私たちの望むものは…あなたを殺すことなのだ | 我々少数派

私たちの望むものは…あなたを殺すことなのだ

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 前回書いた、東京で購入した「バカ高くて怪しげな某DVD」というのは、実は鴻上尚史の『僕たちの好きだった革命』の舞台映像である。(http://www.thirdstage.com/video/internetorder.htmlでも売ってる)
 評判が良かったのだろう、2年前の作品だが、今また再演で全国をツアー中である(公式サイトhttp://www.bigprop.com/nk/kakumei/index2.htmlを見ると、とりあえず明日までのようだ)。
 その粗筋というか設定は、以下のようなものだ。
 1969年、自主文化祭の開催を要求する高校全共闘の校内集会に機動隊が導入され、1人の参加者が機動隊の発射したガス銃を頭部に受けて意識不明となる。目を覚ますと、30年が経過していて1999年。もう一度同じ高校に復学して、時間が止まった地点から生き直すことにしたものの、何かというと“クラス討論”を提起し、「だって僕たちはクラスメイトじゃないか」と口走る彼は当然、浮きまくる(1人だけ明らかにオッサンなんだし)。しかし奇しくもそこに文化祭の運営をめぐって一部生徒と学校当局が対立しつつある状況が。生徒たちを弾圧する役目を担う教頭が、かつての闘争のリーダーだったりして……。
 この設定で、面白くならないはずがない。
 つい今しがた、それを観終わったところなんだが、すでに活字で脚本を読み、細部まで知っていたにもかかわらず、やはり面白すぎる。

 で、しかし少し「ないものねだり」を。
 劇中歌として岡林信康の名曲「私たちの望むものは」が使用される。
 こんな歌詞である。

          ※

私たちの望むものは
生きる苦しみではなく
私たちの望むものは
生きる喜びなのだ

私たちの望むものは
社会のための私ではなく
私たちの望むものは
私たちのための社会なのだ

私たちの望むものは
与えられることではなく
私たちの望むものは
奪いとることなのだ

私たちの望むものは
あなたを殺すことではなく
私たちの望むものは
あなたと生きることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

          ※

 ココで歌詞だけ読んだらどうだか分からないが、少なくとも『僕たちが好きだった革命』のストーリーの中で歌われると、非常に感動的である。
 が、歌われ始めると同時に、居心地の悪さを感じた。というのも、私はこの歌を何度も聴いたことがあるからだ。この歌は、これだけでは終わらないのである。
 続きはまず、こうだ。

          ※

私たちの望むものは
くりかえすことではなく
私たちの望むものは
たえず変ってゆくことなのだ

私たちの望むものは
決して私たちではなく
私たちの望むものは
私でありつづけることなのだ

今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

          ※

 ここまでは、使われていた。ここまでは「ギリギリ」というか、むしろ今ふうのろくでもない個人主義に合致しさえして、99年という時代、あるいはこれを上演した2007年という時代、さらには再演している今現在を時代背景として構想しうる「革命」の物語を大いに盛り上げる。
 しかしこの歌は、さらに以下のように続くのだ。

          ※

私たちの望むものは
生きる喜びではなく
私たちの望むものは
生きる苦しみなのだ

私たちの望むものは
あなたと生きることではなく
私たちの望むものは
あなたを殺すことなのだ

今ある幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ不幸せに今跳び立つのだ!

          ※

 この最後の部分は、やはり使用されていなかった。
 そしてそれは仕方のないことだ。「生きる喜び」ではなく「生きる苦しみ」を、「あなたと生きること」ではなく「あなたを殺すこと」を、「幸せ」ではなく「不幸せ」を真摯に希求するなどという屈折しまくったこの歌詞は、間違いなくこの芝居を壊す方向にしか作用しない。
 だが、この「分かりにくさ」こそが全共闘、あるいは「1968年の思想」なのだ。鴻上自身が自覚している(その上であえて捨てた)のかどうかは分からないが、したがってこの『僕たちが好きだった革命』という演劇作品は、全共闘を素材としながら、その闘争の水準にはまったく拮抗しえていない。
 だからといって鴻上を責めるのも酷だとも思う。「私たちの望むものは」を最後まで丸ごと使ってそれでも違和感のない「今」の闘争の物語を(万人の、とは云わぬまでもそれなりの支持を得られる形で)構想することが、ものすごく困難なのはよく分かるからだ。
 雨宮処凛や松本哉がもてはやされ、外山恒一(そして矢部史郎?)はスルーされるしかない「必然性」と、これは同型の問題なのである。

 私は、鴻上がラジオで尾崎やブルーハーツを熱く語るのを毎週のように聴きながら、私なりの「闘争」の渦中にいた高校時代以来、(この『僕たちが好きだった革命』も含め)今に至るまで一貫して鴻上を断固支持してはいるのだが。