1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-06-26 11:35:11

沖縄独立論は? 28.6.26

テーマ:ブログ
●英国のEU離脱が現実のものになり世の中が騒然としています。この動きがカタルニヤのスペインからの独立や、スコットランドの英連邦からの離脱などの勢いが増す、というような意見が多く聞かれます。
しかし、琉球の独立については腫れ物に触りたくないのかTVのコメンテーターも口をつぐんでいます。
そういえば、九州独立論も終戦直後水平社運動の闘士松本治一郎によって唱えられましたが、GHQに抑えられたようです。その後裔の龍氏の話題は、東日本震災の復興相としてミソを付けて以来、噂もききません。今回の参議院の選挙で社会党も消滅するのでしょうか。

●先週の木曜日、天気予報では大雨注意報が出ていました。しかし、スタートするころには雨も上がって支障なくゴルフが楽しめました。
今回のコンペ参加予定者は18名でしたが、天気予報を信じる派で今回欠席したもの2名で、あと16名はなんとかやれる派で、さすが戸外での仕事を生業にしてきた者たちです。
ただ老年者には、雨に濡れ重くなったラフからの脱出には力不足だったようで、筋力の衰えを実感させられた一日となりました。
今週末にはこの反省を生かして、と思っていますが、忘れずにいれたらよいのですが。

●大山誠一さんの聖徳太子架空説を確認しておこうと思って『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)を読み直してみました。

聖徳太子の事績とされるものはみな後世に作られたもの、というところには熱が入っていますが、「日出づる処の天子云々」の国書を出したのは誰か、となると時の為政者蘇我入鹿だ、とされますが、そうすると出てくるタリシヒコ関係の数多くの疑問には全く言及されません。知らぬ顔半兵衛をきめこまれていました。

ただ、戦後の学界について批判しているところがあるのに気づきました。自分は久米邦武・津田左右吉の実証史学の系譜を継ぐ、と自負されている文章です。ちょっと長くなりますが、紹介しておきます。

【ところで、戦前の天皇制であるが、誰もが信じたわけではなかった。森鴎外に「かのように」という小説がある。
主人公の五条秀麿は学習院から東京大学の歴史家に進み、優等生として銀時計をもらって卒業し、ドイツに留学する。
帰国して歴史学者になるが、そこで記紀の神話の虚構性と自身が貴族の一員であることの矛盾に煩悶することになる。
結果として、自分に期待している父親など周囲をおもんばかり、神話を信じている「かのように」生きることとする。(中略)

さて、鴎外の五条秀麿は「かのように」という生き方を選んだが、「正直にまじめにやろう」としたものもいた。明治の碩学、久米邦武は、岩倉遣欧使節の記録係として『米欧回覧実記』を執筆したことで名高いが、歴史学専攻の帝国大学教授であり、聖徳太子研究でも、多大の功績がある。

彼は、聖徳太子の関係史料は数多いが、多くは仏教徒による奇異の仮託であるとして、研究対象としては、わずかに「憲法十七条」や法隆寺に残る若干の史料に限るべきとした。しかし、そういう態度が、神道家や国学者に嫌われ、「神道は祭天の古俗」の論文が攻撃され、教授は休職(その後辞職)、論文は発禁処分とされる。まだ明治24年のことであった。

また、実証史学を大成し、『記・紀』を正確に論じた津田左右吉も、皇室の尊厳を損ねたということで早稲田大学教授を追われ、その著書は発禁処分となされた。昭和15年のことである。

このような弾圧が行われては、少なくとも戦前においては、聖徳太子に対する実証的な研究は進展しなかったことは仕方ないことであったと思う。

問題は、その結果として、聖徳太子に対する自由な研究が阻害され、それに結果的にせよ、加担することになった研究者がその後の学界を支配し、その後継者が今日の歴史学の主流となっていることである
。(後略)】
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-22 09:56:12

岩波文庫の冠位十二階は正しいかⅢ 28.6.22

テーマ:ブログ
●熊本地震から2か月余りです。やっと電気温水器の取替工事に来てくれました。これで今夜から風呂も食洗器も使えるようになります。しかし、日帰り温泉に出かける楽しみの機会が少なくなりますが。

