1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2014-11-18 09:18:38

「もうひとつの奴国」論 26.11.18

テーマ:ブログ

●明日の中学校同窓生の傘寿祝いの会の準備が終わり、一息ついているところです。先ほども茨城県に住むFさんから、今から出かけるけれど、会は予定通りですね。と念押しの電話がありました。</P>
当時1クラス50人の5学級約250人の卒業生で、出欠の返事があったのが60名程。内、出席37名とはご同慶の至りです。

● 『魏志』倭人伝にある二つの奴国のうちの旁国の一つに挙げられている「奴国」がどこにあったのか。これについて、『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』で、神武が東へ侵攻して作った筑紫の奴国の分国ではないか、と論じました。

大阪阪府茨木市の東奈良遺跡あたりが卑弥呼と対立した狗奴国の本拠ではないか、と仮定したものです。(東大阪遺跡と本で書いていますが誤記です)

ところが、奴国は神武の即位の地、橿原としますと南北関係が合わない、むしろ逆ではないか、と何人かの読者の方から指摘されました。

まったく寅七の地理認識の誤りです。これでも5年近く枚方市に住まいしていて、奈良にもよく出かけていましたのに。私の認識では奈良(市)は大阪より北にありました。


同じ奈良県内でも橿原はず~と南に位置しています。それなのに橿原も大和だ、大和は河内の北、という誤った地理観念に陥っていました。

改めてこの点について再検証する必要があります。


『魏志』より後に書かれた『後漢書』に「東、海を渡る千里、拘奴国あり」と書かれています。漢代の里の長さ435mですと、九州から450km前後の位置となります。

宇佐から大阪湾までの直線距離はGoogleによると約420kmです。 また、地名の依存性からは、狗奴国=こうぬ・こうの・かふぬ・かふのなどから、 大阪府交野市・備後国甲奴〈かふの〉郡(広島県甲奴〈こうぬ〉郡)・瀬戸内の河野水軍や各地に残る河野などがあげられています。奴をナと読み、狗奴をクナと読むことからの熊襲案は論外です。

このあたりの 弥生期の遺跡としては、沢山の遺跡がありますが、そのなかでも狗奴国(銅鐸族)の中心であったろうと思われるものに、茨木市の東奈良遺跡・東大阪市の鬼虎川遺跡・羽曳野市の西浦遺跡や淡路島の五斗長垣内〈ごっさかいと〉遺跡があげられます。当然のことながら、瀬戸内に面したところに文化が栄えたところがあったのは自然でしょう。

狗奴国が瀬戸内~大阪湾あたりに存在したことは、神武記のナガスネヒコの記述からもうかがえる事です。
ところで、3世紀時点での神武の国がどのような姿であって、中心はどのあたりであったのか、という事が問題になります。

いわゆる欠史八代の時期になります。神武の頃の橿原市あたりから九代開化天皇の頃には奈良市春日に陵墓があるように、勢力範囲は北上しているようです。

この神武一族の奈良盆地平定は九代の開化天皇の陵墓が奈良市域にあることがが示すように、崇神天皇までに完了したようです。


以上の事柄と、奴国と狗奴国とが南北の地理関係にあったという記述から演繹されることは、奴国が奈良盆地中心あありあったとすれば、狗奴国の中心は羽曳野市あたりであった可能性が高い、という事になります。

いずれにせよ、少ない情報から仮定していることですから、真実には遠いかもしれません。おまけに、記述者が東大阪の遺跡と東奈良遺跡をごっちゃにしているので、余計ややこしくしてしまったようで読者の方々に申し訳なく思っています。

第七章までで本論の「奴国論」を終えて、第八章の「もうひとつの奴国」にはいいて、気が緩んだ結果だろうと反省しています。第2刷を出すような事態になりましたら、二つ目の奴国については書き改めなければならないと思っています。とりあえずの自分の記事の検証結果を報告しておきます。

