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2014-12-17 15:44:00

松下見林『異称日本伝』 26.12.17

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●隋書に「その国に阿蘇山あり」とされるところの解釈に、船で石棺を輸送中のところを隋の使者が見て、あの石はどこから来たのか、と問い、阿蘇山からと答えたためであろう、九州王朝説なる珍説を唱えるものがいるようだが、九州王朝の根拠なし、とされる人もいます。
今回の阿蘇山の爆発で、それを鎮めるためのお払いの神事が報道されていました。まさに隋書の記事通りのことがおこなわれているのですが、そのことに言及した記事を見つけることはできませんでした。


●寒波襲来という予想で九州地方の天気予報にも雪マークが付いています。予定では高校同期会の忘年ゴルフの予定でしたが、参加者が少なくコンペは中止しましたが、もし希望者が多かったとしても結果的には中止となっていたことでしょう。夜の宴会は電車やバスが不通にならない限り大丈夫でしょう。


●先日図書館で松下見林『異称日本伝』を一応目を通してきました。かなりの数の中国・朝鮮の史書の我が国に関する記述を「今按ずるに・・・・」と、彼の見方を述べている本でした。


異称日本伝序文 『異称日本伝』序文

とても半日やそこらで読みとおせる本でありませんが、いくつか興味ある記述が目にとまりました。多利思比孤は用明天皇か舒明天皇かなどとか、隋書の最後の記述「遂に絶つ」とあるのは、このあと隋が滅亡したから隋との国交が絶えたということだ、とかなどです。

ぼつぼつ読んで見たいと思っていますが、兆分の漢文は着かれます。


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2014-12-09 10:13:57

小田孔明選手おめでとう! 26.12.09

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●このところ日曜大工的日常です。先日亡くなった友人の形見分けで大型テレビを家内がいただきました。さて、どこに置くか、狭い我が家では今ある家具を処分しなければ収まらない。大型粗大ゴミで出すにしても、集積場までどのよう持出せるのか、とても一人では無理。結局、小さく壊して通常の燃えるゴミとして処分しました。それにかかった時間が2日、費用はゴミ袋10枚分で済みました。

さて次は、大型テレビを置くためと、処分した家具に入っていた雑品を収納する整理棚兼用の家具が必要となりました。
北欧の家具店イ社に出掛け、まあ当面の役に立つと思われる棚に決めました。値段は7980円と安かったのが決め手でした。
レジを済ませて、宅配を頼もうとしたら、このサイズでは2800円+部屋までの搬入費500円、組立て費5000円ということでした。
重さは30kg強なのですが車に積めるか駐車場までカートに乗せて行って確かめたら何とか収める事ができました。
わがマンションの駐車場で梱包を解体し、数度に分けて搬入し、組み立てに約4時間で完成出来ました。


新しい整理棚 この画像のテレビの倍の大きさのが来る予定

●昨日の新聞に「小田孔明選手賞金王に」というニュースが大きく報じられていました。彼は過年、寅七の所属クラブで研修生として、キャディもやっていました。

このクラブのグループが毎年年初めに出す冊子に、先月中ごろ原稿出稿依頼があり、小田選手がきっと夢を叶えるだろう、という予測と希望記事を書いたのですが、予測が当たってホットしました。


●「古田先生と行くギリシャ旅行」をWさんが企画推進されています。こちらの事情としては残念ながら参加できません、とお断りしました。

このツアーはトルコのトロイ遺跡にも回る予定です。一昨年トルコ旅行のおり、古田先生から「シュリーマン関係の資料があったら」と頼まれて「トロイ遺跡」という小冊子をお届けした記憶があります。


そのことを思い出して、「シュリーマンの現地での評価は西欧や日本での評価とは大違いで悪人とされている」という資料として、Wさんにその冊子のシュリーマンについての一部分のファイルをメールしましたら、喜んでいただけました。

今日古田先生と打ち合わせをする予定だそうでした。古田先生の膨大な蔵書の山に、その小冊子は埋もれていることでしょうが、ということも付け加えておきました。


ギリシャ旅行 クリックすると拡大します

●隋書と日本書紀の記事の齟齬について、北畠親房と本居宣長については見る事が出来ましたが、同じように通史を書いた松下見林の『異称日本伝』での判断にも眼を通したいと思いAmazonで検索してみました。

