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2015-09-02 18:37:20

大塚初重先生の鏡鑑 27.09.02

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●昨日朝一番、錦織選手の結果は、と家内が聞きます。結果を知らせると、残念だった。ワウワウに入らなくて良かった、ということでした。

WOWOWは生で見るなら下級を、2千円以下で入れます、と盛んに宣伝していました。1回戦敗退で残念度が一番高かったのは錦織選手の次はWOWOW関係者だったでしょう。また、ランク41位のフランス人ペール選手が4位に勝ったことは褒められてしかるべきでしょう。


今朝はランク127位の西岡選手が80位のマチュー選手(フランス)にフルセットで勝ったことを報じていました。全米オープンテニスからまだ目が離せないようです。


●オリンピックのエンブレムがもめています。


昨日TVコメンテイターがいろいろ意見を言っていましたが、前の東京オリンピックのエンブレムが紹介されると、家内が、これが良いのに、と呟いていました。


今朝の朝日の紙面で、やくみつるさんも同じ意見を言っていました。こんないいものがあるのに再度公募とは、モッタイナイのではないかなあ。


●大塚初重先生の鏡鑑についてお聞きしたいのです。


先生は、考古学関係の辞典や解説書に名前を連ねていらっしゃるいわゆるその道の大家です。青銅器関係も、一見万遍なく取り上げていらっしゃるようですが、詳しくみますと、見方が偏っているように思われます。


銅鐸が本州中央部だけでなく九州や関東にも出土することを取り上げて、いわゆる銅鐸文化が本州中央部だけの祭器ではなかった、というような説を唱えられます。青銅器を蔡具とする点では共通である、というように、矛と銅鐸というふたつの世界という和辻哲郎しの区分に異議を唱えられています。


しかし、天皇家に伝わる三種の神器はに鏡や剣はあっても銅鐸はありません。「倭人伝」にも「古事記」にも銅鐸の記事はありません。

大塚先生は、国内の伝承についても偏見を持たれているように思われます。今回は青銅器自体に問題を絞って、これは次回に回しましょう。

平原遺跡出土鏡について、前原市教育委員会の報告にある大型内行花文鏡が国産鏡であることの可能性を大塚先生は紹介しています。

しかしながら、その点を深めることなく、古鏡研究について富岡謙蔵ー梅原末治ー小林行雄氏の研究系譜について略述し、三角縁神獣鏡国産説について疑念があることを述べています。


平原の出土鏡について国産説を紹介し、鏡研究の系譜を述べられるのであれば、梅原末治氏が発表された、須玖岡本遺跡の年代設定に大きな影響がある、「前漢式鏡」についての見解についても一言あって良いのではと思います。


この梅原先生の鏡鑑によれば、須玖岡本遺跡は築造年度がぐっと下がり、弥生後期になるといわれれます。須玖岡本遺跡周辺の種々の工房の遺跡も存在し、「倭人伝」時代の国の中心地としての資格を備えている地域と言えましょう。


この鏡鑑の違いが「卑弥呼の墓の候補が北部九州に存在しない」とされる大塚先生の判断に大きな影響があるので、大先輩梅原先生の意見を封殺されているのではないかなあ、と疑われます。


そのために須玖岡本遺跡についての評価を、「出土古鏡はすべて中国産の前漢鏡」という春日市教育委員会の報告書の見解を紹介されているように思われます。


この問題については、以前小田富士雄先生の同じ問題について批評しています。下記URLをクリックしてみてください。


http://ameblo.jp/torashichi/entry-11528542108.html



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2015-08-30 19:30:04

夏も終わり 27.08.30

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●ツクツクボーシだけが蝉の声になりました。早くも秋雨前線が出てきたのか天気予報は雨マークが並んでいます。


●8月は猛暑や孫歓待スケジュール優先で結局コースに出れたのは2回だけでした。

ただ、ゴルフ記録表を見てみると、8月の2回共一応後半ですが80台で回われたので、月間平均では今年のベスト月でした。

少ない回数を丁寧に回った方がよいのでは、その方が財布にも良いし、という意見が聞こえそうです。

9月は6回関係の会からコンペの案内が来ています。スケジュール的には、6回共全部に出るのは厳しいなあ、と2回も連チャンになる予定表を眺めてどうしようか、と思っているところです。


