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2015-02-28 19:36:13

「日中歴史共同研究」(14) 27.02.28

テーマ:ブログ


●飯塚の伊藤伝右衛門邸の案内だけをしてそれで済むものではなく、写真の整理・プリント・アルバムなどの仕事がありました。
NHKの連続テレビ小説「アンと花子」の影響もあって、邸内に記念写真コーナーまで出来ていました。


赤毛のアンのつもり

いい年をした見物客が、ガイドさんの勧めるままに、ティーンエイジの赤毛のアンに扮してパチリとやって、はしゃいでいました。


●来月、当マンションの最後の大型改修工事、エレベーター取り換え工事が予定されていて、どうやら1週間ほど階段を上り下りしなければならないようです。

嫌ならば食品を買いだめして籠城する手もあるのですが、どうしようか、孫達も春休みだし、向こうに行って遊んでもらおうかな、など歌人と話しているところですが、先方にとっては迷惑かも、と悩んでいるところです。


●「日中歴史共同研究」批評もこれほど長くかかるとは思っていなかったのですが、中国側の発言の紹介だけでもあと2,3回は必要のようです。

日本側委員の発言は所謂「定説」ですから、特に取り上げて紹介するまでもないか、とは思っていますが、それでも4,5回分くらいは必要かな、と思っています。

「日中歴史共同研究」その14

●3.漢人渡航の背景
(民間人の渡航例として漢人の渡航について述べている。概略を紹介する。)


まとめとして)大体「人」の移動には、「推進力」もしくは「引力」が必要になる。唐王朝の使節が日本に行ったのは、主に「推進力」による。鑑真の日本渡航はこれと異なり、中国国内で道教の流行が仏教徒に故郷を離れさせる「推進力」となり、道教を尊ばない日本が彼らを引き付ける「引力」となった。
(寅七注:今回の中国の論者は、道教が日本の政治に与えた影響について、その影響が大きかったと多言している。しかし、鑑真の渡航のへの推進力は道教を尊ばない日本だから、というのは食言ではないかな?)


●9世紀以後、唐王朝の商人が海上で活躍したが、これは中国での商品経済の発達と海外諸国が「唐物」に憧れたことにより形成された一種の「推進力」と「引力」なのである。

宋、元、明の時代、日中両国には国交はなかったものの、商人や禅僧などは依然として行き来していた。その動力となったのは、中国の商品経済の発達と日本の武士階級の新たな宗教追及であった。

●第四節 日中間のブックロード
(著者は古代のシルクロードという言葉の概念が示すものについてや、日本での絹の栽培生産が3世紀にはなされていたことを述べる。ただ「シルクロード」の概念をそっくりそのまま古代東アジア地域の文化交流に当てはめると、必ずしもぴったりと当てはまるわけではない、と概略述べて、次のように「正倉院珍宝」「「遣唐使の使命」「「書籍東伝の道」「漢文典籍の還流」の項を立てて述べている。ここでは最後の「漢文典籍の還流」の結語的部分のみ紹介する。)


上にあげたいくつかの実例は、ブックロードを通じて大量の中国典籍が日本に東伝したのみならず、少ないながらも日本の典籍が中国に逆流した、ということを説明するのに用いたのである。これはすなわち、このブックロードが双方向に通じていたことを示している。
実際、中国は安史の乱と会昌の毀仏があったことによって、文物典籍の散逸は深刻であった。
五代十国の時代に、呉越国の天台僧義寂が宗門の復興を図ろうとし、また経蔵の無いことを嘆いた。ついに呉越王の銭弘俶が大金を出し、使者を海外に派遣して書を求めさせたところ、高麗の諦観と日本の日延が要求に応じて書を送ってきた。こうした散逸した書の回帰は清朝の末期から民国の初期にかけて幾度も高まりを見せ、大量の文化遺産がそっくりそのまま戻ってきた。

これまで紹介してきた第一部~第二部で古代史関係の「歴史叙述」についての論述は終わっています。続いて、中国人の日本に対する認識が「正史」にどこ用に表れているかについての叙述が始まります。

これも、寅七が気に留めた所を中心に紹介するに止めておきます。詳しくは原文(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/1/0131_01.html )をご参照ください)


第三部第一章 中国人と日本人の相互認識  王暁秋

●日中の相互認識は、」中日関係史を研究する上で非常に重要な課題である。或る意味では、日中関係史は、両国の相互認識の歴史であると言える。さぜなら、相互の往来、交流がなければ、互いの理解や認識は埋めれないからだ。
そして相互認識が、仲の良し悪し、好き嫌い、平和と争いなど両国間の相互関係を決定する。
さまざまな形式の相互関係を通し、相互認識を深めることで、互いの認識に変化が生じ、それがまた日中関係の発展や変化を推進していく。
(中略)
歴史を鑑として未来に向かう。我々は真剣に、深く掘り下げ、具体的に研究しなくてはならない。二千年の日中関係史において、両国はどのように互いを認識してきたのか?そして両国関係や両国史の発展にどのような影響を与えたのか?またこうした相互認識は時代によりどのような変化を遂げたのか?相互認識を促進、あるいは阻害してきたのはどのような要素なのか?その中からどのような歴史的経験の教訓をくみ取ることができるのか?われわれはどのようにして全面的、客観的、科学的に相手を認識することができるのか?


そして、相互認識、相互理解を深め、さらに健全で安定し、友好的で協力的な日中関係を築くには、どうすればよいのだろうか。
今日まで、日中の相互認識に関する研究は、近現代や個別の研究に集中しがちであった。そこで本文では前近代の中国人の日本認識を出来るだけ全面的に述べてみたい。

一 前近代における中国人の日本認識の概況と特徴


本文で述べる前近代の中国人の日本認識は、主に秦漢時代から清朝中期の中国人の日本認識、あるいは前近代の中国人の日本観と言ってもよい。

1.特徴
(著者は概略次のように記述する。)

中国が世界で最も早く認識していたことは、『山海経』、『漢書・地理志』、『三国志・魏書・倭人伝』などでの「倭」についての記述があることで明らかである。

その後も中国の俗称「二十四史」の正史の中に十六部の正史に、「倭国伝」乃至「日本伝」の記述がある。

前近代の中国人の日本認識は、概して友好的、肯定的であった。理想的神秘的イメージを抱いていた。元・明代には倭寇の残忍さ、狡猾さという否定的イメージが出現した。
(以下、2.歴史段階、3.ルートとチャンネル、4.形式 と詳述している。詳細略)

次回から、中国正史における日本関係の記事についての著者の評価が述べられます。

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2015-02-26 22:51:16

「日中歴史共同研究」(13) 27.02.26

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●今日は飯塚の「伝右衛門邸」のひな人形見物に出かけてきました。腰痛で予定していた寒中ゴルフもキャンセルしていたので、断る理由もなく、家人の友達たちの運転手として一日過ごしました。


●「日中歴史共同研究」について、ちょっと意見を言うつもりが段々と深みにはまってしまった感じです。最近読んだ、今ベストセラーになっている竹村公太郎さんの『日本史の謎は「地形」で解ける』三部作についての感想も書きたいのだけれどなかなかその「間〈ま〉」が取れない状態です。


「日中歴史共同研究」その13

2.「唐消息」の情報源および価値


●唐に遣わされた留学生から「常須達」の助言を舒明天皇が受け入れ、定期的な遣唐使の派遣が基本的国策に据えられるようになった。

唐朝へ派遣される官員・随行員・留学生・学問僧などは何れも新知識の収集と言う氏名を担っていた。
(寅七注:「常須達」を歴史をかじる者には常識といわんばかりである。『日本書紀』推古紀31年秋七月の条に次のようにある。「太唐国は「是時大唐学問僧惠斉、惠光、及医惠日、福因等、並従智洗爾等来之。於是、惠日等共奏聞曰、留于唐国学者、皆学以成業。応喚。且其大唐国者、法式備定之珍国也。常須達。」(是の時に大唐の学問者、僧惠斉、惠光、及び医師惠日、福因等、並びに智洗爾等に従ひて来る。ここに、惠日等、共に奏聞して曰さく、「唐国に留まる学者、皆学びて業を成しつ。召すべし。また、其の大唐国は、法式備わり定まれる宝の国也。常に通うべし」と。なぜ推古紀の記事なのに舒明天皇が「常須達」としたと著者は言うのかな?)


●彼らは帰国後朝廷への報告義務を負い、なかでも遣唐使官員の朝廷への報告書のうち、唐王朝の国の重大事項については「唐消息」或いは「唐国消息」と称され、執政者は高い関心を寄せていた。
(以下「唐消息」が日本の「六国史」にどのように記録されたかや、中国文献に欠けている貴重な史料も多いと説明している。・・・略)

3.貢品と錫賚
(寅七注:「錫賚」という見慣れない熟語が見出しに遣われている。この熟語は『旧唐書』「日本伝」開元の時の遣唐使の記事に出てくる。「遣唐使として来た者が中国政府から”錫賚”を貰うと、それをすべて書籍の購入に当てて海を渡って帰る」、という記事に見える。辞典によれば「錫」も「賚」も上からたまわった物の意」。岩波文庫は「たまもの」とふり仮名している。)


●遣唐使が朝貢である以上、当然手ぶらで来ることはない。貞元二十年(804)、空海が搭乗した遣唐使船・・・・(と遣唐使船が運んだ積荷の内容を、『遣唐使と正倉院』東野治之 を参照しつつ詳しく述べている。以下略)


●国の公式使節団と唐政府の物品のやりとりは、当然双方向であった。「貢」があれば必ず「賜」があり、唐朝は貢品の価値に応じて給与する賜品は、ややもすれば貢品の値の数十倍であった。

『旧唐書』記載の、玄宗皇帝が開元初に遣唐使に賜った「錫賚」は、語の意味から言うと金銭、貨幣を指し、実際の物品ではないが、惜しむらくは具体的な品目が列せられていないことである。
(寅七注:最後のフレーズ「惜しむらくは・・・」は著者個人の感想かな?つまり、倭国の貧弱な粗末な貢物に対して桁違いの下賜品を贈った、何ら実質的な冊封の利益は無かったのに、とでもいいたいのかな?)

