『アレクシエーヴィチとの対話 「小さき人々」の声を求めて』
(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 鎌倉英也 徐京植 沼野恭子 岩波書店)

 

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはベラルーシの作家、ジャーナリストで、2015年にノーベル文学賞を受賞している。作家というか、むしろノンフィクション作家と言ったほうがいいだろう。東日本大震災後に福島も訪れていて、「小さき人々」、つまり、ごく一般の、市井の人々に多くインタビューを敢行している。


この本は、アレクシエーヴィチの足跡、その作品群を丹念に紹介し、アレクシエーヴィチに寄り添いながらも一定の距離を置いて、あくまでも客観的な視点からその人となり、作品の意義、現在の彼女を描いている。驚くべきは、この人は取材対象がどこの国、地域であっても、ありのままの事実、真実、または自身の目に映り耳にした事実のみを記していることである。その手法は福島にもそのままに適用されており、日本国民すらが知らない、政府に隠蔽されている事実までがあきらかにされている。その地域の政府にとってきわめて都合の悪い事実までも暴露しているため、個人的には命が幾つあってもたりないと思ってしまう。評伝としてこの本を読めば、この人が自らの生命をも賭して真実を人々に知らしめようとする、非常に勇敢な闘士という印象を持つ。とはいえ、写真を見れば、どこにでもいそうな、ごくふつうの女性だ。こわもてするような人ではない。だからこそすごいのだけれど。
 

たとえば、福島については、現地に設置された線量計の値が、正式に公表されている値の十倍もあるという事実を伝えている。もちろん、それ以上の論評は記されていない。なぜ線量計の値を事実と異なるもので公表しているのか、だれが隠蔽しているのかなどは書かれていない。これがこの人の基本姿勢である。もちろん、この事実と異なるものを世に流布しようとする行為が「小さき人々」にどのような結果をもたらしたかは書かれている。それでも、断罪はいっさいしない。
 

アレクシエーヴィチは徹底的に「小さき人々」を取材し、それらの人々の声に真摯に耳を傾け、そのままを伝えて、その国、地域、またそこで起きている事象の本質をあきらかにする。これは自らの身に危険がおよびかねない、非常に危険な姿勢であることはいうまでもないが、それ以上に、非常に根気のいる、多大な忍耐を強いる作業であることも見逃してはならないだろう。危険を分け入って現地に赴くだけでなく、言葉が訥々としている人々の話も丁寧に聞き取っているからだ。資料として残る膨大な量のテープの整理もたいへんだろう。だが、これがノンフィクションを書く人の、まさに正統的で理想の姿なのだ。
 

誰かに促されて真実を求めにいったのではない、自らの意思で、しかもたったひとりで闘う姿は、神々しいほどに感じられる。もちろん、政治思想や立場の違いから、この人の書くものに違和感を抱いたり、反対する人もいるだろうが、傾聴に値する声であることはたしかであり、また、立場の違う人々を拒絶してもいない。自分自身、書き手として見習いたい姿勢だが、この人の千分の一の勇気も振り絞れないのがもどかしい。