1月29日発売の新刊『ルポ 塾歴社会』から著者として気に入っているフレーズをいくつか紹介します。


同世代全員が同じレールの上を行くのである。たった1歩でも人よりも先に行きたいと誰かが早歩きを始めれば、まわりの歩幅も大きくなる。受験競争の始まりだ。気づけばみんなが全力疾走をしていた。
途中で気分を悪くする者もいる、怪我をしてしまう者も出る。それでも競争は止まらない。何でもありの受験狂想曲である。皮肉である。全国津々浦々の子供たちに平等な教育を行き渡らせることを実現した結果、国民的教育競争が始まってしまったのだ。

公教育が「与えられた教育」であるとするならば、民間教育は「自ら求める教育」といえる。その2つがあることで、日本の教育は常にバランスを保ち、かつ、柔軟に進化し続けることができた。これは世界でもまれに見るハイブリッドな教育システムなのである。

塾があればこそ、教育理念や校風で学校を選び、大学受験指導は塾に任せるということが可能になる。

「塾歴社会」とは、端的に言えば、日本の教育の平等性や公正さの中で発展してきた受験システムが、「制度疲労」を迎えている証しであると私は思う。

その結果、受験生に求められるものとして、大量の課題をこなす処理能力と忍耐力だけが残った。余計なものとしては、与えられたものに対して疑いを抱かない力が求められるようになった。

こちらを盛り上げれば、あちらも盛り上げなければいけなくなる。塾業界は宿命的に「マッチポンプ」の構造なのだ。「塾歴社会」が進行すると、「普通の子」の負担が青天井に増えていく。エンドレスなそのレースに乗っかる必要はあるのか、「普通の子」あるいはその保護者は一度冷静になって考えたほうがいい。

しかしそのような塾が過度に社会に対する影響力をもっているのだとしたら、それは塾のせいではなく、世の中全体が「回り道」を良しとしない効率至上主義に染まってしまっているためではないか。今私たちの社会に、「回り道」「無駄」「不純物」「遊び」など円環的作用をもたらすものの価値を認める知性・教養・文化が欠けている証拠といえるのではないだろうか。
そのことこそ、「塾歴社会」が投げかける根本的な「問い」であると私は思う。

勉強はしたほうがいい。でも勉強することと、できることは違う。できなくてもいいからすることが大事だと私は思う。ほどほどでもいいから。