●寅七の不摂生は食生活から、動脈硬化を心配するわが奥様の勧めで年一回動脈のCTスキャンを受けることにしていて、昨日日赤病院に出かけました。
結果は、昨年と比較してそれほど悪くなっていない、また1年後に見てみましょう、ということでした。血液サラサラの薬を飲めという友人の医者もいますし、飲まない方がよいという友人の医者もいますが、何はともあれ飲む薬が増えないで済むことは何よりです。

●タリシヒコの謎解きに、石原道博さんの岩波文庫の訳文の問題点に取り組んでいます。
古田先生も『失われた九州王朝』で検討されているのですからそれをリトレースすればよいのですが、まあ、最初からとあらためてと取り組んでいます。

その中で、冠位の順番の相違以外、あまり問題にされていない「内官十二階の冠位」についてちょっと気になりました。

石原道博は、この『隋書』の冠位の記事の記載を、わが国の『日本書紀』が記す冠位十二階を述べたものとしています。
しかし、『日本書紀』の記述によれば、推古11年(604年)12月にに制定し、翌年の正月に初めて諸臣に授けた、とあります。
『隋書』の記述によれば、俀国の最初の使者がいろいろと俀国の事情を述べた記事のにあるというように取れます。つまりそれは開元二十年(600年)のことなのです。

600年のころに推古朝ではまだ冠位十二階は制定されていなかった、と思われます。『日本書紀』の記述が正しければ、中国との直接通航するためには冠位制定が必要と思った推古天皇が俀国に真似て冠位をしたということになろうかと思われます。そのせいで『隋書』が伝える俀国の十二階の冠位と、『日本書紀』が伝える推古朝の冠位とは、位の順位が違ってしまった、ということになったのではないでしょうか。
このような問題があることに石原道博は全く気付いていないようです。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-19 17:50:12

『くにのあゆみ編纂始末』の始末 28.6.19

テーマ:ブログ
●今朝の天気予報は大雨注意報など出ていましたが、幸いスタートの頃には雨も上がりまあまあのゴルフ日和でした。
腰痛の痛み止めも飲んで、腰の周りにはベタベタと膏薬を貼り、腰痛防止ベルトを付けてのプレーとなりました。
おかげで痛みは感じずプレーできましたが、同伴プレーヤーが飛ばし屋さんばかりだったので、ついついムキになってクラブを振り回したら、5個もOBを打つ始末で今季最悪のゴルフでした。

まあ、80過ぎてもムキになってクラブを振り回わすような気分になれるだけでも良いかな、と自分を慰めているところです。

●今日は「父の日」だとか。ゴルフ場においしそうなチョコレートケーキがあったので、自分で自分をお祝いしようかとかって帰ったら、奥様が喜んで食べてくれました。

●昨日は市の総合図書館に出かけました。前回のブログで「くにのあゆみ」について書きましたが、あれは国民学校用で中学校用とか師範学校用の教科書も同時に発行されています。
調べてみたら、市の総合図書館に師範学校用教科書があることが分かったので行ってみたわけです。
読んでみましたが、国民学校用の「くにのあゆみ」と基本は同じで、多少むつかしい表現になっているだけでした。
もちろんタリシヒコのタの字もありませんでした。

ついでに、敗戦後の教科書の黒塗り問題の記録などもあり、半日図書館で過ごしました。図書館の駐車場は平日は閑散としていますが、土曜日だったので駐車上は満車で入庫待ちの車が並ぶほどで、土日の図書館は若い親子づれの人気のスポットになっているようでした。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-16 18:25:05

『くにのあゆみ編纂始末』を読んで 28.6.16

テーマ:ブログ
●なんとなく都知事劇場も主役が退場となり、話題は既に次期主役が誰かに移っています。ルールはどう決めればよいでしょうが、都知事選挙みたいな大舞台には、アメリカの予備選挙みたいな仕掛けもあってよいのかな、と思います。具体案は思い浮かびませんが。

●なんとなく梅雨にいる、という感じです。青物や新鮮な魚を見てみたい、と昨日は糸島から七山~三ツ瀬と一回りしました。
有料道路を使わずのんびりと回りましたら、普段と違う街道をまわり、田舎の温泉に浸かったり結構楽しく老夫婦二人のドライブ旅行でした。

