組織の不祥事③

組織について、私には書きかけて中断している「組織について」という記事があります。今、生活の軸足を小説の創作に移しているため、当分、この記事を継続して書くことは適いませんが、必ず纏めたいと思っています。

[ご参考] 「組織について」で、何を書きたいのか説明している記事です。

https://ameblo.jp/tosh-tanaka/entry-11917952691.html

 

この中では、今回の記事は第三章の「組織のリスク」に関連するものです。一部であることが多いとは思いますが、少なくとも人間のために組織されたはずのものが、その人間にとってマイナスの効果を与えてしまうことは、本末転倒だと言わなければなりません。

けれども組織というものは、時として、負の結果を導き出すことがあります。それが「組織のリスク」です。そうならないためには、組織に自浄機能がなければなりません。けれども、その機能が狂うことがあるのです。

 

人間社会には、色々な組織があります。国や地方公共団体のように、社会から、その存在が必要だと認められ、誰もがその組織の一員としての義務を負わされているもの(「納税の義務」の比重が高いのですが)。企業などの営利組織、そして、各種同好会などの任意団体などです。中には、宗教や政治など、思想・信条に関連するものもあります。

日本相撲協会が、どのような種類の組織なのか、判然としない面もありますが、多額の興行収入があることから、営利組織の中に入れるのが自然なのかもしれません。神事など、宗教色がなくもないそう(貴乃花親方の想いには、そこもあるのかもしれません)ですが、今回の不祥事は営利組織としての視点が重要であるように思えます。

 

そして、ここで大切なのは、どのような組織であれ、不祥事のリスクを抱えているということです。

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組織の不祥事②

組織の不祥事について考える前に、「組織」と「不祥事」について明確にしておかなければならないと思います。特に「組織」は広い意味を持つ言葉ですから、「組織」でイメージするものが変わると、内容も変わってしまうような気がするのです。

wiktionary によると、次の三つの意味が書かれています。

  1. ある目的をもって、複数の構成物や構成者により、全体として、1つの働きをするまとまりを作ること、及びそのようにしてできたまとまり。
  2. 生物でかたちや、働きの似た、細胞の集まり。
  3. 社会における同じ要素を持った構成物が団体として結合したもの。

私が書こうとしているテーマにおける「組織」は、この中では「3.」に最も近いと思います。けれども、「1.」や、「2.」でさえも、「組織」を考えるときには留意しておかなければなりません。何故なら、生物における細胞の一つも、全体の一部であるという面と、その細胞自身(個)であるという面を持っているからです。

つまり、私が論じようとしている「組織」には二面性があって、全体としての組織と、その構成物(人間)である個が、微妙に絡み合っているように思えます。「組織」がうまく機能しているときは、この絡み合いが目立たないのですが、一旦バランスが崩れると、糸がもつれたように、組織の歯車が狂ってしまうように思うのです。

 

日本相撲協会も、何も起こらなければ、秩序のある立派な組織だったのではと思います。ただ、組織が安定するためには、自浄作用がなければならないと思うのですが、どうやら今回の暴行事件などでも、それが日本相撲協会になかったため、組織が破綻してしまうのではないかと心配になるような対応しか取れないのではないでしょうか。

大相撲ファンとしては、一日も早く、事実関係を明らかにしたうえで、しかるべき処分などを済ませ、すっきりした気分で初場所を楽しめるようにしてほしいと思います。

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組織の不祥事①

土俵が揺らいでいます。大相撲ファンの私としては、とても哀しいことですが、このたびの「日馬富士の貴ノ岩への暴行事件」は、多くのことを考えさせてくれました。一番印象的だったのは、日本相撲協会の組織としての対応です。組織について色々な想いを持っている私としては、この事件を契機に、かねての課題である組織の不祥事対応について考えたいと思いました。

ただ、その前に、私が愛する相撲についても、少し考えてみたいと思います。どれだけ相撲を愛しているかは、これまでから何度か触れていますが、その典型的な記事として、少し古いのですが、「雅山の微笑み」の記事を貼付しておきます。

[ご参考①] 「雅山の微笑み」の記事です。

https://ameblo.jp/tosh-tanaka/entry-11137136779.html

 

この事件そのものに対する私の基本的な態度は、ほぼ石原慎太郎氏と同じです。同氏については、ほとんどのご意見や行動に私は与(くみ)していません。それなのに、この問題に対する想いだけは、どうやら似ているようなので、とても不思議な想いです。

