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2017-01-17 07:32:31

『倭人とはなにか』の批評その7 29.1.17

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一昨日の古代史の会は、太宰府の条坊の変化について太宰府市教育委員会の井上信正さんの講演で皆さん興味深く聴いておられました。「聴いて」ではなく多くの方がスマホやタブレット端末をかざして映し出される画像などを収録されていました。

前座と前置きされて木村会長が「百人一種の謎」というタイトルでの話も、昔々カルタ取りに熱中した中学生時代に戻していただけました。

次回は「タリシコの謎に挑んだ人々」の第三回目の発表です。井上さんの発表のように皆さんの興味を引き付けることが出来るのか、ともかくレジュメを再考することにしました。

 

●お年玉付きの念がハガキの当選番号が日曜日にあり早速チェックしてみました。例年の通り切手シートが7セット当たっていました。このくじ付きハガキが始まってどれくらいになるのかな、と調べてみました。

1956年から一般の年賀ハガキに付けられたそうです。(寄付金付き年賀はがきは1949年から)サラリーマンでまあ上級管理職になるあたりから結構年賀はがきの数も増え、千枚に達したこともありますが、30年で500枚としても1万5千枚ですが、切手シート以外当たったという記憶はありません。来年には福が来るのでしょう、きっと。

 

●『倭人とはなにか』の感想その7(最終回)です。

韓国内を陸行するのが難しかったのでしょうか。倭人伝の記事では、対海国や末盧国の道路事情について、まるで獣道のような表現が見られます。しかし、韓諸国については陸路についての表現はありません。

朝鮮半島内の陸路についての表現がないのは、水行だったからなのでしょうか?それとも中国人にとってあまり難儀しない道であったので何も書かなかったのか、どうなんだろう?

 

朝鮮半島の古代道路研究について、『古代東アジアの道路と交通』鈴木靖民ほか(勉誠出版 2011)によりますと、韓半島の東と西を隔てる太白山脈及び小白山脈の山地域には無数の山城があり、戦闘のためのものが多く、そこに至る道があったのは間違いないが、古代の史書に記載が多い戦闘記事で侵入軍が、どこでそれらの山脈を越えたのかについては確説はまだないようです。

ただ、地形的には九州地方より穏やかで、統一朝鮮の時代の道路図を見ますと、九州北部地方よりはるかに道路密度は濃いように見えます。

陸行が厳しいから、西海岸を水行することを選んだ、という理由は地理的条件からは見られないようです。

 

 

●「歴」について、出野正・張莉説を見て見ます。

 

【私は、郡より狗邪韓国にいたる行程は陸行ではなく、水行だと思います。それはなぜか。問題は「韓国を歴て」です。「歴て」を使ったのはそれなりの意味がある筈です。「歴」は「説文解字」二上に「過也(よぎるなり)」とあるので、「過」に置き換えることが出来ます。そうすると、「韓国を歴て」は船で韓国の地を過ぎて行ったと解釈することが可能です。

『史記』の索隠注に「歴、度也(歴、度るなり)」とありますので、これによれば、帯方郡から船で一気に海を渡ったとも解釈されます】(p151)

 

寅七の解釈が間違っているのかもしれませんが、著者たちが「歴」という意味から「よぎる」と解釈できる、とされ、「郡を出発して狗邪韓国に着く」という記事には「水行」という動詞しかない。もし陸行したのであれば、「然後陸行」などという語が挿入されるべきというように言われます。

 

「韓国を歴て」の解釈として、「船で韓国の地を過ぎて行ったと解釈することが可能」とか、『史記』の注には「度たる」とあるので「一気に海を渡ったとも解釈できる」と説明されます。

あくまでも、可能性としてこのような解釈もできる、と説明していらっしゃるようなのですが、その後の論の発展は、それが確証的なものにすり替えられているように受け取れますが、寅七の受け取り方が間違っているのでしょうか。

 

著者は、この文章には水行という動詞しかない、陸行したのなら、「然後陸行」などの文章が挿入されるべき、と言われます。そうかもしれませんが、この「倭人伝の行路記事」にはほかにも「落ち」ているところが多々あります。

古田武彦さんがその解決に頭をひねった、対海国や一大国には陸路の記事があるのに「陸行」の漢字は見えず、すべて「水行」という漢字しか見えないこともその「落ち」の例でしょう。

 

「歴」について、「歴観」という派生義でなく、本義の「よぎる・へて」に随うべき、というような論議(p153)について深入りするのは、寅七の己を知らなさすぎで、何とも言えませんが、派生義で解釈した方が文章全体の本意としては妥当だ、ということであれば、本義にこだわるのはどうかな、と思いますが、論語読みでもない論語知らずが口を出すことは控えておきましょう。

 

ともかく、前回述べたように、朝鮮半島をL字型に航路することは、東夷伝によれば不可能なのです。韓国を歴するには陸行のみが可能なのです。

 

「接」というのは陸地と繋がっているという意味ではない、という論議はなさっていないようですから、著者たちも、韓は、南では「倭」と陸地で接していて韓半島の南岸は韓国エリアとは思ってはいないようです。

でしたら、郡から半島西海岸沖を一路南下して、半島南端で東に回頭しますと、そこはすぐ「倭」国領域であり、その西端部に着くことになります。その後、「倭」の南岸沿いに進むことになります。

倭人伝の記述「韓国を歴るに乍南乍東」と異なる解釈になります。まず、この点についての考察が必要なのではないでしょうか。

 

やはりここは「歴」の本義にこだわることなく、古田武彦氏の、派生義の「歴観」として解釈する方が、文意に沿った理解となるのではないでしょうか。

 

そのことによって、総行程「水行十日陸行一月」との齟齬もなくなります。「陸行一月」は「魏使が列島の倭人に聞いた話」(p158)、など子供だまし的な説明、と「それが本当かどうか知る由もありませんが」(p158)という無責任な言い逃れも不要になるのです。

 

今まで見てきたように、著者たちは、古田武彦流の「道行き文」の解釈を否定しているようですが、「狗邪韓国」は倭人国の旁国の一国として、韓国内陸行とすれば「倭人伝の行路」は矛盾なく解釈できます。

朝鮮半島内の「倭」と「倭人」は書き分けられていた、という仮説の当否については、現在の与えられた情報からはどちらとも言えないようにおもわれます。

 

特に古代朝鮮の史書には倭人と倭は書き分けられている、と『三国史記』の「倭人」「倭兵」の調査から、「倭人」は列島の倭、「倭兵」は半島の倭、とされますが、その当否はともかく朝鮮半島内に倭という国があったとは『三国史記』のどこにも書いてないようですし、寅七の『三国史記』訳本が不正確なのかもしれませんが、「倭」という単独語も見えないようです。。

