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2015-01-24 11:59:06

「日中歴史共同研究」(5) 27.01.24

テーマ:ブログ


●新聞が、クロネコヤマトのメール便が3月末で中止されると報じていました。

「信書には不使用」という原則を無視して刑法犯になる利用者が生じるのが不本意なので中止する、という事のようです(公式には)。ネットでは、利益が出ない部分の切り捨てでは?と出ていました。

献呈本の発送や、いくつかの同窓会の連絡・報告などで郵便局よりずっと安く上がって重宝していましたのに残念です。

クロネコさんも創業者小倉昌男氏の没後10年、反官消費者寄り精神が薄れて、利益重視になってくるのも仕方ないことなのでしょう。


●一昨日の昔の会社仲間のゴルフコンペは、曇り時々小雨、の予報にもかかわらず4組15名が集いました。

幸い、スタートする頃には雨も上がりこの分なら、と9ホール目まで来て、もし昼の食事タイムに多少の雨があっても何とか回れるだろう、などと言ってる矢先、驟雨が襲い5分も経たず濡れネズミになりました。

冬用のゴルフウエアは多少の雨には大丈夫と思っていたのですが、パンツまで氷雨が浸みとおりました。家人の「ゴルフよりも健康維持」という警告が脳裏に浮かび、生まれて初めて棄権しました。

●「日中歴史共同研究」その5

第二部第一章 古代中国文化の日本における伝播と変容 宋成有

本章では古代の中国の日中両国の文化の関係を如何に理解し捕えるべきか、すなわち古代中国文化の日本への伝播、古代日本の中国からの異質な文化に対する導入過程における適応と創造、日本文化の形成とその特徴、古代文化と日本伝統文化の関係などのいくつかの問題をめぐって、一つの見方を提示し、共に討論を広げることを期待したい。
(寅七注:中国側の委員の発言は総論とか原則ということでは素晴らしい発言をされますが、各論ではかなり姿勢が違った発言が見受けられるようですのでそのあたりを気にしながら読んで行かなければ、」と思っています。)

第一節 古代中国文化の日本への伝来


1.日本に伝わった中国古代文化の要素
(寅七注:この章では膨大な論述がありますが、常識的な記述はわざわざ紹介するのも煩雑ですので、気になったところのみ著者の記述を紹介します。時間のある読者の方は、外務省のホームページに報告が出ていますので、そちらで原文を読んでみてください。URLはブログ記事末尾に記しておきます。


(1)漢字(略)


(2)儒教:(その渡来から奈良・平安期に至る儒学について著者の主張の要旨 by寅七)

儒学が日本に伝わったのは『日本書紀』によると、応神天皇16年(285)に百済から自らを漢の高祖の後裔という王仁が『論語』などの典籍を持って渡来したという記録が最も古い。

6世紀の継体・欽明両天皇の時代には百済王の命を受け、数多くの五経博士が海を渡った。大化改新後、大学寮と国学などの教育機関で『論語』その他の儒学の経典が講義され、751年に編まれた『懐風藻』は、王仁の啓蒙以来日本が「気風は儒学に傾斜し、人は斉魯に趨く」として礼儀の国になったと称賛し、漢唐儒学が日本に伝わった社会的効果をはっきりしめしている。(以下略)
(寅七注:儒教には女性蔑視という基本的立場がある。儒教が伝わった日本で、10~11世紀に紫式部や清少納言など女流作家が輩出したのは、儒教が入ってくるなり日本化?して変質したのではないかと思われるがその辺の考察が無いようだ。)


(3)道教(略)

(4)漢訳仏教(略)

2.伝播の特徴
(1)絶え間ない伝播(略)
(2)伝播ルートの多様性(略)
(3)広く深い影響
(寅七注:この「広く深い影響」で、稲作文化が述べられる。この部分がちょっと気になるのです。)


●中国から有形無形の文化が次々と絶えず日本に伝わり、広範な影響を及ぼした。
そのうち、稲作文化は日本に伝わってから、日本に根付いて芽を出し、たくましく成長し、永く続く農業構造と食生活に影響を与えた。
最近の考古学的発掘と測定分析によれば、うるち米の栽培は少なくとも7000年前に、中国長江中下流域の広大な地域で行われていた。
1973年に浙江省の河姆渡遺跡で、平均の厚み約40~50ミリ、総重量100yトンを超えると見込まれる籾の堆積層が出土した。
2007年の杭州跨湖橋遺跡の考古発掘では、中国の水稲耕作は7700年前に始まったことが更にわかった。朝鮮半島あるいは東海(訳注:東シナ海)を横断する海上の道を通り、縄文末期都弥生時代にうるち米の栽培が日本に伝えられた。
1978年福岡市の板付遺跡では、土器の中で炭化した籾殻の痕跡が見つかり、、水田と水路遺跡などが発見され、大量の物証がえられた。
(寅七注:この論述には首肯するが、雲南省とかアッサム地方が原産地であるとされた従来の見解が覆されたのは、「ジャポニカ」種というイネの遺伝子研究から、中国長江が原産地とされたというように記憶する。

「ジャポニカ」という言葉に拒絶反応があるのか、単に「うるち米」という表現になっているように思えるが?

また、「縄文末期~弥生期に渡来」として、絶対年代を入れていない。「稲の渡来」時期につては、今回の宋成有氏に限ったことではなく、「日中歴史共同研究」の中国側の他の論者にも共通している。中国正史に記載のある「徐福伝説」に外れないような気配りかな、と思うのは僻目かな?)


●(以下要約)そのほか、①思想面では儒学、②政治の面では律令政治、③文学史学の面では漢詩や日本書紀ほかの史書の編さん、④芸術面では、唐楽を取り入れた雅楽、唐風建築様式、彫刻作品、水墨画、書道など中国のものを基としていないものはなく、⑤教育面では、『論語』、『四書五経』、『千字文』など各種の書物が教科書として長期き渡って伝えられ、⑥科学技術面では、天文、暦法、地理、漢方医学、数学知識が続々と伝わり日本で喜んで伝えられている。⑦節句や祝日の面で、中国の元旦、端午、七夕、重陽などの節句が伝統的な日本国歌の祭日となっている。


●要するに、古代中国文化を離れての日本の伝統文化の形成と発展は、創造しがたいということだ。中国の文化要素の客観的な存在を否定するのは、学術研究の健全な発展にとり、雅いこそあれ益のないことで、結果として徒労に終わるものである。
(寅七注:「中国の文化要素の客観的な存在を否定するのは云々」と、存在しているかどうかわからないそのような極端な説が日本に蔓延している、という前提での論述のようで、著者に日本の現状について錯覚があるようだ。)


次節で著者は「中国文化の導入過程での変遷と創造」について述べているので、上記の「寅七注:」の疑問に感じた部分が解消されれば幸いだが。
(次回に」続く)

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/1/0131_01.html . )
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2015-01-21 08:41:14

「日中歴史共同研究」(4) 27.01.21

テーマ:ブログ

●先の日曜日に久しぶりにコースへ行きました。昔の会社の仲間との初打ちです。天気予報は晴れで勇んで早起きしました。車にゴルフバックを積みにいくと車は真っ白に霜に覆われています。暖機運転10分ほどで霜は溶けてくれました。
が、ゴルフ場も霜・霜・霜です。スタートする頃には日も昇り霜も溶け始めましたが、ゴルフ場は緑、つまり木が多いのです。木蔭になっているグリーンは凍っていてボールは止まってくれませんし、グリーン周りのラフは突き刺さるような剣山になった芝草が球を留めてしまいます。

分かっていてもなかなかそのような変化に、頭と筋力の連携した対応できなくなってきたのも年のせいかなあ、などすべて年のせいにしてブービー賞をいただきました。これもこれから段々とよくなるという辻占か、と自分に言い聞かせた初打ちの結果でした。

明日も出掛ける予定ですが、ブービーよりも悪かったらブログではどうホローしようかなあ。

●「日中歴史共同研究」その4です。


倭国と日本という二つの国があったと記載されている『旧唐書』の記事の解釈や、倭国の日本国への改名問題、郭務悰の数度の来倭の意味など興味ある見解が述べられています。


第四節 渤海国の建国と東アジア国際秩序の形成

●実際のところ、白江口の戦闘がおこるまでは、倭の側ではつとに闘志を高揚させ、唐朝中国と優劣を争おうとしていた。

661年1月、倭の斉明天皇は九州に赴き、自ら唐・新羅連合軍との戦闘を指揮しようとしたが、長旅の疲労により病に伏し逝去した。そのため倭軍の朝鮮半島出征計画は熟考を延期せざるを得なかった。

