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2015-08-03 21:02:59

いよいよ80台へ 27.08.03

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●昨日、東京にいる息子から連絡があり、今年は子供たちだけを行かせるのでよろしく、と連絡がありました。

末娘の方の孫はどうするのか、と聞きましたら、次男H君がいこうといういことで、あす空港に迎えに行くことになりました。


ということで、今日は時ならぬ大掃除と夜具の虫干しということになりました。孫たちもそれぞれ予定があり、4日程度の滞在となるようですが、久々の5人という、しばし大家族孫の生活となります。


明日で80歳台に突入です。


●鈴木勉氏の『金印誕生時空論』の検討をして、その問題点などについてまとめてみたい、と思っています。そのためには、中国古印についてもう少し勉強する必要がある、と思いネットで調べてみました。


幸い『ハンコロジー事始め』副題「印章が語る世界史」新関欽哉著という本が検索に引っかかってくれました。世界の印章の歴史について述べられている本でまず勉強してみましょう。


新関欽哉『ハンコロジー事始め』


●大塚先生の『倭人伝をとらえなおす』の第3の質問は、”倭人伝の里”についてです。


大塚先生は”『魏志倭人伝』から邪馬台国は探せない」”と仰います。(p24~26)


この問題は、次の第2章で、倭人伝について大塚先生の解釈が述べられますので、その里程に関する先生の説明と合わせてよみましたが、大塚先生の「里」についての考えがはっきりとしないのです。


大塚先生は『魏志』倭人伝に対して次のように述べられています。
【倭人伝には邪馬台国の記述は二千字たらず。しかもその記述はあまり正確なものではない。里程も記されているが、その記述に従って探すと、女王国は九州の陸地を超えてはるか南界に達してしまう】、と述べられています。

この意見からしますと、大塚先生は何らかの、「一里はどれくらいの距離」という目安をもっていらっしゃるようです。どうやら、魏朝は後漢朝に続く王朝なので、漢の一里がこの『魏志』倭人伝に使われていると思っていらっしゃるのではないか、と思われる文章です。


ところが、同じ倭人伝の「参問するに周旋五千里なるべし」という倭人伝原文の解釈では次のように述べられます。


【対馬国から一支国=壱岐国が千余里、また千余里ほど海を渡ると末蘆国と記せられているので、その五倍程度とすると、四国か九州かという大きさであろうか。】(p61)


このように、陳寿が記す「里」はどうも「漢朝の里」とは違うようだ、と思われているようです。しかし、大塚先生はこのところをあいまいにされています。


古代史の大御所、白鳥庫吉氏は、倭人伝に記載されている里程と地図とを比較すると、約5倍の値である、という意見を出されています。前述の「周旋五千里」についての大塚先生の意見と同じです。だとすれば、それで通して解釈されても良いのではと思うのですが、そうなさらないのは何故なのでしょうか?


考古学の第一歩である「古代出土品の大きさや文献の寸法記述」について注意を払うのは、基本中の基本だと思います。


この基本をうやむやにして、『魏使』倭人伝の講釈をされるのは如何なものかと思われます。

水野祐先生の解釈による、とされるのであればまだ弁解の余地はありましょうが、水野先生の解釈に私見を加えて解釈をした、というように述べられています。(p33)


やはり、大塚先生の倭人伝に記されている「里」の長さについてのお考えをお聞きしないと先に進めないようです。先生のお考えを是非お聞きしたいものです。


新関欽哉著 NHK出版協会 1991年
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2015-08-02 18:24:13

『金印誕生時空論』の続き 27.08.02

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●一昨日、梅雨明けで太平洋高気圧にすっぽりと包まれて、朝から夕方まで雲ひとつない夏日でした。

S氏夫妻にTさんに誘われ、ザ・クラシックゴルフで一日興じました。夕方から反省会を兼ねて、ミシェラン星三つを付けてもらい、上り調子でお店も立派になった宗像のK満さんところでの食事会に夫婦で参加しました。


K満での懇親会

一日中照らされて水分不足だったせいか、生ビールに始まり、枡酒3杯チュウロックまで進み、ゴルフでのチョコもいただきご機嫌な一日となりました。


●先日の『金印誕生時空論』の感想で気になっていたことが、「璽」が封泥に使われていた例があるか、ということでした。


昨日図書館にまた出かけて、鈴木勉さんの本を改めて読みなおしました。


前回は、志賀島金印・廣陵王璽・滇王之印を中心に鈴木さんの論を見ていったので、見落としがあったのではないか、と恐れていたのです。(大体が慌てものですから)


