【ネタバレ注意!】

 

評価が二分する映画だ。手持ちのカメラで不安定に画面が揺れるリアリティのシーンと、主人公のセルマの空想であるミュージカルのシーン。色調も違っており、意図的な演出であることは明白だ。だが、ふだんハリウッド映画に目が慣れた身としては、どちらも何となく中途半端で未熟な撮影に見えてしまうだろう。ラース・フォン・トリアーの映画をほかに観てないので、これが監督の持ち味かどうかは判別できないが、個人的には優れた技法のひとつのように思われる。
 

少なくとも、主人公セルマの内面性がよく出ている技法ではあろう。孤独、不安、焦燥などが、演技者の表情だけでは表現しきれないものを撮影技法が補っているように感じられる。それは単に揺らぎがちな画面が不安を象徴しているというものではなく、内面の深層に揺らぎが鋭く切り込んで、観る者の心理にまで深く押し入って、主人公の精神性を強迫的に押しつけている。異様に暗い色調はそれを倍加しており、観る者はセルマの内面を共有せざるを得なくなるのだ。
 

かわって、ミュージカルシーンは明るい色調だが、それでも、ハリウッド映画の突き抜けた色調にはほど遠い。定点カメラも使って撮影しているのだが、ここでも不安感はかき立てられる。常に、それがリアリティではないこと、幻想が現実にとって危険であることを銘記させられるのだ。ミュージカルシーンは唐突に終わり、褪せた色調の現実が取って代わるが、それが単にセルマの空想であるだけでなく、人間存在の、人の心理の不可避な、否定的な意味での運命性を象徴してもいるのだ。特に不可解なのは、ラストの、刑場へ歩いて行くまでのシーンである。セルマは足がすくんでどうしても歩けないのだが、セルマに同情的な女性刑務員の助けで歩けるようになる。歩いて行くところはすべてミュージカルシーンで、セルマの感情は高揚しているようにも見え、足をすくませるほどの恐怖はどこかに追いやられている。個人的には、その創作意図があまりよく理解できなかった。こうした傾向の映画になじんでいる人なら正当な評価はできるだろうが、私は力不足だ。
 

付言すれば、この映画は演出しないという演出によってリアリティを極度に高めていると思った。セルマの笑顔はもちろん演出の結果なのだが、彼女はたいていの場合笑顔で、それが演出によって引き出されるであろう効果以上のものをもたらしている。あの笑顔は、単に演出だけでは実現できないものなのだ。換言すると、そこには演出しないという作為が入り込んでいるのである。それにしても、多くの人は後味が悪い映画だと言うが、私には非常に悲しい映画だった。現実世界の不条理を見事に表出している。そして、その不条理が、現実世界を形成するはずの人間にはどうしても回避できないのだ。