1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2015-03-31 12:27:12

『天災から日本史を読みなおす』を読む 27.03.31

テーマ:ブログ

●昨日も良い天気で花見を兼ねてぶらっと出かけました。

菊池公園の桜を眺め、足湯に浸かり隣のおばあさんと他愛ないおしゃべりをしてお弁当をたべ、いろんな産地直販店めぐりをして夕方帰宅しました。

備忘録として記しておきます。

七城の熊本畜産センター肉の駅~菊池のコッコファーム~菊池公園直販店~山鹿の相良観音農産物直販店~装飾古墳館の鹿央町物産館~16号線道路傍のほたるの里直販店~玉名の横島町YBox(イチゴ販売店)~南関町のいきいき村物産館  と廻りました。

迂闊にも月曜日だったのを忘れていたので、姶良観音と装飾古墳館の直販店は定休日で空振りでしたが家人は満足したようでした。


菊桃の品定め
コッコファームで菊桃という珍しい花卉をみる

●「日中歴史共同研究」のブログ記事をまとめて『新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページに載せるための作業を始めています。

なにせ、長大な論文の各フレーズ毎に入れた、といってもよいくらいの(寅七注:・・・)を多発しています。その場その場での場当たり的感想ですので、ホームページに上げるに当たっては、その当否をあらためて検討しなければならず、結構時間を食っています。

この分では、本文とほぼ同等な量の注を『三国志』に入れた裵松之の場合以上になってしまうかなあ、などとボヤキながら作業をしています。


●朝日新聞の週末に別刷で付いてくる「be」に、『武士の家計簿』の著者として知られる磯田道史史の「備える歴史学」という連載記事が昨秋まで連載されていました。

歴史上の天災の情報を収集し、今後の防災に役立てる、というもので、読むのを毎週楽しみにしていました。


今回それをまとめられて、中央公論社から中央新書『天災から日本史を読みなおす』 副題「先人に学ぶ防災」 として出版されました。


磯田道史 「天災から日本史を読みなおす』磯田道史 760円+税

実は、磯田さんがこの朝日新聞での連載で、いつかは天武期の北部九州を襲った大地震についても何か言及があるかな、この地震が古代遺跡に与えた影響の大きさを知る手がかりがないかな、と期待していたのですが、期待はずれで終わり残念に思ったことでした。

なぜなら、ある古代史の先生に以前「磐井の墓を葛子が修復したとしても、この大地震で石人像なども崩れたのではないか」ということについてお尋ねしたことがありますが、お答えはいただけませんでした。

ともあれ、この磯田さんの本は立派な本です。それにしても朝日新聞の連載記事がなぜ中央公論社から出版されたのかな?

AD
2015-03-29 18:35:21

「日中歴史共同研究」(終) 27.03.29

テーマ:ブログ

●天気の良い日曜日でした。高速道路も終末の割引はあるし、普通なら熊本・山口・もしくは大分方面にドライブという家人の要望が出るはずなのですが、今日に限ってベッドから降りる気配がなく、聞けば、遅くまでスケートでの日本勢に金メダルを取らすべく応援していたのに、と応援疲れということで、当方としては、「日中歴史共同研究」を整理してホームページに載せる準備に終日PCに向かうことができました。


●「日中歴史共同研究」批評も今回で終わります。


「日中歴史共同研究」(その27 終わり)


この共同研究の「古代中世史篇」の日本側委員の論文は、今まで検討してきた第一部の川本先生の論文だけではありません。


第二部「中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相」でたくさんの先生方が論文を発表されています。


小島毅氏がまず、「思想、宗教の伝播と変容」について述べられ、続いて「ヒトとモノの移動 経済史」というタイトルで 桜井英治氏、「美術史から見たヒトとモノの移動」という面から井手誠之輔氏、「日本人と中国人の相互認識」というタイトルで古瀬奈津子氏、「日中の政治・社会構造の比較」という面から 菊地秀明氏が論じられます。


それぞれ力作です。是非皆様にも一度目を通していただくとよろしいか、と思います。ただ、当方の「古代史本批評」は、その著作の歴史観という面から行っています。それぞれの報告書に興味あありますが、手に余るところもありますし割愛させていただきして、このあたりで、「日中歴史共同研究」の古代史に関する叙述の批評を終わらせていただきます。


各項目の中で無数の短いコメント、「寅七注:」を入れました。最後にまとめとしての感想を述べておきます。


中国側委員の論文について。

古代史に関しての、中国側の委員は、例えば王勇氏などは日本語の古代史に関する本を日本で出版されていたり、日本側の委員とも以前から交流があるようです。

それもあってか古代史自体の日本の政治体制の流れについては、日本側のいわゆる「定説」に大きく異なるところはないようです。

そういう中でも、日本人の論文ではお目にかかれない興味ある事柄が多く、寅七注のコメントも多発させていただきました。


「寅七注:」で述べた中で強く印象に残ったものを改めて記しておきます。

・翻訳文だから余計そのように受けとるのかもしれませんが、「上から目線」の論述が多かったようです。

・「正史」にある記述は正しい、という基本があり、同じ事柄に対する記述の齟齬は、後代のものの方が、先人の研究の成果が表れているのでそれに従う、というような基本的な考えがあるように思われました。

・中国の歴代王朝の対外的な基本姿勢は、化外の民族に徳を及ぼすものであり、領土拡張などの野心はなかったのだ、という鷹揚なライオン(中華)と狡猾なキツネ(化外の民)的な構図で語られている。

・肝心の白村江の戦い以降の唐とわが国との関係について、日本の史書にあっても中国の史書にないもの、例えば郭務悰の多人数による幾度もの渡来について〈日本書紀の記事〉、そのまま受け取ってよいものかと疑念を抱いているようです。

・『魏志』の邪馬壹国、『宋書』の倭武、『隋書』の俀国・多利思北孤、『旧唐書』の倭国・日本の両国併記などが全く日本の史書に見えないことについて、蕃国の史書だから、という理由でしょうか、一顧だにしていないのには失望以外の何物でもありませんでした。


日本側委員の論文について

特に目新しいものがなく、紹介する程の論点も多くありませんでした。

中国側は縄文時代=野蛮、弥生文化の開花は中国移民のおかげ、という論調に一矢報いてもらいたかった。たとえば、先方の矛盾点、野蛮時代の日本へ孔子が筏を浮かべて行きたい、と言ったことと、その野蛮の国を大陸移民が文明開化させたと威張ることについて聞いて欲しかった、という無い物ねだりのコメントとなりました。


なんとか3カ月続けました。お付き合いくださった読者の方々ありがとうございました。


一応全体を読みなおし、変換ミスやテニヲハミスもチェックして、「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページに、できれば4月中には、アップするつもりです。


この「日中歴史共同研究」に対していろいろ読者の方々からコメントいただいています。ご意見はホームページに反映させたいと思っていますので、ご意見お寄せ下さい。

AD
2015-03-28 09:13:57

「日中歴史共同研究」(26)27.03.28

テーマ:ブログ

●このところの春日よりで近くの香椎宮や頓宮の山桜も七分咲きの状態です。

香椎宮には頓宮のほかにもたくさんの末社があります。頓宮はかなりの神社にあるようですが、印鑰〈いんにゃく〉神社となると少ないようです。
印鑰神社をちょっと調べてみました。
・熊本県八代市の印鑰神社・佐賀県佐賀市大和町の印鑰社・久留米市高良大社の末社 印鑰神社・福岡市香椎宮の末社 印鑰神社・石川県七尾市の印鑰神社などがあるようです。
いずれも祭神は武内宿禰かその子の石川宿禰のようです。


ネットでみてみると、「鑰」は鍵のことであり、奈良時代の国分寺の倉庫の鍵を管理する役所がその起原とされているようです。
『広辞苑』によれば、①官印と官庁の倉庫のかぎ ②天台座主の職印と宝蔵を開くかぎ、ととありました。


しかし、ちょっと調べたところでは、「印鑰神社」が現存するのは九州地方が殆どのようです。(七尾市の印鑰神社は16世紀に建立されている。)これはやはり「倭奴国」と関連して検討しなければ解けない謎なのでしょうね。


●「日中歴史共同研究」報告書の日本側委員川本先生の論文は、この項で当時の中国大陸の政治情勢の推移を概観して論文を終えています。

そこで述べていることは中国の正史から読み取れることをまとめているのですが、それが七世紀の我が国に及ぼした影響の評価、という点についてはどうだろうか、という面を読んでいきたいと思います。問題なければよいが、と思いながら概略を紹介します。


●「日中歴史共同研究」の報告書は、この川本論文に続いて小島毅教授の「中国文化の伝播と創造的発展の諸相」という論文となります。果たしてそこまで突っ込んで検討する価値があるのかどうか考えているところです。


「日中歴史共同研究」その26〈日本側論文10〉

6  世界秩序の変貌-魏晋南朝と北朝隋唐-


南朝から北朝へ
所謂魏晋南北朝時代にあっては中国との間で冊封関係(朝貢関係)を結んだ周辺諸国のリ-ダーが、中国王朝の爵位のみならず官職をも受けて中国王朝の臣下となるという現象が広範に見られた。倭国王が王号のみならず将軍号や都督号を与えられていることなどにもそうした現象が端的に示されているが、それはこの時代における中国の王朝権力の弱体化と、中国王朝がそうした状況を踏まえつつ周辺諸国をその体制へと取り込こもうとした意図の存在とによって促進されたものである。


しかし、一方でこれを胡族をはじめとした諸民族の側から見たとき、それは諸民族の自立への動きと併行するものでもあったのである。後漢後期には既にその様相を見せていた匈奴・鮮卑など所謂五胡の移動・侵入はその後、五胡十六国の成立、北朝の出現へと展開し、北朝の拡大を懼れた南朝は北朝を封じ込めるための国際的包囲網の形成を企図する。