ありました。前漢時代の金印で「文帝行璽」(BC120ごろ)という印章です。この印章は、文帝が出張(行軍?)の時に用いた「璽」と思われます。


この印章は、印面が平滑でなく、また、紙の発明者とされる蔡倫がBC105年の紙の献上したという『後漢書』の記事以前の印章なので、封泥用に使われていたと思わざるを得ない、という鈴木氏の説明もありました。


つまり、封泥用か捺印用かは「璽」という「印章表記」とは関係がないようです。だとしたら、先日の寅七の説は成り立たなくなります。


鈴木さんの本は金工学者らしく、その「物」の加工などについては詳しいのですが、素人が「印章」から受けるもっとも印象的な区分、「陽刻」か「陰刻」か、については全く述べられていません。封泥用か押捺用かという印章の「用途」と大きく関係してくるように思うのですが。


また、用途と彫り方と密接な関係があると思いますが、その方からの鈴木さんの考察は見当たらないようです。


鈴木さんは沢山の古代印章を写真付きで報告されているのですが、それが陰刻か陽刻なのか、なかなか区別し難いのでその判別に苦労します。


ともかく、貸出窓口に行き借出してきました。じっくり読んで感想をまとめてみたいと思っています。


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2015-07-29 17:33:36

『金印誕生時空論』を読んで 27.07.29

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●やっと梅雨明けのようです。今朝9時過ぎに近くの郵便局まで出かけたら、もう日射しが強くて帽子を被って出なかった事を反省させられました。散歩も天神の地下街で、という季節になりました。

●昨日、TVが宗像の神が宿る島・沖の島などが世界遺産の候補として推薦されるようになった、と報じていました。


夕方には県知事さんらと一緒に宗像市谷井市長も共に記者会見をされている映像も流れていました。単に喜びの羅列の他の方々と違って、市長は「女人禁制について理解をしてもらうよう努めていかなかれば」というような意味のことを言っていらっしゃいました。


日本政府の推薦候補になったといっても、世界の遺産ということでのハードルの認識が、日本と世界でどのように異なるのか、地元責任者の市長としては心配になるのは当然でしょう。


しかし、一夜明けた今朝のマスコミの論調には全くこのような懸念についての言及は、なぜか全く見られませんでした。

現在でも女人禁制、それに対して、「世界の文化遺産」、というお墨付きをいただけるのだろうか、前例はあるようですが、何か日本の恥的な女人禁制を世界遺産にお願いしなくても、と思うのは寅七のみでしょうか?

●本日の古代史本批評は、大塚先生の本の批評からスピンアウトしましたお話しです。


金印誕生時空論 『金印誕生時空論』鈴木勉 雄山閣 2010年


大塚初重先生の『邪馬台国をとらえなおす』の中で、鈴木勉氏の『金印誕生時空論』の志賀島金印偽造の疑い説について述べられています。先の土曜日半日を費やして図書館で読んでみました。

鈴木勉さんという方は早稲田大学卒で、橿原考古学研究所研究員の金石文研究家で、「工芸技術研究所理事長」という肩書の方です。この本の表題に「金石文学入門 I 金属印章編」 と副題がついていますように、非常に詳しく古代の印章作成技術ついての説明が述べられています。

問題の「委奴国王」金印について、鈴木さんはその作成された物自体の作製精度の高さに驚かれ、これほどの精度で製作するには、精密な計測技術や計測器具、計測精度の検査システム、なども整っていなければならない、果たして1世紀段階の技術で可能であったか、と疑問を呈されます。

次に、ほぼ同時期に製作された「廣陵王璽」金印(AD58年造)との製作技法の相違について、同じ技法ではない、「廣陵王璽」は線彫りで「委奴国王」印は浚〈さら〉い彫りであり、同じ王宮官房で作成されたとは思われない、と疑念があることを説かれます。

この本を通読して、寅七の印章についての知識の不確かさを知らされました。ざっと読んだだけで批評するのはおこがましいのですが、鈴木さんの説かれるところへの疑問と、それに対する解答としての私見を述べててみたいと思います。


尚、鈴木さんは、この本の中で、「私の疑念について今まで意見を貰っていない」と残念がっておられます。それに最初?にお答えするのが、素人の古代史好きの棟上寅七というのでは誠に申し訳ないのですが。