●昨日は長兄がやっている日本語おもしろ講座に誘われて、別府大学の篠崎准教授の話を聞き、その後の懇親会と5時間ほど、日本語を外国人に教える苦労話を聞いてきました。なかなか喋りなれた聴衆を飽かせぬ話しっぷりは流石でした。


●大塚初重先生の『邪馬台国をとらえなおす』の批評、なかなか進んでいません。今回は第6回目の先生への質問です。

【鉄器の出土数=邪馬台国の論理には納得いかないことがいくつか存在するのである。】(p109)とありますが、何が納得がいかないのですか?ということです。


先生は、納得がいかない例として、鉄は埋もれた地層の質によって腐食し残らないという調査報告があることを上げられます。そして、「いくつか」と仰りながら、他の納得がいかない例は述べられません。


しかし、先生は述べられませんが、4世紀後半以降になりますと、大和地方でも鉄製器具や鉄挺などの出土は多くなるのです。地層的条件が特に纏向遺跡あたりで鉄器が腐食せずに残るには不向きな土層ということなのでしょうか?


先生は、【考古学で得られたモノはウソはつかない。しかしそれを解析する段階で人間がかかわらざるをえないというところに、考古学の難しさがあろ。】(第六章p206)と仰います。


だとすれば、すでに発掘された地層、例えば纏向で馬具が出土したあたり地層に金属イオンの痕跡の有無を検査すれば、纏向遺跡あたりの地質についての判断の手がかりを得ることができるのではないでしょうか、なぜ、そのような提言をされないのでしょうか?馬具が何故3世紀地層から出たのか、という不思議さも同時に解決できることでしょうし。

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2015-08-24 11:33:21

『「漢委奴国王」金印誕生時空論』の反響 ありがとうございました 27.08.24

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●一昨日、学生時代からの友人地下ダムの権威者F氏の見舞いに痛み緩和ケアの病室に行きました。

10年ほど前、肝臓から始まって他にもいくつか転移したガンの痛みがひどくなり、痛み緩和のため緩和ケアの病棟に入入ったそうです。

痛み止めにモルヒネも使う、と聞いていたけど、確かに痛みは消えたが妄想が激しくなり異常行動が目に余る、と家内が担当医に相談して現在鎮痛剤の処方をいろろ変化させている状況、ということでした。

緩和ケア病室は基本的に終末期患者の病室なので、自分も同様な取り扱いを受けているので気分が滅入る、というような話もしていました。

彼の場合も、ガンの正体自体が不明のままでは、基本的には終末期ケアと同じであると気づき、可哀想でした。そのような患者さんを相手にする職業の方々の大変さを思うと頭が下がります。


●『「漢委奴国王」金印・誕生時空論』の批評を、ブログに出すには図表などのスペースを取るのが難しいと思い、ホームページに上げました。あまり反響はないだろうな、と思いながら。


今回H・K氏から、以前この鈴木勉氏の本を読んだ時には、著者の明快な結論が出ていないし、拡大写真に感心しただけだったのだが、今回のマトリックス表の誤りについて指摘で改めて鈴木氏の本を読みなおしている、というメールを頂きました。


おまけに何箇所ものテニヲハ・漢字変換のミスがあること、マトリックス表に記載漏れが1箇所あることまで指摘いただきました。

早速訂正してアップし直しました。有難うございました。


●大塚初重先生の『倭人伝をとらえなおす』への疑問その4は漢字の読みについて、です。

大塚さんが志賀島金印について、鈴木勉氏の『金印誕生時空論』を紹介されていて、そちらの方の議論に飛んでいましたが、元に戻します。


考古学の大塚初重教授に文献の読みについて質問するのは筋違いかとも思いますが、今回は「倭人伝」という文献について執筆されていますので、あえてお聞きしたいと思います。


大塚先生は「倭人伝」の内容を紹介するにあたって、古代史専門家水野祐氏の書き下し文・現代語訳を参考にさせてもらったが、若干の変更を加えているところがある、と書かれています(p33)ので、大塚先生の考えの読み下し文として批評の対象とします。

一番の問題は、この「倭人伝」に書かれている倭人国に関しての人名・国名・役職名などに用いられている「漢字の読み」の問題です。中国人の読者に対して書かれている「倭人伝」ですから、中国人にどう読みとられたのか、ということが問題です。


ところが、当時の漢字の読みがどうだったか、ということについては、時代・地域によって読みは変化しています。しかし、同一の本では注釈がない限り、一つの漢字は同一の読みであったことは間違いないことではないでしょうか。