 

北朝鮮や韓国の公式の歴史書には任那や半島に漢間の四郡の存在など記載されていません。中国の史書は中華意識で書かれていますし、韓国の史書には強烈な民族意識が底にあるように思われます。『魏志』と同じレベルで『三国史記』などの朝鮮関係の史料を同列においての論議で正解を得ることができるのだろうか、と不安を感じます。

 

著者たちの意見、「倭」の複合語、例えば「倭地」の解釈が、朝鮮半島の「倭地」なのか、「列島の倭地」なのか、その「本義」が不明確です。

常識的な理解としては、「倭地温暖冬夏生菜」という説明から、北部九州の説明かと思われますが、なぜ倭人の地と書かれていないのか、今後の研究の課題と言えましょう。

 

また、朝鮮半島と日本列島との通交は、半島―北部九州の倭とだけではなく、倭人の国も30以上の国名が記されていますし、列島の東の方には「倭種の国」とも当然あったことでしょう。「一般的な倭種の国々・人」、という意味で朝鮮半島の各史書は、「倭人」と表現していたとも思われます。

しかし、朝鮮半島の南端にあった「倭」と「倭人国」との関係は倭人伝の記述からはわからない、というのは著者のいう通りだと思います。

 

今回はただ、狗邪韓国への行路についての著者たちの理解に疑問があり、それを中心にその理解に対しての疑念について意見を述べた次第です。

 

仮説を立てて研究し、それが合理的でない結果となれば、仮定が誤っているか、研究過程が誤っていたのか、情報不足で誤ったのか、改めて仮説の組み立てなおしが必要ではないのかなあ、と寅七には思われます。

しかし、『倭人とはなにか』を読んでいると、「仮定」というのではなく、著者たちが行きついた「真実」を展開させた結果であり、その結果も間違っているはずがない、という「信念」が伝わってきます。

それを安易に「仮定」として、寅七の常識論で計ろうとしたのは失礼だったかなあ、とも思います。

 

「倭」は半島にあった国で「倭人」は北部九州にあった国、という本論についての論議に深入りすることなく、倭人伝の行路記事中心に終始してしまった感ですが寅七の限界でしょう。

 

この本のメインテーマの「日本人のルーツについて」にも多くの仮説が提示されています。

倭人伝関係でも、いくつか取り上げなかった問題があります。

例えば、「倭」について、『三国史記』では「倭」と「倭人」は書き分けられている、とあります(p141)が、寅七が『三国史記』(佐伯有清)を参照した限り、「倭」という単独で使われていた例を見ることが出来ませんでしたし、倭人伝の記事の中に見られる「倭地」「倭種」などの複合語についての著者の説明もはっきりしていません。

 

時間がある時折々に、この『倭人とはなにか』を開いてみて新しい感想が出てきたら又その時にブログにあげてみたいと思っています。

 

ともかく、年末年始の無聊をかこつ時間帯を、脳をアルコールで寝かせるのではなく、結構フルに使うことが出来たことに『倭人とはなにか』の著者に感謝します。

(完)

 

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2017-01-15 08:50:46

『倭人とはなにか』批評その6 29.1.15

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●寒波襲来の週末です。TVは雪の中でのセンター試験がトラブルのなかで行われていることを伝えています。

孫娘ちゃんも大変だろうなあ、とジジババは無責任につぶやくのみです。

 

●最近はTV番組でも老人の終末期の問題を良く取り上げます。今朝もTBSを視ていたら、認知症の兆候についていろんな専門家が教えてくださっていました。

その中の「兆候」の一つに、性格が変わること、攻撃的性格が丸くなる、とか、その逆とかが上げられていました。

このブログも論調が「丸く」なったら寅七の認知症の始まりと自覚しなければならないのでしょう。今日は古代史の会の集まりです。懇親会でも古代史の勉強と認知症についての論議も出ることでしょう。

 

●さて、今回は出野正・張莉『倭人とはなにか』の感想その6「乍~乍~」の解釈について調べたことについて述べます。

 

『魏志』東夷伝を読んで、常識的に、というと著者たちに叱られるかもしれませんが、なぜ西海岸をL字形に朝鮮半島を船で行く、という理解になるのだろうか、と疑問に思うのです。

「韓国は方4千里」という記事、それに、東と西は海で限られていて南は倭に接す、とあります。また韓人の国々が沢山名前が上げられています。

その東夷伝倭人の条の記事での「郡から韓国を歴て倭に向かう」のに全行路水行説を実験された記録、『わが心のヤマタイ国』という角川春樹氏の記録があります。

潮汐流が激しい西海岸を、三世紀当時どのような装備があったかは不明ですが、専門家たちの意見に従って、18人の漕ぎ手の古代船を再現し実験した角川春樹氏の記録を読む限り、沿岸をL字形に直行することは不可能に思われます。

 
多島海で潮汐流の激しい朝鮮半島に西海岸を夜間航海することは勿論、夜間洋上停泊も不可能でしょう。沿岸でなく沖合を航海したと仮定しても条件は同じで、やはり不可能でしょう。

 

又、そのL字の行路を、曲がったところは「韓人の国」ではなく「倭」なのです。著者たちは何もこの矛盾に気付いていないのでしょうか。L字形の水行で韓国を歴ることは、『魏志』東夷伝の記事に随うと、ありえないことではないでしょうか。

ともかく、著者たちの主張に随って、その主張されるところを見ていきます。

 

著者たちは①「歴」と②「乍」の解釈から韓国内水行とされます。そして、③「其の北岸」は当然狗邪韓国の北岸とされます。「其の北岸」については、既述しました。

 

また、著者たちの主張は、韓国内を水行とすると、陸行1月の説明が付かない、ということになるのですが、その説明は、【「水行十日陸行一月」は、郡使たちが日本列島の人から聞いた情報とすれば別に不思議でもなくなります。もっとも、それが本当かどうか知る由もありませんが。漢文は非常に厳密にできていますから、その真意をまず読み取るべきです。漢文の文意からみると、「南至投馬国水行二十日」及び「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東・・・・・其の北岸狗邪韓国」の意味するところは、明らかに帯方郡から狗邪韓国へは水行だったことに間違いないと思います。私たちはこのことを問題提議したいと思います。そのうえで「水行十日陸行一月」を考えてみたいと思います。安易に「水行十日陸行一月」を正解として、それに合わない漢文を捻じ曲げて我田引水に読むのはよくありません。】(p158)

 

しかしこれは、夜間でも航海できたと証明できなければ、全くと言ってよいほど理が通らないのです。論理の赴くところに基づいた結論が理に適わないのであれば、その論理の道筋に誤りがある、ということになります。

 

