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2015-04-27 11:41:56

榊原英夫氏の邪馬台国論の優れているところは 27.04.27

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●昨日の日曜日は「初夏」そのものの素晴らしい日和りでした。

病院関係もお休みだし、病院通いばっかりでめっきり出不精になった家内をつれて菊池まで出かけてきました。ひと月まえに花見に行った時と同じルートで回りました。


その時は平日で休んでいる売店や食事どころも多かったのですが、今回はどこも人であふれていました。

コッコファームのレストランは1時間待ちでした。弁当を買って施設内の休憩所でたべるのにも場所の確保が難しいくらいでした。

菊池公園では「きくちマルシェ」というイベントがあり沢山の屋台が出ていました。コシアブラなどのてんぷらも試食したりし、足湯も楽しめました。

相良観音の「とびかずら」の花も観賞でき、JA鹿本ではスイカの試食もできました。


相良のトビかズラ トビカズラの花房

古墳館では藤祭りで見事な藤棚ができていました。南関のいきいき村物産館で「南関あげ」が安く買えたと、他愛ないことに喜んだりして、一日が無事に終わりました。


●このところ、『邪馬台国への途』の感想を連発しています。この本の優れた所を探してみました。
今までのところ、この本についていくつか問題点について意見を述べてきましたがs、どちらかというと批判的な意見でした。今までの邪馬台国論に比べて優れているところはないかと探してみました。


倭人伝に書かれている「里」は1里が80mという短いものであった、というのは、著者があげる陳寿の思惑の妥当性はともかく、実質的な適合性と言う意味で評価できます。


また、倭人伝の行路記事は、距離と日程の両建てというのも評価できます。ただ、投馬国への行路記事の取り上げ方には問題があると思いますが。


倭人伝には、不弥国のあとに、「南至水行二十日云々」とあり、その後に「南至邪馬壹国女王所都水行十日陸行一月云々」とあります。

この投馬国への行路は、全体の行路記事の流れから、不弥国から投馬国への行路と思われます。著者は「南至投馬国・・・」、「南至邪馬壹国・・・」の二つの記事を、共に「帯方郡治からの日程記事」とされています。


この行路記事は、邪馬壹国への行路記事ですから、投馬国への行路記事が邪馬壹国への記述より後にあれば、著者の考えの通りかもしれませんんが、実際は逆です。
なぜ、それでも帯方郡からの直行記事だと主張されるのか、そのあたりの説明が欲しかったのですが。


尚、著者は、「東夷伝から邪馬台国のありかを探そう」と言われています。その東夷伝で述べられている各国の国名記事や風俗記事などを、陸行をせずに沿岸行路で寄港地で得た情報で書けたとは到底思えません(半島東海岸の情報も満載ですし)。

話は別ですが、博多の古名の儺津(那津)〈なのつ〉が、倭人伝にある「奴国」を「なこく」と読んで、博多=奴国とするのは間違いだとされます。
「はかた」の語源についての榊原氏は中島利一郎という大正時代の研究者が発表したの説を紹介しています。
その説は「そうかも」と思わせるところがありました。

「穴」は、海峡・港湾を意味する語であったという論証から始まります。
例えば、山口県に長門〈ながと〉という地名があります。戦艦の代表名称みたいになっていた長門です。古名は穴門〈あなと〉といわれていました。
後年、あなと→ながと と転じた。博多は「穴津〈あなつ〉とよばれていて、「あなつ」→「なのつ」〈儺津〉となった。奴国の読みが「なこく」であるから奴国=博多ではない、奴国は「ぬこく」であって室見川流域にあった国、というわけです。


ただ、だとすれば、どこにもここにも「穴津、穴門」がありえたわけです。

なぜ「博多が穴津」、「長州の長門が穴門」という固有地名となって残ったのか、という論証が、付近の地形などからの検証というか論証が必要と思われますが。

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2015-04-25 20:38:05

榊原英夫氏のとんでもない陸行十日説 27.04.25

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●高校の同期会の予定日に4週を切ったので、Tカントリークラブに連絡を入れなければ、と思っていたところに、夫婦で参加の申し込みがありました。