「奴国」を「どこく」「なこく」「ぬこく」「のこく」何れと読むのか、ということの以前の問題なのです。


多くの古代史専門学者たちも、この原則を分かっていても、現在の日本語の地名・人名・役職名などに当て嵌めることを考えるので、一つの漢字の読みを、いろいろと恣意的に使って平然としています。
大塚先生もその例に漏れません。

大塚先生の読み下し文では、対馬に「つしま」という読みが与えられています。対がなぜ「つし」と読めるのか、と目くじらを立てることはやめましょう。この「対馬国」は版本によっては「対海国」と書かれているのですが、そのことについては書かれていないことの方がもっと問題でしょう。


この『邪馬台国をとらえなおす』には次のような読みが振り仮名に見られます。


奴は、あるときは「ナ」、あるときは「ヌ」
支は、あるときは「キ」、あるときは「シ」
狗は、あるときは「ク」、あるときは「コ」
馬は、あるときは「マ」、あるときは「メ」
泄は、あるときは「シ」、あるときは「エイ」
謨は、あるときは「マ」、あるときは「モ」
柄は、あるときは「ヘ」、あるときは「イ」

大塚先生は「倭人伝」の読み下し文に対して、上記の読みのいずれが正しいか、という以前の問題がある、ということをご存知なのでしょうか?


「一つの書物に表音文字として使われている漢字は、但書が無い限り、すべて同じ発音」、という原則は間違っている、という説明が先ず必要と思うのですが、如何ですか?


世の古代史大家がそうしているから、という弁解になることでしょうが。

肝心の「邪馬壹国」には振り仮名を振っていらっしゃらないのも不思議です。


●今夜は台風が久し振りに北部九州に襲来するようです。他人に迷惑をかけないように、夕方にはベランダの雑物を屋内にとりこんでおかなければならないでしょう。




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2015-08-18 14:37:48

「漢委奴国王」金印・誕生時空論批評 をHPに上げました 27.08.18

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●甲子園も今日は休養日でTV中継はありません。錦織選手も臀部の負傷(肉離れ?)が原因だということですが、準決勝の対マリー戦はまったく見ておれませんでした。球を追っかけないケイにたいして観客からブーイングが浴びせられていました。
月末からの全米オープンを期待しましょう、と家内も自分に言い聞かせるように言っていました。

●古田史学の会の会報の最新号に、『日本書紀』の「相撲起源説話」について、九州王朝説では出雲国の野見宿禰が九州の都に簡単には出て来れない、野見宿禰が居たのは奈良県にある「出雲」ではないか、という意見を会員の岡下英男さんが述べられていました。

岡下英男さんの奈良県の「出雲」説は、それはそれで説得力を持つと言えましょう。ただ、九州には「出雲」がなかった、という点の確認が抜けているようです。

九州にも「出雲」がある、と以前『鏡王女物語』を書いたときに、九州の鏡という地名と出雲の鏡という地名を調べたことがありましたが、そのおりに九州に出雲の地名があることを知りました。


北部九州での出雲は、①福岡県大牟田市の出雲町、②福岡県旧筑穂町の出雲、③長崎県長崎市の出雲町です。(他にもあるかもしれませんが)

先ず①ですが、その町名の起源は、1919年の町名整理変更で大字下里の一部が出雲町となりました。その新町名「出雲町」の由来ははっきりしません。どうやらその地域に出雲神社があることに因るもものようです。


その出雲神社の由来は、もともとは焚石山鎮守社稲荷石祠であり、幕末期の三池藩領主立花出雲守が任を離れるにあたって祐筆に寄贈した祠だそうです。


出雲守の縁での「出雲町」で、出雲の国とは直接関係ないようです。


②の「出雲」は現在地名としては残っていません。国道200号線と県道60号線の交差点名に「出雲」として残っているだけです。


そこの地名は現在、飯塚市平塚です。旧町名でしたら、福岡県嘉穂郡筑穂町出雲だったそうです。装飾古墳で有名な王塚古墳の近くです。


③の長崎市出雲町は、出雲町遊郭として江戸時代末期から昭和期まで色街として賑わったところです。


地名の由来は、江戸期にキリシタン撲滅祈願のために徳川家光が出雲神社(別名 出雲町天満宮)を建立したそうです。その神社にあやかって出雲町となったようです。しかし、現在境内にある出雲町天満宮由緒碑には、そのような神社名「出雲」の由来についてまでは書いてないそうです。