何と、39900円!。

市の図書館で検索してみたら見つかりましたので、近いうちに出掛けようと思っているところです。

●朝、娘から「おめでとう」といわれて、家内が「気にもしていなかった」といっています。聞けば我らの結婚52周年記念日だとか、OOOも遠くなりにけり、です。

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2014-12-04 07:35:19

干し柿造り 26.12.04

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●早くも九州にも雪情報です。さて、チェーンはどこにしまったのかなあ、雪道を無理してはしる年齢でもないし、むしろチェーンを装備していないほうが安全かなあ、など思っています。


●先日、おいしいと評判の太秋柿を買いに出かけて、そのお目当ての柿の50分の一程度で売られている、干し柿用の渋柿に目が行きました。35個250円でした。


もう70年ほども前のことになります。長野県に集団疎開していました。遠足である農家の前で小休止したら、そこの軒には干し柿が簾のように干されていました。子供たちが欲しそうに眺めていたのを見て、これでよければ、というようなことを言っておばあさんが、その干し柿を製造した時にできた柿の皮を干したのをくださいました。

飢えていた子等にはそれでもごちそうでしたが、皮より干し柿が食べたかったなあ、と思いました。今思い返せば、干し柿は売り物にするためのもので、皮を干したのは自家用だったのでしょう。そこまで思いが廻らず、ケチなおばあさんと思ってしまって申し訳なたったなあ、と思い出しています。


ベランダの干し柿 ベランダの干し柿

●古田先生は、主治医K先生の指示で例年の検査入院中だそうです。しかし、特に治療を受けるわけでもなく、好きな本が読めて幸せな時間を過ごしている、と電話でいろいろと喋ってくださいました。

九州古代史の会の「九州倭国通信」の最近号の、奴国論のことから始まって、内倉さんの玉壁の話になりました。とても私には対応できない話なので、「直接内倉さんにお聞きしたら」、と申しあげたら、「ニュース元の青木さんに聞いてみるかなあ」、とおっしゃっておられました。ともかく研究力旺盛で、お元気な声が聞けて安心しました。


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2014-11-28 08:56:24

阿蘇山あり、無故火起 26.11.28

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●昨日は久しぶりのゴルフでした。幸い秋晴れのゴルフ日よりでした。ゴルフ場のすぐ近くにバス停があるので、ネットで調べたら、我が家のすぐ近くかのバス停から直行で行けるようです。時間も30分もかからないようですから、バスで出かけました。

車で出かけるとアルコール問題がありますが、今回はその心配は無用でしたので、茶店での一服も楽しめました。ドライバーはよく飛んでくれましたが、パットに手古ずり42パットもしてしまいました。

夕方から、昔の会社の社員仲間が、古代史を肴に一杯いっぱいやろう、という企画をしてくれ、宗像の居酒屋に6名あつまり、2時間のダベリングでした。それぞれの、唐津・糸島・福間・河内国府という育った環境からくる各人の郷土史観が覗え面白く楽しく過ごせました。


●最近阿蘇山が活動が活発になり、1500mの高さにも届く噴煙や花火のように打ち上げられる夜景などがTVなどで盛んに報道されています。

岩波文庫の『隋書』の阿蘇山のところを改めて読み直してみました。【阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異となし、因って禱祭を行う】というところです。


この石原道博氏の解釈はしっくりきません。漢文にしろううとの者が読んだら意味が通じないのです。

この石原氏の読み下し文を平たく読めば、【阿蘇山がある。その石は自然に火が出てその火は天に接する者であり、人々はこれを神異なものとして(鎮めるために)祈祷する】ということなのでしょうが、なぜ「石」が「者」なのかということが私には理解できません。「石」を擬人調に述べたにしても不自然です。


これは、例えば北畠親房の『神皇正統記』の出だしの、「大日本者神国也」の「者」の使用法と同じで、「大日本は神国なり」というように、「者」は「名詞」ではなく「助詞」として用いられると理解すべきなのではないでしょうか。
漢和辞典を開いてみますと、「者」の意味には名詞と助詞とがあり、助詞としては、【上の文句を「それは」と、特に提示すること】とあります。


つまり、この「阿蘇山あり」の石原氏の文章は、【阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接するので、俗以て異となし、因って禱祭を行う】と読み下されるべきでしょう。


石原氏は、岩波の読者は漢文の素養があり、「者」と書いても「名詞」と理解するような者はいない、と原文を擬古文調に記述することの方に重きをおかれたのではないか、とも思われますが、正確な訳ではないと思います。