昨年の例会での参加者数は17名でしたので、これで昨年と同数になりご同慶の至りではあります。


5組予約していたのですが、15名の参加希望で、1組減らす連絡をしようと思っていたところでした。

17名で、一応5組の人数は確保できました。あと20日あまりですが、体調不良その他で欠席が出ることも予想して予算も組んでおかなければ、など頭は体調悪い家人のことよりその方に向いていて申し訳なく思っていますが、・・・。


●太宰府が、古代の西の都で東アジアとの交流拠点だったと文化庁から日本遺産に認定された、とマスコミが伝えています。

朝日新聞では、遣唐使の見聞により、唐の都を手本に造られたとか、平城京と同じ時期に造られた、とかいうのが評価されたのでしょうと市の説明だ、と伝えていました。

地域起こしのタネとして、観光客呼び込みのCMのキャッチフレーズに使われるのでしょう。


世人の注目を集めさせるのは結構ですが、、宮崎県高千穂の神話の里みたいに、太宰府の歴史認識がこのまま固定化することにならねば良いが、と危惧の念が起こります。


●伊都国歴史博物館榊原館長の『邪馬台国への途』を読んで、の6回目の感想文です。


倭人伝の行路記事で著者は、朝鮮半島西海岸全水行行路としていることの道理に合わないことについては前に述べました。

この『邪馬台国への途』は、韓国経由を水行行路と間違って取っているので、行路日程記事の陸行日数の解説に無理が来ています。
倭人伝の行路日程は、帯方郡から邪馬壹国まで「水行十日陸行一月」としています。
著者は、「魏使の陸行日程(想定)表」を掲げて、次のような想定が述べられています。

①帯方郡治→海冥県 約60km 20km/日で 計 3日
②沿岸の寄港7回(1日/回)プラス渡海出航地待機3回、2日/回 で計 13日
③対馬、壱岐の島横断それぞれ1日 計 2日
④末蘆国→邪馬壹国の陸行 80km 約4日
⑤経由各国邑での滞在日数 
伊都国4、対馬・壱岐・末盧・奴国で各1日 計8日

以上で30日とされます。

陸行の日程に、このように説明されますと困惑してしまいます。②の、海路で行っているとしているのに、「水行十日」には加えず、その寄港地での待機日数は「陸行」に加えたり、各国での滞在日数を陸路の所要日数に加えたり、⑤の、伊都国は重要な所だから4日滞在したり、と正に「恣意的」そのものです。


この本は、伊都国歴史資料館の館長講話を基にして、出来たということですが、このような話を聞かされた受講者の方々には気の毒ささえ感じられます。

著者の想定通りに20km/日で陸行したとすれば、①の3日 + ③の2日、④の4日の、合計9日となりとても一月になりません。

著者が自説を通したいのであれば、倭人伝の原文「水行十日陸行一月」を、「水行一月陸行十日」の間違い説を主張すべきではなかったか、と思います。


古田説の韓国内は陸行として、著者の20km/日で陸行、という想定で計算してみます。

韓国の行程7000里x80m/里=560km 海冥県までの水行60kmを引くと 残り500kmとなります。
20km/日としていますから、500km÷20km/日=25日となります。
これですと、①③④の計9日と合わせて、陸行は合計34日となります。

一日の陸行距離を20kmと著者は想定していますが、江戸時代の旅人は1日8~10里歩いたそうです。32~40kmです。魏使という中国のオエライサンですから、そこまではみなくてその8割方25km/日としますと、上記の計算では計 29日となり、倭人伝の記事「陸行一月」とほぼ合致します。