[ご参考②] livedoorNEWSです。

http://news.livedoor.com/article/detail/13980500/

 

さて、日本相撲協会の公式ページを見てみました。不祥事を起こした企業は、一般的には、何を措(お)いてもお詫びの一文を載せると思うのですが、このホームページでは、日馬富士の引退を淡々と報じるだけに終わっています。理事長などが謝罪を口にしながら、事件について一言も触れないとは、日本相撲協会は不思議な組織だと思わざるを得ません。

[ご参考③] 日本相撲協会の公式ページです。

http://www.sumo.or.jp/

 

事実関係も不透明な段階で大相撲の問題を論じることは、私には、できないことだと思っています。ただ、この問題から浮かび上がった「組織の不祥事」については、考えることができるはずです。それで次回から、じっくりと考えてみます。

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この土曜日、岩手県の北上に前泊して、東北農民管弦楽団の練習に参加してきました。練習場がある花巻に来たのは、9月に行われた宮沢賢治学会の総会以来ですが、オケの練習は、合宿後、初参加です。

実は、11月に2回も練習があったのですが、応募を断念した太宰治賞向けの創作が忙しいことを口実に、両日とも欠席してしまったのです。応募しないのなら、参加しておけばよかったと思いました。

[ご参考] 合宿の記事です。

https://ameblo.jp/tosh-tanaka/entry-12318944426.html

 

とにかく弾けないところばかりなので、これから創作とヴァイオリンの二本立てで頑張ります。

 

[ご参考]

 この日の練習曲

  冨田勲       「新日本紀行」テーマ曲

  ウェーバー     「魔弾の射手」序曲

  ドボルザーク    「いたずら農夫」序曲

  渡辺浦人      交響組曲「野人」

  チャイコフスキー 「眠れる森の美女」よりワルツ

 その他の演奏予定曲

  ベートーヴェン  交響曲第六番「田園」より第一楽章

  シベリウス     交響詩「フィンランディア」       など

 

 第5回定期演奏会 上小阿仁公演
 2018年3月4日(日)13:30開演
 秋田県 上小阿仁村生涯学習センター 多目的ホール

〆切意識

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いつものことだと言ってしまえばそれまでなのですが、予定していた12月10日〆切の太宰治賞への応募は、作品の完成度が低いため、来年に延期することとしました。私の人生計画は、早くも頓挫してしまったことになります。

ところが、慙愧に耐えない想いをしているかというと、それほどでもないところが、良し悪しは別として、いかにも私らしいところです。考えてみれば、ずっと私は、お粗末な〆切意識しかない人間だったのではないかと思います。夏休みの宿題も、最後の数日、ドタバタで何とか辻褄を合わせていました。

 

この世に生を受けると、人は色々な〆切に直面することになります。夏休みの宿題などは可愛らしいものですが、もっと深刻な決断をするとか、多少なりとも社会に影響を及ぼすようなことを成し遂げるとかの場面に、誰もが遭遇するものだと思います。

 それらが人生だと言ってもいいのではないでしょうか。そして、人生そのものも、いつとは分からなくて、しかも一回限りのものですが、やはり〆切があります。その〆切に向って、確実に人は歩んでいます。ですから、〆切意識を忘れてはならないのですが、どうやら私は、その意識が希薄な性格だと思うのです。

 

確かに、〆切意識を持たなければサラリーマンは務まりませんが、私の場合は最少限度の意識で仕事をしていたように思います。ですから、多くのプレッシャーには強かったけれど、時間プレッシャーだけは苦手でした。それは、囲碁などのゲームなどでも言えることです。

文学においても、気が向いた時に書くというスタイルでは、各賞への応募を予定しても、多くの機会を失ってしまうことになります。ただ結局、気質としての性癖は直すことができないので、私の場合は、人生の〆切を意識しながら、書き続けるしかないのだろうと思っています。

こうして、一つの機会は失ってしまいましたが、創作意欲だけは旺盛です。それは、私が生きている理由なのですから。太宰治賞だけでなく、色々な新人賞などに応募するため、これからも書き続ける所存です。

「安全」に対する感覚が劣化してしまっていると思われる現代人ですが、「安全」を望む気持ちは昔も今も変わりません。ただ、昔の人は自分で自分の身を守ることに腐心しましたが、どうも現代人は、安全は誰かが守ってくれなくてはと、他人に依存する意識が強いように思えます。

