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2015-07-04 06:35:33

昔の学生新聞のトップに「九州王朝」 27.07.03

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●お嫁さんのブログに、愛猫マールと愛犬カナイの二人?の仲の良いじゃれあいの動画が掲載されていました。

種類が違いながらも仲良くしているこの姿を、同じ人間なのに宗教の違いを理由に殺す人間たちに見てもらって、反省してもらいたいものです。


動画は下記のユーチュブのURLをクリックするとみれます。


https://www.youtube.com/watch?v=p4IR6d_DKU4  


●錦織選手が負傷棄権でウインブルトンから去りました。残念ですけれど、再起を期待します。


ところでウインブルトンではウエアは白で統一されているそうです。選手間には不人気だそうです。女子選手では、ブラジャーや下着にも白の規制があることについて「異常ではないか」という声もあるとネットに出ていました。


そういえば、60年前のころは硬式テニスのボールは白でした。しかし、50年ほど前に、ラインとボールが同じ白だと判定が難しい、というので、現在の黄色になった、と記憶していますが。


他の大会と格の違いを見せつけたい主催者の気持ちがわからないではありませんが、他の大会の選手の個性的な服装もまた観客の目を楽しませてくれているのも事実でしょう。


●『鏡王女物語』も在庫がなくなり、CD版の注文もこのところ途絶えています。

中古本をネット検索しましたら、全国で1店だけ中古本として『鏡王女物語』が出ていました。

ぼつぼつホームページに電子版を載せてもよいかなあ、と思っています。ただ、振り仮名を付ける機械的手作業が多すぎるので、どうしようかなあ、と思案しているところです。


●学友K氏から、こんなものがあった、と昔の学生新聞に『九州王朝の真実』というタイトルで3カ月、といっても月イチの発行ですから3回、の連載がされていたもののコピーを送ってくれました。


1983年に古田先生が福岡で公演されてそれを聴いた新聞部員が執筆したものと思われます。古田説をまじめに紹介していました。この筆者の学生がその後どのような道に進まれたのか、非常に興味があります。


九大新聞古田武彦

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2015-06-30 04:12:11

高柴さんの福岡平野説について 27.06.30

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末娘が学会に出席する主人に付いて、Mers流行中の韓国の光州に出かけていましたが、日曜日に1週間ぶりに無事に帰ってきました。ソウル近辺では対策も大々的に行われていたようですが、光州では人々はマスク着用の人もあまり見かけず、平穏だったそうです。


今年も今日で半年が過ぎ去ります。時の流れが速くなったようです。ギリシャの首相もデフォルトの時間との厳しい判断を迫られての大変な時間を過ごしていることでしょう。(案外楽観しているかな?)


●TVから、ラケットで弾くテニスボールの音が聞こえて目が覚めました。錦織選手とイタリアのボレッリ選手のゲームを家内が観戦していました。

錦織選手は左足が痛みながら3時間以上の死闘を制してくれました。家内は安心したのでしょう、すぐ寝息が聞こえてきました。


●先週、熊本県の天草に建設された路木ダムの建設計画の違法性を指摘し、公費支出の差し止め裁判で、県が敗訴しての控訴審が福岡高裁でありました。

今回が第5回目の公判でした。知人たちがかかわっているので応援的傍聴に出かけたのですが、裁判自体は、それぞれがすでに提出している書類についての意見申し立てがすこしあって、次回の公判日を決めて10分程で終わりました。

結審まであと2回ぐらいかな、今年一杯はかかりそうと公判後の後援者集会での弁護士団の説明です。もし、県が控訴審も敗訴したらどうなるのか、見ものです。


●古田先生と久し振りに電話でおしゃべりしました。高柴昭氏の『邪馬台国は福岡平野にあった』というタイトルの中の、「福岡平野」についての見解が話の中心でした。


筑紫平野と筑後平野と福岡平野、分かっているようで厳密な定義を、といわれると間誤つきます。


調べてみますと、筑紫平野は、筑後川や矢部川流域全体をいい、筑後平野はその内の福岡県部分をいうそうです。(佐賀県部分は佐賀平野)


