最近は証明写真ボックスの利用が多い。不況のあおりで転職やパート、アルバイトなど採用試験で必要となる履歴書の写真や女性が美容院に行った後に記録として写真に残したり、スポーツの大会や発表会のパンフレット用写真にサッカークラブのジュニアチームの入団セレクション申込用の写真など全国に15000台あると言われる証明写真ボックスでは、700円で現代社会の縮図が写し出されていると言っても過言ではない。そんな証明写真ボックスは1935年頃に考案されたというが、「生みの親」は何とウルトラマンの生みの親でもあり、「特撮の神様」とも呼ばれた円谷英二氏である。

 もともと飛行機乗り志望であった円谷氏は当初は日本飛行学校に進み、その夢をかなえようとしたものの、教官であった玉井清太郎氏が学校に1機しかない飛行機で墜落事故を起こして帰らぬ人となり、学校も閉鎖された。その後やむなく知人が経営する玩具メーカーの内海玩具製作所に就職した円谷氏はここで新たな玩具の開発を担当し、現在のキックボードの原型になる「自動スケート」を開発、特許を取る。

 その後円谷氏は証明写真ボックスの原型の「スピード写真ボックス」を開発したが、もともと円谷氏は活動写真=映画を見ても映像よりも映写メカニズムに興味を持ち、子供の頃は貯金をはたいて子供用の映写機を購入して巻紙のフィルムで手製の映画を製作していた。その映写メカニズムへの興味や子供の頃の経験が、証明写真ボックスにも生かされたという訳であるが、まさに「好きこそ物の上手なれ」という言葉を地で行ったと言えよう。

 円谷氏はその後、会社の職工と一緒に行った花見で職工が天然色活動写真会社の若手社員と大喧嘩になった時にその仲裁に入った事で活動写真会社の上司に気に入られ、移籍する事になったのだが、この花見の喧嘩がなければ「特撮の神様」と呼ばれる事もなかっただろうし、ウルトラマンを生み出す事もなく、ただ「スピード写真ボックスの生みの親」としてのみで後世に語り継がれたと思う。同様にあの飛行機事故がなければ、「スピード写真ボックス」も今はなかったか別の人が発明していたかのいずれかである。こうしてウルトラマンと証明写真ボックスという世に知られた2つの生みの親となった円谷氏は、やはり「運に恵まれた」と言っても過言ではない。