●NTTから、ホープページのサービスを来年2月で中止する、という連絡が入り、どこかのプロバイダーに引っ越ししなければならないようです。面倒だなあ、止め時かなあ、など弱気になっています。



2014-11-24 06:36:38

本の優待販売終了します 26.11.24

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●『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』中村通敏著海鳥社刊のPRをしていましたが、おかげさまで当初の目標部数に達しましたので、本年11月末日でこのブログ読者優待販売を終了します。ご協力ありがとうございました。今後のご購入は、一般書店やAmazon社から、および海鳥社直接申込ということでお願いいたします。

ご購入いただいたブログの読者の方々には改めて御礼申し上げます。


●中学同窓会の幹事としての最後の仕事、報告書と写真を参加者に送る仕事が残っています。

写真をA4版2枚にまとめ、プリントしていてあと3枚という時にプリンターが「廃インク吸収パッドが限界地を超えた云々」というメッセージを発しました。

気づいてみると、数枚のプリントは変色していてとても「写真」とは言えません。

まだ2年もたっていないのに、と購入先に保証書と一緒に持ち込みましたが、今回の場合有償になるかもしれない、とのご宣託です。メーカーに問い合わせてみます、連休中なので時間がかかります、ということでしばらくはプリンターなしの生活となります。まあ、実生活には影響はほとんどありませんが、団体の幹事役は務まらない状態です。


●推古期の勉強のために、まず、『日本書紀』を自己流に現代語訳を試みています。

その推古紀の一節で、推古天皇から唐の皇帝に宛てた国書の中にある、「聘」と「方」についてうまく訳せ図にいます。うまく訳せないところはとりあえず、先人の解釈を(注)としていれて進んでいます。


例えば、

【十一日に唐客裵世清が帰国した。唐客に添えて、小野妹子を大使、吉士雄成を次席、福利を通訳として派遣した。此の時に天皇が唐の帝を聘〈とぶら〉って次のように述べた。
(注:聘〈とぶら〉う  贈物をもって人を訪ねて様子を当たってみる。贈物をして賢者を招く。)
「東の天皇、敬んで西の皇帝に申し上げます。このたび、鴻臚寺の掌客の裵世清たちが参り、久しく思っていたことが方〈みかざり〉に解けました。秋も末になりようやく涼しくなってきました。そちらさまは如何お過ごしでしょうか。思いますに、穏やかに過ごされていることでしょう。当方はいつものように過ごせています。このたび、大礼蘇因高、大礼乎那利たちを派遣することを謹んで申しあげます。意をつくしていませんがよろしく」とありました。
(注:方〈みかざり〉に  その時になってようやく。はじめて。)】というように。


この作業が終わるころには、しっくりする表現を見いだせればいいな、と思っています。


●古代史研究に大きな足跡を残された、内藤湖南先生にしても、戦前の皇国史観の歴史教育に芯からそまっているのだなあ、と『日本文化史研究』講談社学術文庫を読みなおしていてつくづく感じます。


【『(神皇)正統記』は単に昔からの、歴史を天子にお教え申し上げるというだけではなしに、昔の変化を述べて新しい時代の天子がいかなる覚悟でいられ、いかなる方法でなさるがいいかということに対する自分の意見をことごとく現わしたところの著述であります。だから日本第一の歴史家といったらこの北畠親房をあげていいと思います。日本の歴史の内で自分で立派な経綸的の意見をもってそれを根本として書いたものは少ない。そのうちで親房の『神皇正統記』は実に見上げた堂々たる歴史であり、同時に当時の革新意見書であります。】

と親房をほめあげています。この本は大正十三年という戦前に出されたものですから、当時としては当たり前の論調だったのでしょう。


しかし、親房の【大日本者〈は〉神国也。天祖〈あまつみおや〉はじめて基〈もとい〉をひらき、日の神ながく統を伝え給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国といふなり。】 で始まる「日本は神の国」論が、結局日本を滅ぼすもとになった、ということについて、親房をほめあげるだけのこの本を、1976年の時点で文庫本として、反省はおろか何の論評も加えず、フランス文学者桑原武夫氏の解説で、いわば煙幕を張って改めて世に出した講談社の考えには疑問があります。