福岡平野は福岡県北部一帯の平野部分を指す、というのが一般的な見解のようです。そこには早良区の室見川流域や、宗像市の平野部分も含まれるようです。


「福岡平野」に厳密な区域規定はないようですが、行政機関の印刷物では、室見川流域を「早良平野」と表現することもあるようです。



奴国が早良区の吉竹高木遺跡あたりとしますと、奴国も福岡平野にあった、という表現ができるわけです。

また、高柴氏の表現からすると、邪馬台国は、福岡県北部の「平野部」に存在したということになります。そこから、福岡の「丘陵部」や「山岳部」はどうなの、という重箱の隅をつつく議論も生じるようにも思います。


古田先生としては、「邪馬壱国は博多湾岸から南に広がる地域にあった」とされるご自分の説と、高柴氏の「福岡平野説」とは、実質的に同じなのに、「福岡平野」にあった、とされる高柴氏の表現に引っかかるものがおありなのでしょう。

ともかく相変らず知識欲旺盛の先生で、こちらもまだうかうかできないぞ、と改めて心を引き締めさせられました。



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2015-06-26 18:11:42

多利思北孤の謎について 27.06.26

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●またもやゴルフの話で申し訳ありません。水曜日に昔のお得意さんとのゴルフに誘われ、コースに出ました。そこは、先月女子プロゴルフ公式戦があったところで、アップダウンの多い結構難しいコースです。

幸いボールがまっすぐ飛んでくれて、3パットもなく、OBもなく、残念ながらバーディもありませんでしたが、久し振りにスコアがまとまりました。数え年でOKならばエイジシュートでしたが。


●木曜日も昔の会社のOB会でしたが、天気予報も良くなかったしゴルフの連チャンも体力的に厳しいかな、と思ってキャンセルしていたのですが、天気はまずまずでしたので、この優しいコースなら前日よりも良いスコアが出たかも、など思いましたが、来月までお預けです。


●ホームページのURL変更をみなさんにお知らせしました。さっそく、変更した、という通知と共に、HPに載せた「わたしの寅七」に校正ミスが20箇所ほどあった、とのご指摘がありました。早速修正しましたが、有難いことです。

早速お礼のメールをしたのですが、このような「お礼」をメールしないで済むようにもっと気を付けなければ、と改めて思ったことでした。


●『隋書』にある「タリシホ(ヒ)コ」についての謎に古来いろんな方々が意見を述べています。それらを一覧にしてみるのも一興かと思ってまとめ始めています。


今まで、当方がHPやブログで取り上げた方々が主な対象です。

①タリシヒコは推古天皇であった(と思われる)。

 坂本太郎(若年時)・井上光貞・吉田孝

②タリシヒコは聖徳太子であった(と思われる)。

 上田正昭・直木孝次郎・黒岩重吾・関裕二・扶桑社教科書・日中歴史共同研究報告書

③タリシヒコは上記以外の者であった。

 大山誠一(蘇我馬子)・小林久三(彦人皇子)・武蔵義弘(彦人皇子)・小林恵子

④タリシヒコは一般名詞であり特定できない。

 大津透・小島毅・兼川晋・岩波文庫(石原道博)・山川教科書

⑤タリシヒコは日本の史書に出ていないので特定できない。

 安本美典

⑥日本書紀がいい加減な史書であるので特定できない。

 岡田英弘他

⑦タリシヒコ自体を無視している。

 北畠親房・石母田正・家永三郎教科書・熊谷公男・西嶋定生・田中史生・加来耕三

⑧タリシヒコの教科書の説明では謎が残る。

 石川晶康他

⑨タリシヒコは大和朝廷とは関係ない豪族の王であった。

 本居宣長・古田武彦・坂本太郎(老年時)


こんな大言壮語をして大丈夫かな、と本心では心配しているところです。





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2015-06-23 21:07:22

雑過ぎる西嶋論文 27.06.23

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●梅雨の中休み、というわけでもないのでしょうが、九州北部は空梅雨なみです。土曜日深夜の錦織選手の負傷棄権で気分があまり良くなかった日曜日のゴルフでした。