まあ、一日どれ位歩くかの想定によって変わってくるわけですから、寅七の計算結果が絶対とは言えませんが、榊原説よりもはるかにまともだろうと自賛しています。





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2015-04-22 14:27:01

春香到来と目多利思比孤 27.04.22

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●春の香りの到来二題

その1 オーストリアで暮らしている姪っ子から珍しく便りとともに、ザルツブルグの香りを送ってくれました。

ブルーメ+ドュフト社製の小さめのかわいいリースですが、包装をほどくと花の香り・木の実、スパイスの香りがいっぱい拡がりました。


ブルーメ+ドュフト社製 大皿の上にのせてみました

その2 山歩塾の塾長さんが背振山の山歩きついでに採集したお裾分けを送ってくださいました。

たくさんのコシアブラの芽とヤマウドです。

てんぷらがおいしいそうですが、量が多いので二人で食するのは大変だなあ、と思いましたが、ネットで検索したら、てんぷらにして冷凍しておくと、いつも春の香りが楽しめる、とありましたので安心しました。

今夜のビールの味は格別でしょう、きっと。


コシアブラとヤマウド 春の珍味コシアブラ(左)とヤマウド(右)


●目多利思比孤について


日中歴史共同研究の中国側論文を読んでいて思ったのは、彼らは、史書間で語に齟齬がある場合、後代に書かれたものの方が正しい、としているようです。

例えば、『魏志』の「邪馬壹国」→『後漢書』の「邪馬臺台国」、『隋書』の「俀国」→『北史』の「倭国」、『旧唐書』の「高表仁・倭国日本伝」→『新唐書』の「高仁表・(東夷伝)日本」というように。


ところが、『旧唐書』にある「多利思北孤」は、『新唐書』では「目多利思比孤」となっていますが、問題の「目」については何も触れずに「北」を「比」に改めて「多利思比孤」としています。つまり、現代の中国人学者にも解けない謎であるということだけは分かりました。


気になっていたこの『新唐書』の目多利思比孤について調べてみました。

学研漢和大辞典で調べたら、「国司の四等官主典〈さかん〉」というのもありました。

中国の辞書『辞海』に当ったら、「目=頭目」と出ていました。目多利思比孤=「多利思比孤の部将」という意味にとれるようです。


古田先生はもっと高級な辞書をお持ちのようで、「歴史ビッグバン」(『新古代学第3集』)というタイトルのお話のなかに【「目」には「かしら」、「支配するもの」「長官」の意義がある】とありました。

今度図書館で白川静先生の本でも当ってみましょう。昨日は、中国の簡体字の辞書を字引ひきひきの一日でしたので、ほっと一息つけました。


しかし、まだ疑問が残っています。何故用明天皇のところに「目多利思比孤」と入っているのか、ということです。
それにもうひとつ。古田先生は『新唐書』は『隋書』と『南史』を参考にして書かれている云々とされていました。

そこで、あれっタリシヒコが出ているのは『北史』ではなかったのかなあ、と『南史』の倭国のところを調べてみましたが、多利思比孤は出ていません。


タリシホコ問題は隋、つまり北朝での出来事ですから出ていなくても当然でしょう。先生は『北史』と間違えられたのかなぁ、どなたか教えて頂けませんか、『南史』全体を改めてチェックするのは大変ですので。

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2015-04-21 08:54:33

榊原氏の朝鮮半島西海岸水行説について(再) 27.4.21

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●一昨日所属クラブでのプライベートコンペで、同伴者のプレーで珍しい事故を目にしました。K氏が打った第二打がトップして地を這うような打球となりましたが途中で何かに当たったような音がしました。

「キャディさんカラスが死んどる」とK氏が大声を上げます。みなが集まってみると確かに瀕死状態のカラスがバンカーに横たわっています。


打球に当たったカラス

キャディさんがキャディマスター室に電話して回収を頼みました。

バンカーに置いておいたら後続のプレイヤーに迷惑だろうと、寅七がクラブでそっと持ち上げて茂みに寝かせましたら、目玉だけはキョトキョトしていていました。

1時間後ハウスに戻ってカラスのことを聞いたら、回収に行ったときにはもういなかった、ということでした。野生の生き物は強いものだなあ、とは最近体力の衰えを感じている寅七の感想でした。