金石文の素人寅七の印章知識から浮かぶ疑問、及びその解答についての私見です。

① まず、印章の用途について、鈴木氏の見解が皆無というところに疑問を持ちました。

「委奴国王」印は封緘(封泥)用の印章で、「廣陵王璽」印の方は、文字通り璽書の押印の為の印章ではないか、と寅七には思われるのです。
「璽」とある印章で「緘」の為に使われる筈はないのではないか、というのが素朴な疑問です。


② だとすれば、「委奴国王」印は、封泥にきちんと形が残る「浚い彫り」で作られ、紙などに押印する「廣陵王璽」印の方は、印字面が平らであればよく、細工が容易な「線彫り」で作成された、ということになりましょう。


③ しかし、ほぼ同じ時期に漢帝から下賜された印章で、片方は「封緘用」、もう片方は「押印用」というのはなぜか、という疑問が浮かびます。


④ 「委奴国王」印は、委奴国での印章の用法として、封緘用の方の用途が多いと考えて、面倒な「浚い彫り」で作成した(押印としても使える)、ということが考えられます。「廣陵王璽」印はその名のとおり、押印用の印章として作られたのでしょう。


⑤ 1世紀当時の中国における金工技術レベルの高さについて云々はできませんが、弥生期の大型銅鐸は、現代の鋳造技術でも再現が難しいくらい精緻な加工技術で製作されていると聞きます。

現代の金工技術に比べても劣らないということを、古代の金工技術のレベルはもっと低かったはず、という目で見るのは如何なものでしょうか。


⑥ 以上の説明で、鈴木勉氏の疑念は解消けることになると思うのですが、どうでしょうか。

この私論は、印章に「璽」とあっても封緘に用いた、という事実があったのであれば直ちに消散するもの、ということも自覚しています。

この件について読者諸兄姉にご意見いただければ幸いです。


(追記:「璽」を封泥用印章として使ったと思われる例、後漢時代の「文帝行璽」金印がありました。再度この件について検討し、その結果を後日報告します。 27.8.01記)

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2015-07-27 19:01:46

福永晋三さんが当ブログに反論 27.07.27

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●中学校の同窓会の幹事役を引き受け、さて、と悩んでいるのが会の名称です。

単に「XX中学校S26年卒業生懇親会」、というのも味気ないし、といっても、昨年は早々と数え年で傘寿だからと、「傘寿を祝う会」という名称でやってしまったので、傘寿祝いの二番煎じともいかない。会場のホテルの方からは、会の名前をどうしますか、と、せかされて弱っています。

「戦後70年を振返るXX中学S23年卒 翁媼の集い」とでもしようかな、と思ったりしています。


●戦後70年と昔のことに思いをいたしていたら、ふと ♪肩を並べて兄さんと共に学校に行けるのは 兵隊さんのお陰です、お国のために お国のために戦った兵隊さんのお陰です♪、という歌が浮かんできました。安保法案の行く方との関係もあるのかもしれません。


調べてみたら昭和14年に朝日新聞が公募して出来た歌だそうでした。全国の小学生に瞬く間に広がった、ともありました。まだ学齢に達していませんでしたが、周りが歌っていて知らず知らずに脳裏に染みついたのでしょう。、



●日曜日に古代史の会に顔を出したら福永晋三さんが講師でした。レジュメを拝見しますと「棟上寅七の古代史本批評」というパワーポイントの説明図が出ています。テーマは「臺」の読みです。

この小さなブログにも福永晋三さんが目を通してもらっているのか、と半ば怖れ、半ば、どのように回答されるのか興味がわきました。


それは昨年7月の、同じ福永講師の「邪馬臺国論」に対しての寅七の感想のブログでした。

臺がトと読めるのか。読めないと思われるので、福永説は話としては面白くても歴史とは言えない、というようなことをブログに書いていました。


詳しくは次のURLをクリックしてみてください。


http://ameblo.jp/torashichi/entry-11899519079.html


福永さんは、”万葉仮名は中国の漢字の当時の読みを仮名文字として表わしたものだ。万葉集にあるから万葉仮名ではない、当時の書物、『古事記』や『日本書紀』などに「歌謡」や「訓注」に使われている音標文字も万葉仮名である”と説明されます。


「都」が万葉仮名として用いられているのは「ツ」であり、棟上寅七のいうような「ト」ではない、というところから話は始まります。


確かに寅七は、「伊都国」の都の読みは、怡土村・伊覩神社・糸島郡などの地名と、末蘆国からの500里という距離、それに弥生王墓群などからの地名比定から、「伊都=イト」、「都の読みはト」と考えています。