久し振りのゴルフでしたが、まあまあドライバーが比較的まっすぐ飛んでくれて、パーを拾うのも難しいホールでのバーディにもめぐまれるなどで、優勝賞品をゲットできました。


●動脈硬化の兆候をを4年前に指摘され、以後毎年日赤病院でCTスキャンを受けていまっす。今日がその年一度の検査日でした。

動脈硬化は幸い進んではいない、ゴルフ場での心筋梗塞の起こる確率は低い、とドクターのお墨付きを頂けました。


●折角病院まで付いてきたのだから、ついでに新鮮な魚を、と糸島の産直店まででかけ、小ぶりの鯛とほうぼうという魚のそれぞれ1尾を求めて帰り、鯛の塩焼きとほうぼうの刺身で、と頂もののカツオのタタキで、無事検査合格と遅れ馳せながらの父の日のお祝いの膳を整えてくれました。さすがはわが妻です。


●日中歴史共同研究で中国側委員が引用する日本人の論文に西嶋定生氏の著作が目に付きました。改めて氏の『日本歴史の国際環境』1985年東京大学出版会を読んでみました。


中国や朝鮮諸国の史書から古代の東アジアの歴史を叙述しているのです。そこには『日本書紀』と整合できないところがかなり乱暴な処理がなされています。


たとえば、【江田船山出土太刀銘文・稲荷山出土鉄剣銘文、この両者はともにワカタケル大王、すなわち雄略天皇に関係するものと理解されている。また雄略天皇が倭王武に比定されうることも、承認されている。】(同書16ページ)とか、


【倭の五王と天皇との比定については本論と関係することでもないので、ここでは省略する。ただ最近の所説として、この五王を大和朝廷の王ではなくて、九州所在の王国の王であるという意見があるが、これは謬説としてここでは取り上げない。】(同書56ページ)

と、謬説というレッテル貼りで済ませています。


びっくりするのは、どの歴史教科書を見ても出ている、日本から使者を送った「多利思比孤」については、その固有名詞が全く出てこないのです。こんな歴史書が日本の代表的な論文なのでしょうか。

2015-06-20 18:00:16

ホームページのURLが変わりました 27.06.20

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●ホームページの移行作業でもたもたしていますが、ギリシャ情勢ももたもたしているようです。デフォルトにいたるのかどうか、まあ大昔からの智恵者と雄弁者のくにですから、簡単にはならないでしょう。

ロシアやら中国やら、がちょっかいをかけてきて、結局はドイツがもうしばらく、面倒をみることになるのではないか、と思っています。万一の時には日本の年金生活者にも影響が及ぶことでしょう。


●梅雨もまだ続いていますが、明日は幸い梅雨のお目こぼしか太陽のマークがTVの天気予報に出ています。錦織選手も頑張って準決勝進出です。

当方は久し振りのゴルフの予定が入っていたので、天気が心配なのと、ホームページの移行作業に時間がかかってイライラしていましたが、どちらもOKで明日は心置きなくクラブを振り回してきます。


●ホームページのURKが変わりました。下記のURLで改めてネットで検索してください。


http;//www.torashichi.sakura.ne.jp/


「新しい歴史教科書(古代史)研究会」というタイトルは変わっていませんので、以前のURLでも以前のものを見ることはできます。


しかし、今後更新されたファイル、追加されたファイルを見ることはできません。今後突然見れなくなるかもしれません。ご面倒でも、上記のURLをコピペ(コピーして貼り付け)で更新お願いします。


更新されたホームページのトップページの、左側の目次欄の下に、「わたしの棟上寅七」というボタンがついています。それが付いていれば、更新されたホームページです。


そのボタンをクリックしていただくと、2009年に原書房から出版された『七十歳からの自分史 私の棟上寅七』の電子版を読むことができます。


今後ともよろしくお願いいたします。

2015-06-18 06:40:09

HPの更新ができなくなった 27.6.18

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●近頃のうっとおしい梅雨の日々ですが、この3日間パソコンに向かってうっとおしい作業をやっています。