第三節 唐人の渡航の背景及び動機

(著者はまず、隋唐時代の日中交流は非対照性であった、「人」も「物」も価値的に唐の方が質的に高かった、と述べる。特に「人」については、日本側は積極的に先進文化を学びとるという能動的なものであり、中国からは鑑真の渡航の例外を除き儀礼的な訪問で受動的なものであった、と述べる。詳細は省略)


1.頻発した航海事故
●(著者は概略次のように述べる。藤原清河が十二次遣唐使として玄宗皇帝に蕭頴士を国師として招聘したいと申し出、受け入れられたが、本人が病と称して応じなかったのが、実は航海の危険性にあった、という事を詳しく述べる。また、太宗による高表仁の倭国への派遣も「王子と礼を争い、使命を果たせなかったのは、往復の海路で「地獄の門」を通ったと周囲に話し、心身ともに耗弱状態だったという例をあげる。)


2.唐王朝から日本に赴いた使節
●隋唐時代の日中間の使節交換について語る時、一般に日本が派遣した遣隋使および遣唐使に注目することが多く、中国が派遣して日本に行った使節については見落とされがちである。
隋王朝の裵世清や唐初の高表仁が命令を受けて日本を訪ねたことは、中国の正史に記録があるために広く知られている。
しかし日本の文献の細かな記述にしか見られない唐王朝の使節(寅七注:第十三次遣唐使小野石根の件)の帰国時に、代宗が内侍省棭庭令の趙宝英を答礼使として派遣することにしたが、小野石根が危険だからと代宗に進言したが聞き入れられず、船は日本の遣唐使38名と唐使25名とともに沈んだこともあり、これは体系だった研究を進めている学者はわずかしかおらず、それに関する成果もどうしようもなく少ないと言える。


●唐王朝から日本に赴いた使節は、かねがね二つの類型に分けることができる。
一つ目は儀礼的な意味を持つ送還使節で、高表仁や趙宝英、沈惟岳らがその例である。
二つ目は朝鮮半島の情勢と関係があって、「白村江」の海戦(663年)の後に集中しており、郭務悰や劉徳高、李守真らがあげられる。ここでは紙幅に限りがあるので、前者のみ論証を行うこととする。
(寅七注:テーマからずれるが、唐王朝の一大イベント「泰山の封禅の儀」に倭国代表が参加したことが中国の史書には見えるが日本の史書には見えない。東アジアの各国代表が集う晴れの舞台に倭国も参加している。これについて中国側の意見を聞かせてもらいたいものだが。)     

●第一次送使。貞観五年(631)、日本の第一次遣唐使が長安に到着し、唐の太宗が新州刺史の高表仁に「節を持って行かせ慰撫させ」た。高表仁は翌年十月に日本に到着し、貞観七年帰国して復命した。
(寅七注:高表仁は「王子と例を争った」と『旧唐書』にはあり、『日本書紀」にはそのような「争った」記事はなく、むしろ歓迎ぶりをみて高表仁は悦んだと書いている。この矛盾について著者の考えを聞きたいもの。
この高表仁の倭国遣使のスケジュールを見てみると、足かけ3年かかっている。631年に命を受け(『旧唐書』)、翌年8月に、「艱難辛苦」の後に、対馬に到着(『日本書紀)という事になる。研究者によっては二度往復した説もあるが「艱難辛苦」が高表仁に与えた精神的な後遺症をを考えるとそれはないかなと思う。俀国を訪問し、王子と礼を争い、次いで近畿に赴き、そこでは歓待された、ということで旅程が長期になった、という解が正鵠を射ているのではないか。)


●第二次送使。乾封二年(667)十一月、唐の百済鎮将劉仁願の使者である熊津都督府熊山県令上柱国の司馬法聡が日本に着き、坂合部石積らを筑紫都督府に送って行った(著者注:『日本書紀』天智天皇六年十一月の条)。
(寅七注:また白村江海戦以後多くの唐人が「筑紫都督府」に派遣されている。同じ時期に百済には熊津都督府を唐が設置している。この「筑紫都督府」は中国が設置したものかどうかについて何も述べていないがなぜ?)


●麟徳二年(665)九月、唐の朝朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が使者として日本に行き、同年十二月に坂合部石積が命令を受け、唐の使節が帰国するのを送った。(中略)
第三次送使。開元二十一年(733)、遣唐使の多治比広成が・・・(阿倍仲麻呂が帰国しなかった挿話を述べる  略)
第四次送使。第十三次の遣唐使として派遣された高元度を送るために沈惟岳ら9人と水夫30人が護送して日本に渡った。安史の乱が起こり彼らは帰国できず日本に定住した。(詳細省略)
(寅七注:この第十三次の遣唐使として派遣された高元度一行に、唐朝は褒美として紫衣と「金魚袋」をあたえた、と述べている。この件については、27.02.12のブログ『日中歴史共同研究」(α)を参照ください。)

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2015-02-24 09:39:03

「日中歴史共同研究」(12) 27.02.24

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●昨夜まで5日晩酌抜きでやっと体調が戻ったようです。変な姿勢でTVを観る時間が長くなったためか腰痛が再発していますが、これも暖かい気候になれば収まることでしょう。


●今、戦後70周年で安部談話を出すかどうか、という事が話題になっています。
発表された有識者のメンバーに、今回連続して取り上げている「日中歴史共同研究」プロジェクトの委員の名が上がっています。北岡伸一・山内昌之・川島真の三氏です。三氏とも東大教授(元も含め)です。理論面で官学が支えているということなのでしょうか?)

「日中歴史共同研究」その12

第二節 情報伝達と物の流通

●紀元589年、数世紀の南北分裂を経て、隋朝は陳を滅ぼして中国を統一した。東アジアの政治構造が一変し、周辺諸国は厳峻な外交選択に直面しただけでなく、内部に潜む様々な矛盾もまたこれに従って浮上した。

日本列島もそも余波を受け、激動する不安定な時期に入った。日本にはひとりの賢明な政治家―聖徳太子が登場し、内憂外患の中、推古朝政を管掌し、対外的には遣隋使を派遣して、大陸との直接的な交通を開拓し、先進文化を吸収して向上しようとつとめた。

体内的には制度改革を実施し、憲法と官制を制定し、天皇に集権して国家の基礎を固めた。日中間の交流は、ここから新しい局面が開かれた。

(寅七注:こうまで日本の「定説」に従うのは、「日中交流の基礎を作った人物」として持ち上げたいからだろうか?)

1.遣隋使から遣唐使へ


●『日本書紀』推古十五年の条に、大礼小野妹子を大唐に遣わし・・・」とあるあこのときの遣使については、また『隋書・倭国伝』大業三年の条にもあるため、学術界では一般に遣隋使は紀元607年に始まったと認識されている。


しかし『隋書・倭国伝』の開皇二十年「倭王(中略)使を使わして闋にいたる」ということになる。この時の遣使に関しては、日本の学術界も多く疑義があるところで、これは九州の豪族が私的に遣わした使であると推測する者(著者注:江戸時代の本居宣長の『馭戎慨言』)もいれば、607年の遣使の重複誤記だと疑う者もいる。


『隋書』の中のふたつの遣使に関する記事を対照させると、まず、テキストによって倭王を「多利思比孤」または「多利思北孤」と表記することもあるが、「比」と「北」は字形が互いに近いので、二回の使節を派遣した者は同一の倭王であり、地方豪族の使節と中央政府の使節という区別はない。
(寅七注:「北孤」と「比孤」のいずれを取るかについて、著者は単に似ている、というだけと問題していない。「比」であれば日本人によく用いられる「彦」に当てられる、ということで『隋書』に「北」とあるのを「よく似ているので書き違い」という日本側の取り上げ理由を、「正史」の記録をゆがめて解釈している、ということではないかな。)

●次に、開皇年間の倭使は「高祖」文帝に謁見しているが、大業年間の倭使は煬帝に朝見しており、文帝の在位は仁寿四年(604)までであり、正史が帝号と年号をいい加減に記載することはない。さらに、文帝は「所司に銘じてその風俗を訪ねさせ」たが、煬帝の時にはこのような内容はなく、これもまた開皇二十年の倭使が初めて到来したということの左証である。
(寅七注:この、著者の叙述の論理が示すのは、『隋書』の記事にあるように多利思北孤の使いが、二度来隋したことと、文帝が会ったのが最初の遣使だというだけであり、小野妹子が来た左証にはならない。また、妹子が自分の国の政治体制を説明したとすれば、あまりにも『日本書紀』に記事とは合わないのだが。)


●同じ遣使が日中双方の正史に記載されるのは、遣唐使の事例から判断してさえ、その確率はそれほど高くない。(著者注:日本正史の記載での遣唐使は16回だが、『旧唐書』・『新唐書』では12回で、そのうちの2回は日本の正史には見えず、双方で重複しているのはただ10回だけである。)
『隋書・倭国伝』では開皇二十年の倭使についての記述は具体的であり、内容は大業三年の記事と基本的に重複しておらず、そのため遣隋使は紀元600年に始まったとするのが割合妥当である(寅七注:著者は多利思北孤の最初の遣隋使日本の史書に載っていないのを、単なるミスとする。しかし、『隋書』帝紀にある大業六年(610)正月の倭国からの遣使についても『日本書紀』推古紀には記載されていないことも著者は無視している。ともかく、多利思北孤という国王の名前が日本の史書に見えない謎について一言も述べないのはなぜ?)


