映画「東京島」の原作といわれる「アナタハンの女王」(1950年)とはどんな事件だったのか(3) | ジャーナリスト 前坂俊之のブログ

映画「東京島」の原作といわれる「アナタハンの女王」(1950年)とはどんな事件だったのか(3)

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和子は1950年に米軍サイパン島軍に救出

和子はEの暴力に耐えられず、逃げ出し、昭和二十五年六月二十九日、米軍サイパン島司令のジョンソン少佐の捜索船に救助された。

D殺しの犯人がEであることを和子が脱出前にバラしたために、島で裁判が開かれ、Eもその犠牲になった。船長Mも同二十六年一月に血毒で亡くなり、計十二人の犠牲者が出た。残りの連中が全員救助されたのはそれから半年後であった。

結局、六年間に和子は五度夫をかえ、四人が亡くなった。戦争下で生き抜こうとする本能と女性をめぐる性の紺争、男の嫉妬が野獣的に爆発した猟奇的な事件であった。

和子が米軍に救出され、アナタバン島の詳細が明らかになると、ニュースは全世界に報道され、悲劇のヒロインとして一躍、有名になった。和子は郷里の沖縄に帰ったが、死んだとばかり思っていた最初の夫・比嘉正一は生きて帰国しており、すでに新しい家庭を築いていた。

「アナタバンの女王」「女王蜂」「本能という名の島アナタバン」として話題はふっとうしたが、ジャーナリズムは和子が肉体を武器に男を手玉にとり、殺し合いをさせた感情の女〟〝女王蜂〟のレッテルを貼って非難した。

昭和二十七年十一月、和子は「私は女王蜂ではない。アナタバンの真相を知ってほしい」と沖縄から上京した。

記者団の質問には「結婚した相手は四人。わたしが原因で殺されたのは二人だけで、あとは食べ物をめぐってや男同士のけんかやいさかいで亡くなったのです」と答えた。

アナタハンブームに、映画、芝居と抜け目のない興行主はさっそく、焦点の女和子を引っぼり出して、東京銀座や浅草の劇場などでアナタバン劇を上演、大当たりをとった。
千葉県でロケを行った和子主演の『アナタバンの真相はこれだ』(全七巻)が封切られ、和子はこの映画フィルムを携え、全国の地方巡業にもまわった。米映画で、根岸明美・中山昭二主演の『アナタハン』も上映された。

このころが絶頂で、東京興行では和子は一日二万円、地方興行では五千円から七千円のギャラをもらっていたが、人気は線香花火のようにはかなく消
え去ってしまった。

興行主に利用するだけ利用され、捨てられた和子は大阪西成区のスタンドで女給として働いていたが、昭和二十九年八月、ここで傷害事件の被害者となり、〝転落の女王〟ぶりが暴露された。
アナタバンの女王の真相は一体何であったのか。和子は幼時から継母に反発して、男兄された比嘉和子弟や友人と一緒にワンパクを発揮したり、九歳の時にハブに頭をかまれた時、自分でカミソリでその部分を切りとり、タバコの葉をぬりつけて治したこともあった。

裸のままヤシの木のてっぺんまで登ったというたくましいバイタリティの持ち主で、それに、母性本能の強いタイプであったことが、余計に男を魅きつけた。

男三十二人対女一人。平和な時代の男女関係の中でも、この大きな落差は性的な極度の緊張関係を生むが、これに戦争中の絶海の孤島で飢えと死への恐怖、明日なき絶望という極限状況を加えた上に、その一人の女に個性の強烈な女性を加えればいったいどうなるか。

そんな女をめぐる男同士の本能の〝実験〟ドラマでもあった。

<「世界の魔性のヒロイン」「別冊歴史読本」2001年9月号掲載>