ホームページを開いて9年目ですが、再度ホームページ作成の作業を強いられているのです。

NTTがホームページ関連のサービスを昨秋止めることになり、別のブロバイダーに移行しなければならなくなくなりました。

仮契約を済ませ、費用も1年分前払いして、ホームページの更新もできているので安心していました。

ところが、半年以上経って突如ホームページの更新ができなくなりました。(このブログのことではなくホームページ「新しい歴史教科書(古代史)研究会」の方です。)


ブロバイダーに問い合わせると、契約はできているが、移行作業自体は加入者がしなければならない、といわれ愕然としました。

調べてみると、移行作業に必要なホームページの作成ソフトのサービス会社はすでに営業しておらず、新たにホームページ作成ソフトを購入しなければならず、全く違うソフトなので、なかなか頭がついていきません。そういえば、ホームページを始めた時には、なんだかだと1カ月以上かかったことを思い出します。


頭の体操には良いのかもしれませんが、それにしてもマニュアルを読んで理解する能力が衰えたことを実感させられています。夕方からのアルコールが入った時間は特にダメです。しかも、TVでも見ようかとチャンネルを回すと、シンガポール相手にイライラするゲーム展開の90分だし、 とこのところ精神状態が良くない日々です。


と、今回のブログは愚痴グチグチとなりました。(まだ、HPの閲覧はできるようです。これも不思議ですが)



2015-06-15 06:20:39

上田正昭先生の発言に??27.06.15

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●梅雨前線が南にとどまっているので、九州南部は大雨で大変のようです。北部は今のところ大丈夫だけれど、今後はどうなのだろうか?

このまま梅雨が明けてくれればいいんだけれど、と願っているのは、今週末からゴルフの予定が詰まっていて天気が気になる寅七です。


●安保法案の雲行きがおかしくなってきているようです。必要と思えば憲法改正を発議するのが筋でしょうが、そこまでは自信がないのか、小手先でくぐりぬけようとしてもそうは問屋がおろしてくれないようです。

中国もそのあたりを見越してか、このところ尖閣諸島にはあまり近づかないようです。


●学士会会報五月号で上田正昭先生が「東アジアと日本の古代」というタイトルで寄稿されていました。


この先生の稿の最後に「日韓・日中関係が悪化している日本の現状のなかで、古代日本と東アジアのつながりを改めて想起する必要がある」と締められています。近年の国際情勢を憂いての寄稿になったのだろう、と思います。


しかし、白村江の敗戦以降の東アジアの情勢についての説明で、読んでいて分からないところがいくつかあるのです。
その中の一つです。寅七には、先生が何を根拠におっしゃっているのかわからないのは、671年に唐が我が国に対新羅戦争に助力せよと申し入れてきた、と言われるところです。


次のように述べられています。
【(白村江の敗戦のあと)六六七年のころから唐と新羅の関係はついに対唐戦争となった。倭国は六六九年から七〇二年までの間遣隋使の派遣を中止し、六七一年唐は倭国が新羅を攻撃するよう要求してきた。新羅は倭国と唐が結託することを阻止しようとして、六七一年から七〇〇までの間に二五回も新羅使を派遣し、日本への低姿勢の「朝貢」を示した。しかし、六八六年のころから新羅と唐の関係が修復して良好になると、「朝貢」の姿勢を見直し、対等の関係をうちだしてくる。】(赤字化は寅七)

この六七一年に唐から来朝したのは、『日本書紀』にありますが、劉仁願と李守真が1月に、と郭務悰ら六百人と送使一千四百人来朝 (沙門道久・筑紫君薩野馬など四人も)が11月です。
その要求について先生が仰るような、「来意」があった、ということは今までのところ明らかにされるような史料などがあったとは聞こえていません。