●敗戦後の歴史研究で「タリシヒコの謎」について調べていて、家永三郎氏が敗戦後の教科書第一号である『くにのあゆみ』を執筆者であることを知りました。

『「くにのあゆみ」編纂始末』という家永三郎氏の著書が市の総合図書館にあることを確かめ、借りてきて読んでみましたら、「タリシヒコ」のタもなく、隋との国交を聖徳太子が始めた、とあるだけでした。

しかし、この本で述べられている敗戦直後の混乱期の教科書編纂についての顛末の記録は、貴重な証言と思われました。
GHQからの教科書編纂の方針、GHQから記述を入れるように指示された巻末の文章、それにGHQから示された年表の天皇の権限の度合いをしめす濃淡の色についての指示の経緯など興味深いところです。

年表の件は、「昭和31年以後天皇の権限はほとんどなくなった」、というGHQの判断がしめされたそうです。この昭和天皇を戦犯にしないですむというGHQの方針に反して、文部省の役人が「明治維新以来天皇の権限は、王政復古していた」と主張したなどは、たとえがまずいかもしれませんが「親の心子知らず」の文部官僚の頭の堅さを知ることが出来ます。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-13 18:47:19

榊原英夫さんの講演を聞きました 28.6.13

テーマ:ブログ
●今日は3ヵ月毎の歯周病ケアの日でした。たまたま我が奥さんも義歯の手入れで一緒の病院でした。
お昼を外食にしようと、知り合いが店長をやっている博多港ベイエリアの野菜主体のバイキング料理「Litaの農園」というところに行きました。
朝から雨で月曜日ということでしょうか、お客も6分の入りで、船の出入りを眺めながら、ゆっくりと食事が出来ました。シニア料金一人1550円の元は取れたようです。

●昨日の日曜日は元伊都歴史資料館館長榊原さんの”海を渡った倭国王”という講演を聞きに行きました。
内容は、【糸島の上町向原〈かんまちむかえばる〉遺跡出土の素環頭大刀を各種の分析した結果、AD1~2世紀の大陸造ということがわかった。
これは卑弥呼とは時代があわない。時代が合う『後漢書』にある倭国王帥升の朝貢記事をよく読むと「使いを遣わして」とはなく、直接出向き生口160人を献じたものと読める。その時に安帝から下賜された大刀ではないか。
我国の天皇が海外に出かけたのは昭和天皇の1971年の外遊が初めてであるが、それ以前に外国に出て行った倭国王は師升が最初ということになる。】ということでの90分の講義でした。

質疑の時に、「宋書の倭王武の上奏文に”そでい自ら甲冑をつらぬき、海北を平らげること95ヶ国”との記事があり、倭王武の親か祖父などの倭国王が外国に行っているようだが」と質問しました。
答えは、【それは戦争で行っているのだし、「海北」が外国を意味しない説もあるし、広開土王碑文にも「倭軍」が来たと書いてあるように戦争で出かけているのはムニャムニャ】ということでした。
広開土王碑文には「倭王」が攻めて来たとは一言も書いてないのに、と思いましたが、帥升が海を渡った、という説には文句はありませんし、時間も限られていましたので議論は止めました。

●家永三郎さんの古代史論を調べていて、敗戦後日本古代史の教科書「くにのあゆみ」を担当していたことを知りました。
敗戦直後GHQの監修を受けながら古代史の教科書の著述の苦労話が『「くにのあゆみ」編纂始末』という本にまとめられていることを知りました。
市の総合図書館の在庫を調べたらありましたので、出かけてみようと思っています。


いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-09 19:45:19

岩波の『隋書』の注釈は正しいかⅡ 28.6.09

テーマ:ブログ
●やはり出かけました、ゴルフコンペ。朝、ティーアップ・ティーショットの疑似運動をやってみて、そう痛みも感じないのでクラブの競技に出かけました。
心配した第一打でしたが、痛みをグッとこらえて振り切ってみると、思いのほかまあまあ飛んでくれました。第二打は痛みに手加減して振ってみたらチョロ。第三打でなんとかグリーンに乗ってくれました。
まあ、これなら何とかなるとと思ったのが大間違い。パットの感覚が「ノーカン」で方向も距離も合わず4パット。第三ホールではあえなく球は谷底へ、と前半は今季最悪スコアと散々でした。