以上の事から推測出来ることは、①は地名起源の点から問題があり、③の方は、天皇のお召に即日応じられるか、という距離的な面での問題があろうかと思います。

したがって、②の飯塚の出雲が九州王朝時代の野見宿禰の里「出雲」が候補地として残ります。

古代にどれくらいのエリアがその「出雲」の範囲に含まれていたか、「筑紫の出雲」と言えば当時の人々に、「あああそこの出雲か」というようなある程度の地域であったということが分かる痕跡があれば、有力候補となりえるかもしれません。

これらについては地名研究家の古川清久氏にお会いした折にでもご意見をうかがってみましょう。

随分前に、筑豊の地名で、同じく『日本書紀』の壬申の乱に出てくる「大分君」も、これは「筑紫の大分(だいぶ)君」であり、現在「大分(だいぶ)廃寺」「大分(だいぶ)八幡宮」として残っていて、必ずしも大分県の大分とは関係ない、と論じたことを思い出しました。調べてみたら、7年前に、槍玉18で亀田隆之氏の『壬申の乱』の批評文の、最後の落ち穂拾いで論じていました。

●ホームページに「槍玉その54 『「漢委奴国王」金印・誕生時空論』批評をアップしました。URLは次です。クリックしてみてください。

問題がマトリックス表にあったので、それらの表をネットに上げるためにExcelで作図したのですが、作図の基本を思い出しながらの作業となり思いがけない時間を食いました。

http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridama54kinintannjoujikuuron.html

2015-08-16 06:15:43

ちょっとくたびれた夏休み 27.08.16

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●4日から13日まで東京から孫4人が順次見舞い?に来てくれて、久しぶりの大家族の、といってもmax5人ですが、生活でした。ちょっとくたびれた夏休みとなりました。


14日に小倉のN氏宅へN氏の初盆の線香を上げに行き、15日は錦織ーナダルのテニスTVライブ観戦を楽しみました。


ナダルが年を取ったのか、錦織選手がうまくなったのか、安心して見れました。錦織戦の前に行われた試合で、世界ランク1位のジョコヴィッチがはるか格下に大苦戦していましたが、錦織は完勝でした。


●このところ孫達の相手第一でしたので、予定組んでいたゴルフもキャンセルし、外食も多かったので体重2キロアップです。


今週木・日とゴルフの予定ですが、ちょっとウオーミングアップして体のモードを調整しないといけないようです。


●中学校同期会の戦後70年の集いを10月にやることでの案内の返事がだいぶ返ってきました。


会場のホテルには、昨年の傘寿の祝いよりも少なくなるかと思い、30人前後と予約しているのですが現在32名の参加希望です。

まだ20人ほど返事未着なので、この分なら昨年の参加者37名を越すのでは、などうれしい心配をしています。


●鈴木勉氏の『金印誕生時空論』についての感想を一応まとめました。

マトリックス表だとか、時空論などの解釈などもいれると、結構な量になります。ブログで数回に分けても散漫なものになってしまうように思われますので、ホームページの方でアップしようかと思っています。

ホームページに上げるための図表作成や、それをHPに取り込む手順など、久し振りにやるので試行錯誤も多く、結構頭の体操になっていると思います。

2015-08-10 07:28:04

夏休み中です 27.08.10

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●孫たちの内の4人が順次来てくれて順次帰り、現在最後の1名が残ってくれています。

孫たちの要望で、宗像の海岸に連れて行ったり、ジェラシックワールドの映画鑑賞につきあったり、免許取り立ての孫には車運転の練習や、家内のお薦めの福岡の味の賞味などなど、こちらも古代史の勉強は夏休みとなっています。



一太郎すし

●図書館から借りてきた『金印誕生時空論』の返却期間までには、この本をなんとか読みとおさなければ、と思っています。

著者の鈴木氏は技術者らしく、時空論をマトリックス表現で示されて、それに依拠して叙述されている部分が沢山あるのですが、そのマトリックスの表の分類が理解できないのです。


寅七の大学教養部時代、代数学でのマトリックス論になかなかついていけなかったのですが、それでも、この鈴木さんのマトリックス表の分類はおかしいと思われるところがあります。

