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2015-05-18 16:05:28

高柴さんの本を読んで(メモその2)27.05.18

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●橋下市長が大阪都構想の市民選挙で過半数の賛成が得られませんでした。大阪都構想で、現在、大阪府エリア内では一番市民サービスが良いといわれる大阪市民にその成否の診断を委ねる、というところに基本的な敗因があったのじゃないのかな、と素人目には思われます。


高潔な人格の持ち主はともかく、人は、自分の損得勘定が判断の基準となることでしょうから。それにしても、大阪市民には「高潔な人格」の持ち主が結構多かったようで、これは橋下氏の7年の教育の成果でしょう。それにしても、橋下氏が政治から本当に引けば、今後の維新党のみなさんはは大変でしょう。


●一昨日昨日と連続でゴルフプレーをしなければならない仕儀となり、腰も不調だし、と心配していましたが、なんとか体力的にはこなせました。ただ、ボールのコントロールが思うに任せず、3個、2個と連日ボールが消えてしまい、スコアにはなりませんでしたが。


明後日の高校同期ゴルフ会も、参加者が昨年秋よりも総勢16名と、増えましたし、この調子なら、オリンピック精神で「参加することに意義がある」ということになることでしょう。幸い、天気予報は良好のようでそれだけが救いです。


●『邪馬台国は福岡平野にあった』を読んで(メモ)2
古田武彦氏とのこと

高柴さんの『邪馬台国は福岡平野にあった』を読みますと、最初の方にこの本を書くに至った経緯などが述べられています。

そこに、次のように述べておられるところがあります。

【古田武彦氏からは以前に、「猛省せよ」との叱咤をいただきました。私が古代史への道へ踏み込むことになりましたのは古田氏の『「邪馬台国」はなかった』に刺激を受けたことが始まりですが、古田氏はその後多くの古代史の問題点に取り組まれたこともあり、邪馬台国の探求はそれ以上はあまり進まなかったように見ております。本書は古田氏の論を契機とし、私なりに探求を重ねて古田氏が曖昧なまま放置された所や論が及ばなかった所を明確に出来たのではないかと考えております。】(同書p14より抜粋)

これは、高柴氏がTokyo古田会newsで「豊」の問題を提起され、編集担当幹事を辞任されるあたりのことだろうと、当時の会報を探して読みなおしてみました。
当時は東京古田会に寅七は入会していませんでしたが、いろいろな会合でこのTokyo古田会newsはいただいていました。

この大芝英雄氏の「豊前王朝」については、HPで取り上げたことも改めて思い出し読みなおしてみました。槍玉その29『豊前王朝』を2009年2月に出しています。

高柴氏が「豊」の問題に言及され始めたのが2008年11月発行の第123号で、幹事辞任の弁を述べられているのが第125号(2009年4月発行)です。

124号(2009年1月)に”「豊」の意味”とい文章を高柴さんは書かれています。
長文ですので、かいつまんで高柴さんの意見を紹介します。

【大芝氏の「豊前王朝」は”『古事記』の舞台は豊前”という通説に対してコペルニクス的な転換を古代史研究者に迫るものである。大芝説は、神武は筑紫から豊前地方に東征したのだ、というもので、難波津は周防灘に面した海岸で、都は豐前にあった、というものです。もしこれらの論考が大筋において納得できるものであるとした場合、記紀の世界が一変することは間違いない】、と肯定的かつ好意的に紹介されています。


その前後にその『豊前王朝』批評をホームページに「槍玉その29」として、怖いもの知らずで出しています。ひさしぶりに自分の文章を読み返してみました。URLは下記です。
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama29buzenouchou.html


槍玉その29の文章も、寅七としては失礼にならないように取り上げたつもりでしたし、今読み返しても特に付け加えるところも削除すべきところも見当たりません。

結びのあたりに次のようなことを感想として寅七は述べています。


【『記・紀』の内、古事記の記述は豊前が舞台、ということなのですが、その論証に大芝さんが援用される記録は、『日本書紀』のものも多いようです。成立の年代からしても、逆の論証、『日本書紀』の記事を『古事記』で検証することは出来ても、その逆に『古事記』に記事を『日本書紀』の記事で論証しようというのは、論理が逆立ちしていると思います。