450年、北魏の世祖太武帝は50万の大軍を発して南朝の宋を攻め、長江の北岸にまで達したとき、宋の太祖に手紙を送り、その中で、「この頃、関中で蓋呉という人物が反逆し、隴右の地の氐や羌を扇動しているが、それはお前が使いを遣わして誘っていることである。


(中略)またお前は以前には北方の柔然と通じ、西は赫連、蒙遜、吐谷渾と結び、東は馮弘、高麗と連なる。凡そ此の数国、我みなこれを滅したり。」(『宋書』索虜伝)とあるのは、南朝の宋の時代におけるそうした動きをうかがわせるものである。


しかし、こうした包囲網は時代を下るに従って徐々に崩されて行くのである。上で述べた450年における北魏の長江北岸にまで至る南侵もそうした状況を生む上で大きな役割を演じることになった。


いまそうした南朝を中心とした体制の衰退の一面を具体的な事例をあげて見てみよう。


所謂倭の五王の時代の山東半島は倭国をはじめとして東夷の諸国の南朝への使節派遣において、その中継地点として極めて大きな役割を果たしていた。

そして、413年から倭国の南朝への使節の派遣が始まるのも、東晋の将軍であった劉裕がその地にあって鮮卑慕容部が建国していた南燕を滅ぼし(410)、山東の地を領有したことと関連しているが、その山東半島の地は、469年正月以降、今度は北魏の領有するところとなる。


それまで南朝領であった山東半島を手中にした北魏は、早速その経営に乗り出している。すなわち、その翌年にはそこに新たに光州という州を設置し、その5年後の475年には軍鎮を置き、その支配を一段と強化しているのである。

以後北魏はここを基地として南朝へ朝貢する東夷の船舶を厳しく監視するようになった。


そのため、東夷の諸国から南朝へ送られた使節や南朝からの答礼使が、山東の沿岸で遊弋する北魏の船舶によって拿捕されるという事態まで生じるようになる。


また皇興3年(469)2月には、柔然、高句麗、庫莫奚、契丹等の北アジア、東北アジアの諸国が相継いで北魏に朝貢するが、これら遣使は北東アジア地域の諸国が南朝に朝貢する際のセンターとしての役割を果たしていた山東の地がその前月に陥落したことに触発されたものであろう。

これは逆に見れば山東半島が魏領となることが東夷諸国にとってどれほど重大な意味をもつものであったかを示している。

また、高句麗はその2年後に皇帝の位についた北魏孝文帝のとき、それまでの貢献品の額を倍増しているが、このことも山東の陥落と無関係ではないであろう。


つまり、この5世紀の後半の時点で、南朝が目指した国際連携のもとでの北朝の封じ込めという施策は、その東部戦線においてその連環が断ち切られたことがわかるのである。

ではその西部戦線はどのように推移していたのであろうか。当時、西部の吐谷渾や河西回廊の勢力、さらには北方の柔然の勢力との連絡に大きな役割を果たしていたのは長江上流の四川の地であったが、この地も長い南北抗争の末、南北朝の後半には北朝の勢力の傘下に組み込まれることになる。


それは553年のことであったが、このとき江南は北方から帰順した胡族の将軍である侯景の起こした乱による混乱の中にあった。当時征西大将軍として四川の地にあった梁の武帝の八男である武陵王紀は552年8月、軍を率いて東下し、湖南の地を図ろうとした。当時湖南の地には武帝の七男である湘東王繹(後の元帝)がいたが、彼は憂慮して救いを北方の西魏に求め、四川の地を背後から撃つことを求めた。


これに対し西魏では将軍尉遅迥を派して四川を討つ計を定め、翌年3月、軍を起こす。武陵王は防戦に努めたが、結局8 月成都は陥落し、四川は北朝の西魏の領有に帰し、南朝は対北朝の国際戦略上の重要拠点である四川の地をこうして喪失したのである。


このような流れを受けて、南北朝時代は最終的に北朝最後の王朝である隋による中国再統一へと帰結して行く。このことを南朝の側から見るとき、それは南朝を中心とした世界システムの崩壊を意味していたといえるであろう。


北朝の拡大、隋唐帝国の出現は南朝のみに影響を及ぼしたのではない。先に取り上げた北魏世祖太武帝が宋の太祖に送った手紙にも見えるように、それまで南朝と連動、あるいはその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(雲南にあった南蛮勢力)、高句麗、百済などの諸勢力は唐代にかけて相継いで滅亡する。

一方で、それら諸勢力の背後にあって勢力を蓄積してきていた突厥、吐蕃(チベットで興起)、南詔(雲南で興起)、渤海、新羅、日本などが興隆してくるのである。本章で示した高句麗、百済の滅亡、新羅による半島の統一はその好例ということが出来るであろう。


そしてそうした動きは、例えば、南朝時代、南朝の寧州刺史などに任じ、昆明・曲靖を中心として雲南東部を支配した爨氏勢力や、大理を中心として独立勢力を形成した張氏白子国勢力が、隋唐の攻撃を受けて滅亡し、替わって南詔が勃興してくる動きにも見えるように、東アジア規模において生じた動きであったのである。


それ故、倭国が遣隋使、遣唐使の派遣を通じて、国制の大改革を実施し、白村江の戦いによる敗戦を一つの主要な契機として古代律令制国家を完成させ、国号を日本と称した動きも、単に国内問題、あるいは朝鮮半島の動きといったような規模で捉えるべきことがらではなく、上で述べたような中国を中心とした「天下」の動きのなかにおいて捉えるべきものと考えられるのである。


夷狄であった五胡の中から出現した北魏が、南朝と同じく正統王朝であることを示す北朝の呼称をもって中国の士大夫からも認知され、北朝を受けた隋唐が中国の正統王朝となるという逆転現象、隋唐の文化、国制に見出される胡俗文化の影響などに注目するとき、秦漢から魏晋へと受け継がれてきた中国史の流れはここにいたって一転し、従来非正統なところに生じた流れが正統となるという、極めて興味深い展開をこの時代の歴史は示している。


また、本章において筆者は古代日本における歴史展開をその中華意識の形成という観点から考察したが、その軌跡を五胡・北朝・隋唐に至る中国史の展開と比較するとき、秦漢魏晋的秩序から見ると、同じく夷狄であったものが、それぞれに「中華」となるという点で(「東夷としての倭から中華としての日本へ」と「五胡から中華への変身」)、両者は相似た軌跡を描いたのである。


そしてこの軌跡の類似は、今まで述べてきたことを踏まえると、決して偶然に生じた類似ではないといえるのである。すなわち、五胡・北朝・隋唐と古代日本は、秦漢帝国を母胎として、その冊封を受けるという形で魏晋南朝的システムの中から成長し、それを突き崩しつつ出現した、という面で共通した側面をもつ国家群であったといえるのであり、7世紀東アジアの国際秩序は、マクロな視座から捉えたときそのような過程をへて創成されたものといえるのである。
(寅七注:この著者の説明により、このような中国大陸の政治情勢の変化をみて、多利思北孤王は、「対等の天子」としての国書を送った、ということの背景が理解ができる。

ただ、多利思北孤王が俀王であり、近畿王朝の王ではなかった、という理解が必要であろうが、残念ながら日本側委員は「俀は倭の書き間違い」説ですましているようだ。


せめて坂本太郎氏が述べているように「遣隋使関係については、わが朝廷に信ずべき記録が残っていたと考えてよい。それなのに、推古八年の遣隋使人について一言も触れていないのは、それについては朝廷に記録を欠いていたと考えるほかはない。八年の使人は朝廷の与り知らぬものではなかったかという推理がここに生まれる。」〈『人物叢書 聖徳太子』吉川弘文館 1979年刊〉というくらいの柔軟な頭が必要でしょう。)

AD
2015-03-27 06:41:43

「日中歴史共同研究」(25) 27.03.27

テーマ:ブログ

●一昨日は、二か月ごとの内科での成人病チェックでした。上京中の不摂生な食事生活が現われていて、血糖値・血圧の双方とも管理限界の近くまで上がっていました。


●昨日は、久しぶりの春日和の中でのゴルフでした。出だしのロングホール3打目の残り100ヤード程をシャンクしてトリプルボギーとしてしまい、今日もダメかと思いました。

最近会社を定年退職した同伴競技者のKさんが、「一緒に回るのは30年ぶりです」というので、昔と違うみっともない姿を見せられないな、とミスショットのボヤキも程ほどに、素直に18ホール回ったら、結果はベストグロスの人に1打及びませんでしたが、5位賞にありつけました。


●「日中歴史共同研究」の古代史部分のメインともいうべき、白村江の戦いの評価に入ってきました。


「日中歴史共同研究」その25〈日本側論文9〉

5 唐・高句麗・百済・新羅の動向と白村江の戦い

(寅七注:著者が当時の大陸と半島の政治的状況の説明をしている。中国側の論文が半島支配の思惑があったことを極力隠そうとするのに比べると、倭国関係の状況抜きの論述であることを除けば妥当な叙述と思われるのでその概略を紹介する)

当時の東アジア諸国の動向

●北魏孝文帝の洛陽遷都の後、北周が北斉を滅ぼして華北を統一し、北朝最後の王朝隋建国(581)による統一に至る。強大な隋に脅威をいだいた高句麗や百済は、南朝の陳との結びつきを強めた。
589年、隋が陳を平定すると、百済・新羅は隋に遣使し、隋との関係を取り結ぶことに成功する。
高句麗は隋による中国再統一に脅威をいだき、軍備を増強して国防に努めようするようになる。
漢の武帝による朝鮮四郡の設置以降における中国の朝鮮半島に対する支配は、313年にそれまでの朝鮮支配の拠点であった楽浪郡が高句麗に滅ぼされて以降、途絶していた。
隋では中国再統一の機運を受けて、藩国でありながら定められた歳貢を実行しない高句麗に対する膺懲の議論が活発になってきていた。