研究によれば、白江口の戦闘においても、倭軍の自負や、自軍の実力への過大な評価、唐・新羅連合軍の実力の軽視などによって、無鉄砲な戦いを挑み、結果として惨敗を喫することになったことが分かっている。


●白江口海戦の惨敗は、倭国朝廷が全く予想していなかったことであった。心情的には自信満々で唐に対抗しようとする興奮状態から、一気に閉塞状態へと落ち込んだ。唐朝の一挙一動のすべてが、倭国朝廷を恐怖に陥れ、大軍が国境に押し寄せ、列島の安全を脅かすのではないかと不安にからせた。

『日本書紀』の記述によれば、664年5月、百済駐屯の将軍は郭務悰を使者として倭国に派遣した。12月、郭が立ち去った後、倭王は命令を下して対馬島、壱岐島、筑紫国に防人と烽火台を設置させ、また筑紫国には水城も作らせた。翌年8月、さらに筑紫国に大野、基言肆の両山城を築いて唐軍の来週に備えた。
667年11月、唐の使者法聡が倭に到着する。まもなく、倭国は対馬海峡一帯に高安、屋島、金田の三城をそれぞれ築いた。
668年に唐朝が新羅とともに高句麗を滅ぼすと、唐朝が倭国に出兵すると噂されたため、倭は一方で河内鯨を使者として唐朝に派遣して虚実を探らせ、一方では高安城などの守りを固めた。天智天皇はこうした危機的な国際環境の中で、心労から病を得て逝去したのであった。
(寅七注:この中国側の見方は、自説に都合がよいところは「日本書紀」の記事を無批判に取り入れている。また、『日本書紀」に記された度重なる郭務悰来倭関係記事は、すべて『日本書紀』の記述の誤り、としている。)


●『新唐書』日本伝の記述には「670年に使者を派遣して来て高句麗を平定したことを祝った。後に次第に中国の言葉を理解するようになって、倭という名を嫌って日本と改めた。

使者の言葉では、国が日の出の場所の方角にあるので名前にしたという。日本はかって小国だったが倭を併呑したともいう。使者は実情を述べなかったのでこれは疑わしい」とある。
倭国が日本へと改名した理由とその時期については、学会ではすでに多数の研究が行われ多くの学説が存在している。

いま東アジアの視点からこの問題を検討すると、倭国が日本へと改名したのは、戦争による打撃を回避するためであった可能性が高い、とする説(台湾の徐先堯氏)にほぼ同意したい。

一般的に、改名は670年前後に行われたと考えられているが、遅くとも河内鯨が派遣された669年すなわち唐と新羅が高句麗を滅ぼした翌年には行われていただろうと私は考えている。なぜなら、時期的に、百済と高句麗が相継いで滅亡したことは倭国が新たな国名に変えようとするに充分な動機になり得るし、河内鯨が出使して高麗を平定したことを祝った」ことはことは国名を改めたという情報を広めるのに格好の機会であったからだ。
(寅七注:唐の武則天(在位690~705年、則天武后ともいう)による承認(『史記正義』の「武后、倭国を改めて日本国と為す」の記事)、という説については何も述べていないのはなぜ?
国名変更を、単なる改名というように持って行きたいように見える。しかし、『旧唐書』で、「倭国」と「日本」の地理的表現は明らかに異なる。それにも頬かむりしてよいのかな?)

●(河内鯨の遣使後は)701年に第八回遣唐使が派遣されるまでの間、三十年間あまりにわたって日本と中国の間には一度も使者の往来がなくなるが、その理由は主に両国と統一新羅との関係が転倒したからである。
(寅七注:670~701年の間、日中の往来がなくなる、という中国側の歴史認識は664年から701年の帰国記事に見える、「郭務悰」の存在を(中国の史書に見えないという理由で)無視したための大きな誤りではないかな?

また、670年から676年が唐新羅戦争の期間である。倭国に滞在中の郭務悰が帰国するのが『日本書紀』によれば672年5月である。この朝鮮半島における唐新羅戦争と無関係と思われないが。)

●すでに657年に、倭国が、新羅と百済の紛争において百済に肩入れしたことから、新羅は倭国との正式な通交を断絶していた。しかし、高句麗が滅んだ後は、高句麗の南部領土の帰属をめぐって東都新羅との間に確執が生じ、新羅を同年(668)のうちに日本に使者を派遣した。
その後700年までの32年間に、新羅は日本への使者を合計29回派遣し、同時に日本も新羅へ使者を11回派遣しており、両者の往来は平均で1年1回以上となり、恒ならぬ密接さを見せている。
この時期の新羅は唐朝に対抗するという目的のために、日本との良好な関係を必要としていたことは明らかである。また日本も地域政治のなかで勢いに乗じる軌会とみなして、唐朝と関係を改善する機会をを放棄してしまったのである。

●ところが7世紀末に唐と新羅の関係が次第に好転してくるに従い、新羅と日本との関係は再び冷え込み、日本人もついに目を醒ますこととなった。7世紀と8世紀の変わり目に東アジア国際関係の重大な転機が現出したのは、主として中国東北部に渤海国(698~926)が現れたからである。
高句麗滅亡の後、唐朝はさらなる経略を行わなかったばかりでなく、設立したばかりの安東都護府を朝鮮半島の平壌から遼東へと撤退させた。それは唐朝の戦略に限界があった=和平共存という中国の伝統的思惟の影響があった=がかりでなく、西方で吐蕃王朝(629~846)が台頭してきたからでもあった。
(寅七注:中国は朝鮮半島を直接支配したかったと見るのが客観的な見方ではないのか。ここで著者が「和平共存という中国の伝統的思惟」といったり、郭沫若の「実事求是」の精神で判断すると言ったりするのとは異なる判断基準がみられるようだ。

●(吐蕃の勃興は)東突厥にも復興の機会を与えることになった。・・・・・ついに682年東突厥汗国を建国した。・・・・東突厥の復興によって唐朝の辺境で大きな騒擾が生じ、唐朝は東部の防衛線をさらに収縮させざるを得ず、東北部の辺境防衛にあたっていた営州(現在の遼寧省朝陽)の兵力をも東突厥の平定に振り向けることになった。(営州の重要性 中略)
営州で騒擾がおこったことは、東北アジアの政局に東北アジアに大規模な連鎖反応を引き起こした。

・・・・・696年、まさに武周の朝廷が吐蕃、突厥の双方と戦いに悩まされ、腹背から敵の挟撃を受けていた時、営州は契丹系反乱分子に占拠され一年有余続いた。(中略)
渤海靺鞨の興起は唐朝に新羅との関係改善と同盟関係の修復を促した。渤海は建国後、中国東北部で勢力を拡大するばかりでなく、朝鮮半島にも領土を広げようとし統一新羅の発展を阻害した。

唐朝は渤海の国力を充分にけん制するために新羅と良好な関係を保ち渤海とを両面から抑制する必要があった。また新羅も中国との伝統的な友好関係を回復させることを望んでおり、一面では唐朝との同盟関係を頼みに渤海と政治的に拮抗しようとし、また一面では唐朝の先進的文化を大いに吸収し自国の発展を促そうとした。

●唐と新羅の政治的関係に重大な変化が生じたのはやはり8世紀30年代初頭である733年に唐玄宗が新羅に対し渤海を挟撃するための出兵を要請すると、新羅はすぐに積極的に呼応した。この時の軍事活動は冬季で雪のために撤兵することになったが、新羅の誠意に報いるために、唐朝は新羅の国境の北辺を現在の大同江と定めることを正式に承認している。これにより両国は長期的な友好関係を保ち、全面的に発展する段階に入った。
(寅七注:大同江は平壌南部を流れる河である。5世紀以後の高句麗の首都でもあった平壌を含む旧高句麗領域は新羅領とならなかった。旧高句麗領域にのちに渤海が興る。韓国の歴史教科書の古代史では、高句麗や渤海も現代韓国の祖国として取り扱っている。(国定韓国高等学校歴史教科書による))