又、著者のように『日本書紀』・『古事記』の知識が暗記できるほど豊富な方はともかく、引用する文献は出来れば『記・紀』のどちらか、ということを書いておいて欲しかった。批評する立場からはその根拠の出典をチェックするだけでも大変です。
ついつい問題点の方にだけ考えが及んでしまいますが、アマチュアの古代史家大芝英雄さんという方なのですから、責めてばっかりでは駄目とは思います。古より定説とされてきた、【『古事記』の人代以降の舞台は大和】、を【舞台は豊前と置くと全てうまく説明できる】、と論証されている、その大変な努力については褒めても褒めすぎではない、と思います。

ご本人は本当に自説を信じていらっしゃるのでしょうか、という疑問が残ります。豊前王朝が存在した可能性はありうる、と思いますが、その後の豊前東朝や太宰府との兄弟王朝など述べられていますが、これらは無理し過ぎているのでは、というのが正直なところです。

思うに、『日本書紀』の国生み神話に、多数の「一書」が出ていますが、いろいろな日本列島各地域の政治権力の創世記神話があったと思います。そういう古代には多数の各地に政権があった、という史観からこの豊前王朝説も見直されたほうがよいのではないかな、と思います。この本を読んでいて、万世一系思想に無意識に染まっているような感じもしました。

『古事記』の全てが豊前神話なのか、あまり短兵急に攻めることなく、じっくりと論証を進められたら良いのになあ
とも思われます。】

大芝さんの著作を介して、図らずも寅七と高柴さんの「史観の視点」というものの違いが解るような気もしました。

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2015-05-16 06:37:29

高柴昭氏の邪馬臺国論 27.05.16

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●夕べ遅く、錦織圭とナンバーワンのジョコビッチの対戦がBSテレビで放映がありました。家人は応援していましたが、朝早くからゴルフ場の役員会に出かけなければならない寅七には、視聴は無理で無理に目をつぶりました。

起きてネットで確認すると、家人の声援も空しく、ケイは連戦の疲れからか、2セット目は取ったものの3セット目は力尽きたようです。

新聞を取りに行きますと、外は雨です。気象庁のHPで確認したら、今降っている雨は8時には上がるようで安心しました、今から出かけます。


●高柴昭氏が邪馬台国論の本を出されました。『邪馬台国は福岡平野にあった』というタイトルの本です。文芸春秋社の自費出版プロジェクトによって世に出てきたと思われます。ともかく、どのような内容なのか、都心の大型書店で立ち読みしました。


古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を検証され、その後の考古学的な知見も加えられて出来上がった本と思われます。


当方のみるところ、邪馬台国福岡説ですし、小さなところではいくつかの気になる点はありますが、その点では文句はありません。ただ、高柴さんの「邪馬臺国論」には簡単にそうですか、と言えないところがありました。


高柴さんは、陳寿は邪馬壹国と書いたのではない、南宋の時代になって版をおこすときの間違いであろう、とされます。高柴さんの「邪馬臺国」論の説明の概要は小生が理解したところでは次のようです。


【『謝承後漢書』は3世紀末に書かれたと思われる。陳寿の『魏志』完成の280年ごろよりも早いかと思われる。(250~260年ごろ?)したがって429年の裴松之注も432年の『范曄後漢書』も、陳寿の『魏志』と同様に『謝承後漢書』も参照した(であろう)。その結果が『范曄後漢書』に「邪馬臺国」と書かれているのである。


范曄が「邪馬臺国」と書いているのは、『謝承後漢書』にそう書いていたからである。つまり3世紀時点での倭国は「邪馬臺国」が中心の国であった。
現在の陳寿の三国志の版本にある、「邪馬壹国」は南宋時代に版を起こす時の手違いで、「邪馬臺国」が「邪馬壹国」となったと思われる。陳寿が「壹與」としているところも本来は「臺與」であったと推定される。】


寅七の知識によれば、『謝承後漢書』に「倭国伝」みたいなものがあって「邪馬臺国」とあったという版本や断簡が現存しているということはないと思います。

もし現存していれば、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の刻字ミスなどという推定にもかなりの根拠を与えると思われますが、以上のことからでは、「ひょっとしたらそのような可能性があるかも」という程度のものではないでしょうか?


また、古田武彦氏は、「邪馬臺国」というように、卑字と貴字の混在はあり得ない、特に魏朝では「臺」は朝廷を意味する、ということをあげているが、これに対する高柴さんの科学的?反論はどうなのだろうか?