一方598年、高句麗は靺鞨万余騎を率いて遼西に侵入し、607年には隋の北方にあって隋を牽制する突厥と高句麗との連繋が発覚するなど、隋と高句麗との関係は悪化の一途を辿っていた。
また、朝鮮半島の状況も、百済・新羅を軍事的に圧倒した5世紀までの高句麗優勢の状況から、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立する、とめどもない抗争の段階へと推移していた。

隋が建国した頃の半島の状況はこれら三国がそれぞれ鎬を削り合っていたのであるが、中国では隋唐の統一、拡大が一方で進行していたのであり、この中朝の関係は、相互に絡み合いながら7世紀の隋による高句麗討伐、隋の滅亡、唐の建国、唐による高句麗討伐、百済の滅亡、白村江の戦い、高句麗の滅亡、新羅による半島の統一へと展開して行ったのである。

612年、隋の煬帝は二百万と号する大軍を派遣し、高句麗を討った。これは隋から見たとき、突厥との連繋を企図する高句麗に対する懲罰戦という性格を持ち、また、既に高句麗との関係の険悪さが進行していた新羅・百済両国からの高句麗討伐に対する要請にもこたえるものでもあった。しかし、高句麗は遼東城での籠城や乙支文徳率いる醍水(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退することに成功する。その後も高句麗は再三隋軍の侵入を退け、遂に618年、国内の反乱のなかから、唐が建国された。

その後、朝鮮三国間の抗争は激化し、また、唐が半島への関与を強めたので,高句麗では宝蔵王が臨戦体制を整え、645年以後、高句麗は五度にわたり唐の遼東攻撃を退けることに成功する。しかし、665年実力者泉蓋蘇文が死去すると,彼の子供たちの間に対立が生じ、これに乗じて唐は668年、高句麗を攻め滅ぼすことに成功するのである。

唐と百済と新羅
古代日本の国家形成の転機ともいうべき白村江の戦いは、唐によるこの対高句麗戦の南方戦線における戦いという様相を示している。
唐の場合と異なり、隋による三度に及ぶ高句麗遠征は、百済への侵攻をともなうものではなかった。
しかし、唐による高句麗遠征は、高句麗の南方にある百済を衝くという側面も有するものになる。それは643年に唐の太宗が救援を求めてきた新羅の使者に、百済は海を頼みとしているが朕は水軍数万をもって攻めることもできる、と述べていることなどに示され始める(『新唐書』高麗伝)。
、義慈王の王子の扶余隆=徐隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当てた。その後、新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗、百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。677年2月、唐は扶余隆=徐隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王に格上げし、熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。


ただし、太宗の時点における唐の主敵はあくまでも高句麗であり、徐々に新羅との連合へ傾斜しつつも、いまだ百済を敵視する段階にまでは至って居らず、むしろ対高句麗戦争遂行の上で、百済に唐側に加わるよう慫慂している段階にあり、こうした方針は太宗の治世が終わるまで変化することはなかった。
しかし、新羅の金春秋が唐との同盟関係を成し遂げ、唐風の制度改革に着手し、さらに高宗の段階になって、新羅が高宗の年号である永徽の年号を採用し、唐の制度を導入する段階に到ると、様相は大きく変わってくることとなった。

百済は倭国と同様、南北朝時代にあっては南朝と深いつながりを持ち、北朝と交流することはほとんどなかった。それ故、北朝の継承国家としての隋唐との間に十全な意味での親しい関係を確立できない歴史的状況下にあった。

また、隋の高句麗遠征時において、隋を支持することを表明してはいたが、それはその本心から出たものではなく、時勢を観望する対応から出たものであったといえる。また、隋が高句麗を討って、結局滅亡したことも、唐による高句麗遠征に際しての百済の対応に大きな影響を及ぼしていたと考えられる。


すなわち、百済は、唐にとっても高句麗を攻略することは容易ではなく、とすればその状況を利用して、宿敵である新羅を討とうと企図していたと考えられ、この時期、百済が唐に朝貢することを取りやめていた背景にも、そうした百済の配慮が働いていたと想定されるのである。


(寅七注:『唐会要』巻九九にある記事、倭国の遣唐使に対して“使を遣はして琥珀・瑪瑙を献ず(中略)。高宗、書を降して之を慰撫し、「王の国は新羅と接近す。新羅は高麗・百済の侵す所となる。若し危急有らば、王宜しく兵を遣はして之を救ふべし」”という史料を黙殺しているのはなぜ?)

このような状況を受けて、唐が百済に対する方針を明確に変更することを告げたのは永徽2年(651)のことであった。そのことを伝えて、『旧唐書』百済伝に、高宗が百済王に与えた璽書が見え、その一節に、王、もし進止に従わざれば、朕(高宗)已に新羅王金法敏の請う所により、其に任せ王と決戦せしめん。また高麗に約束せしめ、遠く相救恤するを許さず。高麗もし命を承けざれば、即ち契丹諸蕃をして、遼澤を渡り入りて抄掠せしめん。王、深く朕が言を思い、自ら多福を求め、審らかに良策を図り、后悔を貽ることなかれ。とある。これに拠れば、このとき唐は百済が高句麗と結んでいることをも認識していたこが窺えよう。


このような推移の後、結局、百済は660年、唐によって滅ぼされることになるのであるが、周知の如く所謂白村江の戦いは、このとき、百済を滅ぼし百済の故地にあった唐軍とそれを後援した新羅の勢力が、百済復興を企てた余豊、およびそれに与した倭国軍との間で交えた戦いであり、倭国の軍隊はこの戦いで壊滅的な敗戦を蒙ることになる。

この戦いにおいて百済・倭国が壊滅的敗戦を蒙ったのは、倭国の軍隊が寄せ集め的な軍隊であったため、充分な統制がとれていなかった、いや統率された軍隊であり、むしろ倭国が百済救援よりも、この機に乗じて新羅から領土を奪うことに執着したからであるなど、研究者間では対立的な見解が存在するが、ともかくもこの敗戦が、倭国に自国にも唐の鋭鋒が及ぶとする深甚な脅威を抱かしめることとなったことは動かしがたい事実である。

(寅七注:この時期の『日本書紀』の記述にみえる中大兄皇子の行動からは、積極的な参戦というようには見えないのだが。)


百済滅亡後の唐と新羅
唐はその後、668年、高句麗を滅ぼすことに成功し、その都平壌に安東都護府を置いたが、高句麗遺民の復興運動や朝鮮半島の統一を志向する新羅との戦いに敗れ、676年に安東都護府を遼東に移すこととなる。
翻って考えるに、唐の高句麗遠征は、高句麗に対する昔年の遺恨を果たすこと、中国旧領の回復などにその目的があったが、しかしそうした目的の中にあって、第一のものは、唐を中心とした東アジアにおける国際秩序構築にあったといえる。
(寅七注:川本先生は、どうも中国ひいきの論を張られているように思われる。先に見た旧百済領に熊津都督府、や新羅に鶏林州都督府を置いて半島を直轄領として支配しようとした試みがあったと思われる出来事を記さないのである。
最後のの百済王義慈王が捕虜となり、唐朝は旧百済に熊津都督府を設け、その都督として義慈王の息子余隆を任命している。このことをなぜ無視しているのかな?)


新羅や百済、さらには倭国にはそもそも自国を中心としたそうした国際秩序の構築の意図はなく、当時これらの諸国に存在したのは、半島における、あるいは自国の権益の拡大、保持にその最大の狙いがあった。

従って、最終的に、7世紀における諸国間の抗争が、新羅による半島の領有に帰結したとしても、それは唐にとって新羅が唐の国際秩序を認める冊封国である限り、利点のある終息であったといえるであろう。

一方、新羅による半島の統一とともに、唐の脅威が薄らいでいった倭国では、臨戦態勢下において実現した天皇を中心とした律令体制を完成させることに成功し、新たな国号「日本」を制定するに到るのである。

(寅七注:『旧唐書』の倭国と日本国のニ国併記についての著者の意見は、どうまとめているのか次回見てみたい。)

2015-03-24 13:20:29

「日中歴史共同研究」(24)27.03.24

テーマ:ブログ

●この一週間、末娘のところのパソコンをほぼ独占して使わせてもらえました。娘も孫娘もそれぞれスマートフォンでネットにつながっているので、パソコンはプリントアウトが必要なときだけ必要という状態になって来ているようです。おかげで、福岡の自宅にいるときよりもブログの更新が進んだようです。


●8日ぶりに帰宅して、郵便受け一杯のいろんな紙類の整理でした。宅配便の不在票も数枚あり、連絡すると、ナマものでしたので発送された方に連絡したら、フキノトウで長く鮮度が保てない、ということでお返ししました、ということでした。家人も折角の春の珍味でしたのに、と残念がっていました。


●中国の史書と『日本書紀』との食い違いとか、片方に記載がないことなどについてのところの解釈となります。果たして川本先生の解釈は?というところです。


「日中歴史共同研究」その24〈日本側論文8〉

4  倭国と唐との「争礼」

推古紀の唐皇帝への国書
●先掲の裴世清帰国の際のことを記した『日本書紀』推古紀の記載には、続けて、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。吉士雄成小使。福利爲通事。副于唐客、而遣之。爰聘唐帝。其辭曰、東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至、久憶方解。季秋薄冷、尊如何。想清悆。此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利等。謹白不具。とある。

ここに「天皇」、「皇帝」、「謹白」などの表現が見えることなどから、この国書で倭王は隋の皇帝を先輩か兄に見立て、倭国の王が隋の皇帝と対等であることを改めて主張している。
(寅七注:皇帝と天皇はたとえて言えば兄と弟の差であり基本的に同等と主張している、というのは強弁に過ぎるのではないかな?)