●総じて、8世紀30年代に唐と新羅が同盟関係を回復した後は、両者の連携関係は日増しに密接になり、こうした関係は統一新羅の社会発展にとても有利だった。
8,9世紀、唐と新羅の戦略的連携を軸に、東北アジアの政治的形勢は程良い均衡状態を保つになり、これによって国際秩序は二百年間近い安定した情勢を維持することとなった。

●日本は白江口における惨敗を教訓とし、天智天皇以後の歴代天皇はいずれもその原因を深く反省した。そうした中から彼等は、当時の日本が唐朝に対抗できる国力を持っておらず、日本が東アジアの強国となるためには、中央集権体制を整え、王権を確立し強化して、富国強民の国内政策を行わなければならないと悟った。事実、白江口の戦いの後四十年近い努力を経て、日本は様々な面で長足の進歩を遂げた。日本の統治者たちが白江口での惨敗によって得た第二の教訓は、日本の政治、経済、文化を迅速に発展させるには、平和な環境が必要なばかりでなく、さらに大陸の先進文化を吸収しなければならないこと、そのためには近隣の国家と友好的な関係を確立することが極めて必要であることを深く身にしみて理解したことであsる。よって、続く奈良時代は対外関係の新時代となる。
(寅七注:何かお説教を聴いている感じがする歴史叙述である。 ここでもう一つの当事者新羅の言い分を現代の『国定韓国高等学校歴史教科書』のこの当時の記述をみてみるのも参考になるだろう。


【III 古代社会の発展 3 三国統一 新羅の統一
百済、高句麗が倒れると唐は百済の昔の土地に熊津都督府をおき、再び高句麗占領以後、平壌に安東都護府を設置し、はなはだしきは新羅本土に鶏林都督府をおいて、韓半島全体に対する支配権を確保しようとした。これに対して新羅は百済、高句麗の遺民と連合して、唐と全面的に対決した。
新羅の対唐戦争は、百済地域の駐屯軍を攻撃することから着手され、つづいて高句麗地域まで広げられた。唐もやはり新羅の攻撃にあって、侵略軍をひきつづき投入したために熾烈な戦闘を各所で展開した。新羅は買肖城で唐の20万の大軍を大いに撃破し、いったん戦争の主導権を掌握した。つづいて、錦江河口の伎伐浦でも唐の水軍を殲滅し、唐の勢力を完全に追い出したことによって三国統一を成し遂げた(676年)。
三国統一は、その過程で外勢の強力を得たという点と、大同江以南の統一にとどまったという点で限界がある。しかし、新羅が唐の勢力を武力で追い出した事実は、三国統一の自主的性格をみせている。(後略)】

●白村口の敗戦の後、特に日本が唐朝文化を学び律令制国家を建設した後は、その国策は地域政治へ積極的に参与したかっての姿勢から国内政策へと収斂し、平和と成長の方向に転向している。

森公章士の近著『白村江以以後】第3章第5節「消極外交への返還」と題し、半島外交の放棄、耽羅の援助要請の拒絶、党あさとの通交の回避、新羅の朝貢、唐風化のモデル、「小中華」観の形成といった内容が述べられている。これらはもはや明確に説明することができる。第八回以後の遣唐使は唐朝文化の学習に力を入れるようになったとはいえ、決して唐に冊封を求めようとはせず、「蕃国」と同等の地位に甘んじており、従前と比較すると、これらはみな政治の内向的な修練の表れとみてよい。


●(この国策の変更は)第一に海外に派兵する軍事作戦を行わなくなったことである。文献の上では(『三国史記』新羅本紀八に、日本へ言が300艘が新羅東部に襲来とある)何度か新羅征伐が記載されているものの、いずれも実行には至らなかったようだ。
第二に、地域政治に関して交代して防御の体勢を取っていることで、白江戦の後および安史の乱の都基なども同様である。
第三に、保守的な外交を行っていることである。8世紀からは新羅との往来が次第に減少し、779年以後は両国の国交はすっかり途絶している。唐朝との間では文化の学習が主であったため、得るものは多くあたえるものは極めて少なかった。渤海との関係は唐朝との関係とは逆で、おもに渤海の側が海上貿易を発展させることを望み、日本側は極力これを制限しようとした。
(寅七注:日本と新羅間が疎遠になったのは、唐ー新羅間が険悪になっていたことと関係があるという視点がないのが気になる。)


●海の向こうから艱難を乗り越えてやってきた渤海の貿易使節団を追い返したりしていると、後に、いわゆる「海賊」が誕生することになった。こうしたことから、一部の研究者が描いている「小中華」という華麗な外見の下には禁輸鎖国の実態がかくされていたことが分かる。
周知のように、日本のいわゆる律令国家とその極めて特徴的な伝統文化は、主にこの時期に形成されている。それはまさの「塞翁馬を失うも、いずくんぞ福にあらざるを知らんや(塞翁失馬、安知非福)」という通りであり、この時期の歴史を回顧することは大いに啓発される所がある。
(寅七注:最後の「塞翁が馬」には同感するが)


一応これで7~8世紀の東アジアの歴史の政治的面の記述がおわり、次回は「中国文化の日本への伝播」に進みます。

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2015-01-17 11:12:38

「日中歴史共同研究」(3) 27.01.17

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●昨年の、頸動脈や心臓周りの動脈硬化の検査では、梗塞を起こすほどの血管の状況ではない、という事でしたが、血管年齢は90代です、と脅かされ?ました。

機会があったので、脳のMRI検査を受けて見ました。幸い、アルツハイマーや水頭症などの徴候は見られない、ということでした。しばらくはブログなども続けられそうです。


●「日中共同歴史研究」ですが、新羅が半島統一を達成したころの歴史(中国側から見た)の叙述に入ります。
これが、ちょっと、寅七の頭の中にある「歴史認識」と異なります。改めて「当事者韓国」のこの当時の歴史認識を知るため韓国の歴史教科書など改めて読み直しているところです。

「日中行動歴史研究」その3

第三節 新羅統一が東アジア国際関係におよぼした影響

●倭国は長期にわたって朝鮮半島の経略を積極的に行ってきた。一方、隋唐は両代にわたって地理政治的な要因によって高句麗を攻撃、征伐していたとはいえ、隋唐王朝が朝鮮半島情勢に介入して行ったのはむしろ、主として朝鮮半島の新羅が巧に計画、実行した統一戦略によって巻き込まれていったものだ。

新羅の目的は朝鮮半島の大同江以南の三韓故地を統一することであり、そのため百済を消滅させることが主要な戦略的もくてきであった。(p8)
(寅七注:中国は歴史的に朝鮮半島を支配下におこうと、様々な機関を中国の経略のために置いたことについては論じていない。なぜ?)


●新羅が唐朝を巻き込んだ方法は単純なもので、何かにつけて唐朝に新羅だけが東アジアの中で唯一信頼できる忠実な盟友であると思わせ、何事にも唐朝を頼みにしたのである。例えば、隋唐領朝が相継いで高句麗を攻撃、征伐した際、新羅は高句麗と盟を結ばなかったばかりか、643年には唐朝に対してくだらが高句麗と親しく通交しており、党項城を取って新羅が入朝する進路を閉ざそうとしていると告発している。(p10)
(寅七注:中国は鷹揚なライオン的王者で、新羅は狡猾なキツネ的な見方が根源にあるようだ。)


●665年新羅王金春秋はまた百済が高句麗、靺鞨の兵と北側の国境に侵攻し、すでに30カ所以上の城が落ちたと上表した。

唐朝は新羅をこの挟撃かの危機から救うために高句麗を挟み撃ちにする体制を整え、高句麗を滅ぼすために先に百済を伐ってその重要拠点を占領しようと、百済を消滅させようとするのは必然の成り行きであった。

660年、百済は唐・新羅連合軍に一挙に攻め滅ぼされた。その後、百済の旧将福信と僧人道琛は周留城で抵抗し、王子扶余豊を倭国より迎えてこれを王とし、復国運動を展開した。

664年の第三回遣唐使帰国の際に、王の国は新羅に近い。新羅は高麗・百済に侵攻されている。もし危急のことがあれば、王は兵を出してスラ義を救うように、と述べたが、倭国は自負心から勧告を聞き入れなかったばかりか、かえって唐朝に対抗しようという思惑をつのらせ、百済の復興を助けるために敢然と出兵した。(p10)