考えられるのは、六七一年に帰ってきた筑紫君薩野馬が伝えた情報(の推測)でしょう。
その後30年を過ぎて帰国した大伴部博徳が、「唐人の計」を本国に知らせるために身売りして筑紫君薩野馬を帰国させたと、『日本書紀』持統天皇四年にあることからの推測でしょう。


その「唐人の計」が、先生のいわれるような、「新羅を攻めよ」であったのか、寅七が想像する、「倭国を大和に吸収させよ」というものであったか、どちらもあくまで推測の域をでません。
その後の結果からすると、後者の方に寅七には思われますが、先生は、新羅の「朝貢」の頻度の変化から、唐が倭国に「新羅を攻めよ」と伝えたとされるのでしょう。


先生ご本人が、何かの著作で、先生の推測を詳しく述べられているのかも知れませんが、それはこの冊子を読む方々にとっては常識外のことでしょう。
そのような「確証」を上田先生が発見されたのであれば、そのことも含めて今回の寄稿された論文に書き加えるべきではないかと思います。


もし、読者諸兄姉で「671年の唐からの参戦の要求」について、上田正昭先生の著作について何か情報をお持ちでしたら、お教えいただけませんでしょうか。ネットで情報を得ようと試みましたがうまくいきませんので。

2015-06-11 13:55:55

古代の舟曳き 27.06.11

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●高柴さんの本の一応の批評が終わり、一番初めの本『七十歳からの自分史 私の棟上寅七』の電子化にとりかかっています。

丁度この本の原稿整理しているころ、PCや外付けハードドライブがトラぶって、記憶させていたすべてのファイルが再生不能になりました。

文章の方はキーボードを打てば良いのですが、イラストの方はどうにもなりません。ホームページに出していた物は、インターネットからコピーして再度ファイル化ができますが、ネットに出していなかったイラストはどうしようもありません。

デヴァイスの復旧を請け負ってくれる所もあるようですが、画像の復旧は随分と高価になるようであきらめました。

印刷された本のイラストはモノクロですし、本からイラストをスキャンしてもうまくいきません。ノリキオに頼むのも申し訳ないし、まあ、自分でできるだけやってみるしかないな、と思っているところです。

『七十歳からの自分史』の文章を再度キーボードを叩いていると、8年前なのに今と同じように、年齢というか老いというのを意識していることが良くわかりました。メールアドレスに「75」と入れたのも、まあそれくらいまではPCと遊んでいるだろうと思ったからですし、90になったらエイジシュートが出来るのではなどと書いています。(エイジシュートは77歳の時に76というスコアがに週続きで出て十三年早く達成できましたが)
息子は、あと20年頑張れ、と書いてくれているのですが、その期限も10年余になってきています。古田先生から、まだまだ若いじゃないかとしかられそうですが、ボツボツ整理を始めなければいかないかなあ、という思いが頭を横切ります。

●倭人伝の行路で問題になる、水行・渡海・船越、などについて、今回、高柴昭さんの『邪馬台国は福岡平野にあった』を読んでいても考えさせられました。
特に、今回「南北に市糴〈シテキ〉す」とあるように、倭人達は容易に対馬海流を乗り越えていたようです。
水行10日問題で、邪馬台国を久留米方面にもっていくために、御笠川と宝満川が古代はつながっていたつながっていたとか、船越設備があったとか論じられる方もいらっしゃいます。


18世紀末に蒸気船が実用段階にはいるまでは帆船が主力でした。しかし、19世紀中ごろまではまだ帆船が主力であったようで、有名なロシアのレーピンの「ヴォルガの舟曳き」の絵も、レーピンがペテルスブルグのネヴァ河で実見した経験に基づいて描かれたと言われています。

ヴォルガの船曳

マストの高さから推定しますと全長25m前後の帆船を10人の労働者が綱を引いています。かなり大きな船でも、このようにして流れに逆らって曳航することは可能だったと思われます。

ヴォルガの舟歌は、帝政ロシア時代のヴォルガ河の舟曳きたちによって歌われた歌だそうです。

巨大な船を曳いてヴォルガ河を登らせた時に歌われた歌が、後にシャリアピンによって歌われ有名になりました。

何を言いたいか、といいますと、金海から西に対馬海流に逆らって進むのは可能だった。そのような曳舟は当時は当たり前のことであったので、倭人伝にも特記されていないのではないか、ということです。