官庁や公益企業、各種団体など、安全を専門的に守る組織も充実していると思います。何か不測の災害や事故が起こると、そのような機関が様々な対策を考えて、国民の安全が保たれるように頑張ってくれます。

 

確かに、人間のことですから、そこに不備があってリスクを回避しきれないこともありますが、安全への真摯な努力が払われていることは認めなければならないと思います。むしろ必要なことは、安全に100%はないということを知っておくことではないでしょうか。

少し意味合いは違うかもしれませんが、「天は自ら助くる者を助く」という諺が「安全」にも当てはまるような気がします。

[ご参考] 「天は自ら助くる者を助く」の「故事ことわざ辞典」です。

http://kotowaza-allguide.com/te/tenmizukaratasuku.html

 

すべての危険が察知できるわけではありません。予期せぬ出来事は、隣り合わせでも気が付かないものです。人間には、ある程度は危険から身を守る本能が備わっていると思います。でも、過信は禁物です。いつでも、油断をすると危険は身に迫ってきます。

笑い話ですが、危険から逃れるためには死ななければならないそうです。生きること自体が、危険の中に身を置くことであり、今一度、気を引き締めなければならないと、不埒な「歩きスマホ」をしていて思った次第です。

 

静かな公園の中や広めの歩道など、比較的安全だと思われる空間で、ちょっと「歩きスマホ」なることをしたことがあります。わずかな時間を節約するためですが、私は、せっかちな日本人でもあるのです。もちろん、私は臆病な性質(たち)ですから、そのような場合でも周りには注意しているつもりなのですが。

ところが、ある時いきなり現れた自転車と、ぶつかりそうになりました。かなりのスピードで自転車は走っていましたから、衝突すれば大怪我になるところでした。まさに危機一髪です。幸い大事には至りませんでしたが、冷や汗が滲み出ました。相手の人も驚いた顔をしながら、何やら怒鳴っていました。

 

近頃、「歩きスマホ」への風当たりは強く、電車のプラットホームやショッピングモールなどでも、よく注意喚起の放送をしています。もし、事故に至っておれば、賠償責任は「歩きスマホ」側に相当大きく負わされたのではないでしょうか?

そのようなリスクがあるにもかかわらず、「歩きスマホ」は、世の流行になっているかのように人通りを闊歩しています。隣り合わせの危険が見えているのに、もう、スマホの虜(とりこ)になってしまっているのです。

 

ハインリッヒの法則が正しければ、いつか必ず大事故に遭うだろうと思えるのですが、「歩きスマホ」の当人は、まったく無頓着に見えます。私も含めて、「歩きスマホ」をしたことのある人なら、その気持ちに共感できるはずです。

[ご参考] 「ハインリッヒの法則」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

 

ここに、自分だけは事故に遭うことがないとの、根拠のない自信が垣間見えます。もっとも、猛スピードの自転車にも、隣り合わせの危険に対する無頓着を感じずにはおれません。もしかすると現代人は、「安全」に対する感覚が劣化してしまっているのかもしれないと思ってしまいます。

京都は私の故郷です。特別な想いがあり、今でも高校野球といえば京都代表を応援してしまいます。その想いは、まったく経済的でなく、心の宝物です。そして私は、経済的なことより、心の宝物を大切に考えています。最期に私を見送ってくれるのは、経済ではなく、心の宝物だと確信しているからです。

そのような京都が、経済に支配されている姿を見ると、何ともやるせない気分になってしまいます。その意味では、時代祭の中止も、将軍塚の新名所も、何となく経済の亡霊が見えてしまうので、私にとっては哀しい出来事なのです。

 

もっとも、それで私が時代祭や将軍塚を嫌うことはありません。どちらも、京都の気分を醸し出してくれるので、経済の亡霊が見えていても、私の想いを貶めることはないのです。ただ、私が衝撃を受けたことは事実だと言わざるを得ません。私の京都が、想い出の京都が、経済に汚染されているという、何とも不可解な衝撃です。

良識のある人なら、経済あっての暮らしですから、時代祭の中止は妥当な判断だし、美しい景色を多くの人に提供する将軍塚の新名所は歓迎すべきものだと思われるでしょう。私も、それが正しい感覚だと思います。