●日本の史料では「白村江」とするものが多いがその理由は未詳。韓国史料では白馬江であり、漢文資料は白江とする。663年の白江口の戦闘については『旧唐書』劉仁軌伝の記述が最も詳細である。(p11)(中略)引用資料の記述からもわかるように、唐・新羅連合軍は綿密に計画を練っており、本来は水路の要衝である加林城を迂回し百済復興運動の中心地となっていた周留城を伐とうとしていたのだが、結果として思惑が外れ、逆に加林城付近の白江口で倭の水軍との間に大きな戦いがおこる。この会戦は唐軍にとって、白江口で倭軍と戦闘がおこったことは、全くの予期せぬ事態であった。(それは資料が「遇」という字を用いてこの事件を記している理由でもある。)(p11)


●(大体唐は対高句麗を主敵としていたのになぜこのような)鉢合わせによる戦闘がおこったのだろうか。その根本的な原因は唐朝が東アジア戦略の重点を南ではなく北に、倭ではなく高句麗に置いていたため、君臣上下の誰もが倭国や倭の兵を意に介していなかったからだと私は考える。

唐人のこうした意識は、『旧唐書』百済伝の記述と照らしあわせるとより明確になる。「扶余豊は福信が自分を殺そうとしていることを知って、側近を率いて彼を殺害し、高句麗と倭国に使者を派遣して援軍を要請し、漢軍に抵抗した。孫仁師は中途でその軍を迎撃してこれを破り、遂に仁願の軍と合流したので兵の勢いは大いに上がった。仁師、仁願および新羅王近法敏は陸軍を帥いて進み、劉仁軌及び別帥の杜爽・扶余隆は水軍と糧船を率い、熊津江から白江に向かって陸軍と合流し、ともに周留城に向かった。仁軌は扶余豊の軍と白江の河口で遭遇し、四度戦ってみな勝利し、船四百艘を焼いた。(攻略)(『旧唐書』百済伝)
(寅七注:ここに出てくる扶余隆という人物が元百済国王であったことに著者は全く言及していない。扶余隆が百済降伏後唐に捕虜として連れ去られ、その後、唐朝が熊津都督を任命されて帰国したことは伏せられている。なぜか?)


●(孫仁師の兵が高句麗の兵を破り)兵の勢いは大いに上がり前途に強敵なしと考えた。そのため、白江口の和平もここでは「扶余豊の衆」とされ、捕えられた俘虜さえも、百済の附庸であるとみなされた。したがって戦いが終わると、唐朝の大軍の人馬は引き返して凱旋している。
(寅七注:旧唐書の記述によれば、唐朝は倭国を特に軍事的に重要視していず、百済復興運動に若干の助力をしただけ、と見ていたのだ。したがって『日本書紀』が記す郭務悰らの6度の派遣という記事は必ずしも事実ではない、と言いたいようだ。次項参照)


●(『日本書紀』には)白江口の戦いの翌年(664年)「夏5月戊申朔甲子の日に、百済に駐屯中の劉仁願は朝散大夫の郭務悰らを派遣して手紙と贈物を届けた」とある。

この後、665、667、669、671年にはいずれも唐朝の使者が倭に派遣された。この事実によって、日本の研究者西嶋定生は、事実上、白江口の勝利を契機として、唐朝の倭国に対する活動も突然積極的になったと考えている。

またこれらの使節団は一回に船47艘、随員二千人を数えたこともあり、決して和平の使者ではなく、威嚇のために完全武装でやってきた遣使団であったとする。

西嶋氏はさらに、666年に唐の高宗が泰山で行った封禅までも白江口の戦勝と関連づけている(西嶋定生『日本歴史の国際環境』)。
(寅七注:西嶋氏の見方を出し、それが日本側の定説として論じているが、『日本書紀』そのものの記述には、そのようトーンではなく、唐を敵対視するような記述はみられないのだが?)


●(唐からの威嚇的使節団であったという見方について)明らかにこうした見方は敗戦側の倭国の感覚から生じたもので、客観的に事実を求める姿勢とはいえない。
まず指摘しなければならないのは、日本の史書に記載されているこれら唐人の遣使が、漢文史籍にはまったく見られないことだ。また、664年奈津5月の「百済鎮将劉仁願」も存在しないことである。

白江口の戦いの後、劉仁願と孫仁師は唐の大軍を率いて凱旋帰国し、劉仁軌だけが駐屯するために残った。これは『資治通鑑』によれば663年9月のことであり、天子との会話にも百済に劉仁軌を残してきたことが出ている。

664年、劉仁軌が百済に駐留している兵の交代を陳情(上表)している。これらをみれば、『日本書紀』の記載は誤りだということがわかる。

(寅七注:ここでも、中国の史書の記述にない蕃国の史書の記述は信用できない、というトーンで意見が述べられているようだ。)


●次に、資料には明確に記載されていることだが、白江口の戦役の戦いの後、「百済の城はすべてが再び帰順し、孫仁師や劉仁願らは兵を整えて帰還した」ので、勝利に乗じて倭軍を追撃し首都を脅かそうという意図はまったくなかった。

そうした行動は唐朝の東北アジア戦略を見ても、白江口の戦役の遭遇戦という性質から見ても、合理的に理解出来ることである。


●(劉仁軌の上表によれば)兵は疲れ装備も十分でなく士気も衰えていて、このままだと高句麗と戦うに万全とは言えず、兵の入れ替えを陳情している。

当時高句麗はなお「辺境の強国」であり疲弊した唐軍は百済に駐屯し、高句麗の勢力に及ばないことを恐れているのに、わざわざ遠方の倭の国との間に波風を立てるわけがないではないか。


●実際、唐朝中国の倭国についての理解には限界があり、倭国を上手く経略することはまったく不可能だった。

『旧唐書』日本伝も記述には、「日本国は倭国の別種である。日の出の方向に国があるので、日本と名付けた。また、倭国がその名が雅やかでないのを嫌って日本と改めたとも言う。また、日本は古くは小国だったが、倭国の領土を併呑したという。日本人が入朝するときはおおかた自分を誇張して大きく見せようとし、実をもって応えようとしないので、中国はこれを疑った」とある。
これによれば、『日本書紀』の記述通り白江口の戦いの後に唐の使者が頻繁に倭を訪れたということが、仮にあったとしても、やはり百済の故地に駐屯していた唐軍の、虚勢を張って己を守らんとした示威行為であるにすぎないだろうし、滅亡した国から倭国へ逃げた百済の難民があおりたてたことも、敗戦側の倭国の過激な反応を後押ししただろう。

総じて、唐朝中国の史籍にまったく記載のないということを考えると、唐朝と倭国の関係における重要な問題点について倭の側の一方的な言葉だけをうのみにしすることはできない。
(寅七注:著者の言うことが今一つはっきりしない。『新唐書』の「実をもって答えず」というのが、「日本国は倭国の別種」ということをさしているのか、「倭国が単に日本と名を変えたのか」それとも「日本が倭国を併呑したこと」を指しているのか、あいまいである。

『新唐書』が「日本伝」一本にまとめていて、天皇の系譜を述べていることをそのまま著者は紹介しているので、「倭国が単に名前を変えた」という立場をとっているようだが?)

●百済が滅亡すると、高句麗に侵略、占拠されてた百済の旧領地を奪い返すことが、おのずから新羅の統一事業の急務となった。

666年、文武王は百済を滅ぼしたので高句麗を滅ぼそうと、唐に援軍を要請した。

66年12月、唐は李勣を大総管、安陸と郝処俊を福館として高句麗を討伐した。668年9月、高句麗は平壌で降伏した。(『資治通鑑』巻201)
高句麗の滅亡は朝鮮半島で統一新羅(668~935)が成立したことを示し、これは東アジア国際関係史において画期的意義を有する重大な事件であった。
(寅七注:熊津都督府とか、扶余隆が都督に任命されたことなどに全く触れていないのはなぜか?これについては次の第四節「渤海国の建国と東アジア国際秩序形成」の項で再度出てくるのでそこで触れてみたい)

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2015-01-14 15:18:33

「日中歴史共同研究」(2) 27.01.14

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●先日古代史の勉強会で小郡埋蔵文化財調査センター所長の片岡氏の「青銅器はなぜ埋められたのか」という話を聞きました。
発掘調査を実際に手がけられ、発見時の状態を数多く実験されている方ですので、なかなか説得力がありました。