●伊都国歴史博物館榊原館長の著作『邪馬台国への途』で、魏使は朝鮮半島西海岸を船で行ったとされるのに前々回のブログで疑問を投げかけました。

すこし言い足りなかったので補足しておきます。


「倭人伝」にある行路記事の「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」、この24文字の情報の解釈で、魏使が韓国をどのように通ったのかが邪馬台国探しではよく議論されています。


このうちの「乍南乍東」という言葉は一般にはあまり見なれないので、その解釈にはいろいろあるようですが、「たちまち南し、たちまち東し」説(古田武彦・佐伯有清・藤堂明保)や、「あるいは南し、あるいは東し」説(岩波文庫・安本美典)など取っています。「あるいは南し、あるいは東し」と読む根拠については、文献での使用例など挙げておられませんのではっきりしませんが、著者は後者をとっています。

それよりも理解しがたいのは、従郡至倭循海岸水行歴韓国の部分です。
著者は「郡より倭に至るには、海岸に循〈したが〉いて水行し、韓国を歴〈へ〉て乍〈あるい〉は南し、乍〈あるい〉は東し・・・・」と訳します。


この文章は文法的におかしいと思われます、日本語になっていないと寅七には思われます。
韓国を歴て・・・というのですから、韓国をすでに通り過ぎて、それから乍南乍東しながら・・・という意味に取れます。南に行ったり東に行ったりして水行した、とは取れないのです。


ここは、「郡より倭に至るには、海岸に循〈したが〉いて水行し、韓国を歴〈ふ〉るに乍〈たちまち〉南し、乍〈たちまち〉東し・・・・」と訳している『「邪馬台国」はなかった』での古田武彦氏の読み方が文法的・文脈的にも適った文章となっています。


知識豊かで理性的であると思われる著者がなぜこのような無理な訳文をつけたのかなあ、と考えあぐんで、たまたま藤堂明保『倭国伝』を開いたら、榊原さんと同じ訳文がありました。ああそうだったのか、という次第です。


朝鮮半島の韓国西海岸は、地図をみてすぐわかるように、その形状からして南へ行ったり東へ行ったりだけでは行けないのです。時には西に行かなければならないことも多い地形なのです。


朝鮮半島水行ルート 乍南ー乍西の行路も必要の図

朝鮮半島南部は高山もなく陸を行くことは十分可能と思われます。古代から朝鮮半島内部では多くの戦争の記録も残っていますし、陸路はあったのは間違いないでしょう。

地形から古代史を読み解く、竹村公太郎氏の意見をお聞きしたいところです。

2015-04-19 05:13:44

榊原氏の『邪馬台国への途』での表音表記 27.04.19

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●口が異様に渇くと家人が言うので、一昨日かかりつけの内科医さんから紹介状をいただいて大学病院まで運転手として出かけました。

口腔外科というまあ特殊な部門なのでそれほど患者さんも多くないのでは、と思ったのですが、どうしてどうして11時に行って約3時間以上待ち、午後3時に検査が終わりました。

検査の結果は月末ですが、今度は分厚い本を持っていかなければならないかなあ、まあ、今回は初診だったので、予約の患者さんが済んでから、ということで時間がかかったのだとは思いますが。

それにしても当日の大学病院全体の外来予約患者数が2500を超えているというのにはびっくりです。


●榊原氏の『邪馬台国への途』の批評の今回は、表音文字の読みのことです。


著者は、『魏志』東夷伝から邪馬台国探しをする、と言われています。その手がかりとして表音文字は中古音で読むとして、奴国は「コク」、「邪馬国」は「コク」、「狗奴国」は「コノコク」と読まれています。
つまり「奴=」、「馬=」、「狗=」とされます。その読み方は著者の見識ですからとやかく言うつもりは今のところありません。
ところが著書を詳しく読みますと、その読み方が行われているのは「倭人伝」だけで、他の東夷の国々での文字の読みはなぜかバラバラなのです。

