長い間、沈黙の淵に沈んでいましたが、今日、パソコンが復活をしたので、今、こうして久しぶりのブログを書いています。

 

パソコンが壊れて、もう今年いっぱいは休業だと勝手に決めました。そして、四か月の長期休暇を愉しんでいましたが、来年になれば、すぐに「刈り取り」を始めなくてはならないので、パソコンだけは直そうと思い、今、復活を遂げたのです。

 

ブログも今年いっぱいは、原則、休業いたします。来年のスタートダッシュのために、じっくりと矯める期間だと思っています。

 

人生について考えた時、それが「虚像」であることは、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」という諺を思い浮かべれば分かります。

[ご参考] 「のど元過ぎれば熱さ(を)忘れる」のgoo辞書です。

「熱いものも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまう。転じて、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。また、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう」

 

人間は、過ぎ去ってしまったことは、その大半を忘れるようになっているのです。忘却にも効用はありますが、忘れてはいけないことまで忘れてしまうので、特に私のような忘れっぽい人間は、よく注意する必要があると思います。

 

振り返ってみれば、人生において、「現在」は一瞬で過ぎてしまいます。そして、すべてが「過去」として集積されてしまうのです。人生の本質だと思える、その事実が重要だと思います。「現在」は「実像」かもしれませんが、「過去」は、明らかに虚像です。

実は、「現在」にも誤解や思い違い、錯誤や夢うつつのようなものもあります。けれども、「過去」には、それに「記憶違い」や「忘却」などが加わります。つまり、「実像」を覆い隠してしまう障害が、時間の経過とともに増えてしまうのです。そう考えると、もはや人生が「実像」であるとは、到底言えないような気がします。

 

もちろん、人生が「虚像」であると言って、無責任な歩み方をするのは間違っています。一瞬であるにせよ、生きている限り、いつも「現実」は目の前にあるわけですから、「のど元を過ぎ」た熱さは「虚像」となってしまっても、次から次と、新たな「熱さ」がやって来るのも人生だからです。

むしろ、ここで重要なことは、「実像」の集積であっても、それらを「虚像」が呑み込んでしまうという、「虚像」の包容力にあるのではないでしょうか。

goo辞書にある、「虚像」と「実像」の虚像的意味です。

 

「虚像」 実際とは異なる、作られたイメージ。

「実像」 人や物事の、表面的な名声・評判・うわさなどから知ることのできない本当の姿。

 

実像的な意味としては、次のようなことが書いてあります。

 

「虚像」 物体から出た光線が鏡・レンズなどによって発散させられるとき、その発散光線によって、実際に物体があるように結ばれる像。

「実像」 反射・屈折した光が、実際に交わって作る像。凸レンズや凹面鏡では焦点り外側に物体を置いたときに生じる。

 

これに加えて、私の思う「虚像」と「実像」があります。これについては、これからイヤというほど出てきますので、ここでは省略しておきます。

 

さて、「虚像」と「実像」は反意語です。ですから、この世の中には、四つの面しか存在しません。つまり、

①「虚像」でもあり「実像」でもある世界。

②「虚像」の世界。

③「実像」の世界。

④「虚像」でも「実像」でもない世界。

です。

 

前置きが長くなり過ぎましたので、そろそろ本題に入りますが、私は、人生そのものについて、すべてが「虚像」ではないかと考えることがあります。それは、そう考えると、とても楽になれるからなのですが、割り切ってしまうことのデメリットもあって、すべての努力が虚しく思ええてしまうのです。

人生における個々の場面ごとに、「虚像」と「実像」を考えたいと思いますが、まずは総論として、人生全般に関する「虚像」と「実像」について話を進めることにします。

「虚像と実像」については、コロナに関連した記事の中で書きました。

[ご参考①] 最近の記事です。

https://ameblo.jp/tosh-tanaka/entry-12612857157.html

 

ただ、この課題については、そのように矮小した形ではなく、もっと正面から考えたくなったので、新しく稿を起こすことにしました。

 

さて、改めて「虚像と実像」ということを考えてみると、小学校か中学校(私は小学生だったと思うのですが、資料を調べていると、今は中学生で習うようになっているようです。)での宿題を想い出します。それは、理科の実験で、ろうそくの光を虚像として映し出すというものでした。

[ご参考②] この実験について解説しているサイトです。

https://kagakuhannou.net/convex-lens/

 

古い記憶ですので、この時私が虚像についてどう思ったのか、あまり覚えていません。光の直進と反射は、あまりよく理解できていなかったような気がします。何しろ、選択科目になった高校では、理科は「生物」を選び、「物理」も「化学」も捨てた人間ですから。