最初の天皇の称号

●この際、そこに史上初めて日本における政治的リ-ダーとしての「天皇」という呼称が用いられていることは注目に値する。

つまり、天皇という呼称はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内で通用するようになったのではないか、そして、やがて律令の中で天皇号として定着するようになったと考えられるのである。
換言すれば、倭国は自国におけるそれまでの天下意識の形成を踏まえ、遣隋使を派遣した当初、「天弟、日兄」の立場をとったため、文帝の訓令を受け、「天子」という表現を和らげた隋の天子と対等の称号を名乗った。


しかしその後再び今度は煬帝から「訓令」を受け、それを受ける形で「謹白」などの表現を用い、隋の皇帝を先輩か兄に見立てこの問題を処理しようとした、その過程で「天皇」の用語がもちいられる段階に至ったと考えられるのである。
(寅七注:著者の「天子」の意味が特殊な感じだ。「天皇」という表現は、継体紀に「日本天皇皇子倶に薨ず」という百済本記の記事が紹介されているが?

金石文にも、622年には「法皇」という称号使われていた〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉ということから、天皇は少なくともこの「法皇」が自身をその称号を用いる前に、「天皇」という称号を自身に用いられていたと言えるのではないかな?)

倭国の自己主張

●そこには、南北朝の混乱を終息せしめ、新たに中国を再統一した隋に対し、倭国が一定の譲歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いていることが窺える。

この自己主張の貫徹は朝貢国に対し、臣礼をとることを求める中国の立場から見たとき、容認しがたい姿勢ということになるであろう。

先に見た煬帝の不快もそれと同根の政治理念から生じていたものと言える。それ故、このような形での裴世清の帰国は再び隋側の反撥を呼び起こすものとなった可能性がある。

しかし、『隋書』をはじめとした当時の関係史料は、このことについて語るものがない。史料の欠落という可能性もあるが、おそらくそこには、隋が高句麗遠征の混乱の中で滅亡していったことが、大きく関係していると想定される。また、唐が建国されても、しばらく倭国と唐との間の政治交渉はおこなわれなかった。それが再開されたのは、唐が建国されて10年以上のちのことである。
(寅七注:遣唐使は260年間に18回、つまり約15年に1回行われている。特にこの「10年」を長いと思わせるのは恣意的な叙述ではないかな?当然倭国側も「隋朝」を倒した「隋の武将のクーデターが果たして長続きできるのか、と時間を置いたのは当然だろう)

高表仁の争礼の相手
●『旧唐書』倭国伝には、貞観5年(631)のこととして、(太宗)遣新州刺史高表仁、持節往撫之(倭国のこと)。表仁無綏遠之才、与王子(他の関係史料は王子を全て王とする)争礼、不宣朝命而還。とある。

ここに見える礼とは何であろうか。この時期より後のものであるが、『大唐開元礼』嘉礼・皇帝遣使詣蕃宣労の条に、執事者引蕃主迎使者於門外之南、北面再拝。使者不拝。・・・使者称有詔。蕃主再拝。使者宣詔訖、蕃主又再拝。執事者引蕃主、進使者前、北面受詔書。・・・とあり、開元礼においては蕃国を皇帝の使者が訪うたとき、使者は蕃国側の再拝に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受けることになっていた。631年の段階においても、この点に大きな相違はなかったであろう。
(寅七注:高表仁が争ったのは『旧唐書』には王子とあるが、他の史書には王とある、と著者はわざわざ断りを折れている。つまり、当時、「王子」に相当する人物が近畿王朝に存在しなかったので、『旧唐書』の誤りといいたいのであろう。

『日本書紀』の高表仁については、難波について寒風の下での大げさな迎えに喜びかつ恐縮する、といい、接待役と酒を飲んだ、とあり、礼を争った記事はないが、なぜか著者の説明はない。)


裴世清と王との会見

●『隋書』倭国伝に拠れば、608 年に来日した隋使・裴世清は大礼の哥多毗の率いる二百余騎の迎えを受けて飛鳥の都に入り、その後、其王與清相見、大悦曰、「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義。是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使。冀聞大国惟新之化。」清答曰、「皇帝徳並二儀、澤流四海。以王慕化、故遣行人來此宣諭。」とあるように、倭王と会し、その際倭王は夷人と称し、さらに裴世清はそれに答えて宣諭したとしている。

また同じ『隋書』倭国伝には、裴世清がこの倭王との会見の後のこととして、其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。としている。すなわち、裴世清は、朝命、則ち煬帝の命令は既に伝えたので帰国したい、と述べているのであるが、とすれば裴世清はこの時点で、使者として「朝命」を伝達すること、すなわち倭王に対する「宣諭」の役割は遂行されたという認識を持っていたことを示している。
(寅七注:前にも書いたが、『隋書』の裵世清の記事では俀王と面談しているが、『日本書紀』では推古天皇と面談していない。川本教授は、この矛盾についての考察がないまま論を進めるのは、『日本書紀』の誤りで済ませているのだろうか?)。

綏遠の才が無かった高表仁
●先に挙げた『旧唐書』に見える高表仁の場合は、後には「綏遠の才が無かった」という評価を下されることになるが、高表仁自身はこの「争礼」の時点で未だ「朝命」を伝達していないと考えていたはずである。その「非礼」とは、彼が唐使として倭国に来朝していることを考えれば、唐の体面に関わる問題が存在していたと考えざるを得ない。

ところで、所謂遣唐使は630~894年の260 年間に18回が計画され、うち15 回が実行に移された。また、この15回の遣唐使の帰国にともなって唐帝の意を帯して勅使が来日したのは、632年の高表仁、778 年の趙宝英の場合の計2 回のみである。


つまり、唐使趙宝英の来日は(ただし、趙宝英は遭難し、実際に来日したのはその部下の孫興進)、高表仁以来、実に1世紀半ぶりのことであった。このとき、その唐使をどのような形で迎えるべきか議論が興り、唐使とともに帰国した遣唐使判官小野滋野は諸蕃国(新羅や渤海など)の礼と同じく接遇すべきを主張し、中納言石上宅嗣は蕃主が皇帝の使者を迎える礼を迎えるべきであると主張している。
(寅七注:唐からの使節派遣はそのように2回のみなのである。そのうちの1回目という唐朝の正使高表仁の来訪が日本の正史はなはだ簡単に記されている。舒明天皇と会ったのかどうかも載っていない。「王子と礼を争ったので天皇に会えなかったのだ」、という岩波文庫の説明的な著者の説明もないのは著者の怠慢ではないかな?)


『隋書』と『日本書紀』の記事の矛盾
●先に述べた『日本書紀』と『隋書』に見える遣隋使関係の記載には相互に矛盾する点が多く、果たして実態がどのようなものであったのか不明な点が多い。

ただ、これらの矛盾および上述の唐の時代の唐使趙宝英の来日の際の議論を踏まえると、高表仁来日の際の争礼とは、開元令のいう嘉礼に関わるものであり、そこに両者の体面の問題が存在していたことが窺えるのである。
(寅七注:記事の矛盾ではない。そもそも”『日本書紀』に記事がない”ことが問題なのではないかな?)


高表仁と日本書紀

●それ故、倭国側と紛糾が生じ、「朝命」を達することなく帰国することとなったが、『旧唐書』はそれをとらえて「綏遠の才が無かった」としているわけである。

とすれば、『旧唐書』に述べられていることを意を持って汲み取れば、『旧唐書』には「高表仁は唐の体面に関わる「礼」にこだわって争いを引き起こし、結果、「朝命」を達せず帰国することになったが、これは高表仁に夷狄を綏撫する才がなかったからであり、夷狄に対する綏撫には深慮が必要である。」ということが述べられていることになろう。
(寅七注:唐使高表仁の倭国訪問にはいくつかの疑問がある。これらの疑問があることすら著者は伝えないのは問題ではないかな。
①中国史書によると足かけ3年に及ぶ彼の長い旅程、と『日本書紀』の対馬到着から対馬出立までの5ヶ月弱の短い旅程。②礼を争ったのは誰か。王子(『旧唐書』)か王(『新唐書』)なのか。

③『日本書紀』に記載のある高表仁接待社の氏名不詳者が多いことのはなぜ?など)

2015-03-22 10:09:24

「日中歴史共同研究」(23)27.03.21

テーマ:ブログ

●昨夜は、長男一家が末娘のところに来て全員11名で、シャブシャブ鍋を囲みました。

九州から持参した3kgの佐賀牛で若者たちの胃袋に取り込まれていくのを眺めながらのビールの味は格別でした。


●今回の「七世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係」が川本論文の目玉的なところです。あまり端しょらずに紹介したいと思います。


「日中歴史共同研究」その23〈日本側論文7〉


3  七世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係

第一回多利思北孤の遣使
●倭国からの中国への使節は倭王武による478 年の遣使を最後として、以後隋の開皇20 年 (600)までの120 年余の間途絶する。

『隋書』倭国伝には、その開皇20年における国交再開時において、倭国使と隋の高祖・文帝との間に交わされた問答を伝え、 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄、以日為弟。天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委 我弟。」高祖曰、「此太無義理」。於是訓令改之。 とある。

倭王武による478 年の遣使以来122 年ぶりの、この倭国による遣使再開は、西晋崩壊後の、300 年になんなんとする混乱を収束して589 年、隋が中国を統一したこと、及びその 統一のエネギーが半島に及び、高句麗と隋との間に緊迫した事態が生じた状況下に行わ れたものである。
それ故そのような緊迫した状況下における外交の現場において発せられ た倭国使の発言は、到底単なる問答などではないと考えられる。
(寅七注:『隋書〉には「倭国伝」はなく、「俀〈タイ〉国伝」とある。何らのエクスキュースないのは中国正史に対して失礼ではないのかな?)