AD
2014-11-12 19:51:47

忙しい5日間でした 26.11.12

テーマ:ブログ

●古田先生の古代史セミナーに参加してきました。先生は予想以上にお元気でした。


八王子セミナー風景 百人を超える聴講生でした

先生のお話の資料が配布されていたのですが、その最後のページに、『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』のPRを入れてくださっていました。


古田先生手書きのPR 古田先生手書きのPRコピイ


おかげさまで予定以上の販売成績となりました。


●次の日は、大昔のテニス仲間と、日本でのテニスクラブ発祥の地とされる横浜の山手テニスクラブで何年振りかにラケットを握りました。

30分ほどの肩慣らしではとても勘は戻らず、むしろ手足の疲労が先に来てしまいました。お年寄りのペアにお手合わせをねがいましたが、6-2、次のセットも6-4で負け、もう一つやれば何とか勝てるのでは、と友に言われましたが、とても体力が続かず、シャワー室に逃げ込みました。


日本庭球発祥の地 日本庭球発祥の地の額がクラブハウス内に掲げられていました。

そのあと、中華街に繰り出し、高校の同期生6人での同窓会となりました。飛び入りで、座間市に間借りしている孫のH君が来てくれました。帰りは彼のところに泊めてもらうことにしていましたので、安心して盃を汲みかわすことができました。


●H君が学んでいるT工大を案内してもらい、5日ぶりに帰宅したら、来週にせまった中学同期の傘寿の会についてのメールや参加不参加の連絡はがきなどの整理でバタバタさせられています。幹事役を買って出たので自業自得ですが。


●留守中にAmazonに注文していた内藤湖南の『日本文化史研究』が届いていました。読み始めていますが、北畠親房みたいにむき出しではありませんが、その皇国史観というものを見せられる記述が多く、あらためて驚かされています。


AD
2014-11-03 19:58:11

北畠親房の皇国史観に改めて驚く 26.11.03

テーマ:ブログ

●早くも11月、喪中につき云々のはがきが舞い込みはじめ、年の終りが近いことを知らせてくれます。


●10月は6度もグリーンに出て、11月1日にも行きましたので、ちょっと入れ込みすぎたようです。1日のゴルフは前の会社の懇親会で、玉名の立願寺温泉に1泊でした。

4,5年前には80台前半で回われていましたが、シニアティを使わせてもらっても、とても昔日の面影のかけらも残っていませんでした。


懇親会で昔話と温泉と、おいしい料理とお酒で、四人相部屋でも気持ちよく眠れました。(自分のいびきは聞こえないのですから、他の三人はどうだったかなあ)

帰りに、山鹿の露天みたいなお店で1個百円の太秋柿、南関では道の駅的なところで、あげ豆腐のかけらを集めた特価1袋160円の南関あげ、山川では民家の軒先の無人スタンドで15個ほど入った1袋200山川みかんなどを、値段の安さについ数多く求め、家人へのお土産にしては多すぎる品々を満載して無事に帰宅しました。


●本居宣長の『馭戎慨言』を読んだついでに、北畠親房の『神皇正統記』での日本通史を読んでみています。

最初に、日本は他の国と違う神の国だ、ということで始まります。今のヘイトスピーチにつながる、というか淵源があるのかなあ、など思いながら読んでいます。


出だしの文章は、、【大日本者〈は〉神国也。天祖〈あまつみおや〉はじめて基〈もとい〉をひらき、日の神ながく統を伝え給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国といふなり。】です。皇国史観そのものですね。


AD
2014-10-27 18:19:12

『馭戎慨言』のタリシヒコ 26.10.27

テーマ:ブログ

●老祖父母を学業の合間に慰めに来てくれたH君も昨日帰京しました。わが奥様曰く、「孫は来て良し帰って良しというけれど、もっと居て欲しかった」と嘆いていました。

この5日間、結果として外食が多く、車で出かけるので、運転係寅七としては、休肝日の連続となりました。わが奥様の述懐は、H君がもっと長く居れば、寅七の肝臓が健康でいれるのに、という意味だったのかもしれません。