それなのに、どこかに寂しさがあるのです。昔はそうではなかったと思いたい気持ちを、どうしても払拭できません。巨大化する経済に、人間が呑み込まれていくような、この時代の哀しい現実を見せつけられているような気がして、鬱々としてしまうのです。

 

京都の発展のためには、経済から置き去りにされるようなことがあってはなりません。都市機能を保つには、経済の支えが必要です。この当たり前の理屈を慰めにしようと思うのですが、それだけでは晴れ渡らない私の心に、きっと問題はあるのでしょう。

時代の衝撃⑤

今年の時代祭が、台風を懸念して早くに中止の決定がされたということは、まったく経済的な判断(観光客などの安全対策も含めて)だったのだろうと、私は推測しています。現代において、何よりも経済的な判断が優先することは、古都京都にあっても不思議ではありません。

これも最近知ったことですが、私が青年時代に感動した、京都の将軍塚に、平成26年10月、新名所が誕生したそうです。青蓮院門跡によって、北野天満宮近くにあった武徳殿が移築再建され、この地に大護摩堂「青龍殿」が建立されました。

[ご参考] 将軍塚青龍殿のホームページです。

http://www.shogunzuka.com/seiryuden.html?PSID=r3pboj7dr9pcbuv9a969i3c246

 

「青龍殿とは、奈良大仏殿のおよそ横幅半分の木造大建築物で、国宝 青不動をお祀りする建物です。青蓮院では、この国宝 青不動を初めて奥殿に安置し、精密な複製画を通じておまいりすることが可能となりました。建物内では、所定日に護摩を修し、みなさまの諸願成就を祈願させていただいております。

また、青龍殿と併せて木造の大舞台を新築しました。これにより東山山頂より、京都市内を足下に見下し、大阪近郊まで一望できるようになりました。雨の日でも雲の上にそびえ立つ天空のお堂として見応えがございます。圧倒的なスケールと市内一望の大パノラマに、来られた方から大歓声が上がります。この大舞台から地図を広げながら、実際に京都の町並みをご覧いただきますと、観光場所や史跡、ホテルなどの確認が容易となり、京都の理解に大変役立ちます。」

 

ホームページからの引用が長くなりました。行ってみたくなります。将軍塚からの眺望は、それほど昔と変わっていないでしょうから、「大歓声」が上がるのもムベなるかなと思います。

 

個人的な衝撃とその効果

テーマ:

今、私が書いている「時代の衝撃」というテーマのブログ記事が中途半端なままなので、ちょっと書きにくい気がするのですが、個人的には、とても重要なことなので、ここに書いておきます。それは、昨日の記事に関することで、私の人生計画を揺るがすような出来事でした。

恥ずかしいことなのですが、正直に白状します。

昨日の夜、ある親しい人から LINE でメッセージをいただきました。とても遠慮がちな表現で、私の記事「不意の朋来る!2017.11.12②(了)」を読んだけれど、内容に間違いがあるのではないかとのご指摘です。全く正しいご指摘でしたので、私は慌てて誤りを「シラっと」訂正しました。ご指摘に感謝します。

 

訂正前の記事をお読みになった方は、お気づきのことと思いますが、「古希を過ぎた私」と書いている件(くだり)を「白寿を過ぎた私」と書いてしまっていたのです。日常会話の中で「古希」と「白寿」を間違えるのなら、もの知らずな私にはありがちなことですが、誤りの内容を文章で公開するということは、物書きを目指す人間には、あってはならないことだと思っています。

そのような決定的な間違いに気づかないまま、記事をアップしてしまうことは、私の注意力が劣化してきていることの証明だと思いました。そのような想いは、ここのところ薄々感じるようになってはいたのですが、昨日の事件は決定的でした。そこで私は、自分の行動予定を根本から見直すことにしました。

 

文学で身を立てるには、もう「背水の陣」だと言いながら、のらりくらりと暮らしていた日常を変えます。朝鮮文化を体験するつもりで習っていた「パンソリ」と「書芸」は、当面お休みです。その時間を創作に充てます。これで、週二回、半日程度の時間が浮くのです。とにかく、劣化が進むまでに、多くの作品を書きあげなければならないとの想いが、急速に膨らんできました。

今まで、何度も同じような想いで創作に専念しようとしながら、自堕落な生活に甘んじてきた私が、どこまで変わることができるか「見もの」です。衝撃の効果が顕れることを、切に願っています。いえ、効果を出さなければなりません。