倭王以天為兄、以日為弟。
●このときの倭国使の回答 によれば、倭王は「天の弟」(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)、「日の 兄」ということになる。周知のように「天子」は単に「天の子」のみを意味するのではなく、地上世界を統治せよとの天命を受け、天下に君臨する皇帝そのものを意味し、「日」 は中国では皇帝そのものを暗喩する用語である。

また、倭王が「天の弟」ということを、中国的家族制度に基づき天子たる中国皇帝の側からから見れば、倭王は中国皇帝の叔父、叔母の位置に属する尊属ということになり、倭王が「日の兄」ということを「日」と暗喩される中国皇帝の立場から見れば、倭王は中国皇帝の兄ということになる。
つまり、このことが文帝をして「これははなはだ理屈の通らない話だ」(此太無義理)と言わしめた原因と考えられ、ために前掲の『隋書』倭国伝の記載の末尾に、「於是訓令改之」と見えるような対応が文帝によって採られたと考えられるのである。

(寅七注:この解釈は、木を見て森を見ず、の典型的な例であろう。兄の俀王が夜の明けるまで宗教的な勤めを為し、日が上ると弟に俗事の政を執る、と文面そのまま解釈すれば、文帝が、そのような体制は理に適わないものだと訓示した、ということだ。このような「兄弟政治」が当時の近畿王朝に例が見当たらないので、このような、解釈をひねり出したと思われる。

尚、この文章によれば「タリシヒコ=推古天皇」としているようだが、あいまいな表現夷なっている)


第二回多利思北孤の遣使

●このことを念頭において、この開皇20年(600)から7年後の大業3年の際の小野妹子が煬帝にもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙云々」の記事について考えてをみよう。

従来の研究ではこの国書の内容が倭国側の対等外交を求めた姿勢が示されたものとする理解が大勢であるが、上で明らかにしたことがらを踏まえれば、一歩進んでこれは一面では大業3年の遣隋使において倭国側が文帝の訓令を受けて一定の譲歩、修正を行ってきているものと見ることもできる。


何故なら大業3年の国書における小野妹子のもたらした国書の内容が、煬帝から見たとき、いかほど不遜なものであろうとも、「日出處天子」「日没處天子」という形でいずれもが「天の子」であると称しており、決して自らを「天の弟」「日の兄」などとは称していないからである。そこには開皇20年のときに見られたような叔父・甥や兄弟という家族的秩序になぞらえ、倭王を皇帝より上位に位置づけんとする姿勢はなくなっているからである。

(寅七注:小野妹子が多利思北孤の国書を持参した、というのは真実かな?そのためにはまず「多利思北孤とは誰のことなのか」、を抜きで論を進めてもよいのかな?

兄弟政治の説明と「日出處天子と日没處天子」という併存する天子の国書は、何も「譲歩・修正」を行った結果でなく、同一の体制の証明と取るのが自然でしょう。)

第二回多利思北孤の遣使は小野妹子?

●外交という問題の性質上、大業3 年に遣隋使として中国に至った小野妹子が、その7 年前の遣使の際、文帝が倭国使に対し「此太無義理」と述べ、天弟・日兄の主張を改めるよう「訓令」したことを認識していなかったということは、ことが国家の浮沈に関わる外交案件であることに思いを致せばあり得ないことがらである。

それゆえ、小野妹子がもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙」の表現は、倭国側が文帝の「於是訓令改之」という下命を踏まえた上で作成したものということになるのである。

(寅七注:第二回とされるこの俀国の遣使が小野妹子ということは中国史書には出ていない。著者は何らかの説明が必要なのではないのかな。)


●ところで先に見たように『隋書』倭国伝によれば、小野妹子のもたらした国書を見た煬帝は、覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。と述べたとされるが、この状況は、開皇20年の遣隋使との問答をへて、それに対してその不合理さを指摘した文帝の場合と似通っている。
文帝の場合はその不合理さを改めるよう「訓令」している。文帝がその「訓令」を文書の形で倭国使に手交したのか否かは定かではない。

(寅七注:前項で指摘しているように、「小野妹子がもたらした国書」が既定事実として、さらに発展させた砂上楼閣の推論と言わざるをえない。)

遣使裵世清

●『隋書』倭国伝に、小野妹子の帰国の際、同行して倭国に至った裴世清が倭国王と会見したことを伝えた記載が見え、そこには、裴世清と会見した倭王は大いに悦んで「私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いた。故に使い(小野妹子)を遣わして朝貢した。私は夷人であり、海中の片隅にいるために礼儀というものを聞くことがなかった。そのため国内に留まって謁見できなかった。いま故に道を清め館を飾り、大使を待った。冀わくは大国惟新の化を聞かん」といった。

裴世清はそれに答えて、「皇帝の徳は天地にあまねく、その恵みは四海に及ぶ。王が皇帝の化を慕ったが故に行人を遣わして宣諭するのである。」と述べた、とされている。

(寅七注:『日本書紀』によれば、裴世清は推古天皇と会見していない。この矛盾の説明が必要でしょう。)


裵世清持参の国書
●一方、裴世清は『日本書紀』推古紀の記述によれば、来日の際、煬帝の国書を持参したと伝えられ、またその国書を倭国王に伝達・会見した後のこととして、『隋書』倭国伝には、其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。とある。
これらのことは裴世清の来日が倭国に対する宣諭を目指したものであったことを示しているが、現行の『隋書』や『日本書紀』などの史書による限り、そこに「日出處天子致書日没處天子無恙」とある文言に対して無礼であるとした煬帝の意向を伝える倭国王に示された「訓令」にあたる文言は見あたらない。

(寅七注:俀王と推古天皇が同一人物という前提では解けない謎でしょう。)

煬帝の不快の念

●『隋書』倭国伝によれば、文帝の場合、倭国使の回答に対して「此太無義理」と述べている。煬帝は「覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞」とあってあからさまに不快の念を表明している。

この文帝と煬帝の対応を比較した場合、その不快の表明は煬帝の方が強くなされているといえよう。

ではこの煬帝の「不快の念」はどのように倭国へと伝達されたのであろうか。小野妹子のときの場合、ことが倭国から送られた国書に対する「不快」であるからには、その伝達が遣隋使(小野妹子)に対してのみにとどめられた、あるいは倭国中枢への伝達を要しないものとして処理されたといったことは考え難いであろう。

しかし、従来の研究はこの点について全く考究することなく、煬帝が「不快」であったにもかかわらず裴世清を派遣したのは、当時の隋が対高句麗の関係で、その背後に位置する倭国の存在を重視したからであるとする。

ただし、こうした理解は十分な解答たり得ない。何故なら、倭国への不快の度合いが煬帝に比べればそれほどでもなかったと考えられる文帝のときの場合は、具体的なことがらは不明であるが、『隋書』倭国伝に、高祖(文帝)曰、「此太無義理」。於是訓令改之。とあるように、なんらかの「訓令」という形でそれが示されたことが窺えるからである。

(寅七注:俀王=推古天皇という誤った仮定で解釈するので、ますます謎が解けなくなっていくようです。)

小野妹子の国書紛失事件
●さらに、この問題との関連で考究すべきことがらが『日本書紀』には記されている。それは煬帝から倭国へ送られた国書には、裴世清が持参したものの他に、もう一通の小野妹子に託された別の書があり、それが小野妹子が帰国の際、百済によって盗まれたとする奇妙な記述が『日本書紀』に見えることである。

すなわち、推古天皇16年(608)6 月、裴世清一行が難波津に至ったとき、彼らをともなって倭国に帰着した小野妹子が上奏してきたことを伝えて、『日本書紀』推古紀に、爰妹子臣奏之曰、「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰、「夫使人雖死之、不失旨。是使矣何怠之、失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰、妹子雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐。とあるのである。この記載からは小野妹子が煬帝から託されたとする返書の具体的内容を知ることは出来ない。

しかし、具体的論証はここでは省略するが、その書こそが先にその存在を想定した、煬帝からの訓令書であったと考えざるを得ないのである。もしこの小野妹子にもたらされた煬帝の書の中に訓令のことが何ら記されていなかったとすれば、そもそも何故煬帝が裴世清と小野妹子との各々に返書を付託したのかという理由が極めて不可解なものとなるであろう。

唯一、その紛失を恐れ、同一の文書を本国の使節と交渉国から派遣された使節との両名のものに預けるということが想定されるが、中国の外交においてこのようなことが行われた事例を筆者は寡聞にして知らない。よってこうした想定が実際にありえたとは考えがたい。つまり、裴世清と小野妹子のもたらした文書の内容は異なっていたと考えられる。異なっていたとすれば小野妹子の授けられた書は「訓令」の内容を含んでいたと考えられるのである。

何故そのようなことが生じたのかということについては、種々の説があるが、いまはその詳細には立ち入らない。百済によって奪われたという説も成り立ちうるであろうし、小野妹子や倭国の中枢がその書を破棄したということも考えられるであろう。ただし、煬帝が小野妹子に授けた書にいかなる内容のことが書かれていたのかということについて、小野妹子が関知していなかったということはあり得ないであろう。また、小野妹子がその書の内容を知っていたならば、小野妹子は使節の使命として当然そのことを何らかの形で倭国中枢に伝達したはずであるから、倭国中枢もまたそのことを知ることになったであろう。
つまり、国書の紛失の存否に関わりなく、小野妹子の持参した煬帝の書の内容自体は倭国中枢に伝達されていたと想定されるのである。


でなければ、小野妹子失書に対して流罪と決した群臣の議を大王自ら勅命を下して覆し、小野妹子を赦免するということは考えがたいであろう。また、『日本書紀』推古紀には、裴世清の帰国時のこととして、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。とあるように、不可解なことに小野妹子は、煬帝の書を紛失するという外交上の大失態を演じたにもかかわらず、その罪が異例の形で免ぜられたのみならず、裴世清が隋に帰国する際、再び「遣隋大使」に任ぜられ、中国へ派遣されているのである。つまり、聖徳太子などの倭国中枢は小野妹子が失ったとされる煬帝からの書の内容が隋からの「訓令」にわたるものであったことを必ずや認識していたと考えられるのである。
(寅七注:小野妹子が国書を受け取りその国書を失くした、という。

しかし、同時に来訪した裴世清が国書を持参している。同時に二通の国書が存在したことに対する疑問について述べる必要があると思うが?