寅七が、「都」を「ト」と読んで、”陳寿は「ヤマト国であれば、「邪馬臺国」でなく「邪馬都国」と記したのではないか”、というところを捕まえて福永先生は、”「都」は「ツ」である。呉音で都はツであり、伊都国はイツコクと説かれます。


”三世紀の漢字の読みは史料がなく、遠く離れた日本列島に到来した漢字の読みは本国では失われ、ドーナツ現象で日本に残った”、という福永さんの説には一理あります。


したがって、陳寿が都をどう読んでいたかを知るには、『三国志』全体の中で、「都」がどう読まれていたのか検証する必要があるでしょう。


「奴をどう読むか」、という問題では、寅七は以前、『魏志』での「奴」の用例を全部抜きだして検討し、「奴の読みはヌ」ということを検証したのですが、「都」についてもやるのは思っただけでもくたびれます。


むしろ、『魏志』韓伝での「ト」に当たる用字例、例えば「ト」に「塗」を充て、”陳寿はなぜヤマト国に「邪馬塗国」としなかったのか、また、台をトと当時の魏朝では読んでいたのであれば、「邪馬臺国」でなく「邪馬台国」と書かなかったのか”、と論を進めなければならなかったようです。

(韓伝には、臣蘇国、弁辰接国がある。ト音に近い字としては、蘆国、弁辰彌離彌国、弁辰古資彌国などがある)


福永さんは、「台=ト」の例として定説の方々が良く例に出される、「台」が『日本書紀』神代紀に興台産霊〈コゴトムスビ〉と出てくることを示されます。


しかし、福永先生ともあろう碩学の方が、臺=台として論を進めるのは如何なものでしょうか?臺と台は元々異なった字です。

私などが幼少の折、日本地図で南方に赤い色で塗られた「臺灣」という島がありました。今では「台湾」と略字として「臺」に代わって「台」が使われています。これは戦後の当用漢字表(1946年)の設定によるものです。


ともかく、福永先生が貴重な講演の3時間のうち、小1時間も費やされて、「臺」が「ト」と読まれたという説明をされました。


その中で、実例として上げられたのは、『続日本後紀』に上げられている興福寺の僧の長歌に、「日本乃 野馬臺能国遠」 という語句があることです。


長歌の形式であり五・七・五・・という形式であるので、「ひのもとの やまとのくにを」 という読みになる。つまり「臺はトと読まれていた」という説明です。長歌で、臺〈ダィ〉を一字と数えれば、別に臺〈ト〉と読まなければならないことの証明にはならない、などと屁理屈を言うのはやめておきます。


しかし、この『続日本後紀』は9世紀の書物です。今問題にしているのは「3世紀の臺の読み」です。

福永先生の優れた史料捜査能力で3世紀から9世紀まで、700年間の膨大な史料を渉猟されて、網にかかったのが、9世紀の「野馬臺」それ一つであった、ということです。


これで、『魏志』に書かれている「臺はト」と読まれていた、という証拠として充分なのでしょうか?逆に3世紀ごろには、「臺はトと読まれていなかった」、というニムロッドの矢的な証拠になるのではないでしょうか?


福永先生の精力的な活動には敬意を表しますし、講演の最後に述べられていた、(正確ではありませんが)、「仮説が間違っていた場合は素直に正さなければならない」ということを、一般論としてですがおっしゃっていましたし、今後のご精進に期待するものです。



2015-07-24 19:59:21

大塚初重先生への質問(2) 27.07.24

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●4,5日前の天気予報にはアメマークはなかったのに、台風12号の影響で変ったのか、昨日の朝の天気予報は雨マークがついていて降水確率50%となっていました。


雨の中でのゴルフを覚悟して出かけたのですが、予報と違って午後からは日が射し蒸し暑さが厳しく、おまけにゴルフ場の経費節減で途中の茶店は営業していず、同伴者の水筒からの恵みを受ける始末となりました。


幸い雨上がりで足元も悪くボールも飛んでくれなかったのが幸いしてOBが出ず、16人中グロスで2位と、まあまあの成績で上がれました。もう少しアプローチショットの精度が上がればエイジシュートもまだ望めるようです。


