発表当時は話題にもなりよく売れもし多くの人に読まれたであろう文芸作品が、その人気からしてとうぜん映画化され、流行になったとしても、原作の文芸作品とそれをもとにした映画が作品が等しく後世に残るかどうかはわからない。こればかりは時の判決を見届けなければならないのである。とはいえ、非常に悩み深い問題でもある。というのは、往々にして映画化作品だけが残り、原作の文芸作品がすっかり忘れ去られてしまうことがあるのではないかと思われるのだ。


さすがに石坂洋次郎は現代でも比較的よく読まれていると思うが、それでも、日本のAmazonで『陽のあたる坂道』を検索すると、原作本より先に映画の動画配信が出てきてしまう。それよりも石坂洋次郎作品とはまったく関係ない、ただタイトルをパクっただけの楽曲が一番先に出たりする。文学好きとしては、なんともいびつな印象を受けてしまうのである。
 

『青い山脈』もそうだ。おなじくAmazonで検索をかけると、映画化作品や楽曲がさんざん出てきて、原作本はずっとあとのほうに出てくる。映画というものを貶めるつもりはまったくないが、少なくとも原作ありきのものであり、映画は原作がなければそもそも存在し得ないものである。現代の作家だって、自分の作品が映画化されて、その映画作品だけがもてはやされたらいい気はしないだろう。それどころか映画のほうだけが歴史に残ったら噴飯物である。だから、自作の映画化をよろこばない人も多いと聞く。
 

『風と共に去りぬ』は世界文学全集にも収録されたりして、原作は決してないがしろにされてはいないが、それでも一般の人々は映画の方を先に思い浮かべるのではないか。日本にかぎったことだが、スタインベックの『エデンの東』など、もっとひどい。原作よりも、原作のほんの一部分のみを映画化した作品のほうがよほど有名である。スタインベックファンとしてはなんともつらい事実だ。
 

映画を撮った監督が名匠と呼ばれる人だったらなおさらだ。芥川龍之介を読まなくても、黒澤明作品を好む人も多いだろう。『ジョーズ』はさらに極端な状況だ。スピルバーグの映画はいまでもときおりテレビで放映されるが、原作はまったく出てこない。映画やTシャツばかりがAmazonの検索結果。ピーター・ベンチリーの原作の翻訳はとっくに品切れ。原作はとうに忘れ去られ、亜流のパニック映画ばかりがのさばっている。
 

『シャイニング』はむずかしいところだ。原作は言わずと知れた世界的ベストセラー作家のスティーヴン・キング。映画を監督したのは、鬼才ス

タンリー・キューブリック。たしか、キングはキューブリックの映画化作品が嫌いで、「エンジンのないキャデラック」と毒づいたそうな。それでも、最近では続編も映画のほうがより話題になっている。しかし、原作の翻訳が品切れや絶版になっていないだけマシである。
 

もちろん、原作が残って映画が忘れ去られることも少なくはない。ホーソーンの『緋文字』はどこまでも文学史に残るが、映画化作品『スカーレット・レター』は一過性のものかもしれない(ローランド・ジョフィは好きな監督だが)。しかし、おなじ歴史的作品でも、映画『ベン・ハー』に原作があることを知っている人は多くはないだろう。原作が大衆小説に分類されていることは関係ない。翻訳がなんとか手に入るのが救いといえば救いだろう。ちなみに、『スカーレット・レター』のAmazonの検索結果で出てくるのは、なぜかタイトルをパクっただけの韓流ドラマばかり。
 

文学好きの身としては、こうした状況がどうしてもいびつに思えてしまう。原作の文芸作品を救済するようなことはできないものだろうか。ちなみに、私は原作が好きになっても、映画化作品はあまり観ない。イメージをこわされるのがいやだからだ。小説は読んだときに頭の中に思い浮かんだイメージとともに記憶される。お節介の他人にわざわざ視覚化されてもありがた迷惑なのである。もちろん、私は映画ファンでもあるが。