”科学の目で見えてきた日本の古代”の解明を標榜される高柴氏にしては、ちょっと安易に福永晋三説に乗っかってしまったのではないかなあ、というのが、立ち読みの第一の感想です。

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2015-05-13 09:53:14

『邪馬台国への径』批評 HPにアップしました 27.05.13

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●台風6号も当方には影響なく通り過ぎてくれました。

PCにばかり向かい合っていると腰に悪いようです。家人の勧める整体治療院に行くべきかどうか悩んでいます。


先日のコンペで一緒になったN氏が寅七の腰をかばう打ち方に同情して、『腰痛は99%完治する』酒井慎太郎著という本を読んでみたら、と勧めてくれました。Amazonを検索したら ¥1、送料のみ、があったので注文しました。


●榊原氏の今回の本『邪馬台国への径〈みち〉』について、いろいろと気になったことについて述べてきました。折角の力作に水を注すようなことばかりで、著者には申し訳ないのですが、褒めるところも言ってあげなければ、と思って読み返してみました。

たしかに、この本の「邪馬台国への径」以降の歴史の流れについて著者が述べているところは、巨視的にみるとうなずけるところがあります。

「倭国」から「日本」へ という項目で邪馬台国の後の倭国の姿を述べています。四世紀の倭の五王から、七世紀の終わりに「倭国」・「日本国」の併立状態から「日本」に統一されたという史観で捉えられています。

まあ、その説明の中で、「倭」地域とは「倭国(邪馬台国連合)」に「狗奴〈クノ〉国」(狗奴連邦)を加えた地域、などという根拠が薄い仮説にすぎないことが述べられているなどがあっても、大筋では古代の流れを捉えていると評価されるべきでしょう。

話は違いますが、この本は、最初に述べましたように、普通他の邪馬台国本が『魏志』「東夷伝」の「倭人の条」のみを取り上げるのに対し、「東夷伝」全体を紹介されています。その北東アジア全体の眺めから、倭国について考えたい、というところは買えると思います。


しかし、そのような見方で2005年に、SF作家として著名な豊田有恒氏が『歴史から消された邪馬台国の謎』(青春出版社)で述べられて、「東夷伝」の読み下しをされています。榊原氏と同じように「東夷伝」を読まないと「邪馬台国」の謎は解けない、と「東夷伝」を詳しく解説しています。(今回の榊原氏の参考図書には上げられていませんので、ご存じなかったのかもしれませんが) 

また、著者は伊都国歴史博物館館長という地位に居られます。博物館には、沢山の貴重な遺物史料が眠っていることと思います。その中の炭素系資料などの精査によって、北部九州に沢山ある弥生期~古墳期の遺跡の科学的な築造年代測定に目を向けられて欲しいものです。


随分昔、一貴山古墳の発掘調査に参加した糸島高校歴史部が木棺を発掘したが、それを博物館に貸し出したままになっている、などという話を仄聞していますので。


ご本人の今後の精進に期待したい、というのを締めの言葉として、ホームページにアップしました。

下記URLをクリックください。

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama53yamataikokuhenomichi.html

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2015-05-11 14:52:01

なぜ卑弥呼の墓が那珂八幡古墳なの?27.05.11

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●一昨日は朝3時から、家内がごひいきの錦織選手とマレーとの準決勝がある、というのでついつい見てしまいました。

 体格の差でしょうが、サーブの威力の差が歴然としていましたし、錦織選手にいつものキレがなく、完敗でした。


まあ、そのあとチャンネルを変えたら、ゴルフで久々に石川遼選手が頑張っている姿がひさしぶりに見れ少しは救われました。


●昨日の母の日には、長男のお嫁さんからと末娘からプレゼントがとどき、わが奥様はご機嫌でした。ありがとうございました。

おかげでこちらも外での食事にありつけました。野菜主体のバイキング料理の店でしたけれど。


●榊原英夫氏の『邪馬台国への径』の批評をまとめていて、なぜ那珂八幡遺跡を卑弥呼の墓に比定したのだろうか、これがこの本の弱点と思われました。


この比定により、卑弥呼の墓=箸墓論者に、邪馬台国福岡平野説自体も嘲笑される結果になるのではないか、と恐れます。


これはやはり榊原氏の「里」の概念の不確かさにあるのではないかと思われます。あらためて整理してみます。


●著者は、時代、場所、墳丘から該当できる遺跡として那珂八幡遺跡が卑弥呼の墓の条件に合う、とされます。

時代については、副葬品に三角縁神獣鏡の同笵鏡があるということからして、卑弥呼の時代よりももっと新しい墓ではないか、と思われます。このことについて論理的な説明が必要と思うのですが、著者は何も言いません。