ただ、「虚像」という言葉だけが、私の中で妙な響きを持つものとして定着しました。本当の意味を理解しているわけでもないのですが。

[ご参考③] 「虚像」の goo辞書です。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%99%9A%E5%83%8F/

[ご参考④] 「実像」の goo辞書です。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AE%9F%E5%83%8F/#jn-98546

 

「物理」を理解できない頭ですから、私にとっての虚像と実像は、次の用法です(goo辞書より)が、自分流に拡大解釈をしているところもあるかと思います。

 

「虚像」 実際とは異なる、作られたイメージ。

「実像」 人や物事の、表面的な名声・評判・うわさなどから知ることのできない本当の姿。

世界史において、私は、ずっと「民意」が政治を牛耳ってきたように思うので、「民主主義」が通奏低音として歴史の背景に流れていたと考えています。けれども、必ずしも「民意」を反映した時代が、人々に幸多い人生を提供することが出来たかについては疑問を抱いています。

その理由として、一番最初に思い浮かぶのは、あのヒトラーの率いるナチスを支えたのが、ほかならぬ「民意」だったからです。もちろん、「民意」が騙されてしまうこともありますが、それも含めて、「民意」の是非を考えるべきだと思います。

 

そのように考えると、哀しいことですが、「民意」とは、なかなか信用できないものだと思えてしまうのです。つまり、それは「民主主義が信用できない」と言っていることになってしまいます。

これまで私は、少し「民主主義」に疑問を持ったこともありますが、権力が暴君や独裁者の手に渡るよりも、ずっと優れた政治形態だと思ってきました。ただ、本来の三権分立のように、権力の分散が出来ていない現代では、「民意」が暴君や独裁者になりかねません。

つまり今の政治は、とても危険な状態にあるのではないかと、真剣に私は憂い出したのです。その兆候は、在位最長だと言われている、現代日本の安倍政権下にも垣間見えているような気がします。

 

政治にも「神の手」が働くから、自然に良くなるという楽観論もなくはないのですが、私の両親の世代が青春時代を暗黒に暮らさざるを得なくなったような、時代の犠牲者が出ないようにするのが、人間の叡智であるような気もします。

そのためには、必要悪とも言われる政治を、小さくしなければならないと思うのですが、権力の膨張は自然現象なので、これを抑制する制度が重要になってくると思います。そして何より、「民意」が、権力批判の精神を貫かなければならないと思うのです。

昨日、私が習っているヴァイオリンの先生が主催なさった試演会がありました。ほとんど小学生が出演する発表会ですが、私も末席に加えていただけました。3月の予定されていた発表会で演奏するべく練習していた、グリーグのヴァイオリン・ソナタ第3番第2楽章です。

[ご参考] デュメイ(vn.)、ピリス(pf.)の演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=LqDesQn-pL8&list=RDLqDesQn-pL8&start_radio=1

 

コロナ疫の真夏に開催するため、大変なご苦労がおありだったと思うのですが、子供たちが一所懸命演奏している姿を見ていると、自分の演奏の心配をよそに、とても微笑ましく思え、心楽しい時間を過ごさせていただきました。

 

束の間の夢心地を破って、厳しい現実がやって来ます。いつも、反省ばかりが先に立つ自分の演奏ですが、今年も、ほとんどの課題を克服することが出来ず、粗い細部のミスについては、書き出せばキリがありません。

ただ、これもいつものことなのですが、音楽の心を披歴できるのは何よりの歓びでもあるので、「それなりの」満足感も、胸の中で広がったことも事実です。早い話が、ミスに鈍感で、だからこそ克服できていないまま試演会に臨んでしまうという愚行を繰り返してしまうのです。

 

そのようなことを反省しながらも、心は、もう次の曲を何にするか考えているところです。計画では、グリーグの同曲、第3楽章なのですが、少し迷っています。

 

いつの時代も、それがどのように社会的な扱いを受けたかは別として、「民意」はありました。政治的な動きになろうがなるまいが、人々が政治に対する何らかの「想い」を持ったことは、想像に難くありません。

「ローマ帝国衰亡史」を読んでいると、どれだけ権力をほしいままにした皇帝も、「民意」を意識しないではおれなかったようです。中には、暴君として有名なネロやカリギュラもいましたが、彼らも、まったく「民意」を無視していたようではなかったようです。

[ご参考①] 「ネロ」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AD

[ご参考②] 「カリグラ」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%A9

 