●来月の古田先生の八王子セミナーで、『奴国が分かれば「邪馬台国」が見える』をセミナー会場で宣伝販売をさせていただきたい、とお願いしましたら、「是非どうぞ」とおっしゃっていただけました。

とらぬ狸の胸算用ではありませんが、どれほど本を担いで行くか思案のしどころです。3年前の『鏡皇女物語』は30部完売でしたが。


●坂本太郎先生が晩年に、『隋書』と日本書紀』の記述の食い違いについて、本居宣長の『馭戎慨言』の立場に変わる、と言っていたので、『馭戎慨言』を読んでみました。


まとめてみますと次のように言えると思います。


本居宣長は、開皇二十年の遣使は、大和朝廷からの遣使ではなく、昔、卑弥呼を名乗って偽王として通交した、日本列島西端の者の仕業、としています。


その後の、『日本書紀』に記載のある遣使は大和朝廷(聖徳太子)の遣使とします。


アメのタリシヒコと名乗ったのは、その日本の西端の豪族、という解釈です。



しかし、流石の本居宣長氏も、『隋書』の最後のフレーズ、「この後遂に絶つ」については、何も解説されていません。ひっくるめて「でたらめの多い中国史書」ということで片づけられているのは、現代の詭弁史家に通じる弁証法といえるでしょう。


●本居宣長まで折角遡上ったので、北畠親房『神皇正統記』にまで手を伸ばしてみなければならないかなあ、と思っています。Amazonに安い本があるかなあ。


2014-10-23 05:28:34

人間フィルター?26.10.23

テーマ:ブログ

●先日19日マラソン大会が北京で行われていました。当日の北京はPM2.5が400μgということで、TVでは、白い靄がかかっている中を、選手たちはマスクをしたりしなかったりで走っていました。

一回の呼吸で500ml,一分間の呼吸数25回、参加者3万人、参加時間は準備及び帰宅時間を含め延べ6時間、とした場合、PM2.5という有害物質を54グラム人間フィルターで除去したことになる、などつまらぬ計算をしました。

北京市民は2000万を超すそうですから、巨大なフィルターとして貢献している面もあるのかなあ ?


●昨日から、学業の合間に時間ができた、と孫H君が老夫妻の慰問に来てくれました。

バドミントンの相手がいないことは分かっていても、素振りだけでもしたいとラケットは持参してきたものの手持ち無沙汰のようです。

回転すし屋から帰ってきて、祖母の要望に答えてプレステ2を使えるようにしてくれ、テトリスとかマージャンゲームに興じていました。

●『隋書』俀国伝の最後のフレーズ「此の後遂に絶つ」について解説している史家はあまりいないのですが、さすが井上光貞先生は書かれています。(『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫2004年7月 本書は1974年に小学館より刊行された『日本の歴史』第3巻を底本とし補章を補いました、とあります)


【隋の煬帝が、高句麗征討の本格的準備にとりかかったのは、推古朝の一八年にあたる六一〇年のことである。

煬帝は六一二年、二〇〇万の大軍を発動し、みずからも遼河をわたったのである。高句麗の守りは堅く半年にして軍を退いた。煬帝は翌六一三年、再び兵を発し、帝みずからも遼河の東にいたった。しかしこのときも隋軍が各地に敗れたのみでなく、諸所に反乱がおこり、洛陽も包囲されるありさまであった。しかし煬帝は、さらに翌六一四年の二月、群臣の反対をおしきって三たび遠征を開始した。しかし、国内の反乱は拡大し、動員も意のままにすすまなかったが、七月、高句麗もまた疲弊して降を請うたのを機に、遠征軍を引いた。

『 書紀』によると推古二二年(六一四年)の六月、日本は犬上君御田鋤〈いぬがみのきみみたすき〉と矢田部造〈やたべのみやっこ〉を遣隋使として隋に送った。これは煬帝が第二次遠征の詔を下してのち四カ月あとのことである。日本はその詔を知っていたかどうかはわからないが、すでに三年に及んだ隋の大遠征を知らぬ筈はなく、それに係わる何らかの意図をもって使節を送ったのであろう。