●小野妹子を大使とした第二回の遣隋使では、隋の煬帝に向かって「海西の菩薩天子が仏法を重んじ盛んにしているとお聞きしましたので、朝に遣わされ拝礼し、沙門数十人とともに仏法を学びに参りました」と来意を表明している。

第一回の遣隋使には留学僧は随伴しなかったが、おそらく「海西の菩薩天子が仏法を重んじ盛んにしている」という情報を持ち帰り、そして「沙門数十人が仏法を学びに来た」という後の話につながったのだろう。


前に見た「倭の五王」は南朝に使節を遣わし、後に見る遣唐使は西に赴いて長安に行ったが、遣隋使はその中間に位置し上を受けて後に展開したのである。

遣唐使に関する論著の多くは遣隋使を前奏として触れることがあるが、「倭の五王」の関連研究は基本的には遣隋使に言及しない。

遣隋使の背景を考察するに、一方では「倭の五王」がしばしば南朝に使節を遣わして以来、日中間の断交はおよそ百年に及んでいたいたこと、、もう一方で、隋王朝が興って十数年もたっておらず、中原統一王朝というものは倭国がいまだかって体験したことのないものであったことに留意すべきである。そして、前期遣隋使はしばしば失策したのである。
(寅七注:倭国は「漢帝国」という統一王朝は既知だったのではないかな?倭国の情報収集能力の過小評価ではないかなもうひとつの問題、「倭の五王」達の活躍が日本の史書に全く出ていない。中国が授けた華やかな肩書も一顧だにされていない。これについても多利思北孤が日本の史書に出でないことと併せて考えるべきと思うのだが)


●第一回の使者が鴻臚寺の諮問に対して、倭国の政情について「倭皇は天を兄とし日を弟としている。天がまだ明けない・・・・・・・我が弟に委ねると言う」と紹介したところ、文帝はそれを「大変義理に適わない」と斥け、また「これを改めるよう訓令した」そうである。
(寅七注:国交もない国に訓令したこと自体の「華夷思想」への意見、自己批判とまでは言いませんが、あってもしかるべきでは?)

●第二回の使者は朝貢の規範に従い国書を携帯したが、煬帝は「日出づるところの天子より・・・」の字句をよろこばず、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼があれば、二度と上奏することのないように」と命じた。この国書は通常、日本の平等外交の証拠だとされるが、その実は日本の早期外交の一大失策だとみなすべきである。

(寅七注:旧唐書を読めば、倭国と日本国の双方が存在していたことは明らかである。旧唐書による「倭国、隋書による俀国」がタリシホコの遣隋使を送り、推古天皇の日本国が小野妹子の遣隋使を送った、という正解を得るのは難しいことではないと思うのだが。そうすれば自分の国の正史『隋書』や『旧唐書』を、日本の研究者の近畿天皇一元史観に合わせて解釈するという学問上の過ちを犯さなくて済むのに、と思う。)


●大業四年(608)四月、裵世清は小野妹子を送り使節として倭国へ行き、「皇帝が倭王に問う」(著者注:『日本書紀』は「倭皇」とするが、『経籍後伝記』は「倭王」、『異国牒状記』は「和王」とする。皇でなく王であろう)という国書をもたらしたところ、倭王は大いによろこんで「私は海西に大隋という礼儀の国があると聞いたので、使節を使わして朝貢した。我々夷人は海の隅に僻在しており、礼儀を聞いたことが無い。・・・・・大国惟新の化を聞くことを願う」と言った。

(寅七注:「倭」と「和」の問題よりも、自国の正史『隋書』に「俀国伝」とあるのに「倭国伝」と何ら説明も付けずに変更していることが大問題だ、と思うのだが。)

●隋朝にお世辞を使い「礼儀の国」として自らを「礼儀を聞いたことのない」「夷人」だと言って、聖徳太子が隋の煬帝と対等に振舞おうとしたなどというのは、後人の憶測に過ぎない。
倭王がよろこんで「大国惟新の化」を聞いた後、一続きの動きがあった。

同年九月に第三回の遣隋使が出発し、携帯した国書の措辞は「東の天王、西の皇帝に敬白す」と改められており(著者注:、『異国牒状記』では「東天王」。この国書は何も紛糾を興さなかったことから見れば、『異国牒状記』の記載するところを是とすべきである) 前回の国書がもたらした負の影響を取り除いた。

注意すべきは、今回の遣隋使には4人の「学生」と、4人の学問僧」が随伴していたことである。
(寅七注:『隋書』に載っていて『日本書紀に』載っていない俀国からの国書と、『隋書』に載ってなく『日本書紀』にしか載っていない日本国からの国書を同じテーブルに乗せると、このように混んがらがってしまい筋のとおった説明ができなくなる。)

●聖徳太子が摂政に任ぜられて以降、多岐にわたる内政外交の改革を進め、島国から抜け出そうとする心理状態、これが彼が外交使節を出した内因であると思われる。「海西の菩薩天子が仏法を重んじ・・・・」というのが、遣使が隋に入る時「沙門数十人もともに仏法を学びに来た」外因である。
(寅七注:聖徳太子=多利思比孤説のようだが、聖徳太子は倭王の地位には着いたことのない人物だ、ということについて、どのように説明できるのか、出来ないから頬かぶりなのでしょうが。

おまけに小野妹子は沙門数十人を連れて行ったという日本側の記録はない。行くときは他に通訳1名で、帰るときには中国の裵世清とその部下12名と一緒に帰国したとある。沙門等を連れて行ったのは二回目の時なのに意識的にか混乱させているように見えるが?)

●裵世清は「大国惟新の化」という知識を倭国にもたらし、聖徳太子は「礼儀」を学ぶことの重要性を深く感じ、ゆえに「学問僧」のほかに等量の「学生」を追加し、この後それが定例となった。


【以下、遣隋使~遣唐使の状況について述べ、最後に次のように締めくくる】

この後、日本は律令制の国家を構築していく過程の中で、遣唐使は唐朝の進んだ制度と絢爛たる文化を幅広く学ぶ使命を担うようになった。
(寅七注:多利思北〈比〉孤がなぜ日本の正史に載っていないのか、という疑問に答えていない。また、文章からみると、どうやら聖徳太子に擬しているようだが、太子は倭王の地位に着いていない。倭と俀の問題について中国側のこじつけは、後の史書『北史』で「倭国伝」とあるから、という事のように推察されるが、『北史』自体は誤りが多く史料価値が低い、と言っていて矛盾する。)

以上で隋朝時代の交流についての著者の論述は終わっている。『隋書』は当時の日本について沢山の情報が記載されている。しかし、この「日中歴史共同研究」では、「沖縄問題」が完全に抜け落ちている。

『隋書』流求伝に、隋と琉球との交渉、というか琉球国への侵攻・国人の拉致が記されている。琉球問題は総論でも全く触れられていない。

中国側委員も日本側委員も沈黙しているが、沖縄の人々はこの、琉球が抜け落ちている「日中歴史問題」について、歴史家たちのこの膨大な報告書をどう評価するか、気にも留めていないのだろうか?)

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2015-02-21 23:06:20

「日中歴史共同研究」(11)27.02.21

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●何に当ったのかウイルスにやられたのか、熱が出て食欲もなく二日間寝っ転がっていました。家人の秘蔵の漢方薬が効いてくれたのか丸二日間絶固形物食・絶アルコールで体重も2kg程減少していましたがブログを更新できる位になりました。その昔、国民学校時代の旧友故S君が時々健康のためと断食をしていたことを思い出しました。


●最近家人の知り合いが癌に侵されることが続いています。その治療法とかセカンドオピニオンとか、癌克服経験者としてアドバイスを求められて、家人の電話の時間が多くなっています。早く癌撲滅の特効薬ができればと願うのみです。

●「日中歴史共同研究」というプロジェクトはもともと、古代史というより、近現代の歴史認識の研究が目的であったと思われます。
しかし、これは「南京事件」一つをとっても難しい問題だと誰しも思う事ではないでしょうか。日中戦争と天皇の責任などという問題まで取り上げたらどうにもならなくなるのではないか、ということは明白と思われるのに、当時の日中指導者(安部総理と胡主席)がGOサインを出したのはどういう思惑があったのでしょうか?
このプロジェクトの報告書の序言に書かれていますが、最初はそれぞれの主張を相互に批評し取り入れ得るものは取り入れ、その経過も記録する、という事のようでしたが、発表段階ではまだ検討すべき問題もある、ということで討論の過程は封印された、という事のようです。


それでも、例えば「盧溝橋事件」や「南京事件」も中国側の資料によっての論文が、日中双方で双方の言語で公表され、お互いの認識の相違があるということが分かる、という意味はあった、俗にいう「ガス抜き」効果があるということでしょうか?