場所はともかく、墳丘についてはその大きさの認識に問題があるようです。著者の卑弥呼の墓の大きさの誤認は、「魏朝の里」の認識がないことに起因しているようです。

中国の「里」の長さが歴代王朝によって異なる(同じ場合もあるが)という原則、これは現代中国(1里=500m)と日本(1里=4000m)の「里」が同じ長さでないのと同じことです。

著者は、魏の1尺が約24cmであり、6尺が1歩であり、百余歩は約150mになる、とされます。しかし、著者は、中国の古代では、里と歩の関係について、「300歩を以って里となす」(唐朝以後360歩=1里に変わる)ということについて何も述べられていません。

著者は折角、陳寿は特殊な里(1里=80m)を使っている、というところまで理解できたのに、その下部単位「歩」についても同様に、魏の時代の「歩」が使われている、ということに思いを馳せることがなぜできなかったのでしょうか。(尺については著者は、魏の時代の尺の長さが漢の尺と異なることについて述べている)

1里が80mであれば、1歩はその300分の1で約27cmとなり、卑弥呼の墓の径は百余歩ですから、27m強、30m前後の墓となるのです。この大きさであれば弥生時代の墓としては割と大きな墓でしょう。30m前後の円墳と思われます。

この基本のところが間違っているので巨大な墓を探してしまった、という結果が那珂八幡遺跡=卑弥呼の墓説と思われます。

2015-05-08 11:46:45

散々だった今年のGW 27.45.08

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●結局夏風邪というものだったのでしょうか、クリニックで5日分の6種類の薬を処方してもらい、6日目の朝には、咳も痰も止まっていました。

6日は、所属クラブの開場記念コンペの日でしたので、一応出席したのですが、まだクラブを触れる状態ではなかったようで、散々の成績でしたが、回れただけで幸せでした。

8日の今日は、同じクラブのグランドシニア選手権にもエントリーしていたのですが、この状態では無理ということがよくわかりキャンセルして静養に努めています。


●榊原英夫氏の『邪馬台国への途』について、何度か気になる点を述べてきました。折角だからまとめてホームページに上げようかと思い作業を始めました。


●九州古代史の会で『日本書紀』の講師をされている高柴昭氏も『邪馬台国は福岡平野にあった』を上梓されたそうです。


『奴国が分かれば「邪馬台国」が見える』中村通敏14年9月、『邪馬台国への径』榊原英夫15年2月、に続く『邪馬台国は福岡平野にあった』高柴昭15年4月 ということで、邪馬台国論が賑やかになりました。

日本では、テロの恐怖にさらされることなど気にならない雰囲気だから、古代史論議もできるのでしょう、平和は有難いものです。


2015-05-03 13:24:15

不調のGW前半 27.5.03

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●胃の検査を丸二年やっていないのを思い出し、先月28日に級友のT氏の息子さんの胃腸クリニックで胃カメラで検査してもらいました。

検査の結果は、2年前と同様で、胃壁が荒れているが潰瘍などは見られない、ということでほっとしました。


●翌日、鼻水が出ているので、花粉症になったのかな、と思いながら、高校時代の同級生が阿蘇で大きな病院を開業して、息子たちに無事に引き継げた、というので、ゴルフ会が計画され誘われていたので、

阿蘇東急GCまで、ひょっとしたらゴールデンウイークの始まりで、道路が混んだらこまる、と余裕を見て朝5時半に自宅を出ました。

100人を越す大コンペでしたが、幸い私以外にも同級生が5人来ていて、彼らと組み合わせてくれたので賑やかに回れました。


天気は良くゴルフ日よりでしたが、阿蘇中岳の噴火がまだおさまっていず、黒煙が立ち上っているのですが、風向きが良かったのでしょう、「ヨナ」が降ることはありませんでした。

ボールも良く飛んでくれたのですが、OBゾーンまで3球も飛びすぎてスコア的にはまとまりませんでした。


大コンペだし、成績発表まで1時間以上かかりそうなので、同級生達に挨拶して帰りました。翌々日同級生S君から、飛び賞で焼酎が当たったから月末の同級生のコンペの折に持っていく、とはがきで知らせてくれました。


阿蘇東急GC 噴煙をバックにS氏

●ゴルフから帰ったら、どうも咽喉が痛くて鼻水が出ます。どうやら風邪をひいてしまったようです。昔なら玉子酒代わりのお湯割り飲んで寝ればすぐ治る、など馬鹿なことをしていましたが、おとなしく休んだのです。