ともかく、この川本論文の『隋書』についての基本的な問題は、

①「俀国」という正史にある国名を何の断りもなく「倭国」に変更していること。

②この時代は推古朝であるが、著者の論文には、”倭王は「天の弟」(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)”というところで、唯一「推古」が出てくるに過ぎない。推古天皇架空説なのかな?

③かといって、多利思北孤=聖徳太子とも明言しないのも不思議だ。)

2015-03-20 15:57:52

「日中歴史共同研究」(22)27.03.20

テーマ:ブログ


●今日は一番若い孫T君の中学校卒業式でした。思い返せば、3人の子供たちの卒業式にも出たことがありませんし、ともかく3人の子、5人の孫で初めての卒業式参列でした。

校長先生から卒業生がひとりひとり名前を呼ばれて元気よく返事をして卒業証書を受け取っていきます。さて、60年以上も前のことですが、自分の中学の卒業式の記憶が全く残っていません。


当時、昭和26年、はまだ古い兵舎を使っていたし、卒業式など大勢が入れる講堂のような大部屋もなかったので、卒業式があったとすれば、小学校の行動や公会堂などを借りて行われたと思うのですが、ともかく全く記憶がありません。今度、中学の同級生に会ったときに確かめてみたいと思っています。

●「日中歴史共同研究」の中国側の論文部分だけでもまとめてホームページに載せようかと、今までのブログ記事を読み直しているのですが、文章に依然としてキーボードで打った時の変換ミスが多いのに一人で赤面しています。とりあえず、(その5)まで校正しました。


●今回から紹介する章が、「共同研究」の日本側委員の、いわば目玉というか背骨的な論文となります。

しかし、全体を紹介するには大部すぎますし、やはり、寅七が気になったところを「項目」に上げ、それを中心に紹介する、ということにしますことを了承願います。


「日中歴史共同研究」その22〈日本側論文6〉

第一部 東アジアの国際秩序とシステムの変容

第一章 7世紀の東アジア国際秩序の創成 日本国九州大学 川本芳昭

は じ め に


7世紀の東アジアは、隋による高句麗遠征に端を発する動乱によって幕をあけ、やがて隋の滅亡、唐の建国と拡大、それにともなう朝鮮半島諸国の興亡というようにめまぐるしく変動・展開した。その変動はやがて新羅による半島の統一、日本における古代国家の完成、唐を中心とした東アジア国際秩序の構築へと行き着く。


こうして創成された国際秩序はそれ以前の秦漢魏晋の時代の国際秩序とはかなり様相を異にするものであった。何故なら7 世紀の国際秩序は、後漢末・魏晋の時代より以降にあって生じた東アジア諸民族の自立化への動き、及び五胡十六国・南北朝時代における諸民族の融合を踏まえ出現したという性格を持つものであるからである。

よって本章ではまず表題に掲げた7 世紀の東アジア国際秩序がどのような過程をへて出現したものであるのかについて論じ、それを踏まえて、7 世紀の東アジア国際秩序の実相に及びたいと思う。なお、本章における考察は、本共同研究の性格に鑑み、その主 たる焦点を日本と中国との関係におくこととする。
(寅七注:最後に「本共同研究の性格に鑑み、その主 たる焦点を日本と中国との関係におくこととする」と断りをいれていることは、「琉球」を入れていないことへの弁解かな?)

1 倭国「自立化」の過程


卑弥呼の遣使

紀元100 年前後の時点において所謂倭国は誕生したと考えられる。

107年における倭国王帥升等による後漢王朝への遣使はそのことを後漢へ告げるための遣使であったと考えられる。

その後、239 年卑弥呼は曹魏へ使節を派遣し親魏倭王の称号を受ける。

このとき倭国の王としての卑弥呼は曹魏の遼東への拡大という時機をとらえて遣使したわけであるが、そこには遼東の公孫氏政権が曹魏によって滅亡させられたことの国際政治上で持つ意味に対する彼女の冷静な判断があったと考えられる。

その結果、彼女が親魏倭王の称号を受けたことは、所謂冊封体制の論理に基づけば、彼女が当時の魏の皇帝たる明帝の臣下
となったことを意味する。
(寅七注:ここでは、『魏志』にある、景初2年を書かず、単に239年に卑弥呼が遣使した、としている。しかし、正史『魏志』には「景初2年」とあり、それは西暦238年のことである。この「正史」の記事の訂正について中国側はどのような反応をしめしたのであろうか?同じ記事を中国側は「景初2年238年」と記している。)

倭の五王と日本書紀

魏晋の時代における倭国と中国との間の政治的交渉を今日に伝える史料は、266 年より後にあっては見出だせなく なる。すなわち266年より後のいわゆる倭の五王の時代を迎えるまで、倭国・中国の外交交渉は途絶えるのである。


それが再び復活するのは東晋末の413 年以降のことである。東晋の末から中国への遣使を再開した倭国は、南朝の宋の時代、中国南朝の宋の皇帝か ら倭国王の称号を賜り、以降、宋極末の478年まで使節を派遣している。

このことは、 『宋書』倭国伝所載の記事などから窺えることであるが、その際、倭国王は、例えば478 年に倭の五王の最後の王である倭王武から宋の順帝に送られた上奏文において、順帝に対して「臣」と称していることに示されているように、明確に中国皇帝の臣下であることを 認識していた。
(寅七注:この綬号記事には、新羅や任那を統べる称号が与えられたと明記されている。この晴れがましい重大な出来事が『日本書紀』に全く書かれていない。なぜ?と川本氏は不思議に思わないのかな?)

倭王武とワカタケル

しかし、日本の関東に位置する埼玉県の稲荷山古墳、および九州に位置する熊本県の船 山古墳から出土した、その倭王武(獲加多支鹵すなわちワカタケル)の時代のものとされる5世紀後半の鉄剣、鉄刀にはそれぞれ銘文が刻まれており、そこには「治天下(天下を 治める)」という記述が見える。
(寅七注:倭王武=ワカタケル=雄略天皇という証明が先ずなされるべきでしょう。)

天下とは
このことは、5 世紀後半の倭国の王が「天下」を治め る王でもあったことを伝えているとされよう。稲荷山古墳出土鉄剣銘文の冒頭に見える辛亥年は現在471年を指すことが、多くの研究者によって支持されている。つまり、『宋 書』倭国伝中の倭王武の上表文が順帝に差し出された478年をさかのぼる471年の時点で 倭王武は「治天下大王」と称し「天下」を治めていたと考えられるのである。
(寅七注:倭王武が478年順帝に上表したことが、471年に「治天下大王」と称したワカタケルと同一人物と、と決めつけることにはならない。)

日本国内から出土した鉄剣、鉄刀の銘文には、「治天下」 の表記が見えるのである。中国の政治思想において天下を治めうるものは天命を受けた唯 一人たる天子-皇帝である。乱世において幾人かの天子が乱立する際、彼らが相手を非正統と攻撃し、天下の統一を目指すのは、自らのみが天命を受けた正統な支配者であることを天下に示すために他ならない。
(寅七注:銘文にある「治天下」の「天」と、中国皇帝が天命を受けて、の「天」と同一の意味であることをまず確かめてから論ずべきと思うが?)

このことを踏まえると、5 世紀段階の倭王武は内に対し ては「治天下大王」と称し、中国皇帝の対しては称臣するという、ダブルスタンダードの 政治姿勢を使い分けていたということになろう。
(寅七注:倭王武=ワカタケルという前提で論を勧めるから、結局は「ダブルスタンダ-ド」という結論に成らざるを得ない。これが別人であれば、「ダブルスタンダード」などというおかしな結論にはならないのに。)

2  四~六世紀朝鮮・中国における中華意識の叢生


華夷思想

前節で見た古代日本における天下意識はやがて日本を中華とする意識へと展開するが、 これと同様の動きは、すなわち中国から見たとき「夷狄」の建国した王朝が、中華を標榜するようになる動きは同時代の朝鮮や中国にあっても生じていた。
(寅七注:このあと、「今これを朝鮮、中国の 順に見てみる、云々」と詳述していますが省略)


くわしく知りたい方は本を購入されるか、ネットで外務省のHPの日中歴史共同研究のURLをクリックしてお読みください。)


2015-03-18 19:53:47

『日本史の謎は地形で解ける』竹村公太郎 27.03.18

テーマ:ブログ

●今日は久しぶりに昔の会社の同僚のS夫妻との会食でした。娘が探してくれた、柏駅西口にほど近い、韓国レストラン「韓味家〈ハンミガ〉」での昼食でしたが、やはり昔話に花を咲かせるにはアルコール抜きでは、気が抜けた話になるので、ということで、奥様方には申し訳なかったのですが、結果的にはやはり少々いただき過ぎました。

