30.3.22 朝日新聞学芸部は不勉強? | 棟上寅七の古代史本批評

30.3.22 朝日新聞学芸部は不勉強?

●朝日新聞の福岡版に沖ノ島の出土品の修復についての記事が出ていました。

そこに「五弦の琴」のミニチュアについての説明があります。

【金銅製雛形五弦琴は7世紀のもので長さ27㌢。倭琴のミニチュア品。伊勢神宮にも同様のミニチュア品があるが、年代的には古いという。(以下略)】

しかし、伊勢神宮にあるのは六弦の琴であり、「五弦」の琴ではありません。五弦の琴は、”『隋書』俀国伝に俀国には五弦の琴がある”という記事があるのですが、現物はこの沖ノ島のミニチュアだけ、という特殊性がこの朝日の記事からは全くうかがわれないし、伊勢のと宗像のと、どちらが古いのははっきりしない記事となっているのです。

小さな記事だけれど、「五弦の琴」についての朝日新聞の学芸部記者の認識不足なのか、不勉強ぶりが目立つ記事でした。

 

 

●F史学の会のK氏が「三国志の時代の人の寿命は50歳であった」という仮説を立てっられて、それをベースに「論語の世界も二倍年暦の時代であった」という仮説を立てられています。

本当かなあと改めて三国志を読みなおしてみました。死亡時年齢調査が主でしたが、あらためて読んでみますと、気付かなことがいろいろとありました。

 

ひとつは「指南車」のことです。

三国時代には「指南車」はすでに「故事」となっていて、あれは作り話、というのが当時の常識となっていたそうです。それに反論した学者に対して明帝が、じゃ作ってみろ、と命じたらちゃんと出来上がった、とありました。

邪馬台国論争で、南は東を兼ねる、とか、南は東の間違い、とする邪馬台国大和説に対する反証の一つに、当時の中国は指南車もありそのような方角を間違えるようなことはない、など寅七も反論に「指南車」の存在を使ったことがあります。

明帝の時代は卑弥呼の時代とまあ同時代ですから、寅七の反論も一概に間違いとは言えないでしょうが、確たる証拠とまでは言えないな、と反省しています。

 

もう一つは、「臺は当時の貴字」であり、「邪馬臺国」というように使うことはあり得ない、と古田武彦師は指摘しました。

ところが、魏志24に「馬台」という人物(一般庶民)が登場します。ネットで中国の「原典宝庫」というサイトでチェックしましたが、簡体字使用で、「臺」はすべて「台」とされていますので、「馬台」が「馬臺」であったのかどうかわかりません。

『「邪馬台国」はなかった』では古田先生は58個の「臺」がある、とリストが上げられています。そこにはこの「馬台」はありません。おそらく、庶民が「臺」という貴字を使うことなどできず「馬台」となったのでしょう。

ただ、先生は後に2例の見落としがあったことを認められて、60例とされました。その2例にを見つけようとしていますが、終活の一環で本は寄贈してしまっているので、ネットで検索してみるのですがなかなかヒットしません。

ただ、もし「馬台」という人名が「馬臺」であれば、「臺」が貴字である根拠が消えるのですから、もしこの「馬台」が「馬臺」であった場合は大問題になったでしょうから、ボケはじめた寅七の頭の中にも、そのような記憶のかけらが残っているはず、と思うのですが、さて。

『邪馬壹国の論理』にあったと思うので、図書館か私の本の寄贈先に行って調べてみようか、と思っているところです。

 
●『三国志』に記載されている死亡時年齢については200以上のデータが集まりました。
本文と裴松之註すべてです。戦死や暗殺、刑死などの非業の死を遂げたものを含めて当時の社会条件の下での平均死亡年齢を出そうと思って集計作業をし、ホームページに「資料」として挙げておこうと思っています。

 

●「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページのURLは次です。

http://torashichi.sakura.ne.jp