というのも、2日には友人夫妻が、3夫婦で近くのゴルフ場でラウンドして自宅庭でバーベキューという計画を立ててくださっているので、一応それに合わせて体調を整えなければ、という事情があったのです。

30日の日曜日は、むかしの風邪薬の飲み残しを飲んで安静にしていたのですが、状況は好転しません。

1日に、家内の行きつけのどくたーのところで、薬をもらおうと出かけました。

簡単に薬を貰うには行かず、レントゲン検査、血液検査などから始まって抗生物質を入れた点滴など、

薬の処方箋を貰うのに3時間かかりました薬は6種類もあり、何が何だかわからないまま。指図通りに

服用したのですが、2日朝になっても咳は止まらず、Tさん夫妻に断りの電話をして、夕方のBBQには出ますが、ゴルフは無理、とキャンセルさせてもらいました。

BBQには頂き物の洗心の一升瓶を持参すると、約束していることもありましたし、自分も飲んでみたかったし・・・で夕方宗像のSさん宅でBBQを楽しみ、帰りは家内の運転で無事帰宅しました。

今朝の目覚めは良く、この分なら風邪の神様も早期に退散してくれることでしょう。

GWの末日に所属クラブのゴルフコンペに参加も予定に間に合うよう、それまでは休養に努めます。


●榊原英夫氏の『邪馬台国への径』の感想もここらで終わりにしようと思いながらも続いています。今回は、氏の狗奴国論についての感想です。


氏は、吉野ケ里が狗奴国であった、とされます。


倭人伝には奴国が二回記されています。伊都国の東南百里にあるとされる奴国と、旁国21国の内の最後に記されている奴国です。
氏は、奴国は倭人伝に記されているように二つの奴国があったとされます。
前者の奴国は福岡市早良区で、後者の旁国の奴〈ノ〉国については、久留米の北野町であろうとされます。


しかし、これは地名の遺存性からのみでの比定ではないか、倭人伝の記述とは違った場所への比定ではないかと思われます。

倭人伝では、旁国の最後に奴国と記し、それに続いて「その南に狗奴国がある」と書かれています。
文脈からみて、奴国の南、ととるか、女王国の南ととるか、という二つの取り方はあると思いますが、何れをとっても、久留米市北野町と吉野ケ里では南北関係で説明できず、東西関係になるのです。

地図で見てみるとすぐわかるのですが、吉野ケ里と北野町とは東西約18km、南北の緯度はほぼ等しいのです。
これでは両者を南北関係で説明している倭人伝の記事が間違っていると論証しない限り、狗奴国=吉野ケ里が間違っているか、奴国=北野が間違っているか、もしくはどちらも間違っているということになります。
つまり、この狗奴国と奴国に関しては、著者の倭人伝の地名比定は正しくない、という結論に至るのですが、ちょっと手厳しいでしょうか?


伊都国歴史資料館館長さんとして、一つの仮説を提示しただけ、と仰るのでしょうけれど、自説に潜む問題点も御存じの筈ですので、そこも充分に説明されて、館長さんを古代史の講師として勉強する講習者のみなさんを惑わすことのないようにお願いしたいものです。


2015-04-27 11:41:56

榊原英夫氏の邪馬台国論の優れているところは 27.04.27

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●昨日の日曜日は「初夏」そのものの素晴らしい日和りでした。

病院関係もお休みだし、病院通いばっかりでめっきり出不精になった家内をつれて菊池まで出かけてきました。ひと月まえに花見に行った時と同じルートで回りました。


その時は平日で休んでいる売店や食事どころも多かったのですが、今回はどこも人であふれていました。

コッコファームのレストランは1時間待ちでした。弁当を買って施設内の休憩所でたべるのにも場所の確保が難しいくらいでした。

菊池公園では「きくちマルシェ」というイベントがあり沢山の屋台が出ていました。コシアブラなどのてんぷらも試食したりし、足湯も楽しめました。

相良観音の「とびかずら」の花も観賞でき、JA鹿本ではスイカの試食もできました。


相良のトビかズラ トビカズラの花房

古墳館では藤祭りで見事な藤棚ができていました。南関のいきいき村物産館で「南関あげ」が安く買えたと、他愛ないことに喜んだりして、一日が無事に終わりました。


●このところ、『邪馬台国への径〈みち〉』の感想を連発しています。この本の優れた所を探してみました。
今までのところ、この本についていくつか問題点について意見を述べてきましたが、どちらかというと批判的な意見でした。今までの邪馬台国論に比べて優れているところはないかと探してみました。