今週末、台風12号が過ぎたら梅雨明けで一気に猛暑の夏が到来することでしょう。


●最近知ってヘ~と思ったのに「心ばかり」という熨斗の存在です。普通「寸志」という熨斗紙が貼られているのに「心ばかり」という熨斗紙が貼られていました。

最近デパートなどから物を贈ることがなくなったので、私だけが知らなかったことかもしれませんが。


●大塚先生の『魏志倭人伝をとらえ直す』にある、倭人伝の解説に目を通していますと、いろいろと自分の知識の不確かさに改めて気づかされています。


例えば、倭人は「木綿」で頭を覆っている、というところで、大塚先生は「木綿(ゆう)」と振り仮名をつけています。

陳寿が書いている「木綿」は果たして、日本の古語「木綿(ゆう)」と同じ意味なのかなあ、と気になって、それを調べるのに一日費やしたり、志賀島の金印には工芸文化研究所の鈴木勉理事長が金印偽造説の本を雄山閣から出版されている、と書かれていると、それが気になって、関連情報を調べてみたり、で結構時間が過ぎていきます。



●『邪馬台国をとらえなおす』について大塚先生へお尋ねしたいこと(2)


大塚先生は、「卑弥呼も邪馬台国も日本の史書には見えない」と次のように言われます。
【日本にあったと中国の史書に記されているのに、当の日本には邪馬台国の名も卑弥呼の名も、史料どころか伝承さえも存在せず、その確たる痕跡もない。どこにあったのかも確定していない、まぼろの国。それが邪馬台国である】(p24)と。

失礼とは思いますが、先生にお聞きしたいのは、”歴史書は勝者によって書かれる、という言葉を先生は聞かれたことありませんか、もしくはこのような疑問を持たれたことはありませんか?”ということです。

遠く離れた中国の史書には書かれているのに我が国の歴史書には見えないことの謎について、このような視点から思いをめぐらされたことはないのでしょうか。


卑弥呼や邪馬台国だけでなく、倭の五王達や、タリシヒコ一統もまったく日本の史書には見えません。弥生時代の代表的な青銅器「銅鐸」についての伝承も『記・紀』には残っていません。


これらの事から演繹されるのは、時の王者にとって都合の悪い敗者の記録は歴史書に載せる必要がなかった、ということでしょう。ナポレオンは、「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話に他ならない」という言葉を残しているそうです。


歴史は常に勝者によって記されます。二つの文化が衝突したとき、勝った側が自らの大義を強調してそれを記録するわけで、邪馬台国が幻の存在になったのもそのせいだろうと思われたことはなかったのでしょうか?。


唐書には日本列島には倭国と日本国があったと書かれています。このことも我が国の史書に書かれていません。我が国に複数の王朝が同時に存在した、ということを理解出来ないほど、万世一系の一つの王朝が日本列島を古来支配してきた、という『日本書紀』のイデオロギーに染まってしまっているということを、ご本人は自覚されていらっしゃらないように見受けられます。


具体的に検討していったら、また違った大塚先生が見えてくることを期待して先に進みましょう。(以下次回)

2015-07-20 19:58:30

台風一過でも梅雨明けにならず 27.07.20

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●むし熱い日が続きます。台風が過ぎると風も入らなくなり、エアコンの出動となりました。エアコンの発明者に感謝感謝です。


●昨日の久し振りの昔の仲間とのゴルフは、午前中は良かったのですが、午後は雷雨に見舞われ、夏を感じさせられました。


久し振りの雨に濡れてのラウンドとなりましたが、ボールは良く飛んでくれました。2球行方不明となりましたのでスコアはまとまりませんでしたが楽しく回れました。



●大塚先生は、【倭の位置について少なくとも二つの認識が中国に存在していたということが分かる。】といわれます。
これを疑問に思い、調べた結果を報告します。


確か古田先生がこの問題について論証されていたと記憶しているのですが本の名前を失念していました。


ネットで、王充・班固・古田武彦で検索しましたら、瞬時に『邪馬一国の道標』が出てきました。便利な世の中です。


調べて見ますと『『邪馬一国への道標』(1987年講談社刊)第一章 縄文の謎の扉を開く 「縄文人が周王朝に貢献した 論衡をめぐって」で、この疑問の答えがピッタシカンカンで載っていました。


邪馬一国への道標

古田武彦氏は、「王充の倭人」も「班固の倭人」も「志賀島の倭人」と同じだと論証されています。


この古田武彦氏の論証は、史書を調べ、その記述の当否を検討して述べられていて、寅七には全く非の打ちようがないと思われます。

その古田武彦氏の論証の概略を紹介します。この古田説に反論された方がいらっしゃるとは寡聞にして聞き及んでいません。


古田武彦氏はこの問題について、概略次のように述べられています。

【『論衡』にある王充の自叙伝によると、王充は後漢の光武帝の建武三年(AD27)生。『漢書』の著者班固は建武八年(AD32)年生。
二人の間のエピソードが残っている。王充が十三才の班固に初めて会った時、班固の父親に、「この児は将来漢の歴史を書くだろう」、と言ったというのが史書に残っている。 つまり、二人は「5才違いの先輩後輩の関係の、同世代のインテリ」だった。