基本的に、「道行き文」という理解が正しいのかどうか、ということになります。古田武彦氏が例にあげられる『漢書、地理志』や『新唐書、地理志』の行路記事の解釈も間違っていることになるのでしょうか。

 

全体の行路とは別に個々の問題、上記①及び②について改めて調べなおしたところを報告します。

【韓国を歴て、乍(あるい)は南しながら乍(あるい)は東し、其の北岸狗邪韓国に至(ママ)る七千余里】とし、乍~乍~という文型は、あるいは~あるいは~と解されています。

【「乍」は佐藤進ほか『全訳 漢辞海』では「二つの状態が交互に現れることを示す表現」としており、それならL字型の航路を最初は南に行き、然る後に東に行く水行の航路だとしても何の不思議もありません】(p154)

 

古田武彦氏は、「乍~乍~」は「タチマチ~タチマチ~」という熟語的構文とされていて、南に行ってすぐに東に行ったりするとしています。

「乍」および、「乍~乍~」という構文について調べてみました。とりあえず手持ちの辞書、『辞海』(上海辞書出版)・『日中大辞典』(愛知大学)・『学研漢和大辞典』で調べてみました。

その結果、「乍A乍B」という構文については、すべて古田武彦説の通りでした。です。「あるいは」という読みは「古訓」としてある、と『学研漢和大辞典』にありましたし、岩波文庫版『魏志』ほかにも見えますが。

 

●「乍」を辞書で調べた結果

『辞海』上海辞書出版社1979年版(簡体字を当用漢字に変換by寅七)

①剛;初。如:新来乍到;初学乍練。于謙〈遇題〉詩:“山雨乍晴時。”

②恰;正。張翥〈真珠帘〉詞:“凉透小帘ロウ(木扁に龍)(下注)、乍夜長遅睡。”

忽然;驟然。如:乍晴乍雨〈孟子。公孫丑上〉;今人乍見孺子将入于井、皆有怵惕惻隠之心。“

④聳竪。白仁甫〈梧桐雨〉第二折;“諕的我戦欽欽遍体寒毛乍。”

⑤見;“乍可”

⑥“作的古字”

(注)帘ロウ(木扁に龍)はカーテンの懸った窓の意(文語的表現)

 

『中日大辞典』愛知大学辞書編纂処1980年版

①・・・したばかり。・・・しはじめ。〔~看很好〕 ちょっと見には良い。

たちまちにわかに。不意に。急に。~晴~陰照ったり曇ったり。~冷~熱急に熱くなったり寒くなったりする。

③思い切って。大胆に。〔~着胆子做〕思い切ってやってみる。

 

『学研漢和大辞典』

①読み;たちまち:急に。さっと。・「今人乍見孺子将入于井=今、人乍ちの将に井に入らんとするを見れば」(孟・公上)

②読み;たちまち:乍A乍Bの形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこるの意を表すことば。「先王之道、乍存乍亡=先王の道も、乍ち存じ乍ち亡ず」(史記・日者)

③読み;ながら(国語):・・・にもかかわらず。また、・・・しつつ。

▽万葉仮名では、乍A乍Bの場合の意味を誤解して「・・・しつつ」と訓じたため、のち「・・・ながら」の訓が生じた。

古訓:アルイハ・オノツカラ・シハラク・タタニ・タチマチニ・ナカラ・マタ・ミル(観名)

 

出野正説のように「乍」を例えば岩波文庫本のように「あるいは」と解しでも文章としては成り立つのです。シバラク南に行きまたシバラク東に行くが陸行行路の描写としては日本語的だと思いますが、それはさておき、韓国の西海岸の地理的条件は、乍南乍東という行路動作を可能とするか、というところには大きな問題があります。

 

上の図は、以前某氏の韓国内水行説に対して、「乍南乍東」ということでは水行は不可能ということの説明に使った図です。(井上秀雄『古代朝鮮』を参考に作成)

夜間の多島海航海が当時の船で可能か、ということと、沿岸に夕方寄港し早朝出発が可能、(今回の出野正・張莉説も同様)とした場合、どうしても「乍南乍西」という動作が「乍南乍東」同様に必要になってくるのです。

南船北馬と言いますが、北馬の国の魏使達の一行が、多島海を夜間停泊したり夜間航海したりする危険について無神経だったのでしょうか。後代の遣唐使船でもその成功率は50%とも75%とも言われています。九州島に比べてもずっと平坦な地形の南朝鮮です。常識的には陸路を人々に輿を担がせての行列行進であったことでしょう。

(次回は「韓国を歴る」について検討した結果を報告します。)

 
 
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2017-01-13 09:42:00

『倭人とはなにか』批評その5 29.1.13

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寒波襲来ということで大雪で難渋する列島の風景をテレビが流しています。

孫娘Nちゃんが明日からのセンター試験を受けるのですが、関東地方はまあ交通途絶状況は免れてくれるようですが。

以前、娘のところに泊まったおり、Nちゃんの高校の日本史の教科書を見せてもらったことがあります。もうセンター試験の準備も完了したのか、不要になったから寅七に上げる、と教科書と副読本とを送ってくれました。その教科書本文には「タリシヒコ」のことは全く記載がありませんでした。

 

●寒波は九州の地には届いていないようです。倭人伝にある「倭地温暖、冬夏食生菜」の表現は間違っていないようです。

この場合の「倭地」は朝鮮半島の倭の地、よりも、九州の倭の地を言っているのは間違いないことでしょう。

 
●今夜は大学同窓の新年会が都心のホテルであります。寅七よりも10歳以上年長のT先輩が元気に乾杯の音頭を取られることでしょう。自分より年長者が多い会合はなんとなく気が休まります。

 

●今回で五回目

『倭人とはなにか』の著者は、倭人伝の行路記事の出だしの文章、「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里」で完結している文章とされ、そのなかの「其の北岸」を次のように説明しています。

 

【「従郡至倭」から「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」を一文とする見方もありますが、そうすると文章の文字数が三二二文字あり、一文としては長すぎます。「倭」は朝鮮半島の倭であるし、倭人伝の行路記事、「従郡至倭で始まる文章は、到其の北岸狗邪韓国七千余里で完結する文」であり、「到其北岸狗邪韓国」の「北岸」は九州から見た位置を示すとするのが日本の歴史学者の通説ですが、中国の学者は「其(の)」は「朝鮮半島の倭(の)」、北岸は魏使の船から見た北岸と解釈します】(p148)ここで「中国の学者」の意見が紹介されていますが、具体的な「証言」は紹介されていません。

そして、【「到其北岸狗邪韓国」は、「其の」は朝鮮半島の「倭」であり、「其の(倭の)北岸の狗邪韓国という地域」に着いたという意味である】(p149)と述べられています。

 