日中歴史共同研究その11

●4.三角縁神獣鏡
(寅七注:中国に出土しないこの鏡について、中国の歴史学者の解釈は?日本製(東渡呉人作製説)と断じた王仲殊はどう評価されているのか。出来るだけ省略せず、紹介したい。)

●もし徐福伝説が中原移民東進の史実を屈折して映し出しているならば、「呉の泰伯の後裔説」はまさに江南移民東進の縮図である。

秦漢の間には確かにいくらかの斉人と呉人は乱を避けるため海に出て生きる道を求めたが、しかし当時の公開条件に照らせば、大規模の海上移動はかなり困難であり、移民の主流は必ず陸路での東進であった。
大部分の移民は遼東で歩みを止め、半島に居を定めるものもおり、本当に限られた一部分だけが新しい移民の圧迫のもと東進を継続し、最終的に日本列島にたどりついた。日本の史籍のなかにある「呉人」、「秦人」「漢人」という記録がまさにこれらの移民である。
(寅七注:日本の史書の記事については疑い深い中国側研究者だが、渡来人が主張する大陸の名家の末裔の記事を、自説に使えると思えば記事の信用性検討はそっちのけで取り入れているようだが?)


●「人」の移動は自然に「物」の流通を促し、移民は銅鏡・銅剣・鉄刀・陶器・絹織物・農具・楽器・馬具・薬・仏像などをもたらしただけでなく、水稲農耕技術・養蚕技術・紡織技術・金属加工技術・医薬技術・音楽演劇・文化知識なども伝えたが、これらはすべて誰もが認めるところである。

(寅七注:「銅鐸」は外されている。銅鐸は大陸由来と言えないのか、外した理由について述べないのはなぜ?)

●しかし移民の貢献はこれに限られるものではなく、彼らは文化を伝えると同時に、また当地の伝統文化や風俗、さらには自然資源を吸収し、その土地の事情に適した措置をとり新しい文化を創造したのである。三角縁神獣鏡はその典型的な例証であろう。

(寅七注:大陸移民が主体的に日本列島の原住民を改革した、と言っているわけだが、日本側の研究者はどう反論したのか、しなかったのか、知りたいものだ。)


●1950年10月、大阪和泉市の黄金塚古墳(前期)で発見された「景初三年」の銘文が刻まれた三角縁神獣鏡は、年代は『三国志・倭人伝』に載せる景初三年(239)に魏帝が倭の女王に「銅鏡百枚」をたまわったという記事と符合している。

1998年の統計によれば、各地で発見されたこの類の銅鏡はすでに485枚に達しており、特に畿内一帯に集中している。
(寅七注:『魏志』によれば、明帝は景初二年十二月に、金印や銅鏡等を下賜する旨詔書している。中国側委員も景初二年は三年の間違い説に同意しているようだが、その説明がないのはなぜか?二年十二月だから三年でとしても問題ない、という寅七並みのいい加減さでの判断とは思いたくないが。日本の研究者の二年は三年の間違い説に同意したのかな。)

●銅鏡の制作場所をめぐって、学界では頗る争議があった。ある意見では、銅鏡は日本で制作されたものだとみなし、つまり「国産鏡説」である。別の意見では、銅鏡は中国で製作されされたものだとみなし、つまり「舶来鏡説」である。銘文中に現れる「徐州」や「洛陽」などの地名と、「景初」や「正始」などの年号から判断して、多くの人がこれは魏の尚方局が作ったものだとみなしているのである。
(寅七注:ここで著者は「多くの人が」という「多数決」的な論理を使っているが、学問的といえるだろうか?)


●80年代初期から、中国の学者も論争に加わり、王仲殊・徐苹芳・王金林などが次から次へと見解を発表し、その中で王仲殊の提出して「東渡呉人製造説」は、日本の学術界で大きな反響をん引き起こした。ここに彼の主要な観点を要約すると以下のとおりである。
(1)三角縁神獣鏡は中国の境界内では現在に至るまで発見されていない。

(2)後漢から三国に至る時期に、江南地区では神獣鏡と画像鏡が流行していた。
(3)三角縁神獣鏡は画像鏡の外側と神獣鏡の内側を融合し、倭人の気風に合わせるために、中国の銅鏡にはない「笠松紋」を増やして、鏡体を大きくつくった。
(4)三角縁神獣鏡は日本に東渡した呉人が日本で製造したものである。
(寅七注:この王仲殊説の筆者のまとめ方の論理に従うと、1980年代から武漢や上海で近代的な溶鉱炉を建設して高級銑鉄を生産したのは、建設指導した日本人である、という主張するのと同じよう思われれるが。また、ほぼ同じ時期に畿内では、巨大な銅鐸が製作されているが、その技術についての検討は?)

まさに王仲殊の観点が日本で大きな波紋を呼んだ時、1986年10月京都の福知山広峰15号古墳から「景初四年五月」と銘刻された斜縁盤竜鏡が発見され、兵庫県辰馬考古資料館もまた銘文や様式それに尺寸が等しい銅鏡を蔵していた。中国の歴史上には「景初四年」の年号がないため、この発見は「東渡呉人製造説」に根拠を補強することとなった。


銅鏡は鋳造するときに鋳型を用いるが、同じ種類の鋳型に流し込んで作られた産品を「同范鏡」と称しており、1998年奈良県黒塚古墳で出土した33枚の三角縁神獣鏡のうち、27枚がその他の地区で発見された銅鏡と一緒に「同范鏡」に属するものであった。


ここからわかるのは、銅鏡製作は伝統を重視し個性に欠けており、ただ紀年に頼って年代を確定させるのは大変危険であり、ある条件下では「年号」でさえも形と構造、紋様、神獣の様子、銘文と一様に、前代から構成に伝承することもあり得るのである。

このため、ただ年号に頼ってこれは魏の鏡であると確定したり、あるいは邪馬台国と直接関係づけることは、目下のところまだ明らかに証拠不足である。
三角縁神獣鏡の魏の年号と呉の様式は、二つの文化的背景を持つ集団が融合し共存したことが、新しい文化様式の誕生を促したという暗示なのかもしれない。

なお、著者は、河南省で三角縁神獣鏡が出土し河南省博物館に展示されているが、真偽のほどは目視しても判定できなかった、(2007年)と注記している。

(寅七注:卑弥呼が魏朝から貰ったのが江南地方で流行した呉国の鏡であった、という論理になるのだけれどおかしくはないか?別の問題だが、呉人や秦漢人は日本列島のみならず東アジア全域に「流民」したことであろう。それがなぜ日本では特別に「開化」したのか、という考察があってしかるべきと思うが?)


次回は「遣隋使」問題です。

2015-02-18 17:05:43

「日中歴史共同研究」(10) 27.02.19

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●日曜日、天気予報に反してかなりの好天気でした。昔の会社の仲間4組のコンペでした。

今回は出だしからバーディはずしのパー、以後3ホールもパーで上がれ、5ホール傾斜のあるグリーンの上にボールが着いてボギーとなりました。まあこの調子が続けばエイジシュート・・などと思ったわけでもないのですが9番でトリプルで結局普段よりはましなスコアで、2位賞はいただけましたが、やはり後半に大叩きをしてしまいます。

基礎体力の問題なのか、暖かい季節になればましになるのか、ビールを飲みながら考えても答えは見つかりません。まあ、この寒い季節にゴルフを楽しめるだけまし、ということでしょう。


●昨日は家内の友達を博多駅に迎えて運転手役の一日でした。知り合いのアマチュア画家の展覧会を観に行くのが主目的でした。お昼を何処で、ということで、昨秋、大阪のお医者さんを案内して喜んでいただいた、ベイサイドプレイスの「リタの農園」というレストランに誘いました。


自然派ビュッフェを自称する、野菜料理主体のバイキングレストランですが、船着き場に入る船の出入りを眺めながらの食事でした。


内部も洒落ていて値段もシニア料金が1550円、時間制限などつまらぬルールがないのも良いところです。また隣接の市場も珍しい品が多く、大きくてギョッとするマグロの目玉などなんだかだと運転手が荷物運搬係も兼務させられました。「リタの農園」のURLを付けておきます。
http://litafarm.jp/other/company.html

「日中歴史共同研究」その10

2.「呉の泰伯の後裔説」


(寅七注:この泰伯の末裔説はうまくまとめてある。なお、魏略の太伯が自ら入れ墨をして土人を教化した、というのは古田先生の説くところと異なるが?)
●呉と越はともに江南にあったが、古くより戦争がやむことはなかった。紀元前473年、越王勾践は呉王夫差を打ち負かした。

『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」 とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。

倭人が自ら呉の泰伯の後裔だと称するのは、最も早くは魚豢『魏略』の「倭人自ら太伯の後と謂う」という記述に見え、この説は唐宋時代に『翰苑』、『梁書』、『通典』、『北史』、『晋書』、『太平御覧』、『諸蕃伝』など様々な史書に採録されることとなり、かなり広く流伝していたことがわかる。


泰(太)伯は古公亶父(周太王)の長子であり、礼によって天下を三男末子の季歴に譲り、孔子から「至徳」(『論語』)と誉め称えられた。

泰伯と次男の仲雍は父のために薬を採るという口実で、遠く荊蛮の地に逃れ、髪を散らし、入れ墨をし、土人を教化し、義を慕い帰順するものはだんだんと増え、そして自ら国を建て「句呉」と号し、都を呉中(現在の蘇州市)に建てた。

春秋後期に句呉の国力は強勢となり、北上して晋国と中原をめぐって争った。


紀元前473年、越王勾践は臥薪嘗胆し、兵を興して呉の地に攻め入り、句吴は遂に夫差の代で亡ぶ。「呉の泰伯の後裔説」が形成された下限は、『魏略』が成立した3世紀の後期にあたり、その時日本は中国と「使訳通ずる所三十国」であり、その中で女王が統率する邪馬台国が最も強勢であった。
(寅七注:「30国の中でもっとも強勢だったのはやな大国」というが、『魏志』によれば、30国を統率していたのは邪馬壹国の俾彌呼であった筈です。著者は正史『魏志』を参照しないのはなぜ?)

