いのち守る政治について | 田母神俊雄オフィシャルブログ「志は高く、熱く燃える」Powered by Ameba

いのち守る政治について

鳩山総理は1月29日、衆参両議院の本会議で所信表明演説を行い、いのちを守りたいと述べた。


「未来を担う子供たちが、自らの無限の可能性を追求していける」社会、「求職活動を続けている方々が、人との接点を失わず、共同体の一員として活動していける」社会、「誰もが、地域で孤立することなく暮らしていける」社会などと言っているが、この人は、人間の不幸はすべて国に責任があり、個人の自己責任は無いとでも思っているのだろうか。


私はテレビで総理の演説を聞きながら、これ以上国民を甘やかしてどうなるのかと思わずにいられなかった。総理の言っていることは、何の努力もしなくても楽しく生きていける社会を国が保障しますと言っているように私には聞こえるのだ。そんな国が一体どこにあるのだろう。もしあったら教えて欲しいものだし、そのような国を作るための財源は一体どこから持ってくるのか。


総理が今国民に求めるべきは自己責任の原則である。わが国は、いわゆる「弱者」にとっては極めて優しい、都合のよい社会である。国民年金の受給額よりも生活保護手当てのほうが高かったり、年末には派遣村が作られたりする。いろんな場面でセーフティーネット(※2)が作られているのだ。これ以上、国民を甘やかすべきでない。これ以上国民を甘やかすことは、国民の政府に対する依存心を増大させるだけで、結局は日本国民を駄目にしてしまう。


わが国ではすでに、自分が怠けていることを、政治のせいにしたくなる人たちが多くなっている。自立心が無くなった国民が増えればやがて国は崩壊する。

戦後1990年のバブル崩壊くらいまでは、わが国はずっと高度経済成長をしてきた。人口もずっと増加してきた。そのようなときであれば、政府は国民に対し、甘やかしの政策を取り続けることができるかもしれない。しかし、わが国のGDP(※1)はすでに20年も増加していないのだ。そんな時代に甘やかしの政策を取り続けることができるわけがない。


政治の目標は、第一に国家の独立である。わが国は、一歩づつ自分の国を自分で守れる方向に行くべきである。戦後、わが国はアメリカからの独立を果たしたが、アメリカに守ってもらっているという状態から抜け出ることができないでいる。自分の国を自分で守ることを考えないことは、国民を幼稚にする。一国の総理に対して、まことに失礼な物言いではあるが、鳩山総理の「日米対等な関係」の発言などは、国の安全が如何にして保障されているかを理解していないところから出てくる。アメリカに守られていながら日米対等だなどと言うことは、小学生が親に向かって「対等だ!」と言っているようなものだ。まず、自立してから対等だと言えと言われても返す言葉が無い。すぐには出来ないが、10年、20年かけて自分の国を自分で守れる体制を作ることだ。そこで初めて日米対等な相互に助け合う体制が出来るのだ。


政治の目標の第二は、国民の自立を促すことだ。国民がどんどん国家に対する依存心を増大する方向で各種政策を進めることは間違いである。子供手当てや、高校の授業料の無償化などは、永遠に続けるべき政策ではない。そんなものは、短期間緊急避難的に認める政策ではあっても、ずっと続けるべきではない。子供は自分の責任で育てなさい、義務教育以外は金を払って教育を受けさせなさいと国民を促すべきである。



命を守るとか優しさとかばかり言っていては、国民の自立心を奪うだけである。



私には、人気取りの政策にしか思えない。鳩山政権の人気取りのために国民が自立できない方向にどんどん追いやられる。鳩山総理は、結果として日本国民を怠け者にしてしまうかもしれない。政府のやることは、現在の生活を守ることよりは将来の人材を育てることだ。現在の生活はそれぞれの個人の努力で守られるべきものである。


日本国民はいま優しいリーダーよりは強いリーダーを求めているのではないか。石原東京都知事や橋下大阪府知事が人気があるのは、優しいからではなく強いからである。国民に迎合する政治家ではなく、国民に苦言を呈することが出来る政治家に今こそ出てほしいと思う。




※1 GDP=Gross Domestic Product。国内総生産。

※2 セーフティーネット=「安全網」と訳され、網の目のように救済策を張ることで、その対象を安全や安心を提供するための仕組みのこと。すなわち社会保障の一種である。