『魏志』という一つの書物の中での表音文字の読み方は一つである筈です。
著者が「東夷伝」全文を振り仮名付きで紹介しています。その中での「奴」についてみてみますと、涓奴部〈ケンブ〉、絶奴部〈ゼツブ〉。灌奴部〈カンブ〉、弁辰楽奴部〈ベンシンダクブ〉と国の名前の「奴」は「」とされます。

表音文字として使われている例ではありませんが、「奴僕〈ボク〉」、「奴婢〈ヒ〉」などのルビもあります。「奴」は「」と著者は使っています。


「馬」についてはどうでしょうか。倭人伝では「馬=マ」ですが、他の東夷伝の国々では、馬韓〈カン〉、馬加〈カ〉、乾馬国〈カンコク〉、弁辰彌烏邪馬国〈ベンシンミウヤコク〉、弁辰走漕馬国〈ベンシンソウソウコク〉、馬延国〈エンコク〉など「」と「」が混在しています。


「狗」についても混乱しています。倭人伝では、「コ」で通していますが、他の東夷の国々では違います。狗加〈カ〉、狗盧国〈ロコク〉、狗素国〈ソコク〉、狗奚国〈ケイコク〉、例狗〈レイ〉、弁辰狗邪国〈ベンシンヤコク〉などと、「」と「」が混在しています。


折角、著者が古代からの音韻研究について詳しく報告していますが、実際の著者の適用がこのようにいい加減なのは何故だろうか、校正ミスとは思えませんし、まあ寅七も校正ミス能力では著者に劣らないでしょうが・・・。

2015-04-17 07:35:06

セウォル号遭難一周忌と倭人伝記事 27.04.17

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●昨日は韓国のクルーズ船セウォル号遭難1周年ということで韓国の追悼行事などをTVが報じていました。

この報道を聞いていて『邪馬台国への途』の著者榊原英夫氏はどのような感想を持たれたかなあ、など思ってしまいます。


榊原さんは、魏使一行は下図のように、朝鮮半島の西海岸を船でやってきた、とされます。


榊原氏の水行 榊原氏の魏使水行航路

この朝鮮半島西海岸水行説は、ホームページで以前、槍玉その46・生野真好氏の『倭人伝を読む』で、その水行説の現実性がないことについて論じましたので、今回あらためて述べるのは止めておきます。

なぜ、多島海の干満の差が激しい海岸を10日間も連続航海するなど、角川春彦氏の実験航海の結果(『わが心のヤマタイ国』角川文庫)からも無理なことは明らかなのです。

槍玉その46のURLは次です。

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yridama46shounomakou.html


●昨日大分駅の新駅ビルがオープンして11万人が来客したとTVなどが報じていました。

まだ企業戦士だったころ、大分に出張した折には、駅近くのビジネスホテルをよく利用しました。そこを利用するのは、安いこともさることながら温泉付き、それもかけ流しの真っ黒なお湯が売り物だったのです。何軒かの同様のビジネスホテルもありました。

今回のJRの駅ビルには高層階にホテルが併設されそれも温泉付きだ、と報じています。近くのビジネスホテルにとっては黒船襲来同様大変さだろうなあ、と同情します。



2015-04-14 09:34:33

テロメライシン 27.04.14

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●統一地方選挙も当地では終わり選挙カーのスピーカーからの連呼が消え静かになりました。

ほぼ予想された通りの結果で終わりました。

マスコミも大阪の維新が、直前に上西議員のスキャンダルがあったのに、今回の選挙にはあまり影響受けなかったことが不満だったのではないかな。


●平成の大合併で市町村の数は約1500減ったそうです。首長さん1500人、議員さんもざっと20人平均とすると3万人程減ったことになります。

歳費や悪名高い政務調査費などで、平均1千万とすれば年間で3150億円、10年で3兆円以上の節約になったことになります。

総務官僚の成果といえると思いますが、そのように官僚を褒める論調は見かけないようです。


●最近われら夫婦の周りに、「癌」にかかわる方が多くなりました。ネットで癌治療の情報を検索していて、テロメライシンという治療薬の岡山大学での食道癌試験治療の結果について報告されていました。