倭人伝に書かれている「里」は1里が80mという短いものであった、というのは、著者があげる陳寿の思惑の妥当性はともかく、実質的な適合性と言う意味で評価できます。


また、倭人伝の行路記事は、距離と日程の両建てというのも評価できます。ただ、投馬国への行路記事の取り上げ方には問題があると思いますが・・・。


倭人伝には、不弥国のあとに、「南至水行二十日云々」とあり、その後に「南至邪馬壹国女王所都水行十日陸行一月云々」とあります。

この投馬国への行路は、全体の行路記事の流れから、不弥国から投馬国への行路と思われます。著者は「南至投馬国・・・」、「南至邪馬壹国・・・」の二つの記事を、共に「帯方郡治からの日程記事」とされています。


この行路記事は、邪馬壹国への行路記事ですから、投馬国への行路記事が邪馬壹国への記述より後にあれば、著者の考えの通りかもしれませんんが、実際は逆です。
なぜ、それでも帯方郡からの直行記事だと主張されるのか、そのあたりの説明が欲しかったのですが・・・。


尚、著者は、「東夷伝から邪馬台国のありかを探そう」と言われています。その東夷伝で述べられている各国の国名記事や風俗記事などを、陸行をせずに沿岸行路で寄港地で得た情報で書けたとは到底思えません(半島東海岸の情報も満載ですし)。

話は別ですが、博多の古名の儺津(那津)〈なのつ〉が、倭人伝にある「奴国」を「なこく」と読んで、博多=奴国とするのは間違いだとされます。
「はかた」の語源についての榊原氏は中島利一郎という大正時代の研究者が発表したの説を紹介しています。
その説は「そうかも」と思わせるところがありました。

「穴」は、海峡・港湾を意味する語であったという論証から始まります。
例えば、山口県に長門〈ながと〉という地名があります。戦艦の代表名称みたいになっていた長門です。古名は穴門〈あなと〉といわれていました。
後年、あなと→ながと と転じた。博多は「穴津〈あなつ〉とよばれていて、「あなつ」→「なのつ」〈儺津〉となった。奴国の読みが「なこく」であるから奴国=博多ではない、奴国は「ぬこく」であって室見川流域にあった国、というわけです。


ただ、だとすれば、どこにもここにも「穴津、穴門」がありえたわけです。

なぜ「博多が穴津」、「長州の長門が穴門」という固有地名となって残ったのか、という論証が、付近の地形などからの検証というか論証が必要と思われますが。

2015-04-25 20:38:05

榊原英夫氏のとんでもない陸行十日説 27.04.25

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●高校の同期会の予定日に4週を切ったので、Tカントリークラブに連絡を入れなければ、と思っていたところに、夫婦で参加の申し込みがありました。

昨年の例会での参加者数は17名でしたので、これで昨年と同数になりご同慶の至りではあります。


5組予約していたのですが、15名の参加希望で、1組減らす連絡をしようと思っていたところでした。

17名で、一応5組の人数は確保できました。あと20日あまりですが、体調不良その他で欠席が出ることも予想して予算も組んでおかなければ、など頭は体調悪い家人のことよりその方に向いていて申し訳なく思っていますが、・・・。


●太宰府が、古代の西の都で東アジアとの交流拠点だったと文化庁から日本遺産に認定された、とマスコミが伝えています。

朝日新聞では、遣唐使の見聞により、唐の都を手本に造られたとか、平城京と同じ時期に造られた、とかいうのが評価されたのでしょうと市の説明だ、と伝えていました。

地域起こしのタネとして、観光客呼び込みのCMのキャッチフレーズに使われるのでしょう。


世人の注目を集めさせるのは結構ですが、、宮崎県高千穂の神話の里みたいに、太宰府の歴史認識がこのまま固定化することにならねば良いが、と危惧の念が起こります。


●伊都国歴史博物館榊原館長の『邪馬台国への径〈みち〉』を読んで、の6回目の感想文です。


倭人伝の行路記事で著者は、朝鮮半島西海岸全水行行路としていることの道理に合わないことについては前に述べました。

この『邪馬台国への途』は、韓国経由を水行行路と間違って取っているので、行路日程記事の陸行日数の解説に無理が来ています。
倭人伝の行路日程は、帯方郡から邪馬壹国まで「水行十日陸行一月」としています。
著者は、「魏使の陸行日程(想定)表」を掲げて、次のような想定が述べられています。