お昼ということもあってか、大人五人が韓国料理お腹いっぱい食べて、生ビール2、ジンロ一瓶(750ml)で福沢諭吉一枚からおつりが出たのには驚きでした。


●このところの「日中歴史共同研究」ばかりですと、批評をしているこちらもいささか飽きてきます。

先日、知人から”竹村公太郎さんの本が面白く、今はまっています”、と言われました。

竹村さんは全く知らぬ方でもないのです。竹村さんは四半世紀前、建設省の近畿地方建設局長でした。当時寅七は、関西の関係業界の役員をしていて、会合などでお話を聞く機会も幾度かありました。

当時から、視野の広い方だと思っていました。そこで、さっそく読んでみたという次第です。


竹村公太郎 『日本史の謎は地形で解ける』PHP文庫 三部作 竹村公太郎著

竹村さんの三部作では、第一部の赤穂浪士がらみの謎ときが目玉でしょう。

忠臣蔵の忠義譚のバックに存在する、徳川家と吉良家の確執・幕府の浪士への暗の肩入れの数々の謎・徳川300年の基盤作りのために、奇禍転じて福となした手口、などが語られます。


この一連の謎解きで、充分「竹村忠臣蔵論」として独立出来る本となると思われます。それで出版社は、竹村氏の水文学者としての素養と独自の日本民族史観による日本史の中のエピソードの数々を、三部作として続けての出版となったものでしょう。

竹村忠臣蔵以外には、・首都(都・居城)の選定理由・都市衰勢論・日本文明・日本人論などが語られています。これには、著者の地形・水文学の素養と経験に加えて、歌川広重の一連の浮世絵を証言者とうまく使っています。

今までのあまたの歴史解説本には見られない視点からで一読の価値がある本です。

ただ、古代史研究者として一言しておきたいのは、第18章「二つの遷都」はなぜ行われたか、で述べられているところです。そこで竹村さんは、次のように述べています。


【邪馬台国の所在地は確定できていないため、邪馬台国から奈良盆地への遷都には触れずにきた。
しかし、本章の「河川流域の森林限界で遷都が行われた」という仮説で邪馬台国の場所を推理するゲームをしてみよう。
つまり、大和川よりもっと小さい流域の邪馬台国から、大和川の奈良盆地へ移ってきたと仮定するのだ。

全国にある多くに邪馬台国の候補地の中で、大和川より小さな流域はあるのだろうか。
一か所だけあった。それは福岡の博多湾に面する流域――伊都国であった。】

『魏志』倭人伝には、「邪馬壹(台)国に伊都国が統属している」、と記し、「伊都国は、
もとは王が代々続いていた」とも書いていますので、竹村説はその限りにおいて「史料」の記述と合致している、とはいえましょう。


だだ惜しむらくは、竹村説の邪馬台国伊都論は、邪馬台国成立以前の倭人国の首都であり、いわゆる邪馬台国探しにおける、紀元3世紀時点の「首都」ではありえないのです。


竹村さんは、あまたの邪馬台国論の中から、竹村仮説に符合するのは、という前提で話を進めています。ところが、世の中の「邪馬台国所在地」で一般には邪馬台国博多説は、古田武彦氏の奮闘にもかかわらず、世の中から無視されて、丸で存在していないかのように扱われています。


定説で、「福岡市領域」は『日本書紀』にある「儺の津」で「倭人伝」にある「奴〈ナ〉国」である、金印を貰った「倭の奴国」である、として、邪馬台国比定地から「福岡(博多)を除外してしまっているのが現在の古代史の定説なのです。


竹村氏が、邪馬台国博多説を考慮に入れた場合は、どうなるのかを、竹村仮説に従って演繹してみましょう。


第17章で、”脆弱な土地・福岡はなぜ巨大都市となったか”で、福岡は大した川もないのに繁栄できたのは「情報」が得られる地理的条件からだ、としています。


伊都国に流れる河川は瑞梅川、長野川、雷山川とあります。竹村さんは”大した川もない福岡”とけなされていますが、しかし博多湾に流入する、那珂川、御笠川、多々良川の流域面積は、大和川よりも小さいでしょうが、伊都国よりははるかに大きいのです。


つまり「最初の倭人国の首都、伊都は、博多に遷都した」、という結論になるのです。


何かの機会があれば、竹村さんに『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を献呈させていただきたい、と思っています。

2015-03-17 21:06:35

「日中歴史共同研究」(21)27.03.17

テーマ:ブログ

●珍しく春日和で、TVでは19度まで上がると言っていました。次兄夫婦の墓参りに出かけてきました。次兄一家が長らく住んでいた高柳駅近くの新しい霊園の一角に夫婦の新しい墓がありました。

学童集団疎開にも一緒に行き、戦後の生活困難時代には一緒に6年間新聞配達をしたり、墓前でしばしの昔話でした。

それにしても今日墓誌を見て、1年たたずに兄の後を追うように亡くなった義姉が、共に81歳で亡くなったことの縁の深さを、改めて感じ入りました。


●今回の「日中歴史共同研究」の紹介部分は特に取り立てて言うこともmないのですが、一応概略でも書いておかないと、話が続かないので、と、あまり熱のない紹介になりますが、申し訳ありません。

次回からは、具体的な「歴史叙述」が川本先生が延べられますので、いろいろと寅七のコメントもにぎやかになることと思います。


「日中歴史共同研究」その21〈日本側論文5〉

四、中国文明と東アジアの海

日中共同声明のなかに、「日中両国は一衣帯水の隣国であり、長い 伝統的友好の歴史を有する」という一節があった。一衣帯水とは本来は一本の着物の帯のように狭い川の流れをいい、古くは隋文帝のことばにも見える。つまり海によって両国は隔てられているものの、その海 は帯のように狭いものであり、長い友好の歴史を持ってきたではないかという文脈で使われた。

しかし一衣帯水は象徴的なことばであり、現実の海への関心を示すものではない。 日中間にはさまれた現実の東アジアの海への認識は、歴史的にも揺れ動いてきた。とくに近代になっても領海がわずか3海里の時代は海の国境をめぐる紛 争は起こらなかったが、1970 年代以降12 海里を領海とし、また200 海里の排他的経済水域内の漁業権や海底資源の開発権が主張される ようになってから、領海など海をめぐる問題は国際間の摩擦の原因になっている。

(以下、中国の内陸文明、我が国の海洋文明についての論述があり、中国が必ずしも内陸文明ではなく、島嶼数、海岸線という面からみても我が国と遜色なく、内陸にも水上交通網が広がっていた、」と説く。)

最後に、【現在、こうした東アジアの自然現象に国境がないことを十分認識し始めてい る。黄砂という自然現象、黄土高原に見られる森林の伐採による環境の変遷など、黄河長江下流域と東アジア海の環境は、環境を視点に入れると、東アジア海をめぐる地域は、まさに共存すべき世界であることがわかる。歴史学者の 地域認識は自然科学者に遅れをとっているようだ。いまや古代・中世・近世という時期区分が、社会の発展段階をも共有することを求めるものではなくなった。同時代のモノやヒ トの流れによって時代を共有してきたことこそ重要であり、その歴史をまずは明らかにしておく必要があろう。】と述べている。
(寅七注:ここで述べられていることは至極まともなことだ。)

おわりに~前近代の歴史認識の共有への展望

●ここで日中歴史共同研究にも参考となる日韓歴史共同研究について一言しておきたい。(と、次のように概略述べている)

日韓歴史共同研究は、2002年5月に始まり、活発な討議をへて2005年11月に報告書が出された。
古代史の第1分科では4世紀から6世紀の日韓関係史が取り上げられ、「広開土王碑」『宋書』倭国伝、『日本書紀』などの史料の性格など が議論された。

第2分科では、偽使(正規の使節を装った朝鮮王朝への使節)、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)、朝鮮通信使が取り上げられ、研究史の整理ととともに専門論文が日 韓双方から発表された。前近代の日韓関係は、日中関係よりも直接軍事的に衝突することが多く、共通の認識の共有に達することは難しいが、双方の歴史認識の違いを確認したこ との意義は認められるだろう。

日韓両国でも日韓共通歴史教材制作チームによる『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』(明石書店、2005 年)などが出版されている。

歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(韓国編)『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで』(明石書店、2007 年)、歴史教育者協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)『向かいあう日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編上』(青木書店、2006 年)も出版されており、国を超えた歴史認識へと着実に進んできている。

私たちは東アジアの歴史を日韓関係史と日中関係史に別けてしまうことで、全体の動き が見失われてしまうことを十分認識している。近年日中韓三国間では東アジア共通の歴史 教科書を執筆する動きが進んでいる。

2005 年に日中韓三国共通歴史教材委員会による『未来をひらく歴史-東アジア三国の近現史』(日本:高文研、韓国:ハンギョレ新聞出版 部、中国:中国社会科学院社会科学文献出版社でそれぞれ出版)が三国で同時発売された し、歴史教育者協議会編『東アジア世界と日本』(青木書店、2004 年)も東アジア世界の なかの日本通史である。


また東アジア歴史教育研究会(代表:東海大学名誉教授藤家禮之助)も三国の歴史家 と協力して1996 年以来東アジア共通歴史教科書『東アジアの歴史』作りを目指してまもな く成果を公刊する。

東アジア世界成立の基盤、東アジア世界の形成、東アジアの伝統社会、 東アジア世界の新生と四部構成で、その三部が前近代であるという。代表の藤家禮之助は、 一国主義史観を超え、東アジアをトータルに捉え直し、「国家」を相対化し、国家権力の 障壁を低くし、未来の「東アジア共同体」共通の教科書の出発点を目指そうとしていると 聞く。

