29.1.03 | 棟上寅七の古代史本批評

29.1.03

明けましておめでとうございます。本年もブログ更新を旧年以上に努めたいと思っています。よろしくお願いいたします。

 

●大晦日に長男が老父母の見舞いに遠路はるばる来てくれました。愛犬2頭連れで狭い我が家も窮屈ながら久しぶりに賑やかになりました。

年が明けたら、お屠蘇代わりでのビールの乾杯のあとに思いもよらぬ「お年玉」のポチ袋をくれました。初めてのわが子からのお年玉で、ドギマギしてしまいました。

民間から公務員に転職して15年ほどになりますか、一応管理職になって収入も落ち着いたようで、ひと安心です。

 

●一日二日と年賀状の整理でした。かなりの知人から、もう今年で年賀の挨拶終了という書き込みや、ゴルフが出来なくなったことの寂しさ、体調不良の自分や相棒の介護など、年寄の年賀状のコメントはどうしてもマイナス面が出るのは致し方ないのでしょう。中・高の同級生からのコメントには、次の会を楽しみにしている、というのが多く、幹事役冥利に尽きます。

 

●一応、年末から読み始めた、出野正・張莉著『倭人とはなにか』について、感じたことを書いていきたいと思います。

当方の漢字や漢文の素養では、著者たちに太刀打ちできるとは思いませんが、古田武彦師から学んだ、と自負している「寅七流方法論」で挑んでみたいと思っています。

著者の出野正・張莉のうち、張莉さんには3年ほど前、ミネルヴァ書房の『俾彌呼』出版記念、古田武彦講演会のあとの懇親会の席で、古田先生が張莉さんを紹介してくださいました。

雑談のなかで、漢委奴国王の金印の話になり、「奴」の上古音についてお聞きしたところ、今後の研究課題です、とおっしゃったのを覚えています。

 

張莉さんは立命館大学大学院で研究されていて、平成25年7月に、第七回立命館白川静記念東洋文字文化賞」を受賞されたかたです。丁度そのころ、張莉氏が「倭人について」という論文を出され、その論証方法について古田先生が絶賛されていたことを覚えています。

張莉さんのご夫君出野正氏がその出版記念の席においでていたかどうか定かではありませんが、今回の御夫妻共著の著書を拝見しますと、学問の道でも同じ道を歩まれていることがよくわかりました。

 

今回の著作『倭人とはなにか』は、張莉論文「倭人について」を発展的に述べられ、まとめられたものと言えましょう。倭人の源流かと思われる雲南省の「ビルマ族自治区」の「西双版納〈シーサンパンナ〉に調査旅行に出かけられた報告、倭人南アジア源流説の鳥越憲三郎氏、大野晋氏の「日本語タミル語起源説」など先人の、日本人や日本語の源流についての説明や、近年の日本語の形成の流れは「原ツングース語」と南太平洋から南アジア大陸にかけての「原オーストロネシア語」の流れとの混流というような現在の日本語のルーツ研究の現状も紹介されています。

 

雲南省の昆明という地はどのあたりかということは、重慶よりも奥地あたりか、という地理認識の我々ですから、この雲南省あたりの簡単な地図があれば、メコン川の流れや南シナ海あたりとの地理的関係もわかり、この本の理解を助けるのではないか、と無い物ねだりの感想を抱きました。

 

この本の中心的な問題提起は「倭」と「倭人」はその概念が違う、というところにあります。これが最大の「基本仮説」です。

そこを論証するために、中国及び朝鮮の史書を渉猟して論証されています。この基本的仮説を一応そのままに置いて、それによって解釈される『魏志』東夷伝倭人の条の解釈を見ていきたいと思います。

 

著者たちの、今から述べるいくつかの「仮説」による検証によって、果たして合理的解釈が出来ているのか。いや、この本にはまだ論証は不十分である、というように書いてありますので、著者たちの仮説がどのような結論に至り、それが合理的な解釈と言えるかどうか。

もし、合理的でないとする場合は、なぜそのような結論に至ったのか、「仮説」に瑕疵はなかったのか、仮説の検証をしてみよう・、という作業にかかろうと思っています。

 

・その仮説その1

倭人伝の記事の「倭」は半島に存在した「倭種の国(狗邪韓国)」

・その仮説その2

「郡から倭に至には・・・其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里」で区切るべきだ。

倭人伝の行路記事は、「郡より倭に至には・・・から始まって、南邪馬壹国に至る水行十日陸行一月」という長文の一連の文ではない。中国語の文章にこのような長い述語の文章はない。

・それに付随する仮説その3

「韓国を歴るに」、の「歴」は「歴」の本義「過ぎる」と読むべきであって、派生義の「歴観」というように読むのは誤り。

・同じく付随する仮説その4

「乍南乍東」の「乍~乍~」の読みは、佐藤進ほか編『全訳 漢辞海』によると「二つの状態が交互に現れることを示す表現」としており、それならL字型の行路を最初に南に行き、然る後に東に行く水行の航路としてもなんの不思議もありません。

・同じく仮説その1に付随して、仮説その5

「其の北岸」というのは、狗邪韓国の北岸の事である。南岸であるが、魏使達の船の方からみた方角を記したものである。このような表記例は、広東省の北海市の「北海」のネーミングにも例がある。

 

以上の仮説に随って著者たちは「倭人伝」解釈されていきます。

以上の結果によって、倭人伝の航路解釈には、特に古田武彦説とは大きく違ってきます。

ちょっと長くなりすぎますので、これらの諸点については次回に述べます。