間違った分類に基づいての推論は間違っている、と思うのですが、さてそこまで言うにはもっとこの本を精査しなければ、と思っています。

本の返却機関まであと4日あります。また再借出しをしなければならないかな、と思います。


それにしても、この本の著者鈴木勉氏は「金属製印章」の製作面での検証は詳しくされているのですが、印章の使用面についての考察や、陰刻・陽刻の区別については全くと言ってよいほど述べられません。物は用途によって製作手法。精度なども異なると思うのですが鈴木氏は黙殺されています。


ともかく読んでくたびれる本です。考古学者の多数からご自分の説が受け入れられないことを、「定説の頑固さ」というように言われますが、木を見て森を見ず的なところがあるような感じもします。


●古田史学の会の会報で、会が新体制となったことを知りました。水野代表が80歳になられたことを理由に退かれて古賀新代表体制になったようです。

寅七ブログを80歳を理由に退いたら生甲斐がなくなりますので、今しばらく続けたいと思っています、よろしくお願いいたします。

2015-08-03 21:02:59

いよいよ80台へ 27.08.03

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●昨日、東京にいる息子から連絡があり、今年は子供たちだけを行かせるのでよろしく、と連絡がありました。

末娘の方の孫はどうするのか、と聞きましたら、次男H君がいこうといういことで、あす空港に迎えに行くことになりました。


ということで、今日は時ならぬ大掃除と夜具の虫干しということになりました。孫たちもそれぞれ予定があり、4日程度の滞在となるようですが、久々の5人という、しばし大家族の生活となります。


明日で80歳台に突入です。


●鈴木勉氏の『金印誕生時空論』の検討をして、その問題点などについてまとめてみたい、と思っています。そのためには、中国古印についてもう少し勉強する必要がある、と思いネットで調べてみました。


幸い『ハンコロジー事始め』副題「印章が語る世界史」新関欽哉著という本が検索に引っかかってくれました。世界の印章の歴史について述べられている本でまず勉強してみましょう。


新関欽哉『ハンコロジー事始め』 新関欽哉著 NHK出版協会 1991年


●大塚先生の『倭人伝をとらえなおす』の第3の質問は、”倭人伝の里”についてです。


大塚先生は”『魏志倭人伝』から邪馬台国は探せない」”と仰います。(p24~26)


この問題は、次の第2章で、倭人伝について大塚先生の解釈が述べられますので、その里程に関する先生の説明と合わせてよみましたが、大塚先生の「里」についての考えがはっきりとしないのです。


大塚先生は『魏志』倭人伝に対して次のように述べられています。
【倭人伝には邪馬台国の記述は二千字たらず。しかもその記述はあまり正確なものではない。里程も記されているが、その記述に従って探すと、女王国は九州の陸地を超えてはるか南界に達してしまう】、と述べられています。

この意見からしますと、大塚先生は何らかの、「一里はどれくらいの距離」という目安をもっていらっしゃるようです。どうやら、魏朝は後漢朝に続く王朝なので、漢の一里がこの『魏志』倭人伝に使われていると思っていらっしゃるのではないか、と思われる文章です。


ところが、同じ倭人伝の「参問するに周旋五千里なるべし」という倭人伝原文の解釈では次のように述べられます。


【対馬国から一支国=壱岐国が千余里、また千余里ほど海を渡ると末蘆国と記せられているので、その五倍程度とすると、四国か九州かという大きさであろうか。】(p61)


このように、陳寿が記す「里」はどうも「漢朝の里」とは違うようだ、と思われているようです。しかし、大塚先生はこのところをあいまいにされています。


古代史の大御所、白鳥庫吉氏は、倭人伝に記載されている里程と地図とを比較すると、約5倍の値である、という意見を出されています。前述の「周旋五千里」についての大塚先生の意見と同じです。だとすれば、それで通して解釈されても良いのではと思うのですが、そうなさらないのは何故なのでしょうか?


考古学の第一歩である「古代出土品の大きさや文献の寸法記述」について注意を払うのは、基本中の基本だと思います。


この基本をうやむやにして、『魏志』倭人伝の講釈をされるのは如何なものかと思われます。

水野祐先生の解釈による、とされるのであればまだ弁解の余地はありましょうが、水野先生の解釈に私見を加えて解釈をした、というように述べられています。(p33)


やはり、大塚先生の倭人伝に記されている「里」の長さについてのお考えをお聞きしないと先に進めないようです。先生のお考えを是非お聞きしたいものです。


2015-08-02 18:24:13

『金印誕生時空論』の続き 27.08.02

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●一昨日、梅雨明けで太平洋高気圧にすっぽりと包まれて、朝から夕方まで雲ひとつない夏日でした。

