“似ること”“似てしまうこと”“反復”としての映画(蓮實重彦氏講演) | さりげなく★スローフード

“似ること”“似てしまうこと”“反復”としての映画(蓮實重彦氏講演)

新宿南口、紀伊国屋サザンシアターで、蓮實先生の講演会、というか、20本近い映画の断片を映しながらの「講義」を聴いてきました。


400席は、雨模様にも関わらずほぼ満員。

若い人が案外多くてびっくり。

蓮實ファンはまだまだ健在のようです。


三日前のブログで、大筋を書きましたが・・・・・・

http://ameblo.jp/toshi-shun/entry-10169295931.html#main


今日の「講義」のテーマは、“似ること”“似てしまうこと”“反復”。

映画は、意図するとせざるとに関わらず、“似て”しまう。


「反復」というのは、1980年代の中核をなす思想の一つだったように思います。

われわれは、いまの状況の「外」に出ようともがくわけですが、それはできない。

というか、常に、すでに、行われてきたことを、別の形で反復しながら、進むだけである。


映画も、つい何かに似てしまう。

これはいままでにない作品だと思っても、どこかで、誰かがすでに撮ったものがあって、それに図らずも似てしまう。

つまり、「外」に出ることはできない。


じゃあ、「新しい」ものは何ひとつないのか、というと、そうではありません。

反復されるなかに、ある独自の描き方やこだわりが否応なく刻み付けられているものがあって、それを拾っていくこと。

その累積の跡が、結果として“進歩”とでも呼ぶべきものになっている・・・・・・


そんな1980年代の中核的な思想が、昨日の講義にも生きていました。


それは、作品の外(撮影のエピソード、監督の個人的思い、撮影舞台が抱えている政治的、歴史的背景などなど)で、つい語られがちな作品にまつわる言説をとりあえず一切排除して、純粋に作品そのもののなかに、いかに作品が“反復する歴史”に垂直に屹立しているかをみよう、ということです。


つまり、それだけまずは古今の作品を見よう、ということになります。


たとえば、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の“思想”をとらまえて、人は稚拙だとか、売国奴だとか、ああだこうだと言うわけですが、彼はそもそも「小説家」なのであって、小説をまずとにかく読んでその古今の流れのなかで彼が果たしている役割をとらまえることこそが大事なのではないか、ということです。


蓮實さんは、常に作品そのものに虚心で触れることへと私たちを誘います。

72歳になった今日でも、その態度に全くブレはないことを、確認しました。