前回にも書きましたが、理屈を言えばそう解釈するのも可能かもしれませんが、この『三国志』の洛陽の読者はどうとるだろうか?という疑問がわきました。

おまけに、不思議に思えるのが著者の「到其北岸」と「陸行」との関係の説明です。

【陸行の場合、内陸部から狗邪韓国に到達するのであり、そのまま岸に到達するのは船以外考えられない】(p156)とあります。

「陸地から海岸に到る」という表現は、中国人には理解できないことなのか、中国人でない寅七には著者の説明が理解できません。現在の日本人の表現では、「海岸に出る」という表現でしょうが、「海岸に至った」と表現しても何ら違和感はありません。

 

狗邪韓国の南岸に着いたのに、なぜ「到其北岸」と書いてあるのか、については、その例として、南中国広東省の北海市という地名を例に挙げられます。

【中国大陸の南岸であるのに北海とされる。これはそこの地域の漁民からの目で見た表現である】(p156より要約)と説明されます。

 

また、【なお、この「北岸」を日本列島の側から見た「北岸」と解釈される方もおられるようですが、間に「大海」を挟んでいるので、朝鮮半島の岸を「北岸」とするのは中国語的な解釈からすればムリがあり、倭人の国の「北岸」は九州の地続きの「北岸」以外にはありえません。そうすると、魏使の船から見た「北岸」以外に説明のしようがありません】(p156)

「大海」を挟んでいるから中国語的な解釈からは無理、とされます。「大海」というのが大海原という意味なのか、国の沿岸の領海域を外れた無国籍の海域という意味なのか、そのあたりの「中国語的」な「大海」の意味はこの本の中からは汲み取れません。

以前上海で仕事をしていましたが、長江下流の揚子江河口付近では対岸が見えません。うっすらと中州の島、崇明島が見えるだけです。河口付近の川幅は40kmを越すそうです。中州の崇明島が出現したのは唐の時代だそうです。『三国志』の時代には揚子江の対岸は目視できない「大海」並みであったと思われます。ですが、中国の「領海」であったことは間違いないでしょう。

 

ともかく、「其の北岸」が朝鮮半島の通常の意味での南岸を指していることは間違いないことでしょう。それがなぜ「北岸」と形容されるのか、ということがカギと思います。

 

【古田武彦氏は「倭」を日本列島と朝鮮半島にまたがる海洋国家としてとらえました。(中略)私たちは古田氏がいうような「倭」の定義を唱える人に幾人か出くわしましたが、「その定義は何ですか」と問うた時に答えが返ってきたことがありません。歴史学は証拠や論拠で成り立つ学問ですから、これはどうしてもおかしいのです】(p140)

 

しかし、「倭人国」についてどのように倭人伝では表現しているでしょうか。「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」であり、また、「参問倭地絶在海中洲島上或絶或連周旋可五千余里」とあります。

ともかく、倭人の国は、郡から韓国を経て七千里で倭種の国狗邪韓国に着き、それからぐる~と廻って約五千里ほどの、島やその海の繋がりからなっている国だ、と記述していると思います。

また、対海国や一大国の描写に、食料を得るために「南北に市糴〈シテキ〉する」とあり、倭人たちは、その島々とそれを囲む海を生活の場にしています。漁民というか海に生きる人々でしょう。

 

そうすると、著者が例に引く北海市の場合と同様に、領海を含んだ地域国家組織という目で見れば、その(海域も含む)地域の北岸の町、「其の北岸」という表現になったのも自然でしょう。

近年、中国の南シナ海での領土領海紛争が多発していますが「九段線」なる中国の古くからの領域に関する語がマスコミ上でも見受けられます。これもそういう見方が現在にも中国でも生きているのではないでしょうか。

この問題は「韓国内水行」と絡んだ問題でもありますので、次の「歴韓国」と「乍~乍~」問題つまり、「韓国内は陸行か水行か」に移りましょう。

 
●著者出野正さんから、「極南界」の解釈について前回その解釈について疑問を述べたことについて、メールがありました。
長文のメールですので、全体を紹介するのは又の機会にしたいと思いますが、著者の結論は次のようです。
【『後漢書』においては「倭国之極南界也」の「倭国」は朝鮮における「倭」と北部九州の「委奴国」の集合体で、「委奴国」は倭国内「極南界」になると思われます。「極南界」は一番南側の意味だと思います】
この「倭国之極南界也」の解釈についての文章が、全体を縮小して読みやすくするという意図のもとに、出版元からカットされた、ということでした

 

 

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2017-01-11 18:47:21

『倭人とはなにか』批評その4 29.1.11

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●一昨日は町に出かけたのですが、「成人の日」でしたので、盛装した若い人たちが出歩いていました。

選挙関係では18才となったのだから、「成人」を18才にすればよいのに、と思います。なぜできないのでしょうか、大昔は数え年で15才で成人だったのに。

 
●昨日は久しぶりに糸島の野菜を買いに行こうと、最近入歯の調子がおかしい、わが奥様の歯医者さんへの診察を終えた後、唐津方面にドライブしました。
「ふくふくの里」という産直の直販店に寄ってみたら、アナゴがあります。以前ここでサービスでアナゴの刺身を造って下さって、それがおいしかったので、尋ねてみたら、今日は調理の方がお休み、とのこと。奥様が諦めるというので、大昔食堂で2年間バイトした寅七がトライしようと、一尾買って帰宅してトライしました。結果はブツブツ切れの刺身となりました。己一人で始末しましたが、結構美味でした。

 

●お互いに年をとって、寅夫婦二人合わせて一人前という年代になりました。

一昨年のお正月に、脳神経関係のお医者に診てもらいました。幸い二人とも脳に異常は見られない、ということで安心しました。ただ継続的に見ることにしていた方が良いですよ、ということを思い出し、それから満二年経ちましたので、チェックに行こうか、と相談しているところです。

 

●『倭人とはなにか』の感想第四回目です。

著者たちが、【漢文は非常に厳密にできていますから、その真意をまず読み取るべきです】(p158)とし、【漢文で一つの動詞で322字もの述語を持つ文章はない】、とされます。

古田武彦氏が倭人伝の行路記事を、一連の「道行き文」として提示した解釈は不当な解釈とされているようです。

それはともかく、著者たちの意見として次のように言われます。

【倭人伝の行路記事「従郡至倭から到其の北岸狗邪韓国七千余里」で区切られているし、「南至投馬国・・・水行二十日。・・・南至邪馬壹国、女王之所都・・・水行十日陸行一月」の文章は、「南至」の表現が同じで、水行二十日と水行十日陸行一月は、対句と考えるのが妥当。そうすると、邪馬壹国への記事が帯方郡を出発するものなら投馬国への行路記事も帯方郡を出発点とするものでなければなりません】(p19~150要約)