●「呉の泰伯の後裔説」は日本民族の起原に関係すると同時に、大陸移民の東渡にもかかわるので、学会で注目を浴び、激烈な論戦が交わされた。

たとえば村尾次郎氏は中国人の「曲筆空想」だと指摘し、大森志朗氏はこれは「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす。また千々和実氏は綿密な考証を経て、3世紀の倭人の部落が体内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯と結び付けたと指摘し、「倭人自称説」を肯定している。


『国語・呉語』の記載によると、越軍が呉の都に入り、王台を包囲し、勾践は使者を遣わし夫差に「私は甬句の東に王をうつし、夫婦三百、王とともに安住し、王の晩年を見届けさせる」と伝言していった。甬句は現在の寧波沿海の一帯にあり、夫差は「夫婦三百」を伴ったが、流されて「甬句の東」に到り、その中の一部の成員が海に出て日本に到達したという可能性も、ないわけではない。


『新撰姓氏録』(815年)を調べると、「松野連」条の下には「出自は呉王夫差である」と明記されている。ここかsらわかるのは、ある程度の人数の大陸移民が「呉王夫差」を始祖として奉り、彼らは日本で「松野連」と改姓したけれども、なお祖先を忘れてはいなかったということである。


『魏略』の乗せる「自ら太白の後と謂う」倭人は、『資治通鑑前編』によれば「海に入って倭となった」呉人の支庶にあたる。この説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。


もし上述の推断が間違っていなければ、これは3世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30国に属さなかったと推察される。
(寅七注:三国時代に「親呉倭人国」が存在した可能性はあると思われる。だが、「倭国が呉人の流民による末裔」、というところまでは「日本語文法に与えた中国語の影響が皆無」であることからして言えないと思うのだけれど?著者が言う「中国移民」は男性主体であり、子孫はできても、結局は現地女性のマザータング恐るべし、という結果なのかな)

3.呉人・秦人・漢人
●4世紀の初め、中国では南北が対峙する情勢となり、北方では「五胡十六国」の混戦状態に陥ったが、南方は東晋の統治下にあり相対的に安穏であったため、戦乱が誘発した人口移動は主に北方に出現し、移民は主に朝鮮半島を経由して日本に侵入した。この時、日本列島も統一の足並みを加速させ、小国林立状態は結束に向かい、古墳時代が幕を開けた。
(以下この項の概略を述べる。日本の史籍『古語拾遺』に帰せられる秦漢の渡来人の記事や、『新撰氏姓録・左京諸蕃下』に記される呉人集団の和楽使主の記事など、呉人の移民の子孫と自称するものが20族あることなどを述べる。『日本書紀』に出てくる朝鮮からの渡来人弓月君も『新撰氏姓録』によれば彼は秦の始皇帝の五世の孫で大和朝廷で「秦造の祖」とされた。『日本書紀』にある「阿知使主は自ら漢の霊帝の後裔と称した、などと書く。著者注として自身の著書『呉越移民と古代日本』国際文化工房2001年、を挙げている。)
●(そして、まとめとして)日本の文献で、漢人をまた「綾人」、「漢織」、「穴織」などと称しているのは、彼らが絹の紡織に堪能であったことを物語っており、そのほかには、張声振『中日関係史』によれば、金属加工技術に精通したものや、漢の高祖の後裔と自称する「王仁」など、文人学士も少なくなかったようだ。
(寅七注:著者は日本の文献はよく調べているように思います。ただ基本的に各「正史」の評価がどうもはっきりしていないことが気になります。)


(次の項目 4.「三角縁神獣鏡」は、次回です)

2015-02-14 20:00:55

「日中歴史共同研究」(9) 27.02.14

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●税務署に医療費還付手続きの書類作成に3日費やしました。年金から払った所得税からの還付ですから上限は知れています。まあ払った医療費は年金額の2カ月分は優に有るのですが、戻ってくるのはその十分の一くらいですが、戻ってこないよりマシ、と思っての領収書整理作業でした。


●「日中歴史共同研究」の中国側委員の論文を読んでいますと、日本の論文の引用が結構出てきます。タリシヒコは朝鮮半島の日本の鎮将説として木宮泰彦氏の『日華文化交流史』をあげています。

Amazonで調べたら一万円もするので、昨日、市の総合図書館に調べに行きました。幸いすぐ見つけることができました。戦前に出版されたものを1955年に冨山房から再版で出されたそうでした。


戦前の版は中国語にも翻訳され1930年ごろ上海で出版されている、というので今回の中国の委員さんもよくご存じの本だったのかも知れません。なかなか内容も豊富で立派な本でした。


木宮泰彦の著書 『日華文化交流史』木宮泰彦

知らなかったのですが、木宮氏は東京帝大史学科~京都帝大大学院卒で東アジアの通交関係では有名な方だそうです。(1887年生~1969年没)。肝腎の「タリシヒコ木宮説」は次のようなものでした。(現代かな遣いに直しました。)


●【一、隋書に記載された倭使通隋
遣隋使は普通推古天皇の十五年(607)小野妹子等を遣されたのを以て最初としているけれども、隋書東夷伝や、北史倭国伝を見るに、これより前に隋と通交したことが記載されている。隋書に曰く、開皇二十年、俀王(倭王)姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩雞彌遣使詣闋(北史もこれに同じ)(注1)


隋文帝の開皇二十年(600)は、我が推古天皇の八年に相当する。このことは我が国史に何ら記載するところがないが、隋書は開皇二十年から僅かに二十二年を距てた唐高祖武徳五年(622)に、封徳彝・顔師古の二人がこれを修し、次いで太宗貞観三年(629)から魏徴等が再修し、同十年に成ったものであるから、この記事は先ず確かなものと認めなくてはならぬ。


ただしこれが我が朝廷から遣わされたものであるか否かに就いては、疑を挟むべき余地がある。本居宣長は馭戎慨言に、「西の辺なるもののしわざ」であると論じている。

当時に於ける朝鮮半島の形勢を察するに、任那日本府が滅んでから、歴朝これが回復に努められたが、未だ成るに至らず、この時に当り新たに大陸に起こった隋は統一の業を完成し、更に海東諸国をも謀ろうとする形勢にあったから、韓土に遣わされいた我が鎮将などが、大陸の情勢を探らしむる為に、特に使節を遣わしたのかも知れぬ。

隋書高祖紀によるに、恰もこの年突厥・高句麗・契丹など東方諸国が多く隋に入貢していることなども併せ考うべきであろう。(同書59頁)


(注1)姓阿毎、字多利思比孤というのは、天ノ足彦であろう。即ち彦は歴代の天皇の御諱に多くあるところで、殆ど天皇の御異名の如くであったから、隋書はこれを聞き伝えて斯様に記載されたものであろう。

阿輩雞彌は唐類函に「其国号阿輩雞彌華言天皇也」とある。阿輩雞彌は大君〈オホキミ〉の音を写したものではあるまいか。

異称日本伝に「多利思比孤、舒明天皇諱息長足日広額、訛曰多利思比孤。開皇二十年、当我推古天皇八年、舒明天皇為推古天皇後王、故混言之、阿輩雞彌、推古天皇諱御食〈ミケ〉炊屋姫、訛之也」とあるのは当たらないであろう。(同書60頁)】


●「日中歴史共同研究」のうち、今回、取り上げる部分は「徐福伝説」が中心です。「中国正史」に「徐福」や「秦国」などが出てきますので、中国側の論者は史実に近いのではないかと熱心に論じます。


この部分の論者、王勇氏は日本でも有名な方のようで、筑波大学で講演録が出版されています。(後出)


●「日中歴史共同研究」その9

第二部第二章 「人」と「物」の流動―隋唐時代を中心に   王勇

古今東西を問わず、地域間の文化伝播は「人」と「物」を離れることはできない。しかしながら、文化伝播のモデルは、時代にともなって入れ替わり、空間によって変化し、決して千編一律ではない。
(中略)
地域間の文化伝播は、地縁・歴史・伝統・風俗などによってそれぞれ特色をもち、その内容と形式を画一化することはできない。
上述の考え方に基づいて、日中間の「人」と「物」の流動、とりわけ隋唐時代の日中交流史について考察するにあたり、充分に時代背景と地域的特徴に鑑みなければならない。