埋納には再度掘り起こしされたが、ある時から掘り出されることのなかった忘却型埋納と、最初から掘り起こす意思がなかった祭祀型埋納に分けられる、という説明でした。

しかし、忘却型の「掘り起こすのはなぜ」というところは依然として合理的な説明をするのは難しいようです。


「なぜ埋められたのか」という問題とは別に、片岡所長は、渡来人居住遺跡と鋳型出土との関係を研究した結果、青銅器の製造は、有明海沿岸の方が玄界灘沿岸よりも早い、と次のように説明されます。

「玄界灘沿岸地域は朝鮮半島から直接青銅器を手に入れる事が出来るが、有明海沿岸部は難しく自分たちで製造せざるを得なかったのではないか」と。


つまり、鳥栖・佐賀地域の細形銅剣鋳型は弥生初期のものであり、玄界灘沿岸地域には弥生初期の鋳型の出土はない、という前提での話です。


古田先生の『ここに古代王朝ありき』を開いてみますと、北部九州での鋳型出土例は「樋口隆康編『古代史発掘』5からの引用がされています。そこでは、銅矛鋳型の出土は福岡市・春日市・糸島郡のみとなっています。しかし樋口先生の本は1974年の出版です。


最近の鋳型出土について調べてみましたら、東大考古学研究室の研究紀要で2002年に後藤直教授(当時)が「弥生時代の青銅器生産地―九州―」というタイトルで発表されていました。かなりの量がある論文ですが、なかなか詳しく調査されています。


ついついそちらの方に向いてしまいますが、やりかけの「日中歴史共同研究」の方をまずまとめなければ、と思っています。年のせいとは思いたくないのですが、二つの事を同時に行えるような脳のキャパシティが、寅七にはもうなくなっていると自覚させられています。


●「日中歴史共同研究」を読んで(2)

前回の続きです。総論に続き王小甫氏の七世紀の東アジア史が語られます。ここで取り上げる文章は、寅七が気に入ったところや気になった部分を取り上げて、寅七の感じたところをメモ書きしたものです。

第一部第一章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  王小甫


第1節 早期の東アジア国際関係


●倭が地域政治に積極的に介入しようとする進取的態度の発展は次の3段階に分けられる。


1.倭人諸国から邪馬台国に至る時期。倭は主として地域社会に積極的に参入しようという願望を見せ、「漢委奴国王」、「親魏倭王」といった藩属関係とその名号に満足していた。


2.統一後の倭の五王の時期。倭王は引き続き中国王朝の冊封を受けることを求め、それによって自らの国内的権威や国際的地位を高めようとした。

3.遣隋使。国際的地位や文明程度の高まりに伴い、倭国はもはや冊封を求めず、中国との対等な関係を勝ち取ろうとした。
(寅七注:倭の五王が忠節を尽くしたのは「宋朝」であり、それを倒して成立した「隋朝」は「敵」であった、という見方をとることは中国にはできないのかな?)


●倭が国内で統一と発展をなしとげ、(好太王碑文に見られるように)同時に朝鮮半島で不断に勢力を拡大していった頃、中国は「五胡十六国」の混乱を経て、南北朝時代に入る。

413年、倭は中国との通交を再開した。420年、中国南方で劉裕が晋に代わって宋朝を建国し、439年には北魏が中国北方を統一する。

この期間に相継いで中国の南朝と友好関係を築いた倭国の讃、珍、済、興、武の五人の大王は、『日本書紀』所載の仁徳、反正、允恭、安康、雄略の五王であると多くの研究者がみなしている。(p4)
(寅七注:倭の五王が日本の正史『日本書紀』に全く出ていないことについて、中国側の意見はないのかな?)


●倭王が百済を都督しようとする要求を幾度提出しても許可されなかったとはいえ、朝鮮半島における勢力を包含する名号が中国の皇帝の認可を得たことは、東アジア諸国関係における倭国の地位を相当程度に引き上げ、倭王の国際的な声望を高めた。

第2節「白村江の戦い」と東アジア関係


●隋朝が中国を統一したにもかかわらず、倭王はさらに冊封を求めることも受けることもしなかった。そればかりでなく、国際的地位と文明程度の向上に伴って、対中関係の上でもますます主体意識を強め、中国と同等の地位を得ようとする態度を露わにしていった。


第二回遣隋使の国書「日出処天子・・・」(日が昇る場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す)と記し、第三回遣隋使の国書では「東天皇敬白・・・」(東の天皇が西の皇帝におうかがいする)ときしたことにこうした態度が明らかに表れている。唐代初期に至るまで、中国に遣わされる倭の使者のこうした政治姿勢はまったく変化しなかった。
(寅七注:第三回遣隋使が持参したとされるこの国書は中国の史書になく、『日本書紀』にあるだけだが?)


●(倭国の「日出処天子・・・」の国書に)煬帝はこれを不快に思い鴻臚卿に「蛮夷の国の書に無礼なものがあれば、二度と知らせるな」と言った。

翌年文林郎裵世清を使者として派遣した。これは煬帝が倭王の国書を受け取っておらず、裵世清が倭に赴いたのも対等な国交の答礼使としてではなく、単に遠くから使者を派遣し朝貢にやってきた蛮夷の国に対して褒賞の意を表し勅諭を伝えるためだったに過ぎないと一般的に考えられている。
(寅七注:確かに裵世清は国書を帯同したとは隋書には見えない。『日本書紀』の、国書を裵世清が持ってきた、とか、小野妹子が国書を盗まれたなどの記事は、「『日本書紀』には誤りが多い」として片づけているようだ。「・・・・一般的に考えられている」というのは責任逃れのように思えるが?)


●(第一回遣唐使犬上君三田耜の翌年631年)使者が朝貢すると皇帝は使者が遠路やってくることを矜み、有司に詔して歳貢にこだわらなくてもよいとした。

新州刺史高仁表(旧唐書では高表仁)を派遣し諭そうとしたが倭王と争礼が生じたため、天子の命を宣べることなく帰朝した。研究によれば、「争礼」とは「天皇、御座を下り、北面して唐使の国書を受く」という礼儀上の争いであった可能性が高い。


(寅七注:各史書の記事の齟齬する部分の扱いは、後代に書かれた史書の方が正としているようだ。『魏志』の「邪馬壹国」→『後漢書』の「邪馬台国」、『隋書』の「俀国伝」→『北書』の「倭国伝」、『旧唐書』の「高表仁」→『新唐書』での「高仁表」、『旧唐書』の「倭国伝と日本伝」→『新唐書』の日本伝などなど。)


●第一回遣唐使630年犬上君三田耜、第二回遣唐使653年高向玄理・学問僧と留学生を含む、第三回遣唐使654年新羅を助けよとの高宗の国書(唐会要)、第四回遣唐使659年蝦夷人を同道した・・・・、
(寅七注:遣隋使・遣唐使で『日本書紀』と「中国の史書」との不一致について、その解釈が整理されていないようだ。『旧唐書』の朝貢記事が『日本書紀』には記されていないし、653年の吉士長丹の遣使は『旧唐書』には記載ないのだが、これは『日本書紀』の記事のあやまりとはみなしていない。つまり、自説に都合よく、というか補完してくれる場合には採用し、そうでない場合には『日本書紀』の記事は信用できない、としているようにとれるのだが?)


●白江口の戦い以前に両国間には多年にわたる往来があったにもかかわらず、隋唐中国の国際的地位やその力について倭が正確な認識を持たず、あるべきはずの重要視もしていなかったことが分かる。

白江口の戦いは倭人の目の曇りを晴らし、倭人はそれによって唐朝中国の発達した政治文化と真剣に向き合い、学び、さらに自らの国家を建設し、自国の問題を適切に処理するようにまった。
(寅七注:両国間の問題として「隋の琉球侵攻」があるが、著者は全く触れないのは、琉球は日本と関係ない、という前提があるからとかな?