 

ということで、最初に投馬国への行路記事の解釈について、著者たちの論理とその結論についての感想を述べます。

 

投馬国は、邪馬壹国の構成国30国の一つ、ということに疑義を挟むことは、戸数や官名などが、他の属国同様に記しているし、この「倭人伝」の文章からは、郡からの直行行程を記していると理解するのは難しい、と寅七は思います。

 

なぜなら、著者は「対句」であるから、邪馬壹国への記事が帯方郡からであれば、投馬国の行路記事も、帯方郡からの行路記事である、とされます。しかし、原文の順序は投馬国への行路が先で邪馬壹国が次に書かれています。

著者の「対句」の論理を従おうとすれば、投馬国への南至の起点が帯方郡であることの根拠をまず示さなければならないと思います。

従来の「邪馬台国」論者の多くが、投馬国へ行路の起点を原文中から見つけることが出来ず、連続した直線行路としていたり、伊都国からの放射条記載などとしいます。

古田武彦氏が、『漢書』地理志の行路の記事などを参照して、倭人伝の行路記事を「道行き文」と名付け、『漢書』の四至文の例示をしています。おそらく、その例示は著者たちの目には、正当な漢文の解釈、とは見えなかったのでしょう。

 

しかし、「322字もの述語を持つ漢文」はありえない、という決めつけは正しいのでしょうか。著者たちが、述語の字数で「漢文」か「非漢文」か、を断じていることに不安を感じます。

 

古田氏が上げている『漢書』の四至文の原文がどのような構成になっていて、その述語がいくつの漢字から成り立っているのか、調べればよいのでしょうが、今ちょっとその余裕はありません。

例えば、日本の落語「寿限無」を中国語訳にしたら、その名前部分だけでも70字以上の漢字になることでしょうし、寿限無のお話のなかの一挿話だけでも、数百字に及ぶ長い述語が出来上がってくることでしょう。仏の教えを漢語に訳した経文にも似たような事象が生じているかもしれません。

寅七には、古田武彦氏の「道行き文」は、投馬国は邪馬壹国に従属する旁国の一つ、という意味にとれる「倭人伝」の漢文の解釈法と思われます。

 

ところで、著者たちは『漢書』の「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武帝以印綬」について、「・・・・倭奴国は倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」と読み下しています。(p147)

【漢文は非常に厳密にできていますから、その真意をまず読み取るべきです】と主張される著者たちの「この文章の読み取った真意」がこのような「倭国の極南界とはどういう意味か」が普通の常識では理解できない文章なのに、特に説明もないことには釈然としません。

 

ところで、同じ3世紀の状態を著述した『後漢書』には「倭人」はなくすべて「倭国」です。このことについて著者は次のように言います。

【『後漢書』の「倭」ですが、明らかに朝鮮の「倭」と日本列島の主たる勢力である「倭」を区別せずに書いているわけですから、通常の歴史文献の中では常軌を逸したものと言えるでしょう。(中略)479年の加羅からの朝貢記事(南斉書)以降、朝鮮半島の「倭」の国力が徐々に衰えていたからではないか】(p194)と。

 

『後漢書』の成立は432年とされます。『魏志』とは若干発表年代は遅れますが、同じ時期の東夷の状況を記しています。

それに「倭」と「倭人」と区別されていないことを、”常軌を逸したもの”として拒否してよいものだろうか、と思いますが、どうでしょうか。

 

話が逸れましたのでもとに戻します。

この『三国志』の読者、洛陽の官人たちは、東夷伝から倭人の条に読み進んできて、「郡から倭に至るには云云」の文を読んで、これは、「朝鮮半島の倭に行く道程を述べている、と理解するのでしょうか。

その文章にある「倭」が朝鮮半島南端に位置する狗邪韓国という名の倭種の国である、ということであればなおさら、何らかの読者に誤解させない説明を入れるのではないでしょうか。

(次回に「其の北岸」問題について、検討結果を報告します。)

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2017-01-09 11:22:57

世の中は三連休ですが 28.1.09

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●世の中は三連休ですが、いわば毎日が連休のものたちにとっては、単に盛り場が混み合う日であります。ただ、高速道路が安くなりますが、冬場にドライブする気力が老夫婦には減退しているようで、テレビでスポーツ番組を見て過ごしました。

残念ながら昨日のテニス、オーストラリアでの決勝戦で錦織選手、残念ながら負けてしまいました。ちょっと体調に異常が出たのではないかなあ、と心配です。錦織選手の攻めるショットが不発過ぎでした。

今朝もハワイでのゴルフ観戦でした。松山選手が肝心のところでパットが決まらず、二位で終わり、フラストレーションが夫婦ともに溜まったようです。

なにかおいしいものでも食べに行こうか、雨も上がったし、ということで午後からお出かけです。

 

『倭人とはなにか』第三回目で、「其の北岸」について書くつもりでしたが、著者出野正氏からブログについてコメントが入り、メールのやりとりがありました。

寅七が著者たちの仮説として、倭人伝の「倭」と「倭人」は書き分けられている、「倭」は「朝鮮半島の倭」で狗邪韓国のこと、としていることについてのご指摘でした。

たしかに問題を単純化するために、著者たちが言う「狗邪韓国は朝鮮半島の南岸に存在した倭の一地域」、という論証を否定するつもりはなかったのですが、訂正しておきます。

 

その上で、倭人伝にある「倭」はすべて朝鮮半島の「倭」を意味している、という著者の結論について、狗奴国との争いの記述のところの、「遣倭載斯烏越等詣都」とありますが、この「倭」は朝鮮半島の倭なのか、についてお考えをお聞きしました。

倭載斯・烏越という名前なのか、倭の載斯烏越なのか、それともほかの解釈があるのか、ということです。

 

「倭人伝」での「倭」と「倭人」は書き分けられている、と指摘した松本清張氏は、「倭の載斯烏越等を」と書いているだけで、特に、読み方についての注書的な記述はありません。(『清張通史邪馬台国』による)

この点について古田武彦氏も説明が安定されていません。

1971年の『「邪馬台国」はなかった』では、「倭載斯烏越〈イタイシウエツ〉等」

1973年の『邪馬壹国の論理』では、「倭載・斯烏越等」と二人に分割

1987年の『倭人伝を徹底して読む』では、「倭載・斯烏越(載斯・烏越等)とはっきり断定されないままです。

 

昨年九州古代史の会で講演された榊原英夫もと伊都国歴史博物館長は「倭の大使烏越」と「載斯」を「大使」という漢語に置き換えて説明されていますが、これは納得するには、もっと榊原氏に説明を聞かなければなりますまい。

 