●第一節 大陸移民の東渡


大陸移民の東への移動の始まりについては、年代が古く史伝は詳らかではなく、今日となってはほとんど考察する手掛かりがない。

しかし日本列島の早期文明の幾度かの躍進は、まさに外来移民が持ちこんだ進んだ金属器や生産道具、紡織技術などとの関係が密接である。
たとえば、紀元前後の弥生文化の遺跡に出土した炭化した籾そして貸泉や漢鏡など、5世紀前後の古墳遺跡で発見された三角縁神獣鏡や銅鐸そして馬具などは、すべて日本列島に原生した物ではなく、大陸と半島から伝わった「舶来品」か、もしくは外来文明の刺激のもとで変異してきたものである。
それでは、だれがこのような「舶来品」を携えてきたのだろうか。来文明(ママ)の刺激はまたどこから来たのだろうか。この時期の錯綜した歴史を整理し、伝説と史実のもつれをはっきりさせよう。

●1.徐福と「秦王国」
徐福伝説については、虚実定かでなく、これまで日中両国の間にまたがる手に余るほどの「懸案」であり、同時に文学と歴史の双方から熱心に議論されてきた話題であった。
もし民間伝承の中で敷衍されて出来た虚構の部分を除き、徐福を秦漢移民群のひとつのシンボルとみなして考察を加えれば、その中から屈折して映し出されたいくつかの史実は依然として関心を持つ価値があろう。


古代中国人の世界認識の中で、倭人は東海島嶼に生息する民族であり、それゆえ「東夷」と称した。

許慎『説文解字』には「夷は東方の人、大いに従い弓に従う」とある。段玉裁が『説文解字注』の中で示すところによると、蛮・閩・狄・狢・羌などの民族はみな動物偏や旁にもって(ママ)構成されるが、ただ「夷」だけが「人」を意味する「大」の字を含有し、それゆえ「夷の俗は仁、仁の者は寿、君子不死の国あり」という結論を導き出している。
(寅七注:この『説文解字注』の「人」が入っているから君子不死という論理の飛躍についての説明が欲しい。よその国は虫や動物並みとしているけれど、日本人は人とみなしていたよ、と言うのだが、よその国は虫や動物並みとみなした「中華」選民思想についての自己批判も必要なのではないかな。)


●(中略)孔子でさえもそのような(君子不死の国というユートピア)ことを考えていたようだ。

『論語・公冶長第五』には以下のようにある。「孔子曰く、道行われずんば、桴に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、それ由かな。子路これを聞きて喜ぶ」と。


孔子は「いかだに乗りて海に浮か」んで、どこに行こうとしたのか。『論語・子罕第九』には孔子が「九夷」に赴こうとし、この問題をめぐって以下のような一段の対話がある。

「子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰わく、陋しきこと、これを如何。子曰わく、君子これに居らば、何の陋しきこと有らん」と。


孔子は九夷が「君子が住む」ところ、つまり隠居して身を寄せるためのひとつの理想的な地であることを信じている。

「九夷」の指す地区については、漢代の李巡が『爾雅』に注疏をつけて、「夷には九種あり。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙」と説明している。

(寅七注:孔子は紀元前6世紀、 徐福は紀元前3世紀の人物で、300年ほど離れています。 孔子が言う「君子の国」が徐福の国ではありえないのは明白。

徐福が仮に秦国を作ったとしても、それは孔子が目指したユートピアではありえない、のだが、この文章はなんとなくそのように誘導している感じがしたので、著者の出版物での叙述を当たってみました。それは寅七の思い過ごしでした。参考までに、著者の出版物での叙述は次のようです。

【王勇著『中国史の中の日本像』2000年農文協(東京)より出版 
第三節 東夷観の成立について より


二千年も前のことで、今となって真実をすべて解きあかすことは不可能に近いだろう。徐福の時代に、秦王朝の中国統一によって、既得利益を奪われた人々、生活基盤を失った人々が、大挙して海外に移住し活路を求めたことは、歴史的な事実だったのである。

これらの移住者は、無名のままに歴史のなかに埋もれてしまったのがほとんどで、わずかに人口に膾炙する徐福の名で一部の伝承を後世に残したということも、十分に考えられよう。】)

●『漢書・燕地』の中に「楽浪の海中に倭人あり。百余国に分かれ、歳時を以って来たり献見すという」とあるのは、誰もが知る倭人の記事である。

しかし論者は往々にしてこの記事の前提とする前置きを見逃している。つまり「倭」を孔子が「いかだに乗りて海に浮か」んで行こうとした九夷の地であるとみなしているのである。
東夷の天性は従順にして、三方の外と異なる。故に孔子は道行われざるを悼み、海にいかだを設けて、九夷に住まんと欲す。(著者中略)楽浪の海中に倭人あり、百余国に分かれ、歳時以って来たり献見すという。

この例によると、遅くとも後漢までに、倭は九夷の一つであり、君子が住んでいるだけではなく民の性質が従順であるとみなされている。

『史記』や『海内十州記』などに伝えられる、徐福が東渡し仙薬を求めたことは、もしかすると、このような心理状態と世相を反映したものなのかもしれない。
(以下、「徐福伝説」について述べているが、通説を列挙しているだけなので省略)


●(結論的に)徐福が東渡したというのは結局のところただの伝説で、しかしこのような伝説は秦漢の間に大陸移民が日本に東進した史実を屈折して映し出しており、このような移民の中には技芸を身体につけた工匠や農民が進んだ大陸文明と生産技術をもたらしたばかりでなく、音楽・宗教・書籍の類などの精神文明さえもある程度まで伝播するにいたった。

(寅七注:筆者の述べるところを論理的に検討すると、君子の国であった「倭」を、大陸文明が変質させてしまったということになるのだけれど?)


一応今回はここまでにし、次は「呉の太伯の裔」からです。


2015-02-12 08:51:33

日中歴史共同共同研究(α)金魚袋 27.02.12

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●昨日の建国記念日の休日でしたが、毎日が日曜日の年金生活者にとってはあまり有難味がありません。ただ、高速道路が休日割引となるので、遠出をするには良い日なのですが、遠出するにはもう時間的に遅いし、野菜庫は満タン状態で産直の店回りをする必要もないし、ということで、終日TVとPCに向かって過ごしました。


●このところ「日中歴史共同研究」の感想などを長々と述べています。早く日本側委員の論文の批評に入りたいのですが、まだしばらくは中国側委員の論文が批評というか感想の披露が続くようです。

中国側委員の論文にはしばしば寅七が聞きなれない書物からの引用やら用語が出てきますので、それらのチェックにも時間がとられます。

幸い、昨日は終日PCやら辞書やらに時間がかけられました。調べた中でこんなことに時間を費やしているのか、と寅七の知識ベースの浅さを露呈することになるのですが、昨日調べた「金魚袋」について「プラスα」として書いておきます。


日中歴史共同共同研究(α)金魚袋

●第十三次の遣唐使として派遣された高元度一行に、唐朝は褒美として紫衣と「金魚袋」をあたえた、と述べています。さて、金魚袋とは何ぞや、ということで調べてみましたがかなり手こずりました。


ネットで検索しましたが、「金魚袋」で検索しても、遣唐使が貰った品物リストの中にある、ということばかりで金魚袋そのものについての説明はヒットしません。

漢和辞典にもなく、『辞海』上海辞書出版社を引っ張り出して見当たりません。まさか、とは思ったのですが「魚袋」で辞書を引きましたらありました。

「金魚・袋」でなく「金の魚袋」ということでした。魚袋とは何かというと魚符を入れる袋ということでした。後には魚符が用いられなくなって魚袋だけが身分を示すして宮殿門の鑑札のような働きをしたようです。位によって金銀銅の飾りが付けられたそうです。


しばらくぶりで中国語の辞書を引きました。簡体字にも随分御無沙汰しているので辞書引きに半日かかりました。
改めて「魚袋」でネット検索してみましたら、デジタル辞泉に簡単な説明がありました。)

『辞海』上海出版社による「魚符」と「魚袋」の簡体字の説明を、日本の漢字に直し、寅七がそれを簡単に説明したものを記しておきます。


●「魚符」 唐代授予臣属的信物。唐高祖避其祖李虎的名諱、廃除虎符、改用魚符、武則天改為亀符。中宗初年又恢復魚符。
符也分左右両半、字都刻于符陰、上端有一”同”字。側刻”合同”両半字、首有孔、可以系佩。除発兵用的符外、五品以上的官都有随身佩帯的符、分金質、銀質、銅質等。此外尚有過宮殿門、城門用的通交符等。
●「魚袋」 唐代五品以上官員盛放魚符的袋。〈新唐書・車服志〉;”随身魚符者、以明貴賎、応召命・・・・皆盛以魚袋;三品以上飾以金、五品以上飾以銀。”宋代無魚符、仍偑魚袋。〈宋史・輿服志五〉:”魚袋、其制自唐始・・・・・宋因之。其制以金銀飾為魚形、公服則系于帯而垂于后、以明貴賎、非復如唐之符契也。”