S氏夫妻にTさんに誘われ、ザ・クラシックゴルフで一日興じました。夕方から反省会を兼ねて、ミシェラン星三つを付けてもらい、上り調子でお店も立派になった宗像のK満さんところでの食事会に夫婦で参加しました。


K満での懇親会

一日中照らされて水分不足だったせいか、生ビールに始まり、枡酒3杯チュウロックまで進み、ゴルフでのチョコもいただきご機嫌な一日となりました。


●先日の『金印誕生時空論』の感想で気になっていたことが、「璽」が封泥に使われていた例があるか、ということでした。


昨日図書館にまた出かけて、鈴木勉さんの本を改めて読みなおしました。


前回は、志賀島金印・廣陵王璽・滇王之印を中心に鈴木さんの論を見ていったので、見落としがあったのではないか、と恐れていたのです。(大体が慌てものですから)


ありました。前漢時代の金印で「文帝行璽」(BC120ごろ)という印章です。この印章は、文帝が出張(行軍?)の時に用いた「璽」と思われます。


この印章は、印面が平滑でなく、また、紙の発明者とされる蔡倫がBC105年の紙の献上したという『後漢書』の記事以前の印章なので、封泥用に使われていたと思わざるを得ない、という鈴木氏の説明もありました。


つまり、封泥用か捺印用かは「璽」という「印章表記」とは関係がないようです。だとしたら、先日の寅七の説は成り立たなくなります。


鈴木さんの本は金工学者らしく、その「物」の加工などについては詳しいのですが、素人が「印章」から受けるもっとも印象的な区分、「陽刻」か「陰刻」か、については全く述べられていません。封泥用か押捺用かという印章の「用途」と大きく関係してくるように思うのですが。


また、用途と彫り方と密接な関係があると思いますが、その方からの鈴木さんの考察は見当たらないようです。


鈴木さんは沢山の古代印章を写真付きで報告されているのですが、それが陰刻か陽刻なのか、なかなか区別し難いのでその判別に苦労します。


ともかく、貸出窓口に行き借出してきました。じっくり読んで感想をまとめてみたいと思っています。


2015-07-29 17:33:36

『金印誕生時空論』を読んで 27.07.29

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●やっと梅雨明けのようです。今朝9時過ぎに近くの郵便局まで出かけたら、もう日射しが強くて帽子を被って出なかった事を反省させられました。散歩も天神の地下街で、という季節になりました。

●昨日、TVが宗像の神が宿る島・沖の島などが世界遺産の候補として推薦されるようになった、と報じていました。


夕方には県知事さんらと一緒に宗像市谷井市長も共に記者会見をされている映像も流れていました。単に喜びの羅列の他の方々と違って、市長は「女人禁制について理解をしてもらうよう努めていかなかれば」というような意味のことを言っていらっしゃいました。


日本政府の推薦候補になったといっても、世界の遺産ということでのハードルの認識が、日本と世界でどのように異なるのか、地元責任者の市長としては心配になるのは当然でしょう。


しかし、一夜明けた今朝のマスコミの論調には全くこのような懸念についての言及は、なぜか全く見られませんでした。

現在でも女人禁制、それに対して、「世界の文化遺産」、というお墨付きをいただけるのだろうか、前例はあるようですが、何か日本の恥的な女人禁制を世界遺産にお願いしなくても、と思うのは寅七のみでしょうか?

●本日の古代史本批評は、大塚先生の本の批評からスピンアウトしましたお話しです。


金印誕生時空論 『金印誕生時空論』鈴木勉 雄山閣 2010年


大塚初重先生の『邪馬台国をとらえなおす』の中で、鈴木勉氏の『金印誕生時空論』の志賀島金印偽造の疑い説について述べられています。先の土曜日半日を費やして図書館で読んでみました。

鈴木勉さんという方は早稲田大学卒で、橿原考古学研究所研究員の金石文研究家で、「工芸技術研究所理事長」という肩書の方です。この本の表題に「金石文学入門 I 金属印章編」 と副題がついていますように、非常に詳しく古代の印章作成技術ついての説明が述べられています。

問題の「委奴国王」金印について、鈴木さんはその作成された物自体の作製精度の高さに驚かれ、これほどの精度で製作するには、精密な計測技術や計測器具、計測精度の検査システム、なども整っていなければならない、果たして1世紀段階の技術で可能であったか、と疑問を呈されます。