昼食後に痛み止めの薬をのみ、時間があったので支配人にクラブ役員の件で話に行ったところ、「見ていただけましたか」、とクラブの偉いさんから声をかけられました。
クラブハウスの待合室的なところに、このクラブの設計者ゲーリープレーイヤーの紹介コーナーが新設されていました。そこに40年前のわが姿が、ゲーリープレイヤーしとともに現場で打ち合わせしている写真が掲示されていました。

これに奮起したのか、後半は腰の痛みに耐えながらもまあ、トータルで普通のスコアで上がることができました。整形外科のY先生にはどう報告しようかな、怒られるだろうな?
帰宅したときには、わが奥様からは、あきれ返ったような顔で何も言いませんでしたが、これが一番怖いようです。

●ノリキオ画伯から、彼の母から聞いたのでしょう腰の痛みについて電話がありました。もうゴルフに行った、と伝えたら不思議そうでした。このギックリ腰とはどういう病気なのでしょうか、4日前のあの痛みがなぜ引いたのか不思議です。


●石原道博氏の『隋書』訳文の注書のその②です。

②太子、利歌彌多弗利について:不詳。事実は聖徳太子をさすわけである。和歌弥多弗利(ワカミタヒラ稚足)とでも解すべきか。

このように、俀王と太子の名前について石原道博個人の意見を述べています。

まず、「事実は聖徳太子をさすわけである」という極めつけが果たして正しいのでしょうか。
日本の史書のどこにも聖徳太子が「利歌弥多弗利」と名乗った記録は全くないのです。「事実」、とされるのは当時の大和王朝の推古女帝の皇太子が厩戸王子であった、ということだけです。

そして、ワカミタヒラ(稚足)とでも解すべきか、というような通常人には理解できない見解をしめして、いわば煙に巻いているのは許せないと思うのは素人のひがみでしょうか。

●この石原さんの岩波文庫本は、『隋書』俀国伝の、いわば「日本語訳」ですから、定説の紹介になるのはやむを得ないjことでしょう。
「タリシヒコの謎」への次の登場人物は誰にしようか、終戦後の国民学校の歴史教科書『くにのあゆみ』の著編者家永三郎さんがまだ残っていたなあ、とそちらの方の情報収集をネットで初めています。

●「タリシヒコの謎」第一部・第二部については「新しい歴史教科書(古代史)研究会」で検索して、ホームページをご覧ください。



いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-07 19:31:25

岩波文庫の『隋書』訳文注釈は正しいか 28.6.07

テーマ:ブログ
●土曜日朝から学寮の古き良き友たちとの2日間の画像報告を作成していました。新しいPCでの画像処理に自信がなく、古いPCを足元に於いて3時間ほど不自然な姿勢をしての作業となりました。
一応完了して立ち上がろうとして腰に激痛、15年前のギックリ腰の再発でした。
わが奥様の鎮痛剤を分けてもらい何とか眠り、日曜日一日安静に務めたら月曜朝には6年前にお世話になった整形外科に行けるまでに回復しました。レントゲンを撮ってもらい先生からもうしばらく静養すれば痛みは治まるでしょう、とのことでした。水曜日にゴルフに行けるかなど、答えがわかっている質問はしませんでした。

●仕方がないのでTVでくりかえされる東京都知事のニュースを見ています。人間はなかなか自分のこととなると客観的にみれないものだなあ、と感じさせられています。

●岩波文庫の『隋書』俀国伝の訳文の文注を見ています。

その注釈の主なものは、いわゆる定説に近いものを紹介しています。
まずそのうちで、訳者石原道博が「私見によれば」と自身の判断をしめしておられるところ2点をまず紹介します。

①俀王阿毎多利思比孤について:私見では、天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であろう。
②太子、利歌彌多弗利について:不詳。事実は聖徳太子をさすわけである。和歌弥多弗利(ワカミタヒラ稚足と)でも解すべきか。
このように、俀王と太子の名前について石原道博個人の意見を述べています。

まず①について

この石原道博氏の判断からみますと、まず、俀王の名前を隋朝側が何から得ているのか、そのことについての考察ができていないように思われます。

当然開皇二十年の遣使も、次の大業三年の遣使も、当然文書外交が並行して行われていたことは間違いありません。

なぜなら、三世紀の『魏志』には「女王が使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ云云」と記されているように、三世紀のころより中国と日本列島との間には文書による通交がなされているのです。