御田鋤が隋都に到着したのは、行路に五カ月を要したとして、その年の末のことであったろう。このときは煬帝が第三次遠征に失敗した後のことで、都の周辺にも反乱が猖獗をきわめ、朝廷の内部にも離反者が続出していた。したがって御田鋤が果たして隋都について使命を果たしたかどうかは疑わしいところがある。

『隋書』が小野妹子の第二次発遣を記したあとに、「此の後遂に絶つ」とあるのは、妹子は隋都に着いたが、御田鋤は着かなかった証拠ではなかろうか】と解説されています。


これは苦しい解釈でしょう。『隋書』が「此の後、遂に絶つ」と記すのは、俀国が中国との関係を全面的に絶った、という意味でしょう。

「此の後」とはその前の記事、「裵世清が多利思北孤王の国を訪問帰国した後」でしょう。

これは608年のことです。井上先生は、御田鋤の遣使が614年のことだから、着いていれば、この「遂に絶つ」という記事にはならなかった筈、とおっしゃりたいようです。


しかし、「遂に絶つ」た筈の倭国が、『隋書』帝紀には、「大業六年(610年)春正月に倭国が遣使し方物を貢じた」という記事があります。『日本書紀』にはこの遣使の記事はありません。

倭国は隋との国交を「遂に絶つ」てはいないのです。井上先生は、この矛盾については無言です。


2014-10-17 17:20:19

坂本太郎氏の変説はどうなった?26.10.17

テーマ:ブログ

●三度目も幸運が舞い込みました。高校同窓の傘寿祝いのゴルフコンペで、ダブルペリアによるハンディキャップ戦としましたら、又もや優勝が転がりこんできました。実力的には負けていたのですが、運に恵まれました。

天気も絶好で好スコアが出る筈なのに、なぜこんなにパットが入らないの、と悔みながらのゴルフでした。まあ、久しぶりにどら根をゲットできましたし、夕方から山鹿温泉で、バスハイク組と合流してのの40名の大傘寿祝宴会では、威張ってゴルフの組で優勝できましたという挨拶ができました。


●かなりの級友に『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を献呈していたので、宴席でも古代史の話題がかなりでました。

わざわざ、自分出版した本や、お礼の焼酎などをいただいたりで帰りには荷物もかなり増えました。級友はありがたいものです。


●最近Amazonから届いた、坂本太郎氏の『聖徳太子』を読んでいたら、次のような文章に行きあたって驚きました。


【(第一回の遣隋使とされる)隋との関係については特に詳しい記事を残している『日本書紀』に全く記載のないことと、使者の言の内容とから考えて、私は推古八年の隋への使者を朝廷の使者と見ないのであるが、今一つこれを支持するものは、八年という時点である。この時は朝廷が新羅征討の大軍を半島に派遣している時である。この国家多事の際に、隋への国交というような新局面を開く余裕をもち得たかどうか、甚だ疑問である。おそらくは新羅出兵で動員された九州豪族のうちのひとりが、そのどさくさのまぎれに私の使人を送ったと見る方に可能性がありそうではないか。(中略)


この考えは四十年前の旧著『大化改新の研究』、二十年前の著書『日本全史』2、古代Iに述べた所とは全く反対の説である。旧著では『馭戎慨言』を否定する立場をとったが、今は逆にその説に従う心境となった。私はこの変説を正直に告白しなければならない。


この本は坂本先生の78才の時の著述です。世の中はもう井上先生一色になっていたのでしょうか、この坂本変説にフォローしたお弟子さんは見えないようです。

2014-10-13 08:47:20

「柿球肥(かきぎゅうひ)」の到来 26.10.13

テーマ:ブログ

●先日の昔の仲間、といっても現役で活躍しているゴルフ好き、と一戦しました。レギュラーティでやろうというので、このところダブルペリアほうしきのハンディ戦で味をしめているので、チョコはダブルペリアで、という案が採用されました。

結果は、グロスではビリなのに、ネットではトップでした。チョコの大漁でダブルペリアさまさまでした。明後日の高校同窓の傘寿祝い記念ゴルフも、ダブルペリアルールで行うことにしています。3度もうまくいくかなあ?


