先週末の日曜日に放送されたBS朝日「ザ·インタビュー~トップランナーの肖像」で、チューリップの財津和夫がかつて福岡市内にあった福岡競輪場の中の食堂を両親が経営し、時には父親に頼まれて車券を代わりに買いに行った話などを、今回の聞き手である映画監督のヤン·ヨンヒ=簗英姫氏に語っていたが、若い世代は福岡競輪場と言ってもピンと来ない人も多い。それも仕方のない話であり、廃止されたのは半世紀以上も前で現在競輪場をリアルタイムで知っている人は60代後半以上なので、もう遠い昔の話になった。

 福岡競輪場は現在、貝塚公園に姿を変えている。園内には蒸気機関車と寝台車両の他、現在の日本エアコミューターの前身である日本国内航空で使用されていた英国製の旅客機「デ·ハビランド114ヘロン」が静態保存されているが、とくにヘロンは国内ではここでのみしか保存されていないという(広島·府中市にも、ヘロンに別の飛行機のエンジンを取り付けた通称「タウロン」が保存されているが、純粋なヘロンは貝塚公園のみである)。また、貝塚公園はすぐ近くに東警察署があるからという訳でもないが、交通公園という事で公道を模したコースが設置されてゴーカートを走らせたり、交通ルールを学べるようにもなっている。休日になれば家族連れや鉄道好きが足を運ぶ(静態保存されている鉄道車両だけでなく、隣には地下鉄箱崎線と西鉄貝塚線の貝塚駅がある。貝塚駅は以前は競輪場前駅という名であった)
この憩いの場でかつての競輪場の名残を見つけるとするなら、園内にある傾斜のきついスタンドが良かろう。ここは競輪場のバンクの一部で、その横にあった立ち見スペースやそこにつながる階段も残されている。

 1万5000人を収容し、当時の国内における競輪場の中核の1つであった福岡競輪場は重賞レースも行われていたが、その終焉の原因は現在繁華街の天神の北にあるボートレース福岡=福岡競艇場の影響であった。中心部の近くにある競艇場の方が交通の便は格段に良く、そのおかげで競輪場への客足は次第に減っていく。さらに周辺地域の人口の増加で街の開発が優先されて競輪場の役割は終わったと判断された結果、今から55年前に競輪場は消えて近くの駅も貝塚と名を変えた。

 最後に、財津のダンナの両親は第2次世界大戦後に朝鮮半島から引き上げた際に親戚を頼って福岡市に来ると、博多湾の埋め立て地にある開拓農場でブタを飼育し、その農場の敷地内に市が競輪場を造った事をきっかけとして、場内に食堂を開いたという。財津のダンナは「レースが終わった後に外れ車券が舞う光景は、子供心に不思議に感じた」と語っていたが、そんな貴重な経験はなかなかできない。1度、バンク跡のスタンドに座ってその光景を想像してみるのも良いであろう。