残念ながら、石原道博氏には、中国史書の訳文はできてもその史書が描く文書外交の歴史状況を把握できていなかったのではないかと思われます。

少なくとも、大業三年の俀国からの使節がもたらした、「日出づる処云々」の国書には俀国王の「御名御璽」があったことでしょう。それに加えて、使者との問答で、国名・国王の姓・国王の名・国王の号を知ったのでしょう。
このような、いわば基本的な事柄について、碩学の和田清・石原道博師弟が認識されていなかったのが、「タリシヒコの謎」以上の謎と思われます。(次回につづく)

●この「タリシヒコの謎」第一部・第二部は、下記のURLをPCに入力されるか、「新しい歴史教科書(古代史)研究会」を検索してみてください。

第一部 http://www.torashichi.sakura.ne.jp/tarishihikokou.html

第二部 http://www.torashichi.sakura.ne.jp/tarishihikokou2.html
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-05 06:04:11

古き良き友との2日間 28.6.04

テーマ:ブログ
●木曜金曜と昔の学寮の古きよき友たちとの2日間でした。昔、教養部第二分校(第三分校も)があった久留米を中心にぶら~っとしてきました。
二分校(現在高専)、三分校(現在自衛隊)の跡・太刀洗平和祈念館・岩戸山古墳が第一日目。2日目は、高良山・祇園山古墳・北原白秋生家・御花御殿などを歴訪しました。
宿は久留米の錦水というところで、大部屋でダべリングと昔の碁敵が烏鷺を戦わせたりで夜は更けました。
また来年もやろう、去年は大阪が当番だったし、次は東京組に当番をしてもらうことにし、福岡組の役目は無事終了しました。

●帰宅したら、大変なの、と奥様がいいます。今日孫のH君と電話で話していたら、今日が誕生日だということをすっかり忘れていたどうしよう、と言います。
冷蔵庫に貼ってある寅七が作った今月の予定表に「H君の誕生日」という記入がありません。6月は末娘の誕生日もあるのですがそれもありません。
ふと気づいて4月が誕生月だった孫T君をチェックしたら、4月の予定表にT君の誕生日の記述がありません。
さっそくT君に「ごめんね!」と奥様が電話をいれていました。なるべく早くお詫びメッセージ入りでお菓子でも送ることにしましょう。
だんだんとこのような忘れ物(忘れ事?)が増えてきています、困ったことです。

●前回書いた、阿冀臺と阿輩臺の件ですが、『隋書』にはもう一つ「冀」の異字体が使われていました。「兾」という字です。「キ」と読むそうです。
岩波文庫本では、その「兾」を同じ読みの「冀」として説明しています。俀王と裴世清の会話のところです。「兾聞大国維新之化」を「冀〈ねがわ〉くは大国維新の化を聞かんことを」と読み下されていますので、「冀」という北カンムリの冀を嫌って、阿輩台とされたのではないようです。岩波文庫本で、阿冀臺を阿輩台としたのは、『北史』に見える「何輩台」を「大河内直糠手」とする説に合せるために「キ」よりも「ハイ」の方がよい、という石原道博の判断から生じたものと思われます。

●昨日図書館に本を返しに行き、『先代旧事本紀』大野七三著が目についたので借りてきました。推古朝あたりをちょっと読んでみたら、『日本書紀』の引き写しのようなものでした。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-05-31 13:00:29

岩波文庫の誤植?それとも? 28.5.31

テーマ:ブログ

●このところフランスオープンで錦織選手が頑張っているのに付きあっていましたが、一昨日ガスケに4回線で負けたので、寝不足になることはしばらくないでしょう。
雨でボールが重くなり、と敗戦を雨のせいにしていたようですが、3回戦の3時間半のフルセットの試合で体力を使い果たしたので、四回戦のガスケ戦には体力負けしたのではないか、と思います。筋力の疲れが微妙にボールコントロール能力に影響して、それが凡ミス連発になったと思われました。65年前のテニス少年だったころを思い出しました。



●先週の高校同期の懇親ゴルフの報告書に昨日一日かかりになりました。昔は、という程でもなく4,5年前でしたら、半日もかからず出来ていたのに、画像処理などにずいぶん手間というか時間がかかるようになりました。
この会はK高校同窓同級生の九州地区在住者が、玉名CCに年2回集まるのですが、運転免許証の返納をした人も増えていますし、そろそろお開きにしましょうか、と水を向けてみましたが、全く無視され、秋の例会の日取り設定に話は移りました。肥後モッコスはますますモッコスもっこすぶりが強くなってきているようです。もうしばらく幹事を引かせてもらえないようです。