ということは、『論衡』と『漢書』は、ともに同時代の同一の読者に対して書かれていることを意味する。 とすると、一方の『漢書』で、「楽浪海中に倭人有り・・・」と書き、他方の『論衡』で倭人、暢草を貢す」と書いてあるとき、同じ読者は当然“同じ倭人”読むのではあるまいか。そうでなければ、たとえば王充は「江南の倭人」といった形容句を入れるはずだ。

同様に『漢書』の倭人記事が同じ大学に学んだ二人の「共有の教養」ではなかった。そう想定するのは不自然な話で、『論衡』で「暢草を献じた」とされている「倭人」もまた、「楽浪海中」にありとされる、あの「倭人」だ。


志賀島の金印が与えられた建武中元二年、王充と班固の二人はどこにいたのか。幸いに王充の所在を示す史料がる。「充、幼にして聡朗、太学に詣る。天子の辟雍に臨むを観、六儒論を作る」(袁山松「後漢譜」)

辟雍が完成したのは、明帝の永平二年(AD59)。「(永平二年、十月)辟雍に幸し、初めて養老の礼を行う」と後漢書明帝紀にある。 

王充はこの盛儀を見て、「六儒論」を作った、のだから、“洛陽にいた”ことになる。ときに三十三歳。だから、その前々年、三十一歳のとき、建武中元二年も、やはり洛陽の「太学」にあって「倭人への金印授与を見ていた」ことになる。

これに対し、班固の方は建武三十年(AD54)、父の彪が死に、郷里(扶風郡の安陵県。長安の近く)に帰っている。この三年あとの金印授与の年には、もしかしたら洛陽にいなかったかも知れない。


しかし、やがて明帝に見出されて「郎・典校秘書」となり、「蘭臺令史」に叙せられ、着着と中央の第一級史官としての道を歩みはじめたことは、彼自身、『漢書』末尾の自叙伝で語っている。


建武中元二年の「倭人への金印授与」についても、朝廷内の最上の資料に接していたこと、言うまでもない。

つまり、王充にとっても、班固にとっても、「倭人」と言えば、“つい、この間、光武帝から金印を与えられた、あの倭人”というイメージだった。】


以上ですが、もっと詳しくお知りになりたい方は、幸い今はネットで読むことができます。次のURLをクリックください。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/wakouk11.html

大塚先生が「考古学者の文献解釈」のいい加減な解釈で、古代史好きの老若男女を惑わせるのは罪作りな話です。


この古田さんの解釈を論理的に反論できた方を寡聞にして知りません。大塚先生に改めての論証をお聞きしたいものです。

2015-07-18 10:34:08

大塚初重先生への質問(1) 27.07.18

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●台風11号が日本本土を狙っている?というので今週はTVの気象情報を注視していました。
幸いと言うか、運がよかったというか、九州を外れて四国~中国ルートを選んでくれました。ルート上の方々には申し訳ないのですが、・・・。


明日の久々のゴルフは梅雨明けの空の下で出来るようです。そうなればそうで、熱中症の心配をしなければならないようです。

●同窓会の幹事役は、案内状を発送したらそれでとりあえずは終わりかと思ったら、ここやあそこにも案内を送ってくれ、へそ曲がりだけに出席はしないと思うが、案内を出していないと、又それはそれでうるさい、など、案内状関係の書類を追加でプリントしなければなりません。


昔は何とも思わなかった作業ですが、年を取ってくると結構面倒に思われてきます。これが、年を取った、ということでしょう。


●『邪馬台国をとらえなおす』 で大塚先生は、まず第一章に「魏志倭人伝」の謎として、古代の倭や倭人伝の解釈の難しさについて述べられます。

”中国の史書に書かれた古代の「倭」”という項目で概略次のように述べられます。

【後漢の学者王充の『論衡』に出てくる倭と、班固の『漢書』に出てくる倭について当時の中国には二つの違った倭についての認識があった。

『論衡』には「周の時、天下太平にして、倭人来りて暢草を献ず」と記されている。この倭人は中国の呉越地方の南と認識していたらしい。

『漢書』には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国、歳時をもって来りて献見す」とあり楽浪は今のピョンヤンあたりで、その楽浪の海の中に倭人の国があった、とする。