7人のうち癌が大きかった人とリンパ説に転移していた二名以外はかなりの好成績を上げたということです。

一般的に使えるのはいつになるのか、いずれにしても早期発見が癌対策の一番のポイントには変わりないようです。


●榊原英夫氏の『邪馬台国の途』を読んでいて思うのは、折角邪馬台国福岡説を公にされたのに、これで邪馬台国纏向遺跡説に対抗できるか、不安になるところが多いことです。


特に卑弥呼の墓=那珂八幡古墳説の説明では、箸墓説論者から簡単に論破されてしまうのではないか、と思われます。

著者も、那珂八幡遺跡は有力だ、とされていて、その辺の逃げ道は設けられてはいますが。


詳しくは検討の結果をあらためて整理して報告したいと思いますが、次のような疑問点が上げられます。


疑問の① 那珂八幡古墳の大きさは円墳部分で52mで、周溝を含めた最大径で120mであり、著者が主張するように「倭人伝の記す径百余歩は150m」という値を使っても、とても届かない。



疑問の② 「倭人伝」には径百余歩と「余」が付いています。周溝をを含めても150mに届かないのに、著者が主張するように「理解できる範囲」とは言えないのでは?



疑問の③ 著者が主張するように、周溝などの墓域までも含めるのであれば、福岡平野には須玖岡本遺跡という出土品では那珂八幡遺跡をはるかに凌ぐ遺跡があるのになぜ無視するのかな?。


疑問の④  那珂八幡遺跡の出土品、三角縁五神四獣鏡はその同笵鏡が京都の椿井大塚山古墳から出土していることは、著者も重々ご存じのはずなのに、それについてなぜ触れないのかな?


疑問の⑤ 「冢〈チョウ〉としていることから墳丘墓であると考えられる」としています。「冢」と「墳」は意味が異なるのではないでしょうか?



折角の力作に水を注すようなことばかりで、著者には申し訳ないのですが、褒めるところも言ってあげなければ、と思って読んでいます。

2015-04-11 08:43:44

『日中歴史共同研究 古代・中世史篇』 槍玉に上げました 27.04.11

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●一昨日、山の幸「タラの芽」が到来しました。


タラ

さっそく食卓にあがってきました。


フライドタラの芽

よき友山歩塾長と我が家の料理長に感謝です。


●昨日からマスターズゴルフが始まっています。去年の始球式にで元気な顔を見せてくれたゲーリー・プレイヤー氏の姿は見れませんでしたが、松山選手が頑張っています。明日からの本戦に期待しましょう。


●明日は、福岡CCでゴルフです。同窓生兼ホームドクターのSさんから、熊本から同じく同級のS君が出てくる、日曜日にゴルフを一緒にどうか、というお誘いです。両氏とも息子さんに院長を譲って、非常勤で現役ドクを続けているのも同じです。

明日の天気は小さい傘マークが付いていますが気温は上がるという予報なのでプレーには差し支えないでしょう。


●ひさしぶりにホームページを更新しました。槍玉その52『日中歴史共同研究報告書』です。


中国の歴史学者の論文に、何か日本の古代史定説に一矢報いられるような意見でもないかな、など助兵衛心を起したのが間違いでしょう、全くの期待はずれでした。

日本の歴史の真実は、自らの探求でしか得られない、ということを思い知らされました。


沢山の「寅七注:」のコメントを見直すのが一仕事でした。寅七の古代史理解度テストになっているようです。

URLをお忘れの方のために記しておきます。

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/

2015-04-09 11:23:02

『邪馬台国への途』感想その1 27.04.09

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●ひさしぶりの春日和が戻っていかした。折角の満開の桜もこのところの春の嵐的な気候で無残な姿となっています。


●日本がよい国だという例として「落し物が戻る」ということが挙げられます。

孫の誕生祝いに、ゲームソフトに使われないようにということで準備した図書券がどうしても見当たりません。

家中探しても見つからず、先日デパートに行ったときに落としたかも、と家人がダメモトの電話を落し物係にかけてみましたら、Mデパートの北海道物産展で落し物の届け出があったそうで、無事戻ってきました。

