先日、ニュースバラエティ番組で、某元IT社長とキャスターが対談している動画を見た。キャスターは言う「現在進行中のグローバリズムによってさらに格差が広まるのではないか。それはまずくないのか」。元IT社長は言う「富裕層がいくらお金儲けしようと関係ないじゃないですか。普通の人たちの稼ぐお金も増えていけばいい。それだけじゃないですか」。正確じゃないけど、こんな会話だったと思う。まるでかみ合わない。どっちもどっちという印象だった。

 

お金を少しでも多く稼ぐことを人生の目的にするなら元IT社長の言うことは理にかなっている。自分より多く儲けている人が「ずるい」みたいな感情はじゃまものだ。でも、人生の目的ってそういうことじゃないと思う。一方、格差が広がると何故まずいのか、キャスターはもっと具体的にシナリオを示すべきだったと思う。

 

たとえば古代は、圧倒的な武力を持つものが、世の中を支配し、圧倒的な富を得た。一部の圧倒的な富を持つものが、その他大多数の奴隷を支配した。奴隷の生活も少しずつは良くなっていただろう。格差拡大を前提とするグローバリズムが進行すれば、そういう時代に逆戻りしかねない。資本主義というルールの中では武力よりも財力がものを言う。格差拡大を前提としたグローバリズムが流布すれば、古代の王が武力を誇示したのと同様に、資本主義の王が君臨することになるだろう。つまり、グローバリズムは、資本主義というルールの中でのバーバリズムへの回帰を意味しかねない。

 

人類は長いときをかけて、「支配-被支配」という関係を抜け出してきた。その一つの手段が民主主義というルールの採用だった。何を決めるにも時間がかかり、まどろっこしいこと極まりないのだけど、その分、みんなで大きく間違うこともすくなくなる。社会全体としてのリスクヘッジを最大限に効かせるためのルールだ。仮にとっても優秀で人徳もあるリーダーがいるなら、その人が独裁するのが世の中にとって一番いい。でも、その人がいなくなった後、それと同等に立派な人がリーダーになる保証はどこにもない。変な人がリーダーになって独裁してしまったら、社会もろとも崩壊するリスクがある。それを回避するために、民主主義という面倒くさい方法を採用したわけだ。しかし今、それが振り出しに戻りかねない。それでいいのか。そのことが問われているのではないか。

 

お金は大事だけど、人生の目的はお金稼ぎじゃない。だとすれば何が目的か。答えは人それぞれなのだと思う。例えば僕は、自由と平和だと思う。

 

平和とは戦争がないことではない。戦争がなくても、奴隷のような生活は平和ではない。平和とは苦難がないことでもない。平和とは、みんなが自分の人生を自分で自由に歩んでいると感じていられる状態。その状態をつくり維持するために、どういう社会がいいのか。そういう視点で、考えたい。

 

元IT社長のような人生の目的があってもいい。自分の人生を資本主義というルールの中で設計するなら、それは他人がとやかく言うことじゃない。でもあたかも資本主義のルールが絶対的なルールみたいな思い込みを前提にして、「こうすればいい」と簡単に答えを出しちゃうのはまずいと思う。そのほうがウケがいいのはわかるんだけど。

 

冷戦構造の残像のために、資本主義か社会主義かという二軸論的にとらえられることがあるが、そもそも実社会には資本主義と社会主義の両方の考え方が必要なはず。みんなでない知恵を出し合ってああでもないこうでもないと熟議する手間を惜しんで、決断を何でも自由競争の結果に委ねてしまうという無責任な社会は危険だと思う。「市場は間違わない」とはよく言われるけど、まさに「市場=神様」的なその妄信こそ危険だと思う。