①帯方郡治→海冥県 約60km 20km/日で 計 3日
②沿岸の寄港7回(1日/回)プラス渡海出航地待機3回、2日/回 で計 13日
③対馬、壱岐の島横断それぞれ1日 計 2日
④末蘆国→邪馬壹国の陸行 80km 約4日
⑤経由各国邑での滞在日数 
伊都国4、対馬・壱岐・末盧・奴国で各1日 計8日

以上で30日とされます。

陸行の日程に、このように説明されますと困惑してしまいます。②の、海路で行っているとしているのに、「水行十日」には加えず、その寄港地での待機日数は「陸行」に加えたり、各国での滞在日数を陸路の所要日数に加えたり、⑤の、伊都国は重要な所だから4日滞在したり、と正に「恣意的」そのものです。


この本は、伊都国歴史資料館の館長講話を基にして、出来たということですが、このような話を聞かされた受講者の方々には気の毒ささえ感じられます。

著者の想定通りに20km/日で陸行したとすれば、①の3日 + ③の2日、④の4日の、合計9日となりとても一月になりません。

著者が自説を通したいのであれば、倭人伝の原文「水行十日陸行一月」を、「水行一月陸行十日」の間違い説を主張すべきではなかったか、と思います。


古田説の韓国内は陸行として、著者の20km/日で陸行、という想定で計算してみます。

韓国の行程7000里x80m/里=560km 海冥県までの水行60kmを引くと 残り500kmとなります。
20km/日としていますから、500km÷20km/日=25日となります。
これですと、①③④の計9日と合わせて、陸行は合計34日となります。

一日の陸行距離を20kmと著者は想定していますが、江戸時代の旅人は1日8~10里歩いたそうです。32~40kmです。魏使という中国のオエライサンですから、そこまではみなくてその8割方25km/日としますと、上記の計算では計 29日となり、倭人伝の記事「陸行一月」とほぼ合致します。


まあ、一日どれ位歩くかの想定によって変わってくるわけですから、寅七の計算結果が絶対とは言えませんが、榊原説よりもはるかにまともだろうと自賛しています。





2015-04-22 14:27:01

春香到来と目多利思比孤 27.04.22

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●春の香りの到来二題

その1 オーストリアで暮らしている姪っ子から珍しく便りとともに、ザルツブルグの香りを送ってくれました。

ブルーメ+ドュフト社製の小さめのかわいいリースですが、包装をほどくと花の香り・木の実、スパイスの香りがいっぱい拡がりました。


ブルーメ+ドュフト社製 大皿の上にのせてみました

その2 山歩塾の塾長さんが背振山の山歩きついでに採集したお裾分けを送ってくださいました。

たくさんのコシアブラの芽とヤマウドです。

てんぷらがおいしいそうですが、量が多いので二人で食するのは大変だなあ、と思いましたが、ネットで検索したら、てんぷらにして冷凍しておくと、いつも春の香りが楽しめる、とありましたので安心しました。

今夜のビールの味は格別でしょう、きっと。


コシアブラとヤマウド 春の珍味コシアブラ(左)とヤマウド(右)


●目多利思比孤について


日中歴史共同研究の中国側論文を読んでいて思ったのは、彼らは、史書間で語に齟齬がある場合、後代に書かれたものの方が正しい、としているようです。

例えば、『魏志』の「邪馬壹国」→『後漢書』の「邪馬臺台国」、『隋書』の「俀国」→『北史』の「倭国」、『旧唐書』の「高表仁・倭国日本伝」→『新唐書』の「高仁表・(東夷伝)日本」というように。


ところが、『旧唐書』にある「多利思北孤」は、『新唐書』では「目多利思比孤」となっていますが、問題の「目」については何も触れずに「北」を「比」に改めて「多利思比孤」としています。つまり、現代の中国人学者にも解けない謎であるということだけは分かりました。


気になっていたこの『新唐書』の目多利思比孤について調べてみました。

学研漢和大辞典で調べたら、「国司の四等官主典〈さかん〉」というのもありました。

中国の辞書『辞海』に当ったら、「目=頭目」と出ていました。目多利思比孤=「多利思比孤の部将」という意味にとれるようです。


古田先生はもっと高級な辞書をお持ちのようで、「歴史ビッグバン」(『新古代学第3集』)というタイトルのお話のなかに【「目」には「かしら」、「支配するもの」「長官」の意義がある】とありました。