拾った方にお礼を、と言いましたら、それには及びません、ということで申し訳なく思いました。ますます、良い国に住んでいることを実感しました。


●「東京古田会ニュース」が届きました。

古田先生の「閑中月記」が今回の95回で終了とありました。もう89歳ということで、体力的に難しくなった、とおっしゃられています。

この寅七のブログも先生の年まであと9年、なんとか続けたいものです。


●伊都国歴史博物館の榊原英夫氏が『邪馬台国への途』という本を出されました。

ざっと読みでは、邪馬台国福岡説で、参考図書にも古田武彦著が沢山あげられてもいますので文句はつけるところがないかな、と最初は思ったのです。


東夷伝の一里は、朝鮮半島の方四千里から実際の距離から換算して1里=約80mとされています。

安本美典氏なども、東夷伝短里説ですが、「なぜなのか」という考証は行われていないようです。そこを榊原氏は果敢に「なぜか」を論証されるのです。

この独創性がこの本の特異点の一つと思われます。


簡単にいいますと、陳寿が司馬懿の歓心をかうために東夷国の大きさを実際の5倍に記述したのだ。

それは、司馬懿のライバル曹爽は西辺に強く、例えば大月氏国は洛陽の西一万六千余里の遠方の国から朝貢させるという実績をあげている。そこで、司馬懿の勢力範囲の東夷諸国を勢力範囲にした功績を誇張した、ということだそうです。


しかし、古田武彦氏も『邪馬壹国の証明』で安本氏の東夷伝短里説に対して、「東夷の国々も以前から漢の支配が及んでいて、朝鮮半島の概略の大きさも支配層には既知のこと」と、その論理性のなさを指摘しています。


どんなに無茶な説なのか、言葉ではなんとかごまかせるかもしれませんが、東夷伝短里説を地図で現わしてみました。グーグルマップのおかげで東夷の国々を5倍に引き伸ばしたものです。雑な出来の地図ですが結構手間がかかりました。

見てもらうとわかるように、倭国(九州島)はルソン島より南のパプアニューギニアの近くにあるのです。


倭人伝の「その道里を計るに会稽東治の東なるべし」の記事などお構いなしの暴論でしょう。



東夷伝短里 普通の地図(赤色)に東夷国短里説の地図(黄色)を重ねて表記した図。


あともう一つ、の大きな特異点は、「那珂八幡古墳卑弥呼の墓説」です。あらためて感想を述べたいと思っています。

2015-04-08 18:35:52

三領境境石 27.04.08

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●7日の朝日朝刊の福岡版に”糸島の干拓・潮止工事の図が糸島市の文化財に指定された”という記事がでていました。


三領境境石 クリックすると拡大します。

その表題記事と写真以外に、「三領境境石」も文化財に指定されたとありました。 


糸島半島西部は筑前国で唯一福岡藩に属していなかった。当初は唐津藩領だった云々とありました。


『魏志』倭人伝の記事で、魏使が末羅国のどこに上陸して伊都国に向かったのか、というところが、「邪馬台国」論議の中では問題になっている点の一つです。

「倭人伝」の末羅国内の陸行の状況描写に、「前に行く人が見えないほど草木が生い茂っている」というところがあります。

そこで、唐津から糸島には海岸沿いにいけるし、松浦半島の北端部から南下したのではないか、という説の根拠の一つになっています。


『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』でもこの辺の検討に若干手こずりました。

「倭人伝」には、魏使は浜崎あたりで険しい海岸の崖を避けて、丘陵部を糸島に向かった、その時の描写であろう、としました。

そして、唐津~糸島間の山地は末蘆国と伊都国のいずれに属していたかも決められない、としたのです。
この三領境境石のことを知っていたら、もう少し具体性がある説明になったかなあ、と自身の不勉強さを責めています。


ネットで調べたら、「唐津街道研究所」というブログに戦国時代からの領主の変遷を調べた結果が出ていますが、それ以前のことはやはり分かっていないようです。

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