承を常に模索してきた、全共闘以降の世代では極めて稀な存在であり、だから間違った全共闘イメージが再生産され続けることに困ってもいるからだ。
 鴻上の誤解が、好意的な誤解であることを私はまったく疑ってはいない。上記のとおり、『僕たちが好きだった革命』は、「全共闘を知らない世代が、全共闘を誤解して一方的に思い入れ、作品化したもの」である。
 前回も触れたように、作中では主人公の「だって僕たちはクラスメイトじゃないか」というセリフが印象的に何度も何度も繰り返されて、当初はその違和感が笑いの効果を生むのだが、徐々に徐々に、やがて感動的な効果を生むものへと変質していく。
 しかし、このあたりがまさに、鴻上の全共闘に対する「好意的な誤解」なのである。あるいは主人公が、「未来」や「歴史の進歩、人類の進歩」を無邪気に信じているキャラクターとして描かれているところにも、この「好意的な誤解」が色濃く反映されている。鴻上は全共闘運動を支えていたメンタリティが、そういうものであったに違いないと誤解しているのである。
 ところがもちろん、全共闘はそういうものではなかったのであり、むしろそのことが全共闘の画期性だったのである。
 全共闘はむしろ、「僕たちはクラスメイト」であることを徹底的に否定した運動である。「僕たちはクラスメイトじゃないか」とか云ってんじゃねーよ、というメンタリティが運動化したものが全共闘なのである。普通、そんなものは運動化しない。「僕たちはクラスメイトじゃないか」というメンタリティの方がむしろ通常は運動化するのであって、「『僕たちはクラスメイトじゃないか』とか云ってんじゃねーよ」というメンタリティは普通、きわめて私的・個人的なものにとどまる他なく、場合によっては運動に敵対するものとして糾弾の対象ともなりかねないものである。それが、驚くべきことに運動化してしまったのが全共闘なのである。そして、だからこそ「全共闘はすごい」のであって、ここにこそ感動しないのであれば全共闘を理解したことにはならないのである。
 「大学解体」「学校解体」、あるいは「卒業式粉砕」といった全共闘のスローガンはつまり、「『僕たちはクラスメイトじゃないか』とか云ってんじゃねーよ」ということでもある。
 普通は運動を後押しすることになる「僕たちはクラスメイトじゃないか」というメンタリティを、例えばスガ秀実(全共闘とは何であったのかをよく理解している極めて珍しい当事者の1人である)は、「ナショナリズム」として批判している。そして「僕たちはクラスメイトじゃないか」という「ナショナリズム」が、全共闘以前の左翼運動(新旧を問わず、つまり60年安保闘争さえもを含めた左翼運動)を支えており、全共闘の画期性はこれを否定したところにある(あるいは、全共闘運動とはこの「ナショナリズム」を脱却していく過程であった)というのがスガの「68年」論である。
 だから全共闘を「僕たちはクラスメイトじゃないか」という「ナショナリズム」の枠内にあるものとして描く『僕たちが好きだった革命』は、全共闘への「好意的な誤解」に基づいた作品にすぎないのである。その必然的な帰結として、主人公は、そして鴻上は「内ゲバ」を最後まで理解できない。
 物語のクライマックスへ向けて、主人公と、かつて主人公たちの高校全共闘のリーダーであり、現在では「転向」して、主人公たちの闘争を当局の先頭に立って弾圧する役目を負わされる教頭との相互批判的な対話が熱を帯びてくる。その過程で教頭は、主人公に「これを読め」と何か本を渡す。本は封筒に入っていて、具体的に誰の何という書物であるのか作中では明らかにされないが、後で出てくるセリフから、それが立花隆の『中核vs革マル』であろうことは分かる人には分かる。そして主人公は、「なぜクラスメイトが殺し合わなければならなくなるのか、どうしても分からない」のである。
 もっとも、本来なら、少なくとも鴻上を含めて全共闘終焉後の学校生活を体験した世代が、そのことを「分からない」はずがないのである。そこでは、「『僕たちはクラスメイトじゃないか』とか云ってんじゃねーよ」というメンタリティの方が支配的であったはずだからである。そしてそのメンタリティこそは、実は全共闘が依拠し、全面的に開花させたものだ。全共闘を積極的に評価するということは、それを肯定的にとらえることでなければならず、間違っても「僕たちはクラスメイトじゃないか」というメンタリティの復活を夢想することであってはならないのである。