今度図書館で白川静先生の本でも当ってみましょう。昨日は、中国の簡体字の辞書を字引ひきひきの一日でしたので、ほっと一息つけました。


しかし、まだ疑問が残っています。何故用明天皇のところに「目多利思比孤」と入っているのか、ということです。
それにもうひとつ。古田先生は『新唐書』は『隋書』と『南史』を参考にして書かれている云々とされていました。

そこで、あれっタリシヒコが出ているのは『北史』ではなかったのかなあ、と『南史』の倭国のところを調べてみましたが、多利思比孤は出ていません。


タリシホコ問題は隋、つまり北朝での出来事ですから出ていなくても当然でしょう。先生は『北史』と間違えられたのかなぁ、どなたか教えて頂けませんか、『南史』全体を改めてチェックするのは大変ですので。

2015-04-21 08:54:33

榊原氏の朝鮮半島西海岸水行説について(再) 27.4.21

テーマ:ブログ

●一昨日所属クラブでのプライベートコンペで、同伴者のプレーで珍しい事故を目にしました。K氏が打った第二打がトップして地を這うような打球となりましたが途中で何かに当たったような音がしました。

「キャディさんカラスが死んどる」とK氏が大声を上げます。みなが集まってみると確かに瀕死状態のカラスがバンカーに横たわっています。


打球に当たったカラス

キャディさんがキャディマスター室に電話して回収を頼みました。

バンカーに置いておいたら後続のプレイヤーに迷惑だろうと、寅七がクラブでそっと持ち上げて茂みに寝かせましたら、目玉だけはキョトキョトしていていました。

1時間後ハウスに戻ってカラスのことを聞いたら、回収に行ったときにはもういなかった、ということでした。野生の生き物は強いものだなあ、とは最近体力の衰えを感じている寅七の感想でした。



●伊都国歴史博物館榊原館長の著作『邪馬台国への径〈みち〉』で、魏使は朝鮮半島西海岸を船で行ったとされるのに前々回のブログで疑問を投げかけました。

すこし言い足りなかったので補足しておきます。


「倭人伝」にある行路記事の「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」、この24文字の情報の解釈で、魏使が韓国をどのように通ったのかが邪馬台国探しではよく議論されています。


このうちの「乍南乍東」という言葉は一般にはあまり見なれないので、その解釈にはいろいろあるようですが、「たちまち南し、たちまち東し」説(古田武彦・佐伯有清・藤堂明保)や、「あるいは南し、あるいは東し」説(岩波文庫・安本美典)など取っています。「あるいは南し、あるいは東し」と読む根拠については、文献での使用例など挙げておられませんのではっきりしませんが、著者は後者をとっています。

それよりも理解しがたいのは、従郡至倭循海岸水行歴韓国の部分です。
著者は「郡より倭に至るには、海岸に循〈したが〉いて水行し、韓国を歴〈へ〉て乍〈あるい〉は南し、乍〈あるい〉は東し・・・・」と訳します。


この文章は文法的におかしいと思われます、日本語になっていないと寅七には思われます。
韓国を歴て・・・というのですから、韓国をすでに通り過ぎて、それから乍南乍東しながら・・・という意味に取れます。南に行ったり東に行ったりして水行した、とは取れないのです。


ここは、「郡より倭に至るには、海岸に循〈したが〉いて水行し、韓国を歴〈ふ〉るに乍〈たちまち〉南し、乍〈たちまち〉東し・・・・」と訳している『「邪馬台国」はなかった』での古田武彦氏の読み方が文法的・文脈的にも適った文章となっています。


知識豊かで理性的であると思われる著者がなぜこのような無理な訳文をつけたのかなあ、と考えあぐんで、たまたま藤堂明保『倭国伝』を開いたら、榊原さんと同じ訳文がありました。ああそうだったのか、という次第です。


朝鮮半島の韓国西海岸は、地図をみてすぐわかるように、その形状からして南へ行ったり東へ行ったりだけでは行けないのです。時には西に行かなければならないことも多い地形なのです。


朝鮮半島水行ルート 乍南ー乍西の行路も必要の図

朝鮮半島南部は高山もなく陸を行くことは十分可能と思われます。古代から朝鮮半島内部では多くの戦争の記録も残っていますし、陸路はあったのは間違いないでしょう。

地形から古代史を読み解く、竹村公太郎氏の意見をお聞きしたいところです。

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