ともかく、内藤湖南氏の古代史叙述は、このような「日本は神国なり」という精神でなされている、ということを知った上で、読まなければならないと思いました。



2014-11-18 09:18:38

「もうひとつの奴国」論 26.11.18

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●明日の中学校同窓生の傘寿祝いの会の準備が終わり、一息ついているところです。先ほども茨城県に住むFさんから、今から出かけるけれど、会は予定通りですね。と念押しの電話がありました。
当時1クラス50人の5学級約250人の卒業生で、出欠の返事があったのが60名程。内、出席37名とはご同慶の至りです。

● 『魏志』倭人伝にある二つの奴国のうちの旁国の一つに挙げられている「奴国」がどこにあったのか。これについて、『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』で、神武が東へ侵攻して作った筑紫の奴国の分国ではないか、と論じました。

大阪阪府茨木市の東奈良遺跡あたりが卑弥呼と対立した狗奴国の本拠ではないか、と仮定したものです。(東大阪遺跡と本で書いていますが誤記です)

ところが、奴国は神武の即位の地、橿原としますと南北関係が合わない、むしろ逆ではないか、と何人かの読者の方から指摘されました。

まったく寅七の地理認識の誤りです。これでも5年近く枚方市に住まいしていて、奈良にもよく出かけていましたのに。私の認識では奈良(市)は大阪より北にありました。


同じ奈良県内でも橿原はず~と南に位置しています。それなのに橿原も大和だ、大和は河内の北、という誤った地理観念に陥っていました。

改めてこの点について再検証する必要があります。


『魏志』より後に書かれた『後漢書』に「東、海を渡る千里、拘奴国あり」と書かれています。漢代の里の長さ435mですと、九州から450km前後の位置となります。

宇佐から大阪湾までの直線距離はGoogleによると約420kmです。 また、地名の依存性からは、狗奴国=こうぬ・こうの・かふぬ・かふのなどから、 大阪府交野市・備後国甲奴〈かふの〉郡(広島県甲奴〈こうぬ〉郡)・瀬戸内の河野水軍や各地に残る河野などがあげられています。奴をナと読み、狗奴をクナと読むことからの熊襲案は論外です。

このあたりの 弥生期の遺跡としては、沢山の遺跡がありますが、そのなかでも狗奴国(銅鐸族)の中心であったろうと思われるものに、茨木市の東奈良遺跡・東大阪市の鬼虎川遺跡・羽曳野市の西浦遺跡や淡路島の五斗長垣内〈ごっさかいと〉遺跡があげられます。当然のことながら、瀬戸内に面したところに文化が栄えたところがあったのは自然でしょう。

狗奴国が瀬戸内~大阪湾あたりに存在したことは、神武記のナガスネヒコの記述からもうかがえる事です。
ところで、3世紀時点での神武の国がどのような姿であって、中心はどのあたりであったのか、という事が問題になります。

いわゆる欠史八代の時期になります。神武の頃の橿原市あたりから九代開化天皇の頃には奈良市春日に陵墓があるように、勢力範囲は北上しているようです。

この神武一族の奈良盆地平定は九代の開化天皇の陵墓が奈良市域にあることがが示すように、崇神天皇までに完了したようです。


以上の事柄と、奴国と狗奴国とが南北の地理関係にあったという記述から演繹されることは、奴国が奈良盆地中心あありあったとすれば、狗奴国の中心は羽曳野市あたりであった可能性が高い、という事になります。

いずれにせよ、少ない情報から仮定していることですから、真実には遠いかもしれません。おまけに、記述者が東大阪の遺跡と東奈良遺跡をごっちゃにしているので、余計ややこしくしてしまったようで読者の方々に申し訳なく思っています。

第七章までで本論の「奴国論」を終えて、第八章の「もうひとつの奴国」にはいいて、気が緩んだ結果だろうと反省しています。第2刷を出すような事態になりましたら、二つ目の奴国については書き改めなければならないと思っています。とりあえずの自分の記事の検証結果を報告しておきます。

2014-11-12 19:51:47

忙しい5日間でした 26.11.12

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●古田先生の古代史セミナーに参加してきました。先生は予想以上にお元気でした。


八王子セミナー風景 百人を超える聴講生でした

先生のお話の資料が配布されていたのですが、その最後のページに、『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』のPRを入れてくださっていました。


