博多の古名「石城府」と『日本世記』の「東朝」から 28.9.05 | 棟上寅七の古代史本批評

博多の古名「石城府」と『日本世記』の「東朝」から 28.9.05

●今年は台風の当たり年なのか、次から次にTVの気象担当者の仕事を増やしてくれるようです。当方の地元にはこのところ被害をもたらす台風の訪れもなく、明日は今夏?最後の昔の仲間とのゴルフの予定です。幸い、我が家から近いところのゴルフ場なので、朝、家のちっかうのバス停からバスで0分で行けるところです。今日ゴルフバックをゴルフ場に届けてきました。

「明日は診療予定があるから車おいておくよ」、と言うと、「車で行けばよいのに、バスで行きたいのはビールが飲めるからでしょう」、と誰かさんが言っているのは図星です。

 

●このところ、古代史の会の月例会で「タリシヒコの謎」についての話を、来月から2,3回しゃべることになって、その原稿をまとめたりレジメを作ったりする作業に(精神的に)追われています。

 

古代から現代までのいわば『隋書』の解釈の変遷を追うので、結構な量になります。それをレジュメにまとめる途中で、いろんなミスや追加したいことなどに気付き、原稿を変更していくと、今度はレジメもそれに合わせて変更しなければならなくなります。

 

4,5年前だったらなんでもない作業ですが、一つの作業に集中していると、前の作業の成果を忘れてしまっていたり、いろいろ後戻りの作業が多くなります。

 

●昨日の古代史の集まりで、「豊前王朝」の話題が出ていました。大芝英雄さんが、『日本書紀』の中にある「東朝」が豊前王朝のことだ、とされたということです。

ずいぶん前に読んだので詳しくは記憶していなかったのでもう一度調べてみました。

 

斉明紀七年夏四月のところに、「釈道顕の日本世記に曰く、百済の福信、書を献じて、其の糺解〈くげ〉を東朝〈みかど〉にお願いするという」とあります。

 

この糺解君が百済の豊章王子と同一人物かどうか、という問題もあるようです。この糺解君は天智天皇二年(663)夏五月にも出ています。

 

「犬上君〈名を闕せり〉。馳せて兵事を高麗に告げて還る。糺解を石城に見る。糺解、仍りて福信が罪をかたる。」と。

ところが、豊章はその時、半島にいて避城から州柔へ移動したことが天智二年春二月に記されているのです。したがって、糺解が豊章と同一人物であるのであれば、「州柔=石城」である、ということになります。もし、「州柔=石城」でなければ、糺解が豊章と同一人物でない、ということになるのです。

 

もし、『海東諸国紀』にあるように、博多の古名が「石城府」なのだから、「糺解」は百済には帰らなかった、博多(石城府)に留め置かれていた、ということになる。そうなると、「糺解」と「豊章」は別人ということになるのかなあ、など頭に浮かびます。

 

それはともかく、「東朝」とは、『日本世記』の高麗僧もしくは福信の立場からみた「東朝」でしょうから、論理的には大和朝廷を指す、ということになるのかなあ。豊前王朝とするのはちょっとむりかなあ。まあ、小説的な展開が広がるような『日本世記』の「東朝」の記事ではあります。