ちょっと離れてしまったが、8月12日に日帰りで参加したサバイバルキャンプ(通称サバキャン)のことを書き終えておきたい。

前回ご覧になっていない方は、こちらからどうぞ。

http://ameblo.jp/toriichi5013/entry-11327485215.html


大好評の昼食を終え、午後からは小川の護岸工事に配属が決まる。

本作業は2時からだというのに、気合の入った男たちは1時近くには移動を始める。ぼくも、当然行動を共にする。

工事の全体像とぼくが請け負う仕事の説明を受け、今回のキャンプの実行委員長のリョウさんと持ち場に向かう。午前中の作業の後、泥まみれで帰ってきた彼からは、キャンプを成功させたいという気迫が満ち溢れている。素顔はいたって好青年に見える彼をここまで熱くさせる何かがここにはあるのだろうと思い、彼の気迫に応えるためにも無心に泥をすくい、全力で杭を打つ。

このキャンプのあちこちで見られる”計画し、実行し、達成する”という一見シンプルなサイクルは、現実世界には早々たやすくあるものではない。だからコンピューターゲームがはびこり、擬似的な達成感を感じさせてくれるのだろう。しかし、このキャンプにおける現実的で手ごたえのある達成感とは比べ物にならないはず。食う、働く(遊ぶ)、排泄する、寝る。その働く(遊ぶ)とは、仲間のために飯を作り、小川を流し、橋をかけ、杭を打ち、堆肥を混ぜ、畑を作り、小屋を掃除し。。。

「”生きている”という現実感」が若者を惹きつけてはなさないのだろう。



偉そうなことをいうものの、ぼくにもその後キツイ現実が待っていた。

熱中症になりかけたのである。

体の異変に気づき、すぐに作業をやめ、氷嚢で首筋を冷やしたので事なきを得たが、「年寄りの冷や水」というべきか、40歳の肉体は護岸工事で悲鳴をあげていたのである。幸いにして、その日の作業の山は越えており、ぼく一人ゆっくりしていても支障はなかった。大樹の陰に身を寄せながら思ったのは自分の体について。どれだけ水分を取ってもおしっこはほとんど出ず、出たとしてもやたらと濃くて、あげくに熱中症になってしまった。体の使い方は練れてきたが、長続きしない。大げさに言えば、”老い”という変化をしっかり見つめていないと危険だ。だからといって、抗うのではなく、好奇心を持って楽しく体の変化と付き合いたい。下手に今の風潮に乗ってしまうと”お化け”にさせられかねない。”アンチエイジング”などという言葉があるが、ぼくは”アンチ・アンチエンジング”でありたい。

そんなことを考えているうちに、皆さんの作業が終わっている。

その後は、食事兼総括までの時間をそれぞれ思い思いにすごすことになる。

といっても、遊んでいるわけではない。交代で入浴をするし、食事班は仕上げにかかっている。何か出し物をするのだろうか、ギターを弾いている人もいる。今日の作業の感想を話し合っている人たちもいる。飲み物を準備し、炭起こし、井戸水を集会場へ運ばなければならない。けれど、何かに追われているような感じではない。午後の作業を終えた安堵感か、いや、キャンプの最終日を迎えた達成感か、ゆったりとした時間が流れている。

日が翳ってきて、涼しい風も吹いてくる。

ぼくも、時折作業を手伝いながら、日陰のいすに腰掛け、この夕暮れのゆったりとした時間に身をおいていた。

考えるでも考えぬでもなく、体を休めていられる。なんと心地のよい夕暮れか。

タイの農村の夕暮れもこんな風だった。厳しい農作業を終え、みな、路地や軒下でのんびり過ごしていた。

ぼくは20年前、伝統的で合理的でシンプルな生活を積極的に選択することで未来に進もうとするタイの農民たちに出会い、えらい衝撃を受けた。それから10年間、毎年渡タイし、そこの生活に身をおかせてもらった。自分の考えや体の動きに、彼らの生活を染み込ませたかったからなのだと思う。都会で生まれ、都会で育ったぼくには、それが生きていく活力になっていることは間違いない。

このサバイバルキャンプも、それに近いものを感じる。いや、ここのすごいところは、ぼくがわざわざ遠くタイまでいってお邪魔してきたのに対して、農村での生活を自分たちでやってしまうことにある。大げさかもしれないが、サバイバルキャンプには命の臭いがあり、生きる手ごたえがある。

ご迷惑を顧みず、ぜひとも、また参加してみたい。

農園でいただいた野菜たちも本当に美味しかった。

特にしし唐。甘長唐辛子、というべきか。肉厚でジューシー、香も抜群。

こちらもまた、とりいちで使わせていただきたい。


見沼のみなさん、本当にありがとうございました。