●三連休なのに台風接近のニュースでなんだか落ち着きません。もう太秋柿も出ているのではないか、台風で落果するかもしれないから、台風前に買えるものなら買っておこう、熊本が太秋柿の本場だけれど、台風の足が速まったらやばいから、と近くの朝倉方面に向かうことにしました。

朝倉の三連水車の道の駅では太秋柿は出ていません。浮羽の道の駅に行ってみるとちゃんと売り場に箱が山積されていて、無駄足でなかったことに安心しました。味は上々でした。


●おまけに宅配便で熊本銘菓「柿球肥(かきぎゅうひ)」が到来しました。寅七も熊本育ちなのにかって味わったことのない高級なお菓子です。

献呈した本のお礼ということですが、つり合いがとれない、申し訳ない、明後日の傘寿祝いの会で会える筈だからお礼を言うのを忘れないようにしなければ、と思いつつ、つい三枚も口にしてしまいました。


●ゴルフに行くときのラジオで時々歴史上の事件を、加来耕三という方が解説しています。ネットで検索したら、『日本史「常識」はウソだらけ』祥伝社黄金文庫が99円だったので注文していたのが着きました。

最初の常識のウソは「聖徳太子は摂政になっていない」ということでした。

『日本書紀』の記事を詳しく読めば、「摂政」という役職があったわけでなく、摂政という語はあるが、「摂政」という役職ではなく、よく相談して物事を決めなさい、という程度のものであった。「摂政という役職に聖徳太子が就いたという常識はウソ」、ということでした。

そんなことよりも、聖徳太子は多利思北(比)孤である、という常識のウソを取り上げるべきではないか、とおもいました。総じてこの加来さんの常識のウソはインパクトが弱い感じです。


●まだ台風は到来しません。勅金のニュースでは、どうやら東に若干ずれて、わが棲家あたりは直撃はされないようです。

2014-10-07 04:28:08

『三国志』は一つの書物なのかな 26.10.07

テーマ:ブログ

●久しぶりに大学同学科同窓会のゴルフコンペに参加しました。若い人も多いゴルフコンペです。ウイークエンドに行われ、安い平日ゴルフに慣れている年配者には敬遠されているようです。今回も75歳以上は2人で次は12歳若い卒業年次組でした。まあ、本の販売促進を同窓に頼ろうという下心もあっての参加ではあったのですが。


台風の先触れで結構風が強かったのですが、シニアティを使わせてもらったので、まあまあのスコアで上がれました。上がりのホールが380ヤードと割に長かったのですが、なんとかボギーオンできたのですが、最後の20cmパットがカップの縁を一回りして入ってくれませんでした。あーツイていないなあ、とぼやいて上がったのです。

ところがダブペリアでハンディを決めるルールで、最後のホールが隠しホールの一つであったようです。一つ余計打ったのがハンディを0.2余計貰える結果となり、二位にネット0.2差で私に優勝が転がり込んでくれました。

「優勝の挨拶」というおしゃべりの時間が図らずももらえましたので、振り込み用紙を付けて宣伝チラシを配布し『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える」の宣伝ができました。


●『三国志』という書物の中で、なぜ『魏書』は短里で『蜀書』は長里なのか、という問題を論理的にどのように説明できるのか、という議論を古代史仲間から吹きかけられ、自分の勉強のためにも、と思いまとめてみたのです。その論理の骨子は、


・『三国志』は一つの書物としての体裁をとっていないことは序文がないことが一つの傍証である。

・『魏書』は当然魏朝の度量衡単位で書かれているはず。その里の長さは、漢の里の長さでは、例えば「韓国は方四千里」というとてつもない大きな国になってしまう。短里という概念を導入して初めて理解できる。