世界でも平坦な地方では、レーピンの絵のような舟曳きがあったようですが、山岳地帯が多い我が国ではどうだったのか、曳舟について、山路平四郎という早稲田大文学部名誉教授(1992年没)が『記紀歌謡評釈』という本のなかで論じておられています。

ヤマトタケルが亡くなった時の歌謡が大御葬〈おおみはふり〉の歌として『古事記』にあります。

そこには四首ありますが、その中の三番目の歌、「其の海鹽〈うしほ〉に入りて、那豆美〈なずみ〉行きましき時に、歌曰〈うた〉ひたまひしく」とあって「海處〈うみが〉行けば 腰なずむ 大河原〈おほかはら〉の うゑ草〈ぐさ〉 海處〈うみが〉はいさよふ」とうたひたまひき、とあります。


記紀歌謡評釈.JPG 記紀歌謡評釈 東京堂出版 1973年刊

山路教授はこの歌を次のように解説されています。
 
【この歌は本来曳船に関して唱われた歌謡であったかも知れない。そのことは、「腰なずみ、その船とらせ」と同じく「腰なずむ」の語を持つ〈51歌〉から察せられるのであるが、柩を船に載せてひくようなこともあったらしい。

それは、「大君を 島にはぶらば 船あまり」〈86歌〉と歌い、「毛野の若子い 笛吹きのぼる」〈98歌〉と歌っていることからも思われる。

そうした曳き船(必ずしも柩を載せた場合とは限らぬが)に関して歌われた歌謡が、その「腰なずむ」と云う身振りの上で、柩をひき、楽に合わせて野辺送りをする身振りと共通するものがある所から、葬儀の歌に転用され、その歌に倣って、「水辺」を「山野」に変えて、山水の並列としたものが、〈36歌〉とこの歌とであったのではないか。】


注)
〈51歌〉とは『日本書紀』「難波人 鈴船取らせ 腰なずみ その船取らせ 大御船〈おほみふね〉取れ」(仁徳天皇の歌)


〈86歌〉とは『古事記』「大王〈おほきみ〉を 島に放〈はぶ〉らば 船余〈あま〉り い帰り来むぞ 我が畳〈たたみ〉ゆめ 言〈こと〉をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ」(軽太子の歌)


〈98歌〉とは『日本書紀』「枚方ゆ 笛吹き上〈のぼ〉る 近江のや 毛野の若子〈わくご〉い 笛吹き上〈のぼ〉る」(毛野臣の妻の歌)


〈36歌〉とは『古事記』「浅小竹原〈あさじのはら〉 腰〈こし〉なづむ 空〈そら〉は行かず 足〈あし〉よ行くな」(大御葬の二番目の歌)

この歌の情景から見えるのは、古代の日本では、川(もしくは海)の中での舟曳き作業があったようです。小川が多く岸が平坦んなところが少ない我が国では岸での綱引きでなく、水中での舟曳き作業であったと思われます。

2015-06-09 08:33:13

高柴さんの本を読んで(メモその8) 27.06.09

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●大学の学寮の大阪での同窓会が終わり、写真の整理もおわってホッとしているところです。大学同学科の同期生に、西日本の同窓生に呼び掛けて、七夕同期会で天神に集まろうか、と呼び掛けてみたところ、高松や広島からも参加の申し込みがあり、賑やかにやれそうです。

わが奥様は、はがきの返事を読みながらニヤニヤしている寅七を見て、「本当にこの人は同窓会が好きなんだから!」と呆れ顔をしています。


●ついこの前、ホームページを開いたと思っていたら、もう9年以上経っています。最近は、「槍玉」に上げる「物件」もめっきり減ってきました。

世の中に、「物件」が減ったのではなく、寅七の方の意欲・脳力の低下の影響と思わざるを得ません。

この9年の間に、4冊本を出しました。ぼつぼつ、古いのからホームページに電子ファイルとして公開しようか、と準備を始めているところです。


●高柴さんの本を読んで(メモその8)


