「出生率」というのは社会全体が未来に対してどれだけ明るい希望を持っているかを如実に表す指標であって、現在の社会のあり方に対する点数みたいなもの。株価や政権支持率みたいな、直線的因果律で語りやすい、ごく一面的な指標よりもよほど総合的な通信簿と言える。

 出生率を上げるには、社会として総合的な力を上げていかなければいけない。経済や政治力や社会制度の力だけではない。文化とか健康、自律心、共同体意識、心の余裕、時間的感覚、人生観、死生観、宇宙観など、むしろ人間の無意識を潤わすものの力を大事にしなければいけない。「少子化の原因はこれ」なんて直線的因果律では決して語れない。だから、何をどうしたら出生率が上がるのかなんてインスタントな解決法を求める議論をいくらやっても答えが出るわけがない。

 「少子化」というのは出生率が低いことの結果。だから僕はいつも「少子化問題」という表現は変だと言っているわけ。少子化は結果としての現象であって、そのもの自体が問題なのではない。少子化という現象が起きているなら、まずそれを受け入れて、少子化が進んでも大丈夫な社会のあり方を考えるべきではないか。そうすることが実は未来への希望を増やすことになるはずだと僕は考える。だって「このままじゃこの社会ヤバイからもっと子供を産んで」と頼まれて産む人はいないでしょ。「少子化になっても大丈夫だから安心して」と言われたほうが生む気になるでしょ。無意識的に。

 少子化という現象は、人間の無意識の総和が、現状の社会のあり方に対して付けた通信簿の「総合成績」みたいなもの。「少子化対策」という言葉には、「偏差値対策」みたいな怪しい響きを僕は感じてしまうのだ。「少子化対策」って言葉を簡単に使う人の言うことを、僕はまゆにつばを付けて聞くようにしている。

 ありもしないインスタントな解決策を無理矢理ねつ造するから、「抱っこし放題」とか「女性の活用」みたいな空振りが増えるわけ。直接そこを狙いに行くのではなくて、もっと根本的で日常的なことを地道に積み重ねていくしかないでしょ。起死回生の一発とか狙わなくていいから。焦ってホームランを狙えば狙うほど、大振りが増えて結局三振の山を築くことになるから。

 「このまま少子化が進むと、将来社会保障制度が破綻する」とか「労働力が不足して国際競争力が低下する」とか当たり前のように言う人がいる。でも、将来の社会保障を支える目的で生まれてくる子供なんてこの世に一人も居ない。国の国際競争力向上のために生まれてくる子供なんてこの世に一人も居ない。

 生まれてくる子供の人生よりも経済や国家制度の維持を優先することを、何の悪気もなく言えてしまうデリカシーのなさが社会に充満していることこそ、少子化という現象を生み出す大きな背景になっているのではないだろうか。一人ひとりの人生が大切にされている実感があってこそ、社会全体の未来に対する希望は増すのではないだろうか。