古田先生手書きのPR 古田先生手書きのPRコピイ


おかげさまで予定以上の販売成績となりました。


●次の日は、大昔のテニス仲間と、日本でのテニスクラブ発祥の地とされる横浜の山手テニスクラブで何年振りかにラケットを握りました。

30分ほどの肩慣らしではとても勘は戻らず、むしろ手足の疲労が先に来てしまいました。お年寄りのペアにお手合わせをねがいましたが、6-2、次のセットも6-4で負け、もう一つやれば何とか勝てるのでは、と友に言われましたが、とても体力が続かず、シャワー室に逃げ込みました。


日本庭球発祥の地 日本庭球発祥の地の額がクラブハウス内に掲げられていました。

そのあと、中華街に繰り出し、高校の同期生6人での同窓会となりました。飛び入りで、座間市に間借りしている孫のH君が来てくれました。帰りは彼のところに泊めてもらうことにしていましたので、安心して盃を汲みかわすことができました。


●H君が学んでいるT工大を案内してもらい、5日ぶりに帰宅したら、来週にせまった中学同期の傘寿の会についてのメールや参加不参加の連絡はがきなどの整理でバタバタさせられています。幹事役を買って出たので自業自得ですが。


●留守中にAmazonに注文していた内藤湖南の『日本文化史研究』が届いていました。読み始めていますが、北畠親房みたいにむき出しではありませんが、その皇国史観というものを見せられる記述が多く、あらためて驚かされています。


2014-11-03 19:58:11

北畠親房の皇国史観に改めて驚く 26.11.03

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●早くも11月、喪中につき云々のはがきが舞い込みはじめ、年の終りが近いことを知らせてくれます。


●10月は6度もグリーンに出て、11月1日にも行きましたので、ちょっと入れ込みすぎたようです。1日のゴルフは前の会社の懇親会で、玉名の立願寺温泉に1泊でした。

4,5年前には80台前半で回われていましたが、シニアティを使わせてもらっても、とても昔日の面影のかけらも残っていませんでした。


懇親会で昔話と温泉と、おいしい料理とお酒で、四人相部屋でも気持ちよく眠れました。(自分のいびきは聞こえないのですから、他の三人はどうだったかなあ)

帰りに、山鹿の露天みたいなお店で1個百円の太秋柿、南関では道の駅的なところで、あげ豆腐のかけらを集めた特価1袋160円の南関あげ、山川では民家の軒先の無人スタンドで15個ほど入った1袋200山川みかんなどを、値段の安さについ数多く求め、家人へのお土産にしては多すぎる品々を満載して無事に帰宅しました。


●本居宣長の『馭戎慨言』を読んだついでに、北畠親房の『神皇正統記』での日本通史を読んでみています。

最初に、日本は他の国と違う神の国だ、ということで始まります。今のヘイトスピーチにつながる、というか淵源があるのかなあ、など思いながら読んでいます。


出だしの文章は、、【大日本者〈は〉神国也。天祖〈あまつみおや〉はじめて基〈もとい〉をひらき、日の神ながく統を伝え給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国といふなり。】です。皇国史観そのものですね。


2014-10-27 18:19:12

『馭戎慨言』のタリシヒコ 26.10.27

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●老祖父母を学業の合間に慰めに来てくれたH君も昨日帰京しました。わが奥様曰く、「孫は来て良し帰って良しというけれど、もっと居て欲しかった」と嘆いていました。

この5日間、結果として外食が多く、車で出かけるので、運転係寅七としては、休肝日の連続となりました。わが奥様の述懐は、H君がもっと長く居れば、寅七の肝臓が健康でいれるのに、という意味だったのかもしれません。


●来月の古田先生の八王子セミナーで、『奴国が分かれば「邪馬台国」が見える』をセミナー会場で宣伝販売をさせていただきたい、とお願いしましたら、「是非どうぞ」とおっしゃっていただけました。

とらぬ狸の胸算用ではありませんが、どれほど本を担いで行くか思案のしどころです。3年前の『鏡皇女物語』は30部完売でしたが。


●坂本太郎先生が晩年に、『隋書』と日本書紀』の記述の食い違いについて、本居宣長の『馭戎慨言』の立場に変わる、と言っていたので、『馭戎慨言』を読んでみました。


まとめてみますと次のように言えると思います。


本居宣長は、開皇二十年の遣使は、大和朝廷からの遣使ではなく、昔、卑弥呼を名乗って偽王として通交した、日本列島西端の者の仕業、としています。


その後の、『日本書紀』に記載のある遣使は大和朝廷(聖徳太子)の遣使とします。


アメのタリシヒコと名乗ったのは、その日本の西端の豪族、という解釈です。



しかし、流石の本居宣長氏も、『隋書』の最後のフレーズ、「この後遂に絶つ」については、何も解説されていません。ひっくるめて「でたらめの多い中国史書」ということで片づけられているのは、現代の詭弁史家に通じる弁証法といえるでしょう。


