本屋大賞を受賞する作品は、きっとすごい小説なのだろうなと思ったりする。というのは、本屋大賞受賞作品を一度も読んだことがないから。

 

まったく不勉強である。いやしくも小説を書く身としては、時代のトレンドを知っておく必要があるだろう。芥川賞、直木賞、本屋大賞など、主要な文学賞の受賞作品を読んでいなければ、現代の日本文学を語る資格はないと思っている。と言うわけで、私にはその資格がない。

 

ただ、日本の主要な文学賞を受賞した小説の紹介や書評を見ると、どうもある傾向が見えてくるような気がする。それは、世界の文学と比較しての、スケールの大きさである。

 

スケールの大きさをどう定義すること自体がむずかしいのだが、卑近なことを言えば、たとえば国際問題を扱っていたり、ドメスティックであっても、大きな社会問題や、人間存在の根幹にかかわる重要な、根源的な問題を扱っていたりしたら、それはいちおうスケールの大きな作品と言えるかもしれない。

 

だから、たしかに疎外感とか孤独とか、いじめなどの問題も大切ではあるのだが、私個人としては、国際問題を扱うなどの、自分にとってスケールの大きな作品と思えるものを読みたいのも事実なのである。しかし、日本の読者には、そうしたものはあまりアピールしていないような気がするのだ。

 

海外に目を向けると、たとえばジョナサン・サフラン・フォアの作品を読むと、テーマもモチーフも叙述も、すべてが格段のスケールの違いを感じてしまう。9.11もそうだし、家族の起源を問うのもそうだし。個人的にはアメリカ文学が趣味なので、日本の小説はほとんど読まないのだが、たまに読むと、どうしてももどかしさを感じることが多いのだ。もちろん、ほとんど読んでいないので語る資格はないのも事実だけど、本の紹介や書評を読んでも、あまり食指が動かないのが正直なところ。

 

文学を単にスケールの大きさで判断することは間違っているが、それでもなお、人間存在の根源に迫るような、表面的ではないテーマがどうして注目されないのか、不思議に思ってしまう。

 

まあ、明治時代の作品も、どこかこぢんまりとしたテーマの小説が多いようでもあるし、これはやはり日本の文学の根源的な特徴なのかもしれない。