岩波文庫では「倭の載斯・烏越〈タイシ・ウエツ〉等を」。

講談社学術文庫『倭国伝』では、「倭の載斯・烏越〈ソシ・ウオ〉等を」。

Wikipedeiaでは「倭は載斯・烏越〈エシ・ウエツ〉等を」。

と、それぞれですが、根拠を明快に説明できていると思えるものはありません。

 

もし、この「倭」が単独に用いられているとすれば、著者らの仮説によれば、「朝鮮半島の倭」の載斯烏越等が郡にやってきて、狗奴国と女王国との戦況報告をした、ということになります。

 

著書を読んでもそのところがはっきりしないので、著者に直接お聞きしたわけです。ご丁寧に、次のように答えをいただきました。

【私は「倭載斯」はこれが一続きの名前だと思っています。岩波文庫の『魏志倭人伝』では「倭[の]載斯烏越」となっていますので、「載斯烏越」が一つの名前であるようなニュアンスもありますが、「倭」の「載斯烏越」としてもおかしくありませんので、その紛れはあると思います。しかし、それなら「載斯烏越」は朝鮮半島の「倭」の人となるので、やはり不自然のように思うのです。私は「倭載斯」と「烏越」の二人のことを指していると思うわけです。また、上記の「倭」が日本列島を指すとしたら、その前に出てくる難升米・都市牛利・梯儁・伊聲耆・掖邪狗等の前に「倭(の)」が入らないで、「載斯」の前になぜ唐突に「倭」が出てくるのかが不自然な感じがします。「倭載斯」はおそらく、後の「倭隋(倭王珍のときの)」と同じように倭王の血筋にあたる人であると思います】

 

つまり、ここの「倭」を「朝鮮半島の倭」とすると、文章として不自然だ、とおっしゃっているわけです。

しかし、この論理は、著者たちの主張、漢字・漢文からそのまま史書を読み解く、という手法と違って、その読み解いた結果が不都合なので(文意に合わないので)文意に合うような読み方をする、という矛盾を含む説明のように思われますが?

(次回は「其の北岸」について書きます。)

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2017-01-07 08:57:37

『倭人とはなにか』その2 29.1.07

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●一昨日は、以前世話になっていた会社の新年会が都心のNホテルであり出かけて皆さんに挨拶してきました。その会社のオーナーは古代史好きで、以前、寅七の本を引き取りたい、と言ってくれていたのです。

ぼつぼつ終活の時期になり、古代史関係の本も狭い我が家の書棚には収まり切れなくなったので、ぼつぼつ書籍の移動を実施したい、と申し入れ、快諾を得てほっとしました。折を見て少しずつ、2~3年かけて移動させたいと思っています。

 

●昨日は、所属クラブのグランドシニア会で、寅七にとっては初打ちでした。

普段は腰痛防止用ベルトを着用してのゴルフなのですが、うっかり忘れて来てしまい、その拘束がないことが幸いしたのか、春日和で暖かかったこともあってか、体もよく動きボールはよく飛んでくれました。

しかし、練習不足は否めず、ボールの方向が定まらず、よくOBゾーンに飛んでくれて、7個のOBは自己新記録でした。昨秋このコンペで準優勝で、ハンディも減ってたことも味方?してくれて、運よくブービー賞をゲットできました。

 

●出野正・張莉著『倭人とはなにか』の読後感想第二弾です。全体としては5~6回ぐらいに分けて出すことになりそうです。

 

この本は、副題し「漢字から読み解く日本人の源流」とあるように、日本人の源流が主題の本なのですが、その中で述べられている『魏志』倭人伝の解釈が特に気になってその部分を中心に感想などを述べることにしたわけです。

 

今回は、古田武彦氏が倭人伝の行路記事は「道行き文」として解釈されたところについて、のところです。

 

前回著者たちが立てた仮説について、仮説その1から5までについて述べました。

そのうち、仮説その1、2、及び5によって、倭人伝の解釈はどのようになったのか。著者たちの主張をかいつまんで述べてみます。

 

仮説その1【倭人伝の記事の「倭」は半島に存在した「倭種の国(狗邪韓国)】

仮説その2【「郡より倭に至には・・・其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里」で文章は区切るべき】

仮説その5【「其の北岸」というのは、狗邪韓国の北岸の事である。南岸であるが、魏使達の船の方からみた方角を記したものである

 

『三国志』では「倭」と「倭人」は書き分けられている。この二つの漢語の意味は異なる。朝鮮半島に存在する倭種の国が「倭」であり、倭人伝では「狗邪韓国」と書かれている。倭人伝の記述からでは、列島の「倭人」(倭人国)との関係ははっきりしないが、独立国であったと思われる、と言われています。

ただ、『魏志』には「倭」と「倭人」以外にも、「倭地」「大倭」「倭種」「倭国」「倭女王」「倭王」などの複合語の「倭」の解釈や、狗奴国との戦いのところに「倭の載斯・烏越等を遣わし郡に詣り」いある「倭」は「半島の倭」でよいのかな、など疑問は多いのです。

 

ともかく、著者の説くところに随って進めます。

 

行路記事の始めにある「郡より倭に至には・・・・・七千余里」という文章の「倭」は当然半島の倭であり、この文章は狗邪韓国への道程を示す、とされます。

【「従郡至倭」から「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」を一文とする見方もありますが、そうすると文章の文字数が三百二十二文字あり、一文としては長すぎます。(P148)】

 

その結果たとえば古田武彦説と違った結果になったことは、

①旁国の一つ投馬国への行路水行二十日は、邪馬壹国への水行十日陸行一月と同じく、帯方郡からの行路と解釈される。

②「其の北岸」は当然「狗邪韓国」の南岸の事である。

 

次に、仮説3及び4により、どのような結論になったのか。

仮説その3は、【「韓国を歴るに」、の「歴」は「歴」の本義「過ぎる」と読むべきであって、派生義の「歴観」というように読むのは誤り。

仮説その4は、【「乍南乍東」の「乍~乍~」の意味は、「二つの状態が交互に現れることを示す表現」であり、L字型の行路を最初に南に行き、然る後に東に行く水行の航路としてもなんの不思議もない】

 

その結果たとえば古田武彦説と違った結果になったことは、

③韓国内の行路は半島の西海岸と南海岸をL字型に水行した。

④この結果、「水行十日陸行一月」の総行程には合わなくなるが、陸行行程については、倭人に聞いた必要日数であろう。「水行十日陸行一月」という記事に合わせて原文を捻じ曲げて読むのは間違った読み方である。

 

以上のような解釈が『魏志』の漢文を正確に読んだ結果である。

 