・ということは、魏朝は韓の里よりも短い里を使っていた証明になる。

・蜀は、漢の里をそのまま使っていたので、陳寿はその通りに書いた。

・陳寿がそのような使い分けの説明をしていないこと自体、『三国志』が一つの書物として出来上がったものではないことの傍証でもあろう。


とまあこのような説明になったのですが、あくまでも推論の域を出ていませんので説得力には欠けるようです。


●「しらぬひ筑紫の綿は身につけて いまだは着ねど暖たけく見ゆ」の万葉集にうたわれている綿は、綿花でなく繭から作った真綿のことだ、という説がある。これははたして正しいのか、ということについて意見を読者の方から求められました。

『鏡皇女物語』で、筑紫では7世紀にすでに綿花栽培がおこなわれていたように書いていたからです。


通説では室町時代以降に綿花栽培ははじまった、とされています。

『日本後紀』延暦18年(799)に、三河国にインド人が漂着し、彼が持っていた綿の種を栽培した、という記事があります。

インドで紀元前2000年には栽培されていた綿花が我が国に到来したのは、その三河の一件だけではあるまい、と小説だから筑紫で7世紀には栽培されていた、としてもまあこれくらいいいか、と理屈付けをしたのですが、ちょっと強引過ぎたかな、とも思っています。


●台風18号が通り過ぎて秋らしくなりました。昔の仲間に誘われて今日もコースに出かけます。


2014-10-01 08:59:37

アラがゾロゾロ 竹田恒㤗氏 26.10.01

テーマ:ブログ

●先日から危ぶまれていた、昔から家族ぐるみで付き合いのあったN氏が亡くなり、昨夜通夜が営まれました。

腎臓病患者の社会復帰のために尽くしてきたN氏はあまり健康的とはいえない生活者の寅七よりも一つ若いにもかかわらず彼岸へ先立ちました。

お通夜には、北九州ではかなり大きな会場でしたが入りきれない参列者の波でした。花も200基以上あったかと思われました。花よりも、とノリキオ画白が描いてくれた絵を斎場に飾ってもらいました。

今日はお葬式でもうすぐ出かけなければなりません。


●先回の続きです。多利思北孤王の最初の遣使について、竹田恒泰氏は次のように書きます。

  【推古八年の遣隋使は『日本書紀』には記されていない。『日本書紀』の編集者は『隋書』を参照しているのだからこの『隋書』の記事を知らないはずはない。意識的に記述しなかったものと思われる。

  『隋書』によると、倭からの使者は「倭王は天を兄とし、日を弟とする」などと語り、隋の皇帝は「はなはだ義理がない」と軽くあしらったという。使者が無冠だったことも一つの原因だと考えられる。当時、倭には位階の制度がなかった。

  そこで推古十一年(六〇三)、聖徳太子により冠位十二階が制定され、わが国において個人を功労によって昇進させる制度がはじめて成立した。】


しかしこの『隋書』の記事の紹介は甚だ不完全です。


① 天を兄として云々の後に、「王の妻は雞弥と号する。後宮に女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利となす。」と続いているのですけれど、なぜか竹田さんはこの肝心の当時の天皇の係累を示す貴重な資料を取り上げていません。


② この竹田さんの説明では、使者に冠位が無かった、という説明ですが、「太子を利歌弥多弗利となす。」に続いて、【内官に十二等ある。大徳、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数はない。軍尼一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如きである。十伊尼翼は一軍尼に属す。】とあり、俀国には冠位もあり官僚組織も備わっていたと見られるのです。


隋との国交開始で冠位制度が整えられ、その後の説明が『隋書』の【内官に十二等云々】の記事になったと竹田さんは仰りたいのかもしれません。


しかし、小野妹子が持参した国書と竹田さんが云う「日出づる処の天子云々」の事件の前に、この「内官十二等」の記事があるのですから、どう考えても俀国に冠位制度がなかったというのは無理筋で、『日本書紀』の冠位制度創設の記事に合わせるための、強弁的説明です。