●本居宣長まで折角遡上ったので、北畠親房『神皇正統記』にまで手を伸ばしてみなければならないかなあ、と思っています。Amazonに安い本があるかなあ。


2014-10-23 05:28:34

人間フィルター?26.10.23

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●先日19日マラソン大会が北京で行われていました。当日の北京はPM2.5が400μgということで、TVでは、白い靄がかかっている中を、選手たちはマスクをしたりしなかったりで走っていました。

一回の呼吸で500ml,一分間の呼吸数25回、参加者3万人、参加時間は準備及び帰宅時間を含め延べ6時間、とした場合、PM2.5という有害物質を54グラム人間フィルターで除去したことになる、などつまらぬ計算をしました。

北京市民は2000万を超すそうですから、巨大なフィルターとして貢献している面もあるのかなあ ?


●昨日から、学業の合間に時間ができた、と孫H君が老夫妻の慰問に来てくれました。

バドミントンの相手がいないことは分かっていても、素振りだけでもしたいとラケットは持参してきたものの手持ち無沙汰のようです。

回転すし屋から帰ってきて、祖母の要望に答えてプレステ2を使えるようにしてくれ、テトリスとかマージャンゲームに興じていました。

●『隋書』俀国伝の最後のフレーズ「此の後遂に絶つ」について解説している史家はあまりいないのですが、さすが井上光貞先生は書かれています。(『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫2004年7月 本書は1974年に小学館より刊行された『日本の歴史』第3巻を底本とし補章を補いました、とあります)


【隋の煬帝が、高句麗征討の本格的準備にとりかかったのは、推古朝の一八年にあたる六一〇年のことである。

煬帝は六一二年、二〇〇万の大軍を発動し、みずからも遼河をわたったのである。高句麗の守りは堅く半年にして軍を退いた。煬帝は翌六一三年、再び兵を発し、帝みずからも遼河の東にいたった。しかしこのときも隋軍が各地に敗れたのみでなく、諸所に反乱がおこり、洛陽も包囲されるありさまであった。しかし煬帝は、さらに翌六一四年の二月、群臣の反対をおしきって三たび遠征を開始した。しかし、国内の反乱は拡大し、動員も意のままにすすまなかったが、七月、高句麗もまた疲弊して降を請うたのを機に、遠征軍を引いた。

『 書紀』によると推古二二年(六一四年)の六月、日本は犬上君御田鋤〈いぬがみのきみみたすき〉と矢田部造〈やたべのみやっこ〉を遣隋使として隋に送った。これは煬帝が第二次遠征の詔を下してのち四カ月あとのことである。日本はその詔を知っていたかどうかはわからないが、すでに三年に及んだ隋の大遠征を知らぬ筈はなく、それに係わる何らかの意図をもって使節を送ったのであろう。

御田鋤が隋都に到着したのは、行路に五カ月を要したとして、その年の末のことであったろう。このときは煬帝が第三次遠征に失敗した後のことで、都の周辺にも反乱が猖獗をきわめ、朝廷の内部にも離反者が続出していた。したがって御田鋤が果たして隋都について使命を果たしたかどうかは疑わしいところがある。

『隋書』が小野妹子の第二次発遣を記したあとに、「此の後遂に絶つ」とあるのは、妹子は隋都に着いたが、御田鋤は着かなかった証拠ではなかろうか】と解説されています。


これは苦しい解釈でしょう。『隋書』が「此の後、遂に絶つ」と記すのは、俀国が中国との関係を全面的に絶った、という意味でしょう。

「此の後」とはその前の記事、「裵世清が多利思北孤王の国を訪問帰国した後」でしょう。

これは608年のことです。井上先生は、御田鋤の遣使が614年のことだから、着いていれば、この「遂に絶つ」という記事にはならなかった筈、とおっしゃりたいようです。


しかし、「遂に絶つ」た筈の倭国が、『隋書』帝紀には、「大業六年(610年)春正月に倭国が遣使し方物を貢じた」という記事があります。『日本書紀』にはこの遣使の記事はありません。

倭国は隋との国交を「遂に絶つ」てはいないのです。井上先生は、この矛盾については無言です。


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