●岩波文庫の『隋書』訳文で最初の「俀国伝」を「倭国伝」と「俀」を「倭」として訳者石原道博さんは話を進められます。


その理由は【『隋書』巻八一東夷伝・倭国:『隋書』倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した】と注書しています。

つまり、この「俀国」というのは、我が国のことに間違いない。『宋書』にも「倭国」とあるし、『古事記』などの我が国の史書も「倭」と書いてある。
なぜ「俀」という字を『俀」としたのかわからないが、「俀国」が我が国のことである「倭国」を指すのは間違いないから、「俀」という見慣れない字を使うのでなく、訳文として「倭」を使うことにした、とこんなところでしょうか。

しかし、この『隋書』俀国伝では「俀」とすべて書かれていますが、不思議なことに、『隋書』本紀では「倭」という国の名が2回出てきているのです。
やはり石原道博氏は、なぜ『隋書』では「俀」と「倭」の使い分けについて、何らかの説明が必要なのではと寅七には思われます。



●前回、多利思比孤か多利思北孤か、という問題を調べていて、この石原先生の岩波文庫本の読み下し文の誤植を見つけました。
輩世清を出迎えた人物を「小徳阿台(何台・・・)と記してあります。この文庫本に『隋書』俀国伝の原文の影印が付けられていますが、そこには、「」ではなく「」と北カンムリなのです。(先回のブログの阿軰臺の影印のコピー参照)

読みはどちらも「ハイ」ですから、見慣れている「輩」の方にしたのかもしれません、し植字工のミスかもしれません。

しかし、石原先生も、この文庫本の原著者の和田清先生も古代東洋史の碩学の方々です。校正で気づかれなかったとはおもわれません。
原文のまま、北カンムリの字を使って、読者から多利思北孤の「北」との関連に気づかれ、「北」⇒「比」に疑問を持たれたら困る、との深いオモンパカリがあったと思うのは邪推に過ぎるでしょうか?



いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2016-05-29 19:55:36

隋書の北と比 28.5.29

テーマ:ブログ

●昨日は夕方久留米での古田史学の会の代表と事務局長さんが、そろって久留米大学での市民公開講座で講師で来られて、終わってから居酒屋で懇親会を開く、ということで、ノコノコと出かけて行きました。


18時半から21時まで、人数も12人と丁度よい感じで、アルコール入りにしては和やかな懇談会でした。

4,5年前までは、古田先生が講師として見えていて、何が何でも先生の講義だけは聞き逃さなかったものでしたが。ある講師の方から、私の話の途中で、寅七さんが中座されたのはショックだった、と言われたこともありました。


そんなことの思い出が脳裏に浮かび、自分の気分的には、古田先生追悼みたいな夕べでした。

若い古代史仲間から、私にもっと論文を発表せよ、とか、講師をやれ、とそそのかされたりもしましたが、分を守って若い人たちがやりやすいようになればいいな、と思っています。


●「タリシヒコの謎」で岩波文庫に取り組んでいます。ここでは『隋書』俀国伝全体を取り扱いますので、これが天王山みたいなものです。

最初に「俀国」がなぜ「倭国」になるのか、多利思北孤がなぜ、多利思比孤になるのか、という問題に取り組んでいます。


後者で、文庫の原文の影印では明らかに「北」と読めるのですが、他に「北」とか「比」とかいう影印が「俀国伝」の中には見当たりません。

『失われた九州王朝』で古田先生は、百納本から「北」の影印を探されましたが、寅七にはそんなことは無理です。


『隋書』俀国伝の原文の影印を見ていったら、「軰」という字があることに気付きました。北カンムリに車という字です。

これを見たら多利思比孤でなく、多利思北孤という疑念には、その『隋書』の中にその証拠があることが分かっていただけるのではないかなと思っています。


四番目の字は「比」でなく「北」でしょう 四番目のじは「比」ではなく「北」でしょう



四番目は北カンムリと見えるが 四番目の字は「比」カンムリでしょうか?



いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。