また、百済と倭国の両王家間は姻戚関係があったことが、倭国の行動への影響について言及があってもよいと思うのだが。)

以上で第二節が終わりです。次回は第三節新羅統一の影響です。

2015-01-09 05:55:59

「日中歴史共同研究」を読んで 26.01.08

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


●『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を読んで頂いた方からご自分の著作、知人の本など沢山恵送頂きました。

その中の一つに『河児哲司先生のお仕事』という手作りの冊子があります。旧唐津地域の史跡調査研究集(「郷土史誌末盧国」昭和59年松浦史談会所収)から私家版として作成されたものです。

河児哲司氏は1930年生まれで、唐津の菜畑の資料館「末蘆館」の館長をされた方です。
正月のビール&ポテトカウチ生活の中で、読ませていただきました。


唐津周辺地域の縄文~弥生遺跡を調査され、倭人伝の「末蘆国」の国都の所在は決められない、倭人伝に末蘆国を管理する官の記載がないのは、各地域が細分されていたからではないか、松浦半島を境にして東西では人骨の体格に相違がある、など興味ある発表をされていました。


●タリシホコの「天兄日弟」問題で、川本芳昭教授の説を調べていて、教授が「日中歴史共同研究」のメンバーであることを知り、その研究がネットでも見られる、ということを前回、及び前々回のブログに書きました。

ボツボツ読んでいるのですが、何しろ大部で読むにひと苦労です。とりあえず、中国側の古代史部分の「序章」を読んで、寅七が気にした処をメモに書きとめました。読み返してみると、寅七も「日本人」だなあ、と思います。


とりあえずその「序章」をアップしておきます。

序章 蔣立峰・厳紹湯玉・張雅軍・丁莉


●本研究では先人がすでに得た研究成果を総括した上で、さらに交流を通じて新しいことを見出したい。(p2)
(寅七注:「先人が得た研究成果」つまり定説尊重ということなのかな?)


●中国の二十四史は古代日中関係研究の重要な資料であり、その日本に関する記録は基本的に信用できるが、間違って伝えられている真実ではない箇所があることも免れない。日本の『記紀』を代表とする重要な資料の問題はおそらく更に多いので、双方がこれに注意しなくてはならない。(p4)
(寅七注:二十四史は基本的に信用できる、というが、二十四史の中での同一事件の記事に齟齬がある場合も多いのだが?)


●完新世初期、おおよそ1万年ほど前の氷河期後の海面上昇で、日本列島はアジア大陸と分離し、日本は狩猟・最終・漁労を主とする縄文文化の時代に入った。縄文時代はおおよそ紀元前300年頃まで続き、その後稲作と金属器を代表とする弥生文化の時代に入る。
(寅七注:著者は弥生時代の始まりを紀元前3世紀あたりに置きたいように思えるが?)


●(縄文から弥生へえの返還は斬新的ではなく)それは弥生時代に相当大規模な北方の大陸からの移民、もしくは南方の大陸と海洋からの移民が日本に到達し、同時に新しい文化、例えば水稲の栽培や青銅器の鋳造技術などの先進的な大陸文明を、本州西部と北九州にもたらしたというものである。これらの大陸移民は、次第に日本その他の地域の原住民を凌駕し、弥生時代以降、次第に現代日本人へと進化する直接の祖先となった。(p7)
(寅七注:「移民」、「大陸移民」という表現に異和感を覚える。)


●人口増加モデルと頭骨形態変化モデルのコンピューターによるシミュレーション研究の結果によると、弥生時代の始まったあとの1000年間に、日本列島の人口増加率は世界平均レベルをはるかに上回っており、大陸移民の数は推計で100万人以上にのぼり、弥生時代が終わった後の古墳時代には、原住民即ち縄文人の子孫と大陸移民との比は、西日本では1:9から2:8であった(古墳人における縄文人の直系と移民との混血率は、近畿では1:9、西日本では2:8、関東地区では3:7であった)。日本文化と日本人の身体的特徴の複雑な変化は、単一民族起原説を用いては説明のしようがない(注1)。(p10~11)(注1:安志敏「江南文化と古代日本」1989『弥生の使者徐福』)
(寅七注:混血児が30世代も経てばその遺伝子を持つ子孫が占める比率は当然大きくなる。ただし、その遺伝子が個体に占める濃淡度も薄まると思うのだが。著者は、「大陸移民」が日本列島にその言語が残せなかった、つまり、原住民の言語に埋没してしまうくらいの小集団であったのでは、ということを認めたくないようだ。)


●『北史』と『隋書』には、608年裵世清が「倭国に使し、・・・・・竹斯国に(筑紫)にいたり、又東して秦王国(博多)に至る。其の人華夏に同じ。以て夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり」と記している。この秦王国とは即ち徐福が当方の日本にわたって立てた国だと考える人もある。(中略)『魏略』『晋書』『梁書』『北史』『通典』などの記載によれば、倭人は「自ら太伯の後と謂」ったという。(p12)
(寅七注:秦王国=博多説はだれが唱えたのだろうか?正史に、秦王国は筑紫の東と書かれていることを無視してよいのかな?)


●紀元前300年に出現し、稲作を始めた日本の弥生人は、中国人を主体とする東アジア大陸の移民が大量に日本に到達したことと密接不可分である。これらの移民の拡散過程において、混血が発生したが、大陸移民の遺伝子の優勢は日本の原住民を凌ぎ、次第に進化して現代日本人となった。中世以後、日本人群には海外からの重要な遺伝子の漂着による変化はなかった。これによって導かれる結論は、現代日本人の人種の形成は、中国人を主体とする東アジア大陸からの移民の強い影響を受けたのであり、中国人と日本人の人種的関係は密接であると言うことができる。(p12)


●日本文化は、日本人の日常生活の衣・食・住・行・婚・喪・礼・学を含み、すべて中国文化の全面的で根深い影響を受けた。(p13)
(寅七注:言語体系に影響はなかったと思われるし、宦官・宮刑・纏足・科挙などの中国文化も日本文化に根深い影響を与えてはいないと思われるが?)


●日本民族はどうして大和民族と自称し、「大和」を「牙麻托(やまと)」と訓読するのをなぜかと問うたなら、恐らく応えられる日本人は十分の一に満たないだろう。しかもこれらの答えもあいまいではっきりしないだろう。現在の大和の地で実際に体験してみると、「牙麻托(やまと)」とは「牙麻莫托(やまもと)」の便宜的な読み方で、古代の倭人は即ち「山下」「山麓」の人であった。(p12)
(寅七注:「と」の表音文字に「托」を使うのはなぜ?「托」の上古音は「tak(タ)」と辞書にはあるのだが?「と」で検索すると、都斗途徒杜賭屠堵吐兎図土塗妬度渡登砥菟鍍頭肚刀など沢山あるのに。)


●日本民族は非常に早くから自らの音声言語を持っていたが、日本語中には大量の他民族言語の基本要素が混入している。(中略)音韻学の面から分析すると、日本語の語音は、中国古代の江南一体の呉音や、唐代になってからの長安一体の中原漢音、また宋・元以降の官韻が定める唐音との関係が密接ではあるが、呉音と漢音を主とする。(p15)

(寅七注:音韻学だけでなく、言語学での分析についてはどうなんだ?)


●弥生時代と古墳時代において、中国人を主とする多くの東アジア大陸人が日本に到達したことは、もし秦の始皇帝の暴政と焚書坑儒、及びその後絶えず発生した社会動乱を考えれば徐福のような知識人が、大陸移民の中で相当大きな比重を占めていたはずである。これらの人々が簡書・帛書・紙書を携えて日本に来たことは、完全にあり得ることであり、字書を携えずに日本に来たという方が却って不思議である。前に述べた徐福の「秦王国」は、いずれにしても字を持っていた国家であったはずである。(p16)
(寅七注:「字を持っていた国家であったはず」というのは推論であるが、「字を持っていた集団が存在した」というのは同意できる。だが、渡来して1~2世代くらいまでは祖先言語を使用していたであろうが、3世代以降は地域言語に同化したと思われるが?)