つまり、『魏志』を忠実に読むとこのような結果が出るのは致し方のないことである。私たちの漢字の解釈に問題があると思われるなら大いに論じたい、ということのようです。

ここに上げた四点について、著者の解釈を詳しく見て、そこに設定された仮説、著者たちは「仮説ではない、真実だ」と思っていらっしゃるようですが、そこに瑕疵はなかったのかを寅七なりに検証してみた結果を報告したいと思います。

(以下次回に)

 

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2017-01-03 19:16:09

29.1.03

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明けましておめでとうございます。本年もブログ更新を旧年以上に努めたいと思っています。よろしくお願いいたします。

 

●大晦日に長男が老父母の見舞いに遠路はるばる来てくれました。愛犬2頭連れで狭い我が家も窮屈ながら久しぶりに賑やかになりました。

年が明けたら、お屠蘇代わりでのビールの乾杯のあとに思いもよらぬ「お年玉」のポチ袋をくれました。初めてのわが子からのお年玉で、ドギマギしてしまいました。

民間から公務員に転職して15年ほどになりますか、一応管理職になって収入も落ち着いたようで、ひと安心です。

 

●一日二日と年賀状の整理でした。かなりの知人から、もう今年で年賀の挨拶終了という書き込みや、ゴルフが出来なくなったことの寂しさ、体調不良の自分や相棒の介護など、年寄の年賀状のコメントはどうしてもマイナス面が出るのは致し方ないのでしょう。中・高の同級生からのコメントには、次の会を楽しみにしている、というのが多く、幹事役冥利に尽きます。

 

●一応、年末から読み始めた、出野正・張莉著『倭人とはなにか』について、感じたことを書いていきたいと思います。

当方の漢字や漢文の素養では、著者たちに太刀打ちできるとは思いませんが、古田武彦師から学んだ、と自負している「寅七流方法論」で挑んでみたいと思っています。

著者の出野正・張莉のうち、張莉さんには3年ほど前、ミネルヴァ書房の『俾彌呼』出版記念、古田武彦講演会のあとの懇親会の席で、古田先生が張莉さんを紹介してくださいました。

雑談のなかで、漢委奴国王の金印の話になり、「奴」の上古音についてお聞きしたところ、今後の研究課題です、とおっしゃったのを覚えています。

 

張莉さんは立命館大学大学院で研究されていて、平成25年7月に、第七回立命館白川静記念東洋文字文化賞」を受賞されたかたです。丁度そのころ、張莉氏が「倭人について」という論文を出され、その論証方法について古田先生が絶賛されていたことを覚えています。

張莉さんのご夫君出野正氏がその出版記念の席においでていたかどうか定かではありませんが、今回の御夫妻共著の著書を拝見しますと、学問の道でも同じ道を歩まれていることがよくわかりました。

 

今回の著作『倭人とはなにか』は、張莉論文「倭人について」を発展的に述べられ、まとめられたものと言えましょう。倭人の源流かと思われる雲南省の「ビルマ族自治区」の「西双版納〈シーサンパンナ〉に調査旅行に出かけられた報告、倭人南アジア源流説の鳥越憲三郎氏、大野晋氏の「日本語タミル語起源説」など先人の、日本人や日本語の源流についての説明や、近年の日本語の形成の流れは「原ツングース語」と南太平洋から南アジア大陸にかけての「原オーストロネシア語」の流れとの混流というような現在の日本語のルーツ研究の現状も紹介されています。

 

雲南省の昆明という地はどのあたりかということは、重慶よりも奥地あたりか、という地理認識の我々ですから、この雲南省あたりの簡単な地図があれば、メコン川の流れや南シナ海あたりとの地理的関係もわかり、この本の理解を助けるのではないか、と無い物ねだりの感想を抱きました。

 

この本の中心的な問題提起は「倭」と「倭人」はその概念が違う、というところにあります。これが最大の「基本仮説」です。

そこを論証するために、中国及び朝鮮の史書を渉猟して論証されています。この基本的仮説を一応そのままに置いて、それによって解釈される『魏志』東夷伝倭人の条の解釈を見ていきたいと思います。

 

著者たちの、今から述べるいくつかの「仮説」による検証によって、果たして合理的解釈が出来ているのか。いや、この本にはまだ論証は不十分である、というように書いてありますので、著者たちの仮説がどのような結論に至り、それが合理的な解釈と言えるかどうか。

もし、合理的でないとする場合は、なぜそのような結論に至ったのか、「仮説」に瑕疵はなかったのか、仮説の検証をしてみよう・、という作業にかかろうと思っています。

 

・その仮説その1

倭人伝の記事の「倭」は半島に存在した「倭種の国(狗邪韓国)」

・その仮説その2

「郡から倭に至には・・・其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里」で区切るべきだ。

倭人伝の行路記事は、「郡より倭に至には・・・から始まって、南邪馬壹国に至る水行十日陸行一月」という長文の一連の文ではない。中国語の文章にこのような長い述語の文章はない。

・それに付随する仮説その3

「韓国を歴るに」、の「歴」は「歴」の本義「過ぎる」と読むべきであって、派生義の「歴観」というように読むのは誤り。

・同じく付随する仮説その4

「乍南乍東」の「乍~乍~」の読みは、佐藤進ほか編『全訳 漢辞海』によると「二つの状態が交互に現れることを示す表現」としており、それならL字型の行路を最初に南に行き、然る後に東に行く水行の航路としてもなんの不思議もありません。

・同じく仮説その1に付随して、仮説その5

「其の北岸」というのは、狗邪韓国の北岸の事である。南岸であるが、魏使達の船の方からみた方角を記したものである。このような表記例は、広東省の北海市の「北海」のネーミングにも例がある。

 

以上の仮説に随って著者たちは「倭人伝」解釈されていきます。

以上の結果によって、倭人伝の航路解釈には、特に古田武彦説とは大きく違ってきます。

ちょっと長くなりすぎますので、これらの諸点については次回に述べます。

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2016-12-30 19:26:38

28.12.30

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今年の寅七の数字を昨年の数字(カッコ内数字)と比べてみると諸方面で減少していることが読み取れます。

床屋10回(12) ・車走行距離15500km (18700km) ・ゴルフ36ラウンド (42ラウンド) ・外国旅行 0 (1) ・国内旅行 2 (4) ・ブログ更新回数91 (105) ・ホームページ更新回数3  (4)。

というように、かなり人生の屈曲点に差し掛かったようです。

ただ、医療機関利用回数15 (15)や、家族を含めての救急車利用回数 0 (0)という数字はありがたいことです。

 

●いただいた『倭人とはなにか』出野正・張莉著 を読んでいます。中国や朝鮮の史料から「倭」と「倭人」は書き分けられていて、三国志の「倭」は「半島の倭」で「倭人」は「列島の倭」とと区別されていると論証を進められます。