唐代は臣下に虎符というもの与えていたが、高祖は始祖の名前「李虎」なので「虎」を避けて魚符とした。その後、武則天が亀符としたが中宗が魚符に戻した。

五品以上の官員はこの符を帯びていると宮殿や城門の通交証の役目を果たした。これらの符は官員の格によって金・銀・銅で分けられていた。形は別図の宇用に”同”と刻印されていた。


gyohu

魚符は魚袋に収められ、魚袋は五品以上は銀、三品以上は金で飾られていた。宋代には、魚符は無くなっていたが、魚袋を身に帯びることは続いていた。魚袋は帯に付けて後方に垂らして身分の貴賎を表わしていた。


●まあ、中国文化で宦官とか宮刑とか我が国が取り入れなかったものも多いし、この「魚袋」もその一つでしょう。

今回、中国の辞書に句読点があることに改めて気づき、句読点があることの有難さがわかりました。

日本で発達した「句読点」を中国が利用していることについて今回の日中歴史共同研究でも言及されているのか気になりました。

まだまだ全体を読みとおして、近代の文化交流の所まで行き着かないとわかりませんが。


2015-02-08 09:53:48

「日中歴史共同研究」(8)27.02.08

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●大学の同窓会事務局から卒業生壮行会への参加の知らせがありました。

寅七が勤めた会社に入社する予定の学生がいるのなら出席してやらなければならないかな、と事務局に問い合わせたら、今年はいない、ゼネコン志望の学生自体が少なくなっている、とのことでした。結局欠席することにしました。


●どうやら選挙権が18歳まで引き下げられるそうです。一緒に成人も(喫煙・飲酒可とか)18歳にしたら若い人たちも感激ひとしおでしょう。

60年前を思い起こせば、喫煙・飲酒が法律違反と意識したことはなかったようです。

とはいえ18歳成人式で、若い新成人が暴れて警察沙汰になったるというニュースが多くなるかもしれませんがですが。


●「日中歴史共同研究」その8



(中国では「古代」というと清朝あたりまで含めるようで、例に「朱子学」の政治の場における日中での利用し方の相違を詳しく述べています。総論的な初めの部分と終わりの結語的な部分のみを紹介します。興味ある方はネット以外でも勉誠出版から出ていますのでそちらでどうぞ。)

日中歴史共同研究勉誠出版 勉誠出版 6480円
北岡伸一・歩 平 共著


●日本文化には固有の根があり、少なくとも縄文文化は日本で最初に登場した文化の源と見ることができる。これが問題の一面である。
また別の面では、感応タイプ古代日本文化は曖昧さから脱却し、文明時代に入ってからも、主に中国文化から強い影響を受けながら次第に成長していった。
このため、東北アジア漢字文化圏の全体構造と文化類型の分析から出発すれば、中国文化は外側から相手に対して最も大きな衝撃を発する源であり、文明時代にある日本文化はその衝撃を受ける分流となった。
最初の文化をベースに、日本文化は漢や唐の文化に浸潤され、急速にレベルが上がっていった。
同時に後発文化としての優位性を発揮し、漢字文化圏の中で能動性を充分に備えた分流となった。

弁証法的な角度と発展段階論の視角から出発すれば、本源と分流の相互関係は、孤立して静止したものでもなければ固定的で不変のものでもない。
受け入れ吸収するプロセスにあって、中国文化は取捨選択されて融合されて日本化し、文化類型上の分流は次第に民族文化を創造する新たな源となっていく。言い換えれば、源泉と流れの関係は互いに影響しあい、転換していく関係なのである。
(寅七注:何も「弁証法的な角度」という前置きは、その意味するところが曖昧であり不要な気もするけれど、著者にとっては必要なのでしょう。)


●1.文化類型の相似性
一般に、同じ東アジア文化圏に属していても、中国古代文化はオリジナル型文化に属し、日本古代文化は派生型文化に属するとされる。それにもかかわらず、日中の古代文化はいずれも漢字文化圏、儒学文化圏、大乗仏教文化圏の同種の類型として存在しており、若干の相似性がみられる。

(以下、朱子学を例にとって「相似性」の説明をする  略)


●2.文化類型が政治に与える影響の相違性
国により国情、政情、国民の状況が異なるため、文化は伝播していく中で自然とその土地の習俗に従う事を求められ、変化を生じる。

日本について言えば、中国文化は畢竟外来の異質な文化である。このため、中国文化は吸収、消化された後、さらに民俗化あるいは日本化、つまり「国風化」されて、土着化してその国の伝統文化の一部分となった。

このように、文化類型においては「同じ」中にも自然と「異なる」ものが出てくる。両国文化の交流とその変遷では、類似した事例は枚挙に暇がない。

朱子学の伝播と変遷だけを例に取って見ても、国城、政情、民情の違いが導く文化類型による政治への影響は、似た中にも非なるものがあるという神秘のありかを見つけることはたやすい。
(以下、清朝が朱子学を政治に用いた例と徳川幕府が朱子学を用いた例について述べている。 略)

●(まとめとして以下のように述べている)
以上をまとめると、日本民族の伝統文化はその形成と発展の過程において、中国文化の長くそして深い影響から離れることはできない。中国文化の影響を抜きにして、日本の伝統文化の形成と発展を語ることはできない。

これは両国の文化類型が政治へ及ぼす影響の「異なる部分」と「同じ部分」の程度をどう判断すべきかということになるはずであり、文化の源泉と流れについて考察する際の基本的な視点にもなるだろう。
(寅七注:総論とか、まとめとかは、中国側委員はうまいと思う。)


以上で第二部第一章が終わり、第二章『人」と「物」の流動に入ります。三角縁神獣鏡についての中国側の見解も出てきます。以下次回で。

2015-02-04 17:55:14

「日中歴史共同研究」(7) 27.02.04

テーマ:ブログ


●先週土曜日、昔の仕事や遊び仲間であったF氏の7回忌でした。久しぶりにお会いする遺族の方々も、6年経つと見違えるほどそれぞれ成長していました。成長が止まっているのは年寄り連中だけでした。


F氏がホスピスに移動する前に見舞いに行った折、寅七の『七十歳からの自分史』の表紙のゲラ刷りをもっていって見せた折、「良かったですね、本が出来上がるのが楽しみです」と言ってくれたのが最後の言葉でした。あれから6年、出版した4冊とも彼に読んでもらえなかったのが、残念です。


●日曜日の九州古代史の会で会員のKさんが、安曇族の志賀島と信濃穂高神社の犀角の社宝と、中国からの渡来人との関係などについて研究発表をされていました。


いまこのブログで取り上げている「日中歴史共同研究」でも、中国側委員から日本文化に影響を与えた渡来人で徐福伝説を取り上げています。

古代の謎を解くカギとして、金印や犀角や徐福伝説とか数少ない渡来人の「証拠」の料理の仕方で、いろいろと推論が異なってくるのはやむをえないでしょう。


「日中歴史共同研究」その7
●この「共同研究」は同じテーマで両国の学者がそれぞれ論文にまとめ、それぞれをお互いに意見を述べて、それぞれの著者が納得すれば修正するし、その経過も記録する、という事ですが結局は意見のやり取りは公開されないこととなったようです。


同じテーマなので、日中のそれぞれの同一テーマで並べて批評した方が、それぞれの歴史叙述の違いについて理解しやすいか、と思ったのですが、古代史担当の日本側委員の論文は、いわゆる定説であり目新しいところはほとんど有りません。


したがって中国側委員の論文を順を追って見ていっているわけです。

当初想像したよりも大変な作業になっています。現在が胸突き八丁的なところでしょうか。では、「日本文化の形成とその特徴」に入ります。

第三節 日本文化の形成とその特徴

●大陸文化を取り入れ活用する過程において、徐々に日本の文化が形成され、その民族的特徴が表面化してくる。
(寅七注:「大陸文化」というくくりに」よって、中国および沿海州、朝鮮半島からの文化としているようだ。
ともかく、総論的にはまともな記述が例によってなされているのだろう、と思ってしまうのは先入観に過ぎるのかな?)