倭の位置について少なくとも二つの認識が中国に存在していたということが分かる。】(20P)

この先生の認識について疑問を抱きました。古代中国の倭人についての認識には「呉の南方と朝鮮半島近くの海中」という二つの認識があったのは本当でしょうか?というのが最初の先生への質問です。


● 「『論衡』の倭人は中国の呉越地方の南と認識していたらしい」と述べられますが、「・・・らしい」とされていて、その根拠は何も示されていません。


それに、先生が書いているように、王充はAD27~90?年の人であり、班固はAD32~92年の人(p18)であるのであれば、同じ時代に育っているわけです。そして同じように歴史書を著わしています。
その両人が「倭人」についての認識が違うということはちょっと考えられません。

また、この二人の生存期間中に有名な志賀島金印の倭奴国への下賜(57年)があります。 それなのにこの歴史家の両人が倭人の活動範囲について違った地理認識を持っていた、そして倭人について違った認識を基に歴史書を世に出した、とは寅七ならずとも、論理的に判断できる人であれば誰しもが頭に浮かぶ疑問ではないでしょうか?


先生は、自分は考古学者だと仰います。しかし、アマチュアの寅七でも不思議に思う「古代中国には倭人について違った認識があった」、など言われるのが不思議です。

この『邪馬台国をとらえなおす』という本は、考古学者として古代の日本の歴史を明らかにしようと書かれたと思いますが、少なくともこのような「倭人について違った認識があった」ことへの疑問は持たれて、なおかつ、そのような論が成り立つということで書かれたと思います。

だとすれば、このように基本的なところで認識に疑問を持たれたうえで、大塚先生はその疑問をまず解消してから先に進む必要があるでしょう。

文献学はご自分の専門外のことだと仰るならばなおのこと、その文献解釈についての各意見を渉猟されて、その各論の論理を検証されて、ご自分の責任で書物に著さなければならないと思いますが如何でしょうか?


次回、この疑問について調べた結果を報告します。

2015-07-14 20:44:31

大塚初重先生の講義を読んでみます 27.07.14

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●日曜日に義母の仏前に線香上げに田川まで出かけました。半年ぶりに見る義弟は元気そうでしたが、この市営住宅の4階から降りるのが億劫になったとぼやいていました。76歳での一人暮らしも大変のようです。いずれ我々夫婦も独り身になるのでしょうが。


一緒に食事をして、時間もあるので、姉弟が幼少時代を過ごしたあたりを、ブラブラ車を転ろがしました。姉弟は口々にこのあたりは商店が並んでいた、道ももっと広かったといいます。詳しく聞くと、商店とは薬屋さん駄菓子屋さん米屋さんタバコ屋さんくらいのものでだったようですが今は姿はありません。道幅が狭くなった形跡も皆無です。小児時代の記憶はこんなものでしょうが、懐かしがっていました。


炭坑町で栄えた田川の町はずれの部落は、最盛期から60年もたつと、家屋が古びて家並みもところどころ櫛の歯が抜け、世の中の動きに取り残されたような情景でした。

●日曜日早朝、大分で震度5の地震があったそうだけれど大丈夫?とアメリカに出掛けている末娘からメールがはいりました。


TV画像などでは被害が出たところを中心に報道するので心配になるのでしょう。夜中の2時過ぎで、福岡では震度3だったそうですが、目覚めもしませんでした。

大丈夫、おいしいチーズで日本では高価なチーズがあったら買ってきて、など、安保体制の国会審議やギリシャの今後などどこ吹く風の、ピンボケの返信となりました。

●今年に入って、榊原英夫伊都国歴史博物館長の『邪馬台国への径』から、高柴昭氏の『邪馬台国は福岡平野にあった』をブログで批評してきました。どちらも邪馬台国九州説です。

邪馬台国は大和にあった、というのはもう定説になっているから改めて「邪馬台国奈良説」を書物にする人はいないのなあ、と思って調べてみました。


ちゃんといらっしゃいました。明治大学名誉教授大塚初重先生が『邪馬台国をとらえなおす』という本を講談社現代新書として2012年に出されていました。


この本は明治大学の生涯学習口座として2009年、1年間16回の講義を基に出版されたということだそうです。先生の講義を聞きながら、その講義の節目節目に先生に疑問点を質問するという形でブログに掲載してみたいと思っています。生涯学習の手習いの報告として。