東アジアの歴史上に興亡した国家の領域は、現在の国境とかならずしも重ならない。古代国家高句麗は中国の東北三省と北朝鮮と韓国にまたがっているし、渤海も中国東北三省、北朝鮮、ロシアにまたがっている。中国の古代統一王朝は、中原を中心として現在の中華 人民共和国の領域よりも狭い。

日本の現在の領域が明確になるのも19世紀後半になってか らであった。もちろん現在の領土にいたる歴史をとらえることは重要であるが、かといっ て現在の国境の枠や一国史観にとらわれていたならば、過去の歴史を動態的に捉えることはできない。

日本の世界史の教科書では、高句麗の歴史は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われる。

秦漢帝国崩壊後、中国が南北に分裂する時代、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国時代を迎え、日本列島の大和政権もこれと深く関わっていったと説明される。ここでは国家の枠を超えた地域世界史の観点が必要なのである。


いま私たち日中両国の歴史研究者による歴史共同研究も、二千年の日中両国の歴史の意味を議論し、その成果はいつしか共通の歴史認識として教科書執筆にも役立つことであろう。


私たちが提案しているのは東アジア世界やさらには世界史全体のなかで日中の歴史を見直していくという立場である。

日本における日本史研究や中国史研究の学界において築きあげてきた成果をもとに、中国の研究者と議論をしながら、あらたな歴史像を築いていきたいのだ。

私たち歴史学者は、互いの歴史と文化の営みを尊重しあうバランスのとれた歴史認識を求めていきたいものである。

(寅七注:日本の古代史の明らかになっていない部分、中国や朝鮮の史書に出ていて日本の史書に出ていない重大な問題、『魏志』に出てくる「邪馬壹国」や「卑弥呼」、高句麗好太王碑文にある「倭との戦い」、『宋書』に出てくる倭の五王」、『隋書』に出てくる「多利思孤」と「俀国」、『旧唐書』に記載のある「倭国」と「日本国」の併記など、日本の史書にはまったく姿を見せていない大きな謎、についての解明をせずに、東アジアの真実の歴史が語れるわけがないと思う。


この日本側の文章は美辞麗句で模範的な文章が並んでいる。しかし、寅七注でいくつか、指摘しているが、『宋書』に「倭国」と「日本国」の併記があるように間違った記述をしていたり、多利思北孤の政治を「天兄」「倭王」「日弟」という言葉遊び的な解釈論議に誘導し、肝腎の「兄弟政権」から目を逸らさせていることなど、小手先の論述が目に余った。)

(注) 著者があげている参考図書の著者名
竹内実・鈴木俊・西嶋定生・岸本美緒・内藤湖南・谷川道雄・安藤彦太郎・大津透・鎌田元一・杉山正明・ 木宮泰彦・網野善彦・荒野泰典・石井正敏・村井章介・堀越啓介・和田清・石原道博・石井正敏・山田吉彦・蘇暁康・鶴間和幸・川勝平太・鄒逸麟・王勇・古瀬奈津子・藤家禮之助

2015-03-15 20:55:16

「日中歴史共同研究」(20) 27.03.15

テーマ:ブログ


●ひさしぶりのグリーンでした。心配していた天気も3日前の予報に雨マークが付いていましたが、願いが通じたのか今朝の予報では雨マークは消えていました。

結果は、まあ楽しく18ホール周れた、ということとブービー賞という不名誉な賞にありつけただけのようです。来月からが27年度のスタートとしましょう。


●「日中歴史共同研究」の報告書が出て、あまり世の中に反応がないなあ、と思っていましたが、昨日書店を覗いたら、結構いろいろと関連本が出版されていました。

やはり現近代史に対する反発が主体で、古代中近世についてはまだ見られないようでした。


●明日から8日間棲家のマンションのエレベーターの更新工事で使用ができなくなります。この機会を利用して千葉に住む末娘一家に疎開させてもらうことにしました。明日朝出発です。


「日中歴史共同研究」その20〈日本側論文4〉


●三、歴史教科書に見る日中関係史
(寅七注:この項での日本側の論文に中国正史の説明をしているのだが、初歩的な間違いがある(後述)。折角のこの大プロジェクトの大きな瑕疵であろう)

●著者は、日中双方の歴史認識の差が顕著であることをまず述べて、概略次のように書いている。


日本では、日本史と世界史における日中関係の記述が異なっている。日本史研究者と中国史研究者の視点の相違によるものであり、「史料」というもの自体が日中それぞれの世界観d書かれている、という点の指摘が行われる。
中国史の研究者は中国の資料、日本史の研究者は日本の史料によって研究するから自ずと異なってくる。
現在の日中の教科書にみる日中交流史の記述の違いは正史の記述の読み取り方の違いからきているようである。

●(その断代史の中での日本列島の位置づけの著者の説明の概略を記します。)
『後漢書』では東夷列伝の最後に「倭」が登場する。

『三国志』の『魏書』の烏丸鮮卑東夷伝としてまとめられている。
『隋書』では、東夷伝に六国が記載され、「琉球」の後、最後に「倭国」が入る。

(寅七注:何故か「俀国」という国名についての疑問も解釈も上げない。)


『旧唐書』では、四夷の列伝と突厥・迴紇・吐蕃のそれぞれの列伝があげられ、四夷とは別の位置づけがされている。

(寅七注:東夷列伝の中に「倭国」と「日本」と別項だてになっていることをなぜか著者は書かない。)

『新唐書』では、四夷の列伝の東夷伝の中で高麗・百済・日本・流鬼と並ぶ。ここで始めて天皇の系図が見える。
『宋史』では、八つの外国列伝の七番目に倭国と日本国が並列してはいり、ここでも歴代天皇の年代紀を掲げる。

(寅七注:この断代史の中での日本列島についての記述について、”『宋史』に「倭国」と「日本国」が並列されて云々”、とあるが、この日本側の論文を中国側は本当に読んだのでしょうか?

このような間違いが堂々と校正されずに残っていることは、本報告書のレベルが疑われても仕方ない。)


『元史』では三つの外夷伝の云々(以下略)
(寅七注:この断代史には琉球伝もいくつもあるのに、「琉球」に関しての発言が全く見られないのも不思議だ。)

●(中国の伝統的な正史は「華夷思想」で、現近代史は漢族の歴史でなく「多民族史観」である、と概略次のように説明する)。


中国の歴史教科書に見る倭や日本関係の記事は、歴代正史の東夷伝からの引用が多い。

たとえば中国の歴史教科書の隋唐史の箇所には、多民族国家の発展と友好的な対外関係の記述が別々に述べられている。多民族国家の発展では突厥・回紇・靺鞨(渤海国)・南詔 ・吐蕃の歴史が述べられ、友好的な対外関係の箇所では、新羅・日本・東南アジア・インド・中央アジア・西アジアからヨーロッパ・アフリカへと広がる世界が記述されている。

しかし伝統的な正史の華夷思想と現代の多民族史観(中華民族史観)とに差異があるこ とも確かである。

靺鞨、渤海は『旧唐書』『新唐書』では北狄列伝に入っているが、現代の歴史教科書では唐の版図に入れて説明される。

それは中国史が漢族の歴史としてではな く、多民族からなる中華民族の歴史として語られているからである。


中華思想は中国だけ のものではなかった。日本の古代においても、とくに8世紀、大宝律令以降みずからを中華 とし、冊封することはなく、唐を隣国、新羅や渤海を蕃国とした。
(寅七注:ここで華夷思想と漢民族中心の史観というのがごっちゃになって語られているようだ。古来、北方の漢族以外の民族による王朝が立てられたことの方が多いのではないかな?正史がすべて漢民族中心の歴史というのは言い過ぎではないかな?中国の歴史教科書がそのように書いているといっているのだろうかな?)

●阿倍仲麻呂と鑑真は日中双方の教科書に取り上げられている。日本史教科書に鑑真、世界史教科書に阿倍仲麻呂、中国の教科書には日中友好交流の象徴的な貢献者として両人を登場させている。
中国の歴史教科書では、何故か魏晋南北朝の時期の東アジアの記述つがすっぽり抜け落ちている。
倭の奴国の後漢への朝貢か らいきなり隋唐期の日中交流史に移ってしまうのだ。中国の教科書では北方少数民族と漢族との融合の記述が重視され、また仏教が盛んになったことから西方文化への関心が高かった点が強調されている。

●中国において、元朝は統一的な多民族国家として描かれてる。そして元朝と日本との 関係では、経済文化交流が行われ、仏教と飲茶の風習が日本で盛んに行われたことには言及するが、日本史にとって重要な元寇については、まったく記述がない。


『元史』外夷列伝には元の世祖が高麗を通じて日本に国書を送ったことと、その後の至元11(1274)年 七月に九百艘、兵士1万5千人が日本に遠征したが失敗したこと、至元18(1281)年に再度10 万人を日本に送って失敗したことは確かに記述されている。


しかし、伝統的な正史の 外国伝に記述された日中関係の重要な記述が教科書には活かされていない。元朝を中国史に おける征服王朝として位置づける見方をとっておらず、高麗の服属や日本遠征もとりあげ ることがない。
13 世紀の東アジアの歴史は、元の動きを中心に動いており、高麗の服属、 南宋の滅亡、2回にわたる日本遠征軍の派遣はそれぞれ密接に連関していたことを忘れてはならない。13 世紀から16 世紀の倭寇の記述は日中両国の歴史教科書で異なっている。(以下略)

(寅七注:中国がモンゴル帝国の一属国になったことを、中国人として直視できないのではないかな。それこそ中国に対して、客観的な歴史の叙述を行ってあげたらどうかな?)

1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Amebaおすすめキーワード

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

ランキング

  • 総合
  • 新登場
  • 急上昇