●一.自我意識の形成と民族文化の発展


七世紀、遣唐使が倭国を日本と改めたと宣言したこと、8世紀初めに国史が編纂されたことは、自我意識の観念が形成されたことを示しており、これは民族文化を発展させるという思想の原点である。

平安時代の「国風化」あるいは「和風化」の過程は、文化史においては、日本の民族文化が発達した過程でもあり、また奈良時代の「唐風化」の論理が発展した結果でもある。主として次のように表現される。


(以下は省略するが、著者は、平安時代の「倭絵」の流行、『古今和歌集』や天照大神は大日如来の化身とする、「神仏習合」などの例をあげている。鎌倉時代になると・・・・「神国意識」が流行し、元寇での勝利の原因の解釈であるだけでなく、文化的に心理城に現れた自尊心、誇り、さらには傲慢な優越感を強調したとする。以下、室町・安土桃山・江戸の各時代の文化の特徴をのべている。)

●二、日本文化の特徴

(著者は、日本文化は欧米学者の「恥の文化」、日本の学者の「雑種文化」、中国の学者の「多元文化」という表現を紹介し、中国の学者の研究について周一良・王金林・厳紹湯玉・王家驊・魏常海・管寧・王勇氏等のそれぞれが捕えた特徴を要約して紹介している。そして「世界の文化という林のに咲いた一輪の独特で珍しい花として、日本文化の特徴は次のとおりである」として次の項目に従って説明する。)


(1)開放的な「ダイナミズムを持つ文化」(以下説明は略)
(2)多様性文化。(略)
(3)二重性文化。日本文化は膨大な物質的精神的要素の運搬役として、互いの矛盾を排斥し、また互いに依存し合い補い合うという多元的属性を内包している。その中で、開放性と閉鎖性、受容性と排斥性、革新性と保守性、曖昧性と極端性、卑下性と傲慢性が共存しており、深い印象を与える。(以下略)
(寅七注:中国の学者の方々は、抽象的な論述には熟練しているようだ。)


●(4)実用性文化。(中国文化の吸収の過程で)国情を勘案し、外来文化を推し進めるのに必要な選択、消化、吸収が、自らのために必要な実用性を際立たせ、次第に日本文化の一つの特徴となった。「唐化」の風が吹き荒れた奈良時代にあっても、科挙制度と宦官制度は取り入れず、江戸時代の朱子学で日用の理と奉公の意識などの事例を強調したことなど、いずれも日本文化の実用性を体現している。


●(5)日本文化の核。
精神意識と民族の性格は各国の文化に深く焼き付いている。そのうち、不変を持って万変に対応する強烈な自我優越意識は、日本文化の基本を成す核である。
(寅七注:著者は、中国文化が「中華意識」そのもの、という「自我優越意識」がない、とでも思っているのだろうか?)


●これは、他者との境界をはっきりさせる日本人の個の意識と、日本国に対して賛同する群衆意識として表現される。古代には天の助け神の助け的な「神国」意識を唱え、近世の「日本中華論」や国学の廃仏斥儒、近代天皇の「万世一系」の「家族国家」観念、現代の「世界のリーダー」という自我の位置づけなど、一貫した「自我優越」の理念を示していないものはない。

(と著者は断じ、その原因を、気候温暖な環境、四方を海に囲まれた地理的条件からきているとする。そして、)16世紀中期ヨーロッパの「西学東漸」と19世紀初期の欧米の「西力東漸」の二度の衝撃は、中国文化を中心とする古代東アジア伝統文化の枠組みを変え、日本が頭角を現した。(中略)


鎖国時代には、蘭学が日本で発展し、近代日本の勃興に必要な新興の知識人、神大集団を育てた。これが近代日本が中韓両国に水を開ける重要な原因のひとつであった。


次は第四節 古代中国文化と日本伝統文化の関係に入ります。


今回紹介した論文の文章はかなり原文を端折っています。論文全体をお読みになりたい方は次の外務省のURLをクリックください。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/1/0131_01.html



2015-01-29 12:42:15

「日中歴史共同研究」(6) 27.01.29

テーマ:ブログ


●連日フリージャーナリスト後藤氏が解放されるのか、がマスコミ報道の9割方を占めています。無事解放を願うのみですが、「イスラム国」にとって日本(日本人)は敵国(敵国人)である、ということを平和ボケしている我々に知らしめてくれた、ということは確かなようです。


●朝日新聞が週刊「マンガ日本史」を創刊しその第一号「卑弥呼」が出ました。

創刊号は180円で2号からは500円になるそうです。101号で完結するそうですから、約5万円の出費となるのですが、いわゆる定説をマンガ化しているだけですので購読する気にはなりません。


週刊朝日の実売部数が18万弱だそうです。このマンガ日本史の購読部数が5万部にでもいけば、25億円の売り上げとなり、子会社のアサヒ出版を潤すことになるでしょうが。

まあ、子供たちに歴史に興味を持たせる、という意味からいえばそれなりの意義はあると思います。


日中歴史共同研究(その6)


前回、儒教と女性蔑視について述べましたが、若干補足しておきます。気になるのは、儒教の中の女性蔑視思想について中国側委員の意見(自己批判)が見られないことです。


古代の日本社会における女性の地位は、「卑弥呼」、「天照大神」、数多くの「女性天皇」、数百の「万葉歌人」や「物語」「日記類」などの女流作家たちが存在したことでうかがい知れるようにかなり高かったようです。


孔子の弟子の子夏の『礼儀喪服伝』で、孔子は『礼記』では「家にあっては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従う」と言っています。

このいわゆる「三従の道」で見られるように、儒教では女性を男性より一段と低く見て、後年(唐末?)てん足などという奇習をも生んだともいえるのではないでしょうか?(儒教が後年、朱子学・陽明学と姿を変えて統治手法としての利用価値が認められて儒学は日本で復活したのではないでしょうか)

●今回は中国文化の導入時の問題などについての記述に入ります。

これも長文ですので、寅七が気に入った、または、気に入らなかった文章を取り上げています。

詳しく知りたい方は、このブログ記事末尾のURLで原文を検索されてお読みください。


第二節 古代日本における中国文化の導入過程での変遷と創造


●日本固有の文化について言えば、古代中国から導入することが必要だった。同時に、中国から来た「異文化」は日本に根を下ろして成長し、古代日本の朝野に創造性を発揮することを求め、加えて国情、政情の変容に合わせ、次第に内在化して日本の伝統的文化となった。

古代日本が中国文化を導入して変化させ吸収し、本土化させていった事例は枚挙にいとまがない。紙幅に限りはあるが、僅かに以下の例をあげて説明する。
(寅七注:この文章を読むと、中国文化が主語で、それが主体的に日本の風土に合わせて根を下ろした、というような「上から目線」が気になるが、まあ常識的な総論ではあろう。)

●1.仮名文字の創造

(歴史的経緯 略)


(まとめとして)漢字そのままの模倣から漢字の読音昨日を選ぶようになり、万葉仮名が創られた。さらに片仮名、平仮名を創造し、それに漢字を加えて和漢混合文という民族文字を作ったことは、古代日本人の文化創造精神をあらわしている。


表音の仮名と意味を表わす漢字を取り交ぜて使用する日本語は、中日両言語系の隔たりを巧妙に乗り越え、聞く、話す、読むと、書くことが一致しないという矛盾を克服した。ゆえに今に至るまで持ちいられているのである。


この文字は、体内的には日本各地の複雑な方言による難題を解決するのに有益であり、対外的には東アジアの国際文化交流に有益であった。それによってこの文字は活力に満ちていたのである。
(寅七注:最後の「対外的には東アジアの国際文化交流に有益であった」というものの具体例が示されていないので、今一つしっくりこない。)


●2.『記・紀』編纂者の中国の宇宙観および歴史観の活用
(寅七注:この問題は興味があるが、寅七の手に余るので今回はスキップ)


●3.道教要素の吸収と変容
(これについては、日本の研究者、増尾伸一郎の、道教と日本の陰陽道、密教、神道、修験道、庚申信仰、風水説との複層的関係の研究成果を紹介している)

(まとめとして)上述の日本の学者の研究により、道教は日本に伝わる過程において、神道、陰陽道、修験道などの宗教の中に溶け込み、道教の宗教団体は作られていないものの重く用いられた宗教要素として、その他の教派と教団の日常的な活動の中に活きており、日本の社会生活に影響している、ということについてより突っ込んだ説明がなされた。


道教が古代日本人に取り入れられ、改造され、活用された過程は、日本が「異文化」を吸収する際に採用した、典型的な取捨選択して自分のために用いる方法だったのであり、儒学、仏教の輸入方法とは明らかな対象をなしている。どうしてそうなったのかという原因については、人により見解が異なり、引き続き議論されることが期待される。
(寅七注:この項において著者は自分の考えを示さず、単に日本の研究者の説を紹介するにとどめる。しかも中文から日文への翻訳が生硬で理解しづらい。日本人の研究が理にかなっていると思って紹介しながらも、議論がもっと深まれば、などと不満があるかのような叙述が気になる)

●4.江戸時代国学の形成と活発化

国学は、またの名を「皇朝学」、「倭学」といい、廃仏し儒を斥け、古代の「神皇之道」を復興しまた発揚し、日本固有の民族精神を奮い起すことを唱導した。

国学は江戸時代中後期に盛んになり、文化の本体意識を樹立する努力をはっきり示した。(以下、国学の唱導者下河辺長流、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などの考えを簡潔にまとめている。)

(まとめとしての論述で次のような記述がある)

国学が古道「神皇の道」を極めて崇拝したことは、神道という衣の下に隠された尊王攘夷思想を鼓吹し、幕末政治闘争に思想的武器を提供した。

没落社会集団の没落感情と精神の求めを反映するものとしての国学は、その価値基準が複雑で、互いに矛盾してさえいる。

国学の積極的働きは時代の進歩に反比例し、「神国論」、「日本優越論」などは近代日本の対外拡張思想の根源のひとつとなった。(以下略)
(寅七注:よくまとめたものだと思う)

●5.武士道の形成(略)
(寅七注:この論述の最終部分を紹介しておく。【文化史の意義から見れば、武士道の形成と普及は、日本の統治階級が自身の要求に合わせて、朱子学から選び取り、それを変容させ日本化させた結果なのである。】とある。

文中の「文化史の意義」など説明が抽象に過ぎていて意味がよく受け取れないが、武士道が普及したのは、統治者が朱子学を自分の都合のよいように選びとって「武士道」と名付けて普及させた、ということなのかな?)、

●つづいて著者は日本文化の形成とその特徴について述べますが、次回とします。


http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/1/0131_01.html

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