2015-07-09 18:36:59

同窓会ウイークでした 27.07.09

テーマ:ブログ

●今週は同窓会ウイークでした。

日曜日は熊本の中学校の同期卒業生の幹事会に呼ばれて、戦後70周年記念懇親会の打ち合わせを昼食をとりながら打ち合わせを行いました。

場所をどうするか、足腰が弱っている仲間も多いので、ホテルの椅子席の会場が良いが場所代が高い、などと議論があり、実際に交渉してみることにしたり、で、帰りが遅くなり、高速バスでは3時間近くかかるし、と、バス代の倍する新幹線で帰ったら1時間もかからずに帰宅できました。まさに時は金なりです。


●中学の同期会の案内を準備するのに月曜火曜と二日がかりでした。

火曜の夜は、大学卒業同期の七夕の夕べを西日本在住者を対象に行いました。全員で8名ですが、内6名の参加で、出席率は良好でした。高松や広島からも参加があり天神の居酒屋で3時間の昔の角帽姿の若い気分に戻れました。


●中学校や大学の同窓会のことをやっていて、高校同期の福岡・熊本のゴルフ会の準備もしなければならないことに気づきました。

いつもは日帰りでのコンペなのですが、たまには1泊でゴルフ場近くの温泉宿での懇親も企画してくれという意見もあり、ホテルと下交渉したり、その結果で、早めの案内状出書となり、往復はがきの印刷を今日中に仕上げようとしているところです。


●なんだかだとパソコンに向かってキーボードをたたいたりプリンター相手に過ごしていますが、数年前に比べると格段に処理能力の低下をいやでも思い知らされます。


その典型が往復はがきの印刷です。手順は分かっているのですが、四回に分けて印刷しなければならないのです。つい往信の住所欄に返信の住所を印刷したり、参加不参加を知らせてもらう返信部分のメッセージを、往信部分にプリントしてしまったり、の単純ミスを繰り返していて情けなくなります。

まあボケ防止の訓練と思うことにしていますが。


●多元の会からの会報に天文台の谷川清隆氏の日本書紀の天文の記述から、日本書紀叙述者の謎に迫る論述があり、興味をもって二読、三読しているところです。

谷川先生と歴史学者との論点についての先生の論述は、論理的で歴史学者側の反論はまだありえるのか、と思われますが、論争が続けばと、興味津々です。


古代の天文観測、最近の梅雨の時期のように、雲に覆われる時期の古代の天体観測はどうだったんだろうか、観測所は一か所だったのか全国に複数個所あったのだろうか、など勝手な空想を楽しんでいます。

2015-07-04 06:35:33

昔の学生新聞のトップに「九州王朝」 27.07.03

テーマ:ブログ

●お嫁さんのブログに、愛猫マールと愛犬カナイの二人?の仲の良いじゃれあいの動画が掲載されていました。

種類が違いながらも仲良くしているこの姿を、同じ人間なのに宗教の違いを理由に殺す人間たちに見てもらって、反省してもらいたいものです。


動画は下記のユーチュブのURLをクリックするとみれます。


https://www.youtube.com/watch?v=p4IR6d_DKU4  


●錦織選手が負傷棄権でウインブルトンから去りました。残念ですけれど、再起を期待します。


ところでウインブルトンではウエアは白で統一されているそうです。選手間には不人気だそうです。女子選手では、ブラジャーや下着にも白の規制があることについて「異常ではないか」という声もあるとネットに出ていました。


そういえば、60年前のころは硬式テニスのボールは白でした。しかし、50年ほど前に、ラインとボールが同じ白だと判定が難しい、というので、現在の黄色になった、と記憶していますが。


他の大会と格の違いを見せつけたい主催者の気持ちがわからないではありませんが、他の大会の選手の個性的な服装もまた観客の目を楽しませてくれているのも事実でしょう。


●『鏡王女物語』も在庫がなくなり、CD版の注文もこのところ途絶えています。

中古本をネット検索しましたら、全国で1店だけ中古本として『鏡王女物語』が出ていました。

ぼつぼつホームページに電子版を載せてもよいかなあ、と思っています。ただ、振り仮名を付ける機械的手作業が多すぎるので、どうしようかなあ、と思案しているところです。


●学友K氏から、こんなものがあった、と昔の学生新聞に『九州王朝の真実』というタイトルで3カ月、といっても月イチの発行ですから3回、の連載がされていたもののコピーを送ってくれました。


1983年に古田先生が福岡で公演されてそれを聴いた新聞部員が執筆したものと思われます。古田説をまじめに紹介していました。この筆者の学生がその後どのような道に進まれたのか、非常に興味があります。


九大新聞古田武彦

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