テッラ・マードレ(世界生産者会議)の締めのシンポジウムより | さりげなく★スローフード

テッラ・マードレ(世界生産者会議)の締めのシンポジウムより


スローフード協会が2年に一度、イタリアのトリノ市で行う大イベントが、テッラ・マードレ(世界生産者会議)とサローネ・デル・グストです。


今年は10月末に盛大に開かれたました。ぼくは、仕事その他の関係でまだ行ったことがないのですが(~~;・・・・いずれは参加してみたいものです。


テッラ・マードレの公式ホームページに、最後の締めに行われたシンポジウムのレビューが載っていましたので、以下に訳出してみます。

http://www.terramadre2008.org/pagine/leggi.lasso?id=D5D7F48219134285E7sIi1F7F1D8&n=en&tp=3


それにしても、スローフード運動にスピリチュアリティ(霊性)という言葉が出てくるとは思いませんでした。


かつてWHO(世界保健機関)が、健康であることの定義に、身体的(physical)、精神的(mental)、社会的(social)、そして霊的(spiritual)に健全な状態であること、と提案しようとました。

が、結局この霊性(スピリチュアリティ)がペンディングされました。


霊性(スピリチュアリティ)とは何か。

上野圭一さんは、「自分を超えた大いなるものによって生かされているのだということを、実感として感じられる心のあり方」だと説明しています。


そう考えると、現代の食事情(消費者)に、そういう敬虔な心は失われてしまっていると言えるかもしれません。

むしろ生産者には、まさにそういう心に裏打ちされて活動されている方がいるように思います。


11/15(土)の上野圭一さんと、辻信一さんの対談がますます楽しみになってきました。

http://camunet.gr.jp/hottopics/index.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


テッラ・マードレ2008とサローネ・デル・グストへの焦点: 美味しい、クリーンな、公正な、そして神聖な


テッラ・マードレとサローネ・デル・グストの流れの最後に会議が行われ、食におけるスピリチュアリティ(霊性)と神聖さについて討議された。

カルロ・ペトリーニ会長進行の会議には、Bose修道院副長のエンゾ・ビアンキ氏、マハトマ・ガンジーの親友であり弟子のサティシュ・クマール氏が参加。クマール氏は9歳からヒンズー教の僧侶であり、「おもてなしの親和力」を捜し求めて3年間、アジアを15,000キロも歩いて過ごしたことがある。


宗教の深い理解の奥底で、2つの知性はイヴァン・イリイチ氏との友好関係のもとで結びついた。イリイチ氏はオーストリア人の理論家、哲学者、無政府主義的社会批評家であり、生産性に対して「共生性」の概念を掲げ、スピリチュアリティ(霊性)と社会参加を結び付けた人である。


ビアンキ氏はすぐに「神聖なるもの」の概念の説明を始め、それは「畏敬すべきもの」とみなした。彼によれば、食も聖なるものたり得る。聖ベネディクトの規律のある章は、食の質と量についてずっと説かれていることを挙げながら、教会の歴史上、食の神聖さという考え方は中心部分を占めている。彼はその後、教会を食とつなげているいくつかの実践を分析した。


「僧侶はなぜ食事の前にお祈りするのでしょう? 感謝を述べるだけでなく、この瞬間の神聖さを強調するため
です。現代人にとって食物は、いついかなる形でも消費しうる単なる燃料になってしまいました。パンに代表される食物は間違いなく必要なものです、が、それは喜びでもあります。たとえばワインのように、本質的なものでないけども幸福感を与えてくれるものです」


クマール氏はその後、食とインド哲学について言及した。
「神の最も重要な様相であるクリシュナは、全生涯をヤギ飼いとしてヤギに捧げ、農民の神となりました。いま
や食物は単なる消費の対象です」。
その後、ガンジーの食との関係について語った。
「ガンジーは、食を愛することは感謝の表現だと教えました」


2人は栄養失調の問題について言及した。クマール氏は比喩的に尋ねた。
「リンゴが誰かには実を与えないなどという光景を見たことがありますか? クレジット・カードを要求したりもし
ないでしょう? ところが、スーパーに行って支払いもせずにリンゴを持ち出してご覧なさい。店員が追いかけてきて、その後リンゴを捨ててしまうでしょう。自然のなかで食物は差別も浪費もしません。が、現実はかくのごとしです。実業家たちは「足りなくなることの恐れ」を作り出しましたが、自然にはそんなことはあり得ません。種はすぐれた豊かさのシンボルであります。果実になる可能性を持ち、私たちのお腹を満たしてくれるのですから」


ビアンキ氏はこの理由付けを続けた。
「食べ物は今日では、個々人に与えられるものであって、コミュニティに与えられるということはありません。食卓につく人々はわがままであり、分かち合うということを知りません。私たちは食卓に着くということの神聖さを一緒になって再発見しなければならないのです!」