ただ、用いられた朝鮮の史料は、12世紀ごろの編纂であり、倭と対立することの多かった朝鮮の立場からの歴史書です。それを『漢書』や『三国志』という10世紀昔の資料と同列に「倭」・「倭人」を評価してよいものかどうかについては、問題があるのではないかとは思いますが、その努力には敬意を表します。

 

ただ、その結果、倭人伝の行路記事は、「郡から倭に至るには」、というところは、「郡から朝鮮半島に存在した倭(狗邪韓国)への行路をいう」、ということになります。

そこのところに引っかかり、「乍南乍東」や「韓国を歴す」や「其の北岸」についての、己の理解を改めて検証することが必要になりました。

年末年始は、特に出かける所もないので、お屠蘇もほどほどに、この問題に取り組んでみたいと思っています。中国の辞典を引くには昔習った簡体字を思い出しながら引きますので、あまりお屠蘇に深入りできないのは残念ですが、その結果は、正月明けにご報告したいと思っています。

 

●今年も国の内外で大きな出来事がありましたが、寅七の身の回りにはさしたる重大事もなく、穏やかに過ごせた一年でした。

「タリシヒコの謎」の古代史の会での発表も、中途半端のままです。幸い2月5日の九州古代史の会で引き続き発表の場をいただきましたので、もう少しわかりやすく、というか、話の目的などを明らかにして発表していきたいもの、と思っています。

特に「岩波文庫」の批評が目玉になりますので。

 

●ともかく、この穏やかさが、内外に続くことを願いつつブログ書き納めとします。

 

皆様 よい年をお迎えください。    棟上寅七

 

 

 

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2016-12-25 20:18:02

クリスマス2題 28.12,25

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クリスマスプレゼントが二つ舞い込みました。

 

●飯塚市長と副市長が勤務時間帯に賭けマージャンをしていた、ということが報じられています。その弁明のなかで、麻雀を賭けなかったらゲームが廃れるというような言がありました。

 

しかし、世の中には、ゲーム麻雀でなく、市内中心部の年寄倶楽部で麻雀を楽しむ方々も大勢いらしゃいます。

うちの奥様の友達から誘われて、20年ぶりくらいになるかと思いますが、麻雀卓を囲みました。麻雀屋さんの空き時間を使って40人弱の麻雀好きのお年寄りがメンバーだそうです。

 

昨夜はクリスマスイブなのに8卓32名が集まりゲームを楽しみました。くじ引きで卓を移動し、お昼から夕方まで4回戦で順位を競うルールでした。

麻雀台も完全自動で、これもジャパンテクノロジーの成果なのでしょう。メンバーの手持ち点数が分かるようになっているのにも驚かされました。

 

4戦の結果、3回トップを取った寅七が幸運にも優勝で、奥様はドンベでした。あと千点あったら、ブービー賞をもらえたのに、と残念がっていました。寅七が勝てたのは、久しぶりで恐る恐る臆病にプレーしたせいもあるでしょう。昔盛んにやった賭け麻雀のおかげも少しはあったかもしれませんが。

 

2千円の会費で茶菓接待付き(今回はケーキも)でした。会費の4倍ほどの優勝賞品を受け取り、天神で夫婦でクリスマスディナーを楽しめました。

 

●最近はあまり古代史関係の本を読まなくなった、というグチが天に届いたのか、『倭人とはなにか』出野正・張莉共著(明石書房)が著者から送られてきました。

内容は裏表紙に目次がありました。

ざっと読みですが、「古田武彦教条主義者」には耐えられないと思われる内容がテンコ盛りです。特に「倭人伝」の魏使の行路には議論が出ることでしょう。

古田武彦を好き嫌いにかかわらず興味のある方には、一読の価値ある本と思われます。

詳しい批評は、年末年始にじっくり読ませてもらって、改めて述べたいと思います。寅七の良い頭のリハビリになる本に出合ったように思います。

 

 

 

 

 

 

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2016-12-22 20:24:49

倭人伝の二島周旋問題(終)28.12.22

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●昨日は、北九州での大学同窓の忘年会でした。参加者60名弱でしたが、なんと参加者の半分以上が平成になっての卒業年次でした。おまけに寅七が最年長で、乾杯の音頭取り役でした。昭和はだんだんと遠くなっていきます。

まじめな会ですので、途中に技術に関係の卓話が入ります。今回は、今話題の博多駅前の陥没事故についての、地盤工学からのアプローチ的見解、をN大名誉教授G氏が30分ほどプロジェクターを使って話してくれました。

発生直後に、このブログで寅七が予想していたような見解でした。専門的になりますが、ナトム工法の採用だけでなく、パイプルーフ工法も採用しなければトンネルを掘り」進められなかったようです。ナトム工法を採用した経緯が今後問題になる可能性もあるようです。

 

●年賀状、何とか印刷と一筆コメントを書きあがりました。ところが今日、ポストに熊本で小・中・高同じの幼友達の姉さんの訃報を知らせる「喪中ハガキ」が入っています。寅七がお付き合いしている方々も高齢化していますので、「喪中はがき」を出される方々も多くなっています。まだ年末まで旬日あります。折角刷り上がった年賀状ですが、もう2、3日置いてポストに入れることにしましょう。

 

●昨日、小倉にJRで行き、久しぶりに『「邪馬台国」はなかった』を車中で読み直しました。どうしても、古田先生の倭人伝の魏使の行路解釈の「二島周旋行路」が常識的に理解することが難しい、机上の空論、と思われたからです。

魏使達が、対馬と壱岐の上陸して島内の陸路を取ったことについての古田先生の解釈には問題はありません。

ただ、その陸路の説明が「周旋」した、とされるところが現地の状況から、「水行」なら理解できますが、とても「陸行」ルートとは思えないのです。

寅七が先般から試みている、「余里」が付けられている行路に目を付けて、いろいろと計算することは、陳寿の叙述方法には似合わないのではないか、という疑念も心の片隅にありました。

 

帰宅して、対馬や壱岐の地理的状況をGoogleMapなどで調べていましたら、ナンダコンナコトナノカ、ということに気付きました。

現地の地理的条件から対海国(対馬)・一大国(壱岐)二島の陸行ルートを模式的に示しますと、次のようになります。

これをもっと抽象化して示しますと次のようになり、その距離は外周二辺の距離と等しくなります。

古田先生は、『風土記にいた卑弥呼』で次のような二島の経路を示されています。

それに、朱書したようなルートで島を縦断したのだとします。

その結果は「部分行程の和が総行程万二千余里になる」という命題を満たすものであった、ということになりました。(じゃないでしょうか?)

これでしたら、壱岐や対馬の地元の高校生から、「島を周旋しての陸行は現実的でない」という質問を受けても、充分理解してもらえる説明ができるのではないでしょうか。

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