米ロの核軍縮条約について思う | 田母神俊雄オフィシャルブログ「志は高く、熱く燃える」Powered by Ameba

米ロの核軍縮条約について思う

米ロの新たな核軍縮条約「新START」が、5月8日チェコのプラハで調印されることになった。我が国のマスコミなどでは、「世界の核兵器の90パーセント以上を持つ米ロが遂に核なき世界に向けて大きく動き出した」「核なき世界への第一歩だ」とか、核のない世界がやがて到来するかのような論調が目立つ。しかし、はっきり言って、核のない世界は絶対に来ない。


オバマ大統領も、メドベージェフ大統領も、核の無い世界を目指していることなど絶対にない。彼らは、出来るだけ少数の国で核の独占をしたいと考えているだけである。自分の国では、核を持ちながら他の国には持たせたくないのだ。テロリストの手に核兵器が渡ったら大変というようなことをいうが、現在のところ持ち運びが簡単で誰でも使えるような核兵器はないと思う。今後、強大な破壊力を維持したままの核兵器を、そんなに簡単に小型化できるとも思えない。


国際政治は、情報戦も同時に行われている。危険性を煽り、みんなが大変だと思ったときに、誰が得をするのかをよくよく考えるべきである。核を持った国の外交交渉力は、核を持たない国の外交交渉力を圧倒する。核兵器は、二度と使われることのないであろう兵器ではあるが、外交交渉力の裏にあって絶大な力を発揮しているという認識が無いと、国際政治が見えない。核が無くなれば、また戦争が起こりやすくなるだけである。核は、あったほうがよいと多くの国の政治指導者は考えている。核兵器は戦争を抑止するための究極の兵器なのである。核兵器が出現以降、核兵器保有国の間で戦争が行われたことはない。


以前に私はブログに書いたことがあるが、中国とロシアの戦争、中国とインドの戦争、インドとパキスタンの戦争が行われないようになったのは核兵器の戦争抑止効果である。核が無くて戦争が起こる世界と、核があっても戦争が起きない世界のどちらがいいのかと言えば、それは戦争が起きない世界のほうがいいに決まっている。かつてイギリスのサッチャー首相は「私は核の無い世界よりは平和な世界を選ぶ」と言ったが、まさにその通りなのである。



核のない世界が来ることに、これほどの期待をしている国はわが国だけである。核が無くなれば戦争が無くなると考えているようであるが、まったくの誤りである。核のない世界とは戦争が頻繁に起こる世界なのである。わが国は原子爆弾が投下された世界で唯一の被爆国であり、国民の間に核アレルギーが強い。そのために核兵器に関しては議論することさえ出来ないような空気がある。政治家も、国を守ることを忘れており、国民に対して安全保障について真剣に語りかけることがない。従って国民の核兵器に対する理解も小学生並みで、核兵器は怖いから嫌だというだけである。政治家や高級官僚でも解っていない人は多い。議論さえはばかられるようでは自由民主主義の国と言えないのではないか。何でも自由に意見の交換が出来てこそ、民主主義の国である。「核武装すべきではない」という意見があってもいいのである。しかし、一方で「核武装すべき」と言う意見も静かに冷静に言うことが出来なければ、民主主義の国とは言えないと思う。


思うに、戦後の我が国には言論の自由がないのである。わが国には、反日的言論の自由は無限にある。どれほどわが国の悪口を言っても、嘘、捏造でわが国を貶めても国会が紛糾することはない、マスコミも騒がない。しかし、「日本の国はいい国だった」と言っただけで、国会は紛糾しマスコミは大騒ぎである。それで私もクビになった。自分の国を褒めて公職を追われる国など、世界広しといえども日本だけである。国を守るためには軍事力を強化すべきだとか、まして核武装すべきだとか言ったら危険人物だといわれる。


我が国以外の国では、政治指導者は、自分の国の軍事力が強ければ国はより安全であると考える。核武装をしないよりは、核武装をしたほうがより安全と考える。しかし、我が国では総理大臣などがこれと正反対の考えを持っている。どちらが正しく、どちらが間違っているのか。言わずもがなである。安全保障についてもそれが見える眼鏡をかけなければ、基本的なことさえ見えないのである。我が国の政治指導者が、安全保障の実態を見るときの眼鏡には、相当歪みがあるのだ。左翼思想によって眼鏡が相当歪んでしまっているといってよい。しかしこの眼鏡を修正するには、今後かなりの期間を必要とするかもしれない。




早く正しい眼鏡を持たないと、21世紀の日本が危ない。