次に、ほぼ同時期に製作された「廣陵王璽」金印(AD58年造)との製作技法の相違について、同じ技法ではない、「廣陵王璽」は線彫りで「委奴国王」印は浚〈さら〉い彫りであり、同じ王宮官房で作成されたとは思われない、と疑念があることを説かれます。

この本を通読して、寅七の印章についての知識の不確かさを知らされました。ざっと読んだだけで批評するのはおこがましいのですが、鈴木さんの説かれるところへの疑問と、それに対する解答としての私見を述べててみたいと思います。


尚、鈴木さんは、この本の中で、「私の疑念について今まで意見を貰っていない」と残念がっておられます。それに最初?にお答えするのが、素人の古代史好きの棟上寅七というのでは誠に申し訳ないのですが。

金石文の素人寅七の印章知識から浮かぶ疑問、及びその解答についての私見です。

① まず、印章の用途について、鈴木氏の見解が皆無というところに疑問を持ちました。

「委奴国王」印は封緘(封泥)用の印章で、「廣陵王璽」印の方は、文字通り璽書の押印の為の印章ではないか、と寅七には思われるのです。
「璽」とある印章で「緘」の為に使われる筈はないのではないか、というのが素朴な疑問です。


② だとすれば、「委奴国王」印は、封泥にきちんと形が残る「浚い彫り」で作られ、紙などに押印する「廣陵王璽」印の方は、印字面が平らであればよく、細工が容易な「線彫り」で作成された、ということになりましょう。


③ しかし、ほぼ同じ時期に漢帝から下賜された印章で、片方は「封緘用」、もう片方は「押印用」というのはなぜか、という疑問が浮かびます。


④ 「委奴国王」印は、委奴国での印章の用法として、封緘用の方の用途が多いと考えて、面倒な「浚い彫り」で作成した(押印としても使える)、ということが考えられます。「廣陵王璽」印はその名のとおり、押印用の印章として作られたのでしょう。


⑤ 1世紀当時の中国における金工技術レベルの高さについて云々はできませんが、弥生期の大型銅鐸は、現代の鋳造技術でも再現が難しいくらい精緻な加工技術で製作されていると聞きます。

現代の金工技術に比べても劣らないということを、古代の金工技術のレベルはもっと低かったはず、という目で見るのは如何なものでしょうか。


⑥ 以上の説明で、鈴木勉氏の疑念は解消けることになると思うのですが、どうでしょうか。

この私論は、印章に「璽」とあっても封緘に用いた、という事実があったのであれば直ちに消散するもの、ということも自覚しています。

この件について読者諸兄姉にご意見いただければ幸いです。


(追記:「璽」を封泥用印章として使ったと思われる例、後漢時代の「文帝行璽」金印がありました。再度この件について検討し、その結果を後日報告します。 27.8.01記)

2015-07-27 19:01:46

福永晋三さんが当ブログに反論 27.07.27

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●中学校の同窓会の幹事役を引き受け、さて、と悩んでいるのが会の名称です。

単に「XX中学校S26年卒業生懇親会」、というのも味気ないし、といっても、昨年は早々と数え年で傘寿だからと、「傘寿を祝う会」という名称でやってしまったので、傘寿祝いの二番煎じともいかない。会場のホテルの方からは、会の名前をどうしますか、と、せかされて弱っています。

「戦後70年を振返るXX中学S23年卒 翁媼の集い」とでもしようかな、と思ったりしています。


●戦後70年と昔のことに思いをいたしていたら、ふと ♪肩を並べて兄さんと共に学校に行けるのは 兵隊さんのお陰です、お国のために お国のために戦った兵隊さんのお陰です♪、という歌が浮かんできました。安保法案の行く方との関係もあるのかもしれません。


調べてみたら昭和14年に朝日新聞が公募して出来た歌だそうでした。全国の小学生に瞬く間に広がった、ともありました。まだ学齢に達していませんでしたが、周りが歌っていて知らず知らずに脳裏に染みついたのでしょう。、



●日曜日に古代史の会に顔を出したら福永晋三さんが講師でした。レジュメを拝見しますと「棟上寅七の古代史本批評」というパワーポイントの説明図が出ています。テーマは「臺」の読みです。