③竹田恒泰氏は次のように天皇の姓について述べます。

  【中国から冊封を受ける国の王は、中国皇帝から姓を与えられる。倭の大王もかって「倭」という姓を与えられていたとみられる。倭は律令国家を成立させる過程で中国の制度を積極的に取り入れていくも、倭が冊封体制を抜け出したことにより、大王は自ら姓をもたず、氏姓を与える存在になった。そして現在に至るまで天皇家には姓がない。】と。


しかし、『隋書』には、俀王多利思北孤は「姓は阿毎」と記しています。素直に読めば、俀王は「アメ」又は「アマイ」という姓があったということになります。それなのに「天皇には姓がない」という結論と結び付くのでしょうか。

【倭(やまと)は中国から貰った姓だから、中国の冊封体制を抜けた以降は姓がない】、と竹田さんがいうことは、日本側の記録を観ると???です。『日本書紀』『続日本紀』には連綿として、「天・倭・日本(やまと)」という和風謚号が用いられていることについて、天皇家の末裔に繋がる竹田さんはどう説明できるのでしょうか。


天皇家と多利思北孤王とは関係が無い、とか、『隋書』にある「姓」は名字であり、天皇の姓は「カバネ」の意味である、などなにかの説明をされる必要があるでしょう。


[和風謚号](皇極天皇以降)

皇極(天豊財重日足姫)、孝徳(天万豊日)、天智(天命開別)、天武(天渟中原瀛真人)、持統(大倭根子天之廣野日女尊)、文武(倭根子豊祖父)、元明(日本根子天津御代豊国成姫)・・・以下日本根子・・・、天・・・の和風謚号が続く。


ともかく、竹田恒泰氏の論述は、ちょっと調べるとアラがゾロゾロと出てきます。『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』の方は大丈夫か、といわれそうですが。

2014-09-26 19:33:30

竹田恒㤗氏の天皇の歴史観 26.09.27

テーマ:ブログ

●やっと秋らしい聞こうとなりました。台風16号も温帯低気圧に衰弱し、ということで木曜日は、強風高潮注意違法は出ていましたが、ゴルフ可能の日和になってくれました。

火曜日の3クラブ対抗では最後に11打を打つ大崩れを演じましたが、今日はその轍を踏むまい、と心してのスタートでした。

が、やはり体力不足なのでしょう、最終ホール、ここまでティーショットに大きな乱れはなかったのですが、左ドッグレッグに合わせる形のドロースイングは不得意なのに、ついドローボール陽のスイングになってしまい、ボールは初OBとなり林に消えました。

狙ったベスグロ優勝は逃しましたが、準優勝で賞品に、孫娘に送ってやれる立派なケーキを貰えました。


●まだまだ、本についての礼状を書かなければならない先が残っています。このところ恒例になった朝の仕事です。

いろいろな本、ご自身の著作やペーパー、また、自分が気に入った本を読むようにと勧めて下さったり、はたまた、ご自分の邪馬台国論を文章にまとめ開陳される方など、返信するにも目を通さなければならず、結構一通の礼状書くにも手間取ります。まあ時間はありますけれど。


●本業の古代史本批評の方まで手が回りません。武光誠氏の本の批評も中途半端になっています。

たかじんのそこまで言って委員会のメンバーとしてマスコミに注目される発言をしている、竹田恒㤗氏が古代史に着いてかなりの本を出しています。

古事記についてもかなり面白い見かたをしていて、批評の食指は動いたのですが、竹田さんの基本が不確かのようですので、見送っていました。

しかし、復古調の世の中に水を得たのか、『旧皇族が語る天皇の日本史』という本を出されるようにまでなりました。

日本古代史の大きな謎、「多利思北孤王は何天皇なのか」について、旧皇族は自分の祖先の謎にどう迫っているのか、どのように理解しているのか、興味を持って読んでみているところです。

[PR]気になるキーワード

1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>