前回の末蘆国についての高柴さんの認識は。倭人伝の「「山海にそうて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず」というところにある、と思われます。

このところの原文では、「濱山海居草木茂盛行不見前人」です。たしかに漢和辞典を参照しながら読み下しますと、「山海に濱〈そう〉て居る・・・」と間違っていないと思われますが、「濱」がなく、単に「そうている」という読み下しとなり、原文の山海に沿った濱に居住している、という意味が消えてしまっているように思われます。

高柴さんが「濱」という語を使わないことについて、虹の松原という海岸沿いでなく、鏡山の裏山をわざわざ通るのに、不都合な「濱」の語だということで外した、とは思いたくないのですが・・・。

高柴さんの倭人伝の行路解釈は独特です。その解釈法によって、各地の国の中心地を比定されていかれます。その解釈法、「
遺跡と地形と倭人伝を読み合わせ」て、最終目的地の邪馬臺国を春日市の熊野神社あたりと推定されています。

倭人伝の行路解釈は、古来の直線的行路解釈、榎一雄氏の伊都国より放射状の行路解釈、古田武彦氏の行路の道行叙述との解釈が主なものです。

今回の高柴さんの行路解釈は、「至」の解釈から成り立っているようです。つまり、「至」には先行動詞があれば限定することができるが、「至」単独である場合、実際に至ったのか、方向だけを示したのかはわからない、全体の状況を見て判断する、ということから成り立っているようです。
伊都国から東南百里で奴国、そして東に百里行って不彌国に至ったのである、とされています。そして、不彌国から水行二十日で至る投馬国へは魏使は至っていない、いわゆる傍線行程とされます。
そのすぐ後にある「南至邪馬壹国水行十日陸行一月」は、不彌国の南にあり魏使は実際に行った、とされ、帯方郡からの総日程とされるのです。つまり「倭人伝行路記事至上主義者」にとっては、この高柴さんの行路解釈は、「至」の恣意的解釈で成り立つ論と見えると思います。

高柴さんの倭人伝行路読み解きは、遺跡の解釈を地形と倭人伝記述とを読み合わせて、各国々の場所を比定し、それに合わせて後付けの倭人伝行路解釈を行った、ということのように寅七には思われました。


まあ、邪馬台国九州福岡説という結論には文句はなく、近年の北部九州の遺跡発掘の考古学的知見を入れ込んでの、邪馬台国さがしは、それなりに評価されるべきでしょう。

少しでもこの高柴さんの本が「邪馬台国福岡説」に力になれば、と願っています。

しかし、対馬北端上陸~南下陸行とか、松浦半島北端魏使上陸説、ただし通常の倭人の航路は唐津湾、とか恣意的と思えるような倭人伝解釈が気になる高柴さんの本でした。

(以上で高柴さんの本を読んでの感想メモは終わります。)





2015-06-06 21:34:09

高柴さんの本を読んで(メモその7)27.06.06

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●梅雨入りとされたのですが、昨日はよい天気で助かりました。前の会社のゴルフ懇親会に招かれ、玉名と山鹿の境の菊水ゴルフ場まで出かけてきました。

『99%腰痛は治る』という本を読んで、予防法を試したおかげか、今日はまずまずでした。上がりの430Ydsパー4もほぼ2オン状態でパーで上がれました。

ゴルフが終わると、みなさん山鹿の温泉宿で一泊し、旧交を温めるのですが、今回は泊まりは遠慮させていただいてゴルフが終わって西瓜をお土産に買って帰ってきました。


●高柴さんの本を読んで(メモその7)


今回は末蘆国到着から伊都国までの行路について、気になったことなどのメモです。


末蘆国上陸地点は松浦半島北端と高柴さんは言われます。

古田史学の会の正木さんも同じく松浦半島先端部上陸説ですが、

高柴さんは正木さんと違った見方からの松浦半島先端部上陸説です。

魏使たちは通常の航路と異なった松浦半島の北端部に魏使が到着したのだ、と高柴さんは次のように説明されます。


ひとつには、対馬や壱岐の場合と同様に、魏使はなるべく早く陸にあがりかかったから。そして倭人伝の末蘆国の記述「山海にそうて居る、草木茂盛し、行くに前人を見ず云々」の記述に松浦半島縦断ルートがその記述に合うから、と言われます。


あれあれ、それでは例えば壱岐(勝本)~呼子間でも約40キロで五百里となってしまう。一大国~末蘆国は千余里との倭人伝の記事との整合性はどうなっているの?