この小さなブログにも福永晋三さんが目を通してもらっているのか、と半ば怖れ、半ば、どのように回答されるのか興味がわきました。


それは昨年7月の、同じ福永講師の「邪馬臺国論」に対しての寅七の感想のブログでした。

臺がトと読めるのか。読めないと思われるので、福永説は話としては面白くても歴史とは言えない、というようなことをブログに書いていました。


詳しくは次のURLをクリックしてみてください。


http://ameblo.jp/torashichi/entry-11899519079.html


福永さんは、”万葉仮名は中国の漢字の当時の読みを仮名文字として表わしたものだ。万葉集にあるから万葉仮名ではない、当時の書物、『古事記』や『日本書紀』などに「歌謡」や「訓注」に使われている音標文字も万葉仮名である”と説明されます。


「都」が万葉仮名として用いられているのは「ツ」であり、棟上寅七のいうような「ト」ではない、というところから話は始まります。


確かに寅七は、「伊都国」の都の読みは、怡土村・伊覩神社・糸島郡などの地名と、末蘆国からの500里という距離、それに弥生王墓群などからの地名比定から、「伊都=イト」、「都の読みはト」と考えています。


寅七が、「都」を「ト」と読んで、”陳寿は「ヤマト国であれば、「邪馬臺国」でなく「邪馬都国」と記したのではないか”、というところを捕まえて福永先生は、”「都」は「ツ」である。呉音で都はツであり、伊都国はイツコクと説かれます。


”三世紀の漢字の読みは史料がなく、遠く離れた日本列島に到来した漢字の読みは本国では失われ、ドーナツ現象で日本に残った”、という福永さんの説には一理あります。


したがって、陳寿が都をどう読んでいたかを知るには、『三国志』全体の中で、「都」がどう読まれていたのか検証する必要があるでしょう。


「奴をどう読むか」、という問題では、寅七は以前、『魏志』での「奴」の用例を全部抜きだして検討し、「奴の読みはヌ」ということを検証したのですが、「都」についてもやるのは思っただけでもくたびれます。


むしろ、『魏志』韓伝での「ト」に当たる用字例、例えば「ト」に「塗」を充て、”陳寿はなぜヤマト国に「邪馬塗国」としなかったのか、また、台をトと当時の魏朝では読んでいたのであれば、「邪馬臺国」でなく「邪馬台国」と書かなかったのか”、と論を進めなければならなかったようです。

(韓伝には、臣蘇国、弁辰接国がある。ト音に近い字としては、蘆国、弁辰彌離彌国、弁辰古資彌国などがある)


福永さんは、「台=ト」の例として定説の方々が良く例に出される、「台」が『日本書紀』神代紀に興台産霊〈コゴトムスビ〉と出てくることを示されます。


しかし、福永先生ともあろう碩学の方が、臺=台として論を進めるのは如何なものでしょうか?臺と台は元々異なった字です。

私などが幼少の折、日本地図で南方に赤い色で塗られた「臺灣」という島がありました。今では「台湾」と略字として「臺」に代わって「台」が使われています。これは戦後の当用漢字表(1946年)の設定によるものです。


ともかく、福永先生が貴重な講演の3時間のうち、小1時間も費やされて、「臺」が「ト」と読まれたという説明をされました。


その中で、実例として上げられたのは、『続日本後紀』に上げられている興福寺の僧の長歌に、「日本乃 野馬臺能国遠」 という語句があることです。


長歌の形式であり五・七・五・・という形式であるので、「ひのもとの やまとのくにを」 という読みになる。つまり「臺はトと読まれていた」という説明です。長歌で、臺〈ダィ〉を一字と数えれば、別に臺〈ト〉と読まなければならないことの証明にはならない、などと屁理屈を言うのはやめておきます。


しかし、この『続日本後紀』は9世紀の書物です。今問題にしているのは「3世紀の臺の読み」です。

福永先生の優れた史料捜査能力で3世紀から9世紀まで、700年間の膨大な史料を渉猟されて、網にかかったのが、9世紀の「野馬臺」それ一つであった、ということです。


これで、『魏志』に書かれている「臺はト」と読まれていた、という証拠として充分なのでしょうか?逆に3世紀ごろには、「臺はトと読まれていなかった」、というニムロッドの矢的な証拠になるのではないでしょうか?


福永先生の精力的な活動には敬意を表しますし、講演の最後に述べられていた、(正確ではありませんが)、「仮説が間違っていた場合は素直に正さなければならない」ということを、一般論としてですがおっしゃっていましたし、今後のご精進に期待するものです。



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