正義には社会的正義と内心的正義があります。社会的正義

は、力による正義であり、社会エゴによる正義であり、理不尽

なものです。それでいて、万人に当てはめられるという普遍性

があるので、社会の必要悪でもあるのです。

 時の権力者が変われば正義も変わります。戦争はこの正義

を変えるために行われるものだ、との説もあるようです。戦争の

勝者は相手国の憲法を書き変えるとのジャン・ジャック・ルソー

の主張は、敗戦後の日本も実感したことです。


 一方、内心的正義というものは十人十色であり、全く普遍性

のないものです。その正義は、いわば極楽(天国)と地獄です。

皮肉なことに、内心的正義に普遍性はないけれど、永遠性が

あります。戦争によって変えられてしまうことはありません。

 ところが、変わらないということは、挽回ができないということ

でもあります。社会的正義では名誉回復や復権が行われるの

ですが、内心的正義における極楽(天国)と地獄は、一方通行

なのです。死んでしまうと、もう、挽回のチャンスはありません。


 私は幼い頃、所謂「正義の味方」が大好きでした。「鞍馬天狗」

や「月光仮面」に憧れました。「水戸黄門」や「大岡越前」などの

勧善懲悪ドラマに魅せられました。自分も正義の味方になりたい

と思い、裁判官を目指そうとも思いました。

 年輪を重ねるにつれ、そのような社会的正義の曖昧さを痛感

することになり、むしろ、内心的正義に重きをおきたいと思うよう

になりました。けれども、極楽(天国)への道も、地獄への道も、

まるで私には詳(つまび)らかにならないのです。


 正義は、人間が行動するために、なくてはならないものです。

それなのに私は、未だに頼るべき正義を見出すことができない

でいます。それが煩悩に塗れ、悟りに至らない人間の、赤裸々

な現(うつつ)の姿なのでしょうか?