と、よく読みましたら、そうではなく、通常の一大国から末蘆国への航路は唐津湾着であった、魏使たちは特別の行路をとったのだ、として距離の辻褄を合わせておられるのは流石?です。

しかし、倭人伝の「山海にそうている云々」の記事は、無理に呼子あたりから山道を南下したなどと無理をされずとも。現在の唐津から東方に伸びる海岸とその付近の山岳部の叢林の様子を記述したものとした方が、「虹の松原」という風光明美な唐津の名勝もあるし、(当時あったかどうかはともかく) むしろ適合する記述と寅七は思います。



魏使たちは、鏡山の、唐津湾から見て、裏側を通り、玉島川中流に至り、そこから山地を通って伊都に向かった、とされます。

なぜ通行が容易と思われる、海岸沿い乃至は海岸を少し上がったあたりを歩かず、わざわざ鏡山の裏手を遠回りしなければならないのでしょうか。

理由としては、遺跡があるところ、つまり倭人たちの居住しているところを、魏使たちは卑弥呼への贈り物を見せながら通る必要があったから、ということを高柴さんは理由とされているようです。


倭人伝での末蘆国の記述で不思議なことは、この国を管理者の職名や名前が記されていないことです。末蘆国の鏡山の裏側まで廻ったのならば、他の国では記載されている管理者の情報もあっておかしくないと思うのですが。まあ陳寿の書き落とし、といえばそれで済んでしまうのですが・・・。


高柴さんは、唐津と糸島とを隔てている背振山系の説明をされ、この間は海岸が崖になっていて、山道を通らなければならなかった、と次のように述べられています。

【この背振山系が壁となっているため、佐賀県側の松浦方面と福岡県側の糸島方面との交通は大幅に制限されており海岸近くは崖といってよく、海岸近くを通る道路が開通したのは近年になってからであり国道も崖の上を通っています。】


この記述は正しくないと思います。「近年」という語がどのあたりの年代を示そうと高柴さんが思っているのかわかりませんが、江戸時代には街道として、小倉~博多~唐津への「唐津街道」が通じていて、宿場も、博多~唐津間に、姪浜・今宿・深江・浜崎の5宿場がありました。


たとえば、浜崎という虹の松原東端部から、糸島平野の西端部の深江に行くのに、わざわざ玉島川をさかのぼり、曲がりくねった叢林の中を、白木峠越えで糸島に入る、というルートを取るのは、寅七には考え難いことです。もっと海岸寄りならば、高度も低くて済み、苦労も少なかったのではないか、古代人もそのような径を通ったのではないかと思われますが・・。


また、高柴さんが「国道も崖の上を通っている」、というのは正しくありません。福岡~唐津間の国道202号線は、複線となっていて、一つは昔の唐津街道と、もう一つは二丈浜玉有料道路として整備され、近年無料化されて国道202号線のバイパスとなっています。


高柴さんの文章を読みますと、国道202号線は、旧浜玉有料道路のことだけを202号国道とされて、浜側の旧唐津街道であった元々の202号線を全く無視されているのはなぜだろうか、と考え込まされます。


高柴さんは近年発掘された糸島市の吉井水付〈みんつき〉遺跡が伊都国の西の関所の役目を果たしていたのではないか、という伊都国歴史博物館の推定を援用されているのですが、このような地形(道路)認識が、高柴さんの折角の倭人伝行路推定に影響がなかったのであればよいのですが、・・・。(以下次回)






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