このように考えると、長い人類の歴史において、社会を動かしてきたのは「民意」であって、一見、権力を集中して持っているかに見える皇帝(名称は色々あるようですが)などではないように思えてきます。

つまり、制度としての民主主義は、あまり大勢(たいせい)ではなかったけれど、人類の歴史を実質的に牛耳ってきたのは、やはり「民意」ではなかったかと思うのです。それは、あたかも「民主主義」が、通奏低音として歴史の背景に流れていたということに外なりません。

 

現代において、曲がりなりにも民主主義は、政治のかたちとしては、最も適したものだと考えられているように思います。その意味では、民主主義が通奏低音ではあっても、ずっと奏でられていたということは、とても心強いことです。

ただ私は、この「民意」を、あまり信頼することが出来ません。何か、どこかに危うさを感じるのです。

今朝は、もう最悪でした。実は、私のパソコンは韓国語の文章を打てるようにしたいと思い、韓国語が出るように変えていたのですが、韓国語ジャックされてしまい(多分、自分で無意識のうちに、そうしてしまったのだと思いますが)、このアメーバも全部韓国語になってしまったのです。

そうなると、それでなくてもパソコンのことが分かっていないのに、どこを見ても韓国語しか出てこないのですから慌てました。そこで、敢然と韓国語と対峙できればいいのですが、私の拙い語学力では、どうにもなりません。

 

少し時間を置いて、何とか日本語を呼び戻しはしましたが、まだ、ワードの調子もおかしいままだし、メールは開けないし、パソコンの用をなしません。何とか、この記事を書いていますが、困ったことになりました。

誰にでも「しなければならないこと」があると思います。それを実際に、するとしないとで、人生が大きく変わってしまうのですが、毎日のこととなると、あまりその差が見えないので、ついつい先延ばしになってしまうのが、これまでの私の人生でした。

けれども、時間は無尽蔵ではありません。すべて制限時間内で、やり遂げなければならないことに、私は気づいていませんでした。のんびりとした性格は、そのような鈍感から生まれていたのです。けれども、私が歩んでいる緩い坂から、これから向かう先が見えてくると、いよいよ、広大な「無」の世界が広がっていることに気づきます。

 

「無」の世界から見れば、恐らく、私が「しなければならないこと」だと思っていることなど、まったく無意味にしか見えないだろうと思います。どうせ、そのような世界に沈んでしまうのだから、もう「じたばた」しても仕方がないと思わないでもありません。

でも、そうではないのです。今の私は、ここにいるのだから、「しなければならないこと」に「じたばた」しなければなりません。また、このようなことを思い始めました。

私は今、この本に夢中です。と言っても、電車の中だけでしか読んでいないので、気分だけのことではありますが、これだけ読書に耽(ふけ)るのは、中学生の頃以来のことだと思います。当時は、芥川龍之介やゴーゴリの世界に沈殿し、周りのことが見えていませんでしたが、今も同じような状態なので、この半世紀以上、何も成長しなかったようです。

中学生に戻ったような気分で読んでいるのは、前にも書いたように、世界に目が向くようになった中学生時代に、世界史を勉強しようと一念発起したからです。歴史の授業で世界史を習い始めた頃だったのに、その授業で学ぼうとせず、自分のペースで自分の好きなように勉強しようと思ったところが、致命的な私の弱さでした。

一事が万事ですから、マイペースの態度は、それからもずっと私に付いて回っており、自分史の背景になってしまったのは、痛恨のことだと、今では思っています。もちろん、マイナス面ばかりではないと強がってはいますが、今、韓国語を全面的に学校のカリキュラムに沿って勉強してみて、実によく出来ていると感心しているくらいですから、本心では、反省しているのです。

 

それだけ私が夢中になるのは、「ローマ帝国衰亡史」が、古代ギリシアで止まってしまった私の世界史の、その続きを教えてくれるからに外なりません。正確に言えば、共和政ローマ時代について、飛ばしてしまったようにはなっているのですが、大きな世界の流れから言えば、古代ギリシアと、それほど変わらないのではないかと思い、勝手に満足しています。

今、有名だという第十五章、第十六章を読んでいますが、ヨーロッパにおけるキリスト教の発展について、実に具体的に面白く描かれており、身近なところに神父さんがいた中学生時代に読んでいたら、さぞかし面白かっただろうと思っています。

もちろん、どのようにしてキリスト教が全世界に広まったのかなど、18世紀の分析とはいえ、非常に緻密に描かれており、一行一行をワクワクしながら読んでいます。ずっと、このまま、ワクワクしながら全10巻を読んでしまいそうです。