●中国の史書に記された、239年に魏の明帝が「詔書もて倭の女王に報ず」や、翌年に女王卑弥呼が「使に因りて上表し、恩詔に答謝す」は、邪馬台国が既に漢字の詔書を解読し、漢字を記して文章を表現する能力を備えていたことを示す。(p16)

(寅七注:『魏志』の邪馬壹国について一言も無い今回の共同研究には失望以外の何物もない。)


●日本人は、自由に漢字を運用できるようになった後は、もはや単に中国人をまねて漢文を読み、漢字を記しただけではなく、漢字・漢文を利用して日本固有の言語を表現することを考え始め、それが漢字と日本語のさらに一歩進んだ融合をもたらした。(江田船山古墳出土の鉄剣銘文にみえる日本人の人名「伊太加」など。『万葉集』では「音仮名」だけでなく「訓仮名」も登場など)(p18)


●(総括として)第一は江南地方に起源を持つ稲作農耕が東へと伝わり、日本列島の居住民が野蛮な時代から脱却し、文明の時代に入ることの最も主要な生産力の現れとなった。


第二に、紀元前3世紀から紀元後4世紀頃までに、大量の華夏族の移民が日本列島に移動した。彼等は当時の東アジアでもっとも先進的な生産技術を伝え、例えば、紡績・漆工・鞍作り・漢方医学などや、『論語』を代表とする漢文典籍がそれであり、物質と精神の両面において、日本古代国家建設のために強力な基礎を築いた。
(寅七注:著者は大陸文明のみが野蛮から』脱却させた、というが、縄文時代の独自の文化、巨木文化、栽培文化、陶器、石器加工などを「野蛮」で片づけているようで、その心情が淋しい。)


第三に、5世紀ころに、仏教が朝鮮半島を経て日本列島にはいった。これによって、1500年間に及ぶ日本の民衆の仏教信仰が始まり、その強大な文化の流れは、日本社会のほぼあらゆる生活面に根深く影響を与えている。(以下略)

(寅七注:仏教は中国文化なのかな?)


第四に、7世紀ころからの古代封建国家の形成過程において、聖徳太子の「十七条憲法」を代表として、中国の比較的成熟した豊富な政治観と道徳倫理観が、日本古代国家の基本的な政治理論の有効な構成要素となった。


第五に、『記紀』神話は、天皇の神聖さを宣揚する国家神話体系であり、日本民族の「天皇侵攻」と「神道崇拝」のもっとも根本的な心理的基礎となった。比較文化の立場から見ると、これは、日本原始神話の基礎の上に形成された「変異神話体」である。中華文明における道家・道教の観念や、儒学倫理、方士・方術の生命論などが、すべて「記紀神話」の後世に係わり、天皇権力観念の有力な支柱になった。

第六に、9世紀末の『本朝見在書目録』によれば、当時の日本の官庁及び皇宮に所蔵されていた漢文典籍は1568種であり、当時の中国国内のすべての文献の50%%前後に相当する。この現象は世界文明史上、かなり稀に見るところである。このような豊富な文化の移動は、専ら平和で落ち着いた親睦の政治的枠組みの中にあってはじめて実現することができる。明代以降・・(中略)
(寅七注:『続日本紀』和銅元年(708年)正月の項に見える「山沢に亡命した物に対する禁書提出令」について著者は無視している。)


第七に、漢字は日本の言語文字に対する影響が甚大であり、古代日本社会の文明を向上させる発展過程の根本的な指標となった。


第八に、8世紀から12世紀までの奈良・平安時代に、日本文化史上最初の文学的高まりが現れ、漢文学と和文学のどちらにも輝かしい業績が生まれた。しかし、漢文学と和文学とを問わず、いずれも中国文化仲野先秦から唐までの文学を移し、弁別し、吸収することを基礎としたものであった。日本文学の以後の発展・・・(後略)
第九に、日本は12世紀末からの400年に及ぶ戦国期の日本文化の「一筋の生気」を保たのは次第に発展してきた禅宗と禅宗寺院だけであった。(p19~20)


(寅七注:総括として、この共同研究で中国側委員がまとめたものは、定説に従うものの、中国正史の記事を正とし、現地の史書類はあくまでも正史を中国側の思惑通りに補完できる場合のみ採用するという立場で、中国側委員の、下世話でいう「上から目線」の中日歴史観がよくわかるものではある。)


続いて、各論「七世紀の東アジアの中日の歴史」を読んだ感想を次回ご紹介したいと思います。

2014-12-29 20:31:01

良い年をお迎えください 26.12.29

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●今年ももう二日を残すだけになりました。この一年は、『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』の原稿書き~校正~出版と営業、で一年が過ぎました。

随分と関係の皆さま、本ブログ読者の皆さま、古代史関係の知己の皆さま、その他寅七に縁のあります皆さまにはご迷惑をおかけしたことと思います。
来るべき年には、その御恩をお返ししなければ、などと思っています。少なくとも、ますます増える変換ミスや思い違いをなくすように、アップ前の見直し、が来年のテーマです。


●ゴルフの方も、来年は年齢も80台に入ります。今年は39ラウンドしましたが、悲しいかなハーフ40以下は2回きりでした。来年は何とかハーフ40以下を二桁に乗せて、3回目のエイジシュートを目標に頑張りたいと思っています。ゴルフメイトの皆さま、来年もよろしくお願いします。


●たまたま、前回のブログに登場いただいた川本先生は、「日中歴史共同研究」のメンバーであられたことを知りました。
その報告書が勉誠出版からでている、ということでしたが、なんと六千数百円だそうです。
ネットで調べてみたら、Pdfファイルで読めるサイトが見つかりました。かなりの分量(500頁以上)ですので、一昨日から現代史部分はさておいて古代史部分をコピーする作業を行っています。


ざっと読みでは、日本側の川本委員は、自説のタリシヒコ王は「天弟日兄」説、での解説をされていましたし、中国側の委員は、郭務悰の遣使は中国の正史には全く見えない、日本書紀の記述の検討が必要?などという意見があったのがまず目につきました。なかなか面白そうです。

お正月休みにじっくり読ませて貰おうと思っています。


●良い年をお迎えください

2014-12-26 20:56:11

石田敬一氏の力作「竹島論」を読む 26.12.26

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●Jcomテレビよりもぐっと安いというNTT系の営業マンの勧めでプロバイダーを切り替えることにしました。数年前Jcomと契約した折には、こちらま全く作業することもなくスムースに済んだという記憶がありました。今回の切り替えも別にトラブルなどあるとは想像できなかったのですが、今回はトラブル続きでした。


まず電話を切り替えが12月5日、これは何事もなく済みました。次の』インターネット関係の切り替え、テレビの切り替えが約束の日時に待てど暮らせど来ず、連絡もなし。夕方こちらからNTTに連絡しても関係会社に連絡してみる、といって後はナシのつぶて。

翌日改めて連絡したら、工事担当の会社内の連絡がうまくいかなかった、今度は間違いなく行かせる、ので工事の日時を打ち合わせてほしい、とNTTから連絡があるも、その関係会社からの連絡がなかなかない。
12日が15日となり、それもうまくいかず、結局21日に。30分程の「大工事」が半月がかりでやっと終わってくれました。NTTは大組織だということをよくよく思い出させてくれました。こんなことならJcom解約など思い立たなければよかった、と途中何度も思った事でした。


●ネットサーフィンしていて石田敬一さんの―『隋書』俀国伝の竹島―という論文に行き当たりました。
古田先生が、『隋書』俀国伝にある「竹島」は欝陵島である、とされたのに対して、石田さんが百済の西南部の竹島ではないか、と史学会報に投稿され、古田先生から反論された事に対しての今回の論考です。


石田さんの今回の論文を読む限り、論理に間違った点は、少なくとも寅七には、見当たりませんでした。
石田さんも随分と発奮されて研究にいそしまれた事と思います。論争は良い実りを生む好例といえるのではないでしょうか。
次のURLで石田さんの論文のpdfファイルを読むことができます。
www.geocities.jp/pujo106blue/bessatu.pdf

●『隋書』と『日本書紀』の記事の齟齬について、再度勉強し直おしているのですが、古田先生の『日本書紀』十余年繰り上げ説がこの齟齬事象の説明に合うと思います。しかし、現在ではその古田説に組みする学者は皆無のようです。


『隋書』にある、「俀王は天を以て兄とし、日を以て弟となす」を、通説のような、「倭王は天を兄、日を弟とする律に従ってマツリゴトをおこなっている」というように取らず、「天=兄、倭王、日=弟」とするいわば三段階の位取りと解釈をする人もいるようです。


「史淵」という九州大学人文科学研究院の雑誌141号(2004年3月)に、川本芳昭教授の論文「隋書倭国伝と日本書紀推古きの記述をめぐって」に、その「天弟日兄」説に基づいて、その「齟齬」のひとつである「小野妹子国書盗難事件」を論じていました。


雑誌「史淵」

川本先生の依拠されるのも、前述のような天(兄)―俀王―日(弟)という三分割法(『法隆寺の中の九州王朝』朝日文庫p171の古田先生の説明)の位取りによるものです。川本先生の説明では概略次のようなことになります。

【文帝はこの三分割法の位取りでいうと、俀王が隋帝の伯(叔)父的位置にあたると観て、「大いに義理なし」とし改めるよう訓令したのだ。それに従って次の遣使での国書では、「東の天子、西の天子」というように立場を若干改めたのだ。しかし、それでも煬帝は、その「対等」を改めさせる訓令的なものを、その時の答礼使の裵世清に持たせた公的な国書と別に、小野妹子に授けたのだろう。


小野妹子はその内容を知っていて、帰国後朝廷首脳に内容を知らせ、我が国として公にしたくないということになり失くしたことにし、返書に「西の皇帝に東の天皇」とへりくだったものとし、また『日本書紀』という正史に、我が国が唐に「朝貢」という言葉をいれて恭順の意をあらわしている】、というようなものとなっています。


確かに一応の辻褄は合わせることができたか、のように見えます。しかし、『隋書』と『日本書紀』の齟齬はこの件だけではありません。第一に「俀〈たい〉国」とは何ぞや?そもそも阿毎多利思北孤王は誰のことなのか?など基本的な謎の説明抜きで「小野妹子国書盗難事件」の解決を推理しようとすること自体、方法が根本的なところで正しくないと思います。


しかし、『日本書紀』のこのあたりの記事の編集には、編集担当者も随分と頭を使ったと思います。彼らの手元には隋と俀国(タリシホコ王)との通交状況がかなり詳しく出ていますし、その俀国の存在を隠して自分たち「倭国」の記録に合わせ、かつ『隋書』の記事も参考にしつつ日本正史としての歴史の記述をしなければならないのですから。

2014-12-22 19:43:13

二倍年歴と失帰之妖 26.12.22

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●先週木曜日と日曜日のコンペで今年のゴルフは終わりです。両日とも寒さは厳しかったのですが、風はそれほど強く吹かず、まあまあ風邪をひくこともなく終えることができました。プレー後のお風呂が天国でした。木曜日はベスグロ優勝、日曜日は4位とまあまあのうち収めでした。


●先月古田先生の八王子セミナーで古代の二倍年歴についていくつかの論文を発表されているKさんから、古代の平均寿命のグラフの描かれ方の問題点についておご意見を聞きしました。


数少ないデータをグラフ化すると60歳位まで生存者がいるようになる、ということが問題ということのようでした。

確かに、鳥取県の青谷遺跡の32体の死亡時年齢分布は次のようにグラフ化されていて、60歳以上の死亡者も存在するようになっています。


青谷上寺地遺跡 (鳥取県教育委員会青谷上寺知遺跡報告書 平成18年3月)

青谷の109体の遺骨のうち、判定に使えた頭蓋骨32体の個々の死亡時年齢は60歳以上の資料はなかったのですが、グラフからは60歳の死亡者も存在したように読めます。

しかし、確率分布曲線としてはそのようにならざるを得ないのでしょう。


福岡県の金隈遺跡で死亡時年齢が推定できた85体の成人のうち、40歳以上46体、60歳以上が4体あったと報告されています。この例からいうと上記のグラフは全体的におかしい、とは言えないようです。


人類学では、20~39歳は壮年、40歳~59歳を熟年、60歳以上を老年として年齢を判断しているようです。(青谷報告書もそのようにかいています。)

弥生時代は50歳以上の生存は極めて稀であった、という新しい人類学上の定理を樹立しないと孔子の2倍年歴の証明は厳しいように思われます。K氏の奮闘に期待します。


●二倍年歴に直接関係している記事ではありませんが、松下見林の『異称日本伝』に目を通していたら、『五雑爼』の「失帰之妖」についての記事の引用が目につきました。


【人の寿命は百歳に過ぎず、数の終りである。故に百二十を過ぎて死せざる、之を失帰の妖という】とありました。失帰之妖とは土に帰ることのない化け物、ということのようです。

そして、史書に残る長寿者の例を十余あげています。その中に日本の正史にある武内宿彌の三百余歳もあげてありました。


2014-12-17 15:44:00

松下見林『異称日本伝』 26.12.17

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●隋書に「その国に阿蘇山あり」とされるところの解釈に、船で石棺を輸送中のところを隋の使者が見て、あの石はどこから来たのか、と問い、阿蘇山からと答えたためであろう、九州王朝説なる珍説を唱えるものがいるようだが、九州王朝の根拠なし、とされる人もいます。
今回の阿蘇山の爆発で、それを鎮めるためのお払いの神事が報道されていました。まさに隋書の記事通りのことがおこなわれているのですが、そのことに言及した記事を見つけることはできませんでした。


●寒波襲来という予想で九州地方の天気予報にも雪マークが付いています。予定では高校同期会の忘年ゴルフの予定でしたが、参加者が少なくコンペは中止しましたが、もし希望者が多かったとしても結果的には中止となっていたことでしょう。夜の宴会は電車やバスが不通にならない限り大丈夫でしょう。


●先日図書館で松下見林『異称日本伝』を一応目を通してきました。かなりの数の中国・朝鮮の史書の我が国に関する記述を「今按ずるに・・・・」と、彼の見方を述べている本でした。


異称日本伝序文 『異称日本伝』序文

とても半日やそこらで読みとおせる本でありませんが、いくつか興味ある記述が目にとまりました。多利思比孤は用明天皇か舒明天皇かなどとか、隋書の最後の記述「遂に絶つ」とあるのは、このあと隋が滅亡したから隋との国交が絶えたということだ、とかなどです。

ぼつぼつ読んで見たいと思っていますが、長文の漢文は疲れます。


2014-12-09 10:13:57

小田孔明選手おめでとう! 26.12.09

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●このところ日曜大工的日常です。先日亡くなった友人の形見分けで大型テレビを家内がいただきました。さて、どこに置くか、狭い我が家では今ある家具を処分しなければ収まらない。大型粗大ゴミで出すにしても、集積場までどのよう持出せるのか、とても一人では無理。結局、小さく壊して通常の燃えるゴミとして処分しました。それにかかった時間が2日、費用はゴミ袋10枚分で済みました。

さて次は、大型テレビを置くためと、処分した家具に入っていた雑品を収納する整理棚兼用の家具が必要となりました。
北欧の家具店イ社に出掛け、まあ当面の役に立つと思われる棚に決めました。値段は7980円と安かったのが決め手でした。
レジを済ませて、宅配を頼もうとしたら、このサイズでは2800円+部屋までの搬入費500円、組立て費5000円ということでした。
重さは30kg強なのですが車に積めるか駐車場までカートに乗せて行って確かめたら何とか収める事ができました。
わがマンションの駐車場で梱包を解体し、数度に分けて搬入し、組み立てに約4時間で完成出来ました。


新しい整理棚 この画像のテレビの倍の大きさのが来る予定

●昨日の新聞に「小田孔明選手賞金王に」というニュースが大きく報じられていました。彼は過年、寅七の所属クラブで研修生として、キャディもやっていました。

このクラブのグループが毎年年初めに出す冊子に、先月中ごろ原稿出稿依頼があり、小田選手がきっと夢を叶えるだろう、という予測と希望記事を書いたのですが、予測が当たってホットしました。


●「古田先生と行くギリシャ旅行」をWさんが企画推進されています。こちらの事情としては残念ながら参加できません、とお断りしました。

このツアーはトルコのトロイ遺跡にも回る予定です。一昨年トルコ旅行のおり、古田先生から「シュリーマン関係の資料があったら」と頼まれて「トロイ遺跡」という小冊子をお届けした記憶があります。


そのことを思い出して、「シュリーマンの現地での評価は西欧や日本での評価とは大違いで悪人とされている」という資料として、Wさんにその冊子のシュリーマンについての一部分のファイルをメールしましたら、喜んでいただけました。

今日古田先生と打ち合わせをする予定だそうでした。古田先生の膨大な蔵書の山に、その小冊子は埋もれていることでしょうが、ということも付け加えておきました。


ギリシャ旅行 クリックすると拡大します

●隋書と日本書紀の記事の齟齬について、北畠親房と本居宣長については見る事が出来ましたが、同じように通史を書いた松下見林の『異称日本伝』での判断にも眼を通したいと思いAmazonで検索してみました。

何と、39900円!。

市の図書館で検索してみたら見つかりましたので、近いうちに出掛けようと思っているところです。

●朝、娘から「おめでとう」といわれて、家内が「気にもしていなかった」といっています。聞けば我らの結婚52